2013年12月23日月曜日

スペインのクリスマス

日本に帰国して以来二度目のクリスマスを迎えようとしています。相変わらず明石家サンタがあって、ケンタッキーを中心としたフライドチキン戦争が激しくて…何から何まで日本のクリスマスです。「スペインに住んでいたんだから本場のクリスマスはさぞ楽しかったでしょう?」とか言われたことがあったのですが、実際のところそうでもないのですよ。クリスマスの日から年明けまではほとんどのお店が閉まっていて、人通りもまばらです。スペイン人的なクリスマスの過ごし方をする習慣の無い日本人の僕には、ヒマで仕方ない上にお店も閉まってて、あんまり楽しいものではなかったのですが。ともあれ今回はスペインのクリスマスの話をしようと思います。

バルセロナに住んでた当時、古式ゆかしき日本の伝統に従って我が家ではクリスマスの日にケンタッキーでチキンを買って食べてました。これは日本人にはものすごく当たり前のことなのですが、スペイン人の感覚から言うと相当有り得ないことなのです。日本人に直感的に理解しやすいように例えて言うなら、「お正月におせち料理とお雑煮ではなくて吉牛を食べる」くらいのことなんだと思います。こうやって例えると、欧米人にとって「クリスマスにケンタッキー」というのは相当おかしな習慣に見えるということがご理解いただけるかと思います。
とはいえ。僕はキリスト教徒でもなければスペイン人でもないので、クリスマスの日にチキンとケーキを食べる以外のことを何も思いつかなかったので。日本だと予約しないと買えないKFCがクリスマスの日にいとも簡単に買えてしまうことにすっかり味をしめて大喜びで買いに行ってました。実際のところ、クリスマスの日にKFCにチキンを買いに行くとほとんど店内には客がいなくて、中南米系と思われるバイトのお兄ちゃんがやる気なさそうに店番しているのでした。
そんなこんなで、このKFCの話は外人に日本のオモシロ文化ネタとして話すと、ウォシュレットの話と並んで必ずウケる鉄板ネタなのでよく自分からネタにしてました。

上記のたとえ話にあったように、ざっくり言うとスペイン人にとってのクリスマスは日本人にとってのお正月みたいな物なのです。だからクリスマスの日はだいたい家族で過ごすのが基本です。スペイン人と結婚した日本人の話では、クリスマスの時期は親戚一同含めて家全員が集まって、朝から晩まで起きてる時間の半分以上の時間をただごちそうを飲み食いして過ごすんだそうです。最後の方は食傷気味でうんざりするそうな。例えばクリスマスの時期に生ハムを一本(片足)買って、それを家族でクリスマス中に平らげたりするのはすごく普通のことで、クリスマス時期になるとゲーム機やシャンパンのCMと並んで生ハムのCMをよく見ることがありました。

そしてクリスマスといえば、"el gordo"と呼ばれる宝くじ。日本の年末ジャンボみたいなものなのですが、スペイン人の熱狂ぶりたるや日本の年末ジャンボの比ではありません。理由の一つは、賞金額が日本よりも高いから。そして、スペイン人は宝くじみたいに他力本願な射幸心をくすぐる物が元々大好きな上に、経済危機のおかげでさらに宝くじ熱が高まってしまい、経済危機でヤバいとか言いつつも宝くじの売り上げ自体は経済危機の前よりも後の方が上がってるそうです。こういうところがスペイン人。
そして日本と違って、同じ番号のくじが複数あります。切手シートみたいな感覚で同じ番号のくじが複数枚つづりになったシートを買って、それを職場や家族や友達に小分けして配るんだそうです。だから、当選すると自分だけでなく周りの人も同じようにお金がもらえることになるのです。日本の宝くじでよく言われる、「当選したことを秘密にする」みたいなことは無いんだろうと思われます。その昔、こういった相互扶助的な宝くじの贈与によって、小さな村の全員が一等に当選したこともあるそうです。

最後に、ケンタッキーの話とは逆に、日本人にとって理解不能な不思議な習慣がカタルーニャ州にはありまして。カガネと呼ばれるウンコ人形をクリスマスに飾る?のです。クリスマスが近づいてくるとみやげ物や屋台など色々な場所でカガネが売られているのです。スポーツ選手から芸能人、政治家、果てはアニメのキャラまで、あらゆるモチーフのカガネが売られています。
http://ameblo.jp/asonde-spain/entry-11099946552.html
我が家では在西時にドラえもんのカガネを買って日本に持って帰ってきました。ドラえもんのカガネはウンコが水色です。。このカガネは今も我が家の日本のトイレに飾ってあります。


2013年12月4日水曜日

斜陽の先進国スペインから日本が学ぶべきこと

先週一週間ほどバルセロナへ出張してきて、日曜日に日本に帰ってきました。寒かったことを除けばやっぱりバルセロナは楽しかったです。あそこにいると、それだけで自分が何かしら開放されたような気分になれるのです。さて一方、日本に帰ってきてテレビをつけると12月から就職活動が解禁になったとかで、大学3年生の学生さん達がリクルートスーツに身を包んで企業説明会に参加している映像がニュースで流れてました。
なんというか、直感的に言って”スペイン的”から一番遠い”日本的”な映像を見た気分になりました。そのニュースでは、地方の大学が学生の就職活動を支援するために無料でバスを東京や大阪に走らせるという取り組みについても紹介していたのですが。大学も学生も、日本はこんなに日本人を必要としていないということは分かってるはずなのに、それでもまだみんなで一連のシステムにしがみつこうとしてるように見えてしまったのです。
大学側も日本で普通に就職するだけじゃなくて、もっと他に道を示してあげればいいんじゃないかな?と思うんですけどね。例えば、自分達で起業する人を支援するとか、海外に就職する道を支援するとか。まぁ、当の大学は少子化で学生が減っていく中で自分達自身の生き残りに必死で、だから結果として学生をお客様扱いして手厚い就職活動支援をしてるのでしょうが。

というわけで今回は国全体の失業率が25%、若者の失業率に至っては50%を超えている地方もあるスペインという国と日本をちょっと比較してみようと思います。まず。この失業率はスペイン人にとってたいへんに深刻な問題であることには確かなのです。でも、スペイン社会は”失業率50%”と聞いて日本人が想像するような(極端に言うと北斗の拳みたいな)世界ではありません。とりあえず表面上はみんなヘラヘラ楽しそうに暮らしています。
何が違うってまず、日本みたいに職歴に空白があることが好ましく無いとする風潮はスペインには全くありません。スペインではほぼ全員が契約社員のような雇用形態で、契約を更新せずに契約期間が満了したら従業員は会社から放り出されるのが当たり前なのです。なので職の移行期間に一時的に無職の状態になるのは割と普通にあることなのです。このシステムを積極的に活用して、一年契約で働いてその後半年旅行して、お金がなくなったらまた働いて…というようなサイクルを繰り返すような人も普通にいます。よって失業しているという状況を、経済面はさておき、社会的なステイタスとして日本ほど否定的にとらえてはいないと思います。
また、失業給付が割と充実していているので失業給付でなんとか生活できなくはないみたいです。そして、失業給付をもらいつつもこっそり働く人もいます。企業側にとっては失業給付をもらいながらなので給料を比較的安くできたり社会保険料も払わなくてよい、働く側としては失業給付と仕事の給料の両方がもらえる、といった具合に労使双方にメリットがあるのです。なので、本当の失業率は統計に出てくる数字よりはもう少し低いんだとは思います。

そしてよく言われることですが。ラテンなので陽気なのです。陽気というよりは、日本人の僕の感覚から言うと「物事を深刻に考える才能に最初から恵まれてない」という言い方の方が妥当だと思います。スペインに在住してたときに「平成狸合戦ぽんぽこ」という映画を見たのですが、この映画に出てくる「環境破壊によって少しずつ生活を脅かされつつもどこか楽天的で悲壮感の無い狸たち」が、経済危機が深刻で本当にヤバいとか騒ぎながらも普段はヘラヘラ楽しそうにしているスペイン人と一緒に見えたのでした。
実際のところ、自殺率は日本の方がスペインの三倍も高いんだそうです。スペイン人はカトリックなので自殺を禁忌としているのもこうなる理由の一つなんでしょうが。それだけじゃなくて、お金が無くても仕事が無くてもそのことを深刻に考えたり思い悩まないということや、家族の結びつきが強いので家族の相互扶助がセーフティーネットの役割を果たしていることなども自殺率の低さに寄与していると思います。
スペインに在住当時に、「そんなに仕事が無いなら日曜日もお店を開ければ仕事が増えるんじゃないか?」と言ったら、「そんなことしても、企業は今いる従業員に対して同じ給料で日曜日も働くように要求するだけで雇用促進の効果は無い。」と返されました。また、経済危機だからって無理矢理新しい食品を作り出そうなんて考える気は彼らには全然無いのです。

スペインやポルトガルなどの国は大航海時代の後からもう400年以上もずっと斜陽国なのです。20世紀のポップカルチャーの歴史を語る際の背景として、イギリスが斜陽国であったことがよく取り上げられますが。斜陽であること、もっと簡単に言うと”ダメであること”に動じずに受け入れることにかけてはイギリスなんかよりもスペインやポルトガルは経験値がはるかに高いんじゃないかと思います。日本や韓国のように「ダメな人(最低限の社会的ステイタスを維持できない人)に生きれる道を示さない社会」は経済成長がある程度ひと段落した後は、どうしても自殺が増えるんじゃないかと思うのです。
安倍晋三は失われた20年を取り戻すとか言ってましたけど、日本がバブル期みたいな景気に戻るのはどう考えたってもう無理でしょう。たぶんよくてこのままくらいなんじゃないでしょうか。もう昔のような景気には戻れない日本や韓国がこれから先をよりよく生きるために、斜陽の先進国であるスペインやポルトガルに学べる事は多いんじゃないかと思います。

2013年11月17日日曜日

林檎をかじった人類はコンピュータを進歩史観で語り続けるのか

仕事柄、僕はコンピュータを単に普通の文房具(メールとかネットとかwordとかexcelとか…)として使うだけでなく、コンピュータの上で動く何かをプログラム書いたりして作る立場なので。僕のコンピュータ観というのは「使う側」よりは「作る側」の観点にバイアスされているのはある程度自覚があるのですが。それにしても、ちょっとここ数年のAppleはどうなのかなー?と思ったりするので今回はその辺のことを書いてみようと思います。

ここ数年のAppleのやってることって、新しいOSを出してはそのサポート対象から古いデバイスを切り捨てていくことでユーザーに暗黙のうちにハードの定期的な買い替えという形で年貢を納めることを要求したり。また、その新しいOSを出す度に結構OSの仕様が変わる上に下位互換を割とアッサリ切り捨てるので、以前のOSで動いていたソフトがそのまま動かなくなりまして。ソフトを作る側はOSが新しく出るたびに昔動いてたものが動かないとか、対策しようとしたらまず新しいOS向けにはビルドが通らないとか、そんな状況に遭遇するわけです。
しかしですね。そもそもコンピュータの何が便利かって考えたら、ぱっと思いつく範囲でこういうことだと思うのですよ。
・人間と違って計算を間違えない
・答えを出す方法が自明な問題を解くのは人間とは比べ物にならないくらい早い
・データは媒体が壊れない限りいつまでも保存される
・データは他のコンピュータでも利用できる:互換性、再現性
この最後の項目は人と人が結びつく上で非常に重要です。僕のPCで作ったデータが他の人のPCでも同じように再現されて編集できるから、PCは単に個人の生産性を向上させただけでなく複数人でのコラボレーションの生産性をも向上させるわけです。この"コラーボレーション"という概念を同時代だけでなく時系列に拡張すると、例えば「10年前の自分が使っていたソフトが今使ってるコンピュータでも動く」とか、「10年前に作ったデータが最新のコンピュータでも何らかの方法で閲覧・編集可能である」とか、「10年前のパソコンでも最新のOSが動く」とかいうことになるわけです。

例えば「64bitに対応する」とか正当な理由があるなら昔のハード、ソフト、データ等との互換性を捨てるのもやむなしという気がします。実際のところ、コンピュータってこれまでそうやって古いものを捨てながら発展してきたんだと思いますしね。でも、過去のソフト・データなどの資産との互換性を大した理由も無く損ってまで、「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続ける必要があるのかな?と思うのですよ。当のAppleにしてみればユーザーエクスペリエンスがどうとか色々言い分はあって、Apple信者という人々の大半はそれを好意的に支持しているように見えるのですが。「互換性」「再現性」というコンピュータの恩恵をちょっと軽視しすぎなんじゃないでしょうか?
そういう意味ではMicrosoftの方がまだ過去の資産との互換性や再現性に対して丁寧だと僕は思います。まぁ、VistaがコケたせいでXPが10年近く生きてしまったので、過去の資産に対する互換性が7や8においては重要視せざるを得なくなったのもあるかもしれませんけどね。実際のところ、例えば予算が限られていて頻繁な買い替えやアップデートが難しい教育の現場や、支出を少しでもケチりたい企業などでは、2-3年でサポート対象から外れてしまうApple製品を選ぶのは余程の理由が無い限り難しいんじゃないかと思います。

ご存知の通り、90年代半ばのWindows3.1とインターネットの登場辺りからコンピュータは爆発的な勢いで一般に普及して身近な存在となり、それに伴い、ソフト・ハードともに爆発的な勢いで発展してきました。この辺りまでの経緯を所謂「進歩史観」(歴史は良い方向へと自然と向かって進んで行ってるという物の見方)で説明するのは皆さんほとんど異論は無いんだろうと思うのですが。最近のAppleを見てると、コンピュータの歴史はこのままずっと進歩史観的に語られ続けるのかちょっと怪しくなってきた気がするのです。
もうスマホやタブレットでさえ、ハードのスペックとしてはネットとメール等とちょっとした文房具程度ならば十分になってしまったので、それでもお客さんの購買意欲を喚起するためには手を替え品を替えOSを替え…でハードを買えという風に持っていかざるを得ないのかもしれませんが。なんだか新しさの自転車操業というスパイラルに入り始めている上に、そのためにコンピュータの恩恵の一つである互換性や再現性をわざわざ壊してるんじゃないかなという気がするのですよ。
コンピュータがこれだけ身近になって、この先もどんどん生活の中に入り込んでくるのはもうどう考えても避けられないでしょう。だからこそ、20年とか30年経った後も今あるデータがちゃんと閲覧・編集できることを願いますし、10年前の古いハードでも動くようなものが優秀なOSであるという価値観になってほしいと思います。

2013年11月4日月曜日

ヘタにアメリカ人のモノマネするよりも武道の方が国際社会を生きていく上で有用なんじゃないだろうか?

仕事なんで、まぁしょうがないといえばしょうがないことなのですが。海外と共同で進行しているプロジェクトで、こちら側とあちら側との間で意見が対立してちょっとした揉め事になりそうな状況になりました。離れている人と正面からケンカになることはプロジェクト全体の生産性を落とす上に、こちらは語学力に明らかにハンデがあるし、さらにこちら側は少しだけ前言撤回をしなければならない後ろめたさもある状況なので。とりあえず軽く謝って譲歩しつつも落としどころを探していくようなやり方にしてはどうかと僕は提案してみたのですが。こちら側(全員日本人。僕以外は海外に住んだ経験ナシ。純粋な語学力は僕とさほど変わらないけど、英語で喋るとだいたいこんな感じになる。)の日本人達が言ってることは、まぁこんな感じです。
・口頭の議論ではこちらが言いたいことを十分に言えなくて不利なのでメールの往復にしよう
・あちら側に空気読まずに言いたいこと言ってくるメンドクサい奴がいるから、リーダーの奴とだけ話をしよう
・譲ったり謝ったりしたら負けだ、とにかくまずはこちら側に都合の良い事を一方的に主張しよう

言い換えると、「語学力のハンデによる不利益を最小限に抑えつつもこちらの意図している方向に少しでも向かうようにしようよ。相手はガイジンだろ?アイツら流のグローバルスタンダードに習って都合のいいこと主張しておけばいいんだよ。どうせ向こうは向こうで言いたいこと言って削ってくるんだからさ。ペコペコ謝るなんて日本人だけらしいぜ。そんなことしたって損するだけだろう?」といったところでしょうか。
ここまできて、さすがにちょっと違うんじゃないのかなぁ?と思ったわけです。まず彼らの発想にぼんやり伏流している「ガイジン=たぶんだいたいアメリカ人みたいな感じ」という国際感覚はいくらなんでも雑すぎるんじゃないでしょうか(ちなみに今回のあちら側は欧州人です)?アメリカ人はどうか知らないけど、少なくとも欧州人(より厳密に言えば僕が知ってるのは主にスペイン人)は日本人に比べたら確かに自己主張はするけど、譲り合う能力は日本人より高いと思います。だから日本人みたいに「議論=斬り合い」にならないのです。
逆に言うと、日本人同士なら分かり合えると彼らは思ってるみたいなんですが。彼らと日々仕事をしていると僕がいつも感じるのはこういうことで。現にこの案件に関して「我々は語学力にハンデがある=弱者」という点以外では僕と彼らの見解は全く相反しているのです。

このように我々が弱者だという点では見解が一致しているのに、そこから導き出される見解が全然違うのはどうしてだろうと考えてみたのですが。どうやら僕の2年間のスペイン生活は「語学的にハンデが有る”弱者”としてスペイン人の社会の中で生きていく」という訓練の場になっていて、以後、日本語が通じない相手と接する際にはこの「弱者」の態度を基本的なフォームとして採用しているようなのです。
そしてようやく本題になるのですが、これは内田樹氏の武道論とほとんど同じことを言ってると思うのです。氏の修行論という本の紹介文では武道をこのように位置づけています。
武道の修業、なかでも著者が長年稽古をつづけている合気道の修業を通じて開発されるべき能力とは、「生き延びるための力」である。それは「あらゆる敵と戦って、これをたおす」ことを目的とするものではなく、「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系である。
もうこの文章に言いたいことはだいたい集約されているのですが。以下、webに散らばっている氏の武道論を引用しつつ、こちら側の日本人の何が問題か考えてみます。

天下無敵とは敵をつくらないこと
「無傷な、完璧な状態にある自分」が存在するとした時に、そうじゃない状態(今あるような自分のこと)を「敵による干渉の結果」として説明するような方法をとる、これが敵を生みだすロジックです。
こちら側の日本人は「英語になるから言いたいことが伝わらないんだ」といった具合に、「完璧な自分」の能力が「語学の壁」という敵の干渉によって損なわれているという語法をうらめし気に使うのですが。このような考え方は内田氏の指摘の通り、あちら側を敵とみなす物の考え方に帰着する結果になっています。そんな事言っても、有り物の語学力でやりくりするしかないんですけどね。。

居付き(ここの最初の方にだいたい書いてあります)
僕の理解した範囲で「居付き」の極端な例は、夜道でナイフを振り回して脅してくる敵のナイフに対する恐怖で体がこわばって身体運用の自由が制限されてしまうような状況です。こうなるとベストパフォーマンスを引き出すことが難しくなるので危険を回避できる可能性がより低くなってしまうわけです。こちら側の日本人の態度もこれと同じで、自分達が語学的に弱者である(=相対的に相手が強い)という恐怖が相手に対して過剰に防衛的かつ攻撃的な態度(アメリカ人のモノマネ)に出るような結果になってしまっているように見えるのです。純粋な語学力の観点からは、僕の語学力はこちら側の彼らより多少マシな程度でそんなに大差無いと思うのですが。こちら側の彼らと僕の大きな違いは、自分が語学的に弱い状況に対する経験値なんじゃないかと思いました。

キマイラ=相手と同化する(ここの2ページ目に書いてあります)
二人の人間が対峙しているとき、その事態を『頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本』のキマイラ(ギリシア神話に出てくる怪物)的な生物が一人いるととらえる…<中略>…私と相手を同時に含む複素的な身体がある。…<中略>…複素的身体はすでに成立しており、すでに動き始めている。その構成要素として、私と相手は事後的に分節されるばかりである。その枠組みで考えれば、私と相手の動きの先後や強弱勝敗巧拙の差は問題にならない。」(「修行論」より)
自分と相手を対立する物と考えるのではなく、相手と同化して一つのキマイラを作るんだと考えるということです。夜道でナイフを振り回して脅してくる相手(利害が100%相反する)と対峙するときでさえ瞬間的にキマイラを作れと言っているわけです。今回の例で言うと、あちら側とこちら側はプロジェクトの運営という共通の利害を持っているので、瞬間的どころか恒常的にキマイラを形成することを本来目指しているはずなのです。メンドクサい奴があちら側にいるからといって話から外すという態度は結果的にこのキマイラの成立を妨げるだけなのです。
実際のところあちら側のリーダーだって、メンドクサい彼に何もお伺いを立てずにこちら側と話をするなんて無理なので。当然そのメンドクサい彼にも意見を聞かざるを得ないわけです。結果として、こちら側がメンドクサい彼を邪魔だと思っているという事実だけが伝わるだけで、何も得るものは無いのです。


以上述べたように、大多数が語学的に弱者である我々一般の日本人が弱者なりに国際社会を生きていく上で、内田氏の提唱する武道論の方が「グローバルスタンダード」を標榜してアメリカ人のヘタなモノマネをするよりもはるかに有用なんじゃないだろうかと僕は思うのです。

2013年10月20日日曜日

パエリアは米という野菜を使った料理なんだそうです

スペインに住んでたという話をすると日本人が連想するのが、サグラダファミリア(およびガウディ)、闘牛、フラメンコ、サッカー、ワイン、そして食べ物だと真っ先に出てくるのはやっぱりパエリアです。今回はパエリアの話を書こうと思うのですが、その前にまず上述のキーワードがスペインのどこに行っても同じように見られるわけではないという話をちらっとしますね。例えば闘牛。これはバルセロナを含むカタルーニャ自治州では法律で禁止されているのでもう見れません。フラメンコも本場は南部のアンダルシア地方なのでカタルーニャでは観光客相手のなんちゃってフラメンコしか見れません。こんな具合に地方によって文化がだいぶ違うのです。
食文化も当然地域によって異なっておりまして。ざっくり言うと、海沿いのエリアでは魚介類を食べますが、例えばマドリなどの内陸部は海から離れているので魚介よりも肉中心の食文化だったりします。

で、ようやくパエリアの話になるんですが。。パエリアはスペイン全土である程度食べられてはいますが、やっぱり本場は発祥の地であるバレンシアです。なんたってバレンシアはパエリア作るのに必要な米の一大生産地ですから。そして、パエリアの具なんですが。日本人の想像するパエリアというのはたいていエビやムール貝などの魚介類の乗った物だろうと思うのですが。本場バレンシアのパエリアは基本的にウサギ(か鶏肉)とインゲン豆なんだそうです。
バルセロナ(およびカタルーニャ地方)でもパエリアは食べられていますが、雑炊みたいにスープがわりと残っているパエリアや、フィデウアと呼ばれる極細パスタのパエリアなど、ちょっと本場バレンシアとは色々と事情が違ってます。あとなぜか、木曜日はパエリアの日ということになっているので木曜日はあらゆる食堂が必ずと言っていいくらいパエリアを出します。ただし、基本的に前菜として。

この「前菜として」というのが曲者なのです。パエリアをメイン料理として出すお店もあるにはあるのですが、一般的にスペイン人の習慣ではパエリアは前菜の扱いなのです。これたぶん、イタリアでパスタが前菜なのと同じ感覚だろうと思います。
そしてスペイン人の感覚ではパエリアと言うのは米という野菜を使った料理なんだそうです。ここが日本人には理解しがたいところなのですが、スペイン人の食文化では米はあくまで野菜のカテゴリに入るため、主食だとは思っていません。だから何って、パエリアを主食のパンにのせて食べるのはスペイン人の感覚からすると普通のことなのです。日本人の感覚から言うとお好み焼き定食みたいな炭水化物と炭水化物の組み合わせなんですけどね。

そして問題は塩加減です。主食のパンと一緒に食べて丁度いい程度の塩加減になることを想定されているので、日本人の感覚から言うとスペインの一般的なパエリアはしょっぱいことが多いのです。定住しはじめて最初に近所のテキトーなバルで食べたパエリアはあまりにしょっぱいので1/4くらい食べたところでギブアップしました。以来、パエリアを頼んだ経験の無い店では不用意にパエリアを頼まなくなりました。
現在の日本の職場にいる外国人を見てる範囲での話ですが、日本の食文化の中でも「味のついていない白ごはん」が苦手な外国人は多いようです。三角食べになじめない人が多いとか、そこそこ塩味のついてるパンに比べると白ご飯は塩気がほとんど無いとか、色々理由はあるのですが。彼らからすると、日本の白ごはんというのは米という野菜を煮ただけで味がついていない物なので、そのままだと食べるのが辛いというのもあるようです。イメージしやすいようにたとえ話にすると、日本人が外国で味のついてない茹でただけのジャガイモを主食として出されたらたぶん塩くらいはかけたくなるでしょう?それと同じことです。実際のところ、白ごはんの苦手な外国人はたいてい白ごはんに醤油をかけて食べてます。

2013年10月12日土曜日

パワーポイントの一人歩きにご用心

最近あまりお目にかからないのですが、エンジニアの世界にはあらゆるドキュメントを何でもエクセルで作りたがる人というのがいらっしゃいまして。こういう人達はwordなんかの普通のワープロソフトで作ればいいようなものでも、とにかく何でもかんでもエクセルで作りたがるのです。例えば、基本的に図と文章で構成されてるようなソフトの仕様書なんかもエクセルで書いちゃう人が実際にいるんですよね。これって、「Illustratorをワープロ代わりに使ってしまうデザイナー」と並んでよくある話なんじゃないかと思います。
一方、僕は昔から人一倍パワーポイント多用派です。理由はお絵描きがしやすいのと、描いた絵などを後でプレゼン資料としてそのまま使い回しやすいからです。さすがにソフトの仕様書全部をパワポで作るなんて事はしないですけど、各論の細かい仕様を外注さんに説明する場合は絵を中心にして説明した方が早いと思ったら、パワーポイントで絵を描いた後にそのまま箇条書きで文章まで一緒に追記して渡しちゃうこともありました。
こんな具合に僕はパワポにわりと好意的な方なんですが。そんな僕でさえどうかと思うような、「プロジェクトの概要から予算、スケジュール、ステークホルダーの関係などの情報をまとめた資料はなるだけパワーポイントで作るように」というお達しが最近お上から降りてきたのです。これまではエクセルで作られた官僚的で冗長なフォームがあって、それをブーブー言いながら埋めて資料を作ってきたのですが。今度はこれをなるだけパワーポイントにせよと言うわけです。
そりゃまぁ上の立場の人からすれば、自分がさらに上の人とか外の人に説明するときにも使い回せて便利なのでパワポで作れと言い出すのは分からんでもないですが。パワポって本来は口頭説明を伴う”プレゼンテーション”のためのスライドを作るためにあるものであって、スライドだけを見て内容が理解できるように情報を載せるのにはあんまり向いてないと思うのです。でもお上が言ってることは「口頭説明は一切無しでパワポだけ一人歩きしても理解できるように資料を作れ」ということのようなのです。

僕は「一人歩きできるようにパワポを作れ」ということ自体に明らかに反対ですが、少なくとも賛成・反対を論じれる程度には上の人が言わんとしていることは理解できるつもりではあります。でもこの件に関して賛成・反対を論じれる人って、世界的に見ると日本人を中心とした一部のマイノリティだけなんじゃないだろうか?と思うのです。つまり、日本人以外の世の中の大半は「パワポのようなスライドで一人歩きできるような資料を作る」という事に対して賛成・反対以前にそもそもそんなこと考えた事がなかったり、なんでそんなことを言い出すのか理解できないんじゃないかと思うのです。なぜかって、日本人の作るパワポってものすごく特殊だからです。
日本人が作るパワポは字がやたら多い上に、とっても細かい図が一杯載ってて複雑な漫画みたいに見える。というのは外国人からよく言われることなんですが。たぶんこうなる原因の一つは漢字を使っているおかげで日本語の記述がすごくコンパクトに済んでしまうために、スライドの端から端まで使えばそれなりに文章が書けてしまうということがあるんじゃないかと思います。twitterだって英語だと本当に一文だけつぶやいて140文字が終わりになるけど、日本語だと140文字あればそれなりの長文が書けてしまうのと同じことです。だから日本人はついつい文章を沢山パワポに書いてしまい、結果として一人歩きできるようにパワポを作ることも比較的やりやすいんじゃないでしょうか。もしそうだとすると中国人にも日本人と同様に字がやたら多いパワポを一人歩きさせるような文化が受け入れられる素地があるのかもしれません。
いずれにせよ、アルファベットなどの表音文字を使っている人達には漢字みたいな表意文字に比べるとパワポに文章を入れることは難しいので、パワポにはキーワードを列挙して細かいことは口頭で説明するだけにならざるを得ない傾向があると思います。結果として、口頭説明を前提としたキーワードの羅列で構成されたパワポの一人歩きは当然難しくなります。

日本に中間管理職が多すぎるのも「一人歩きできるようにパワポを作れ」というお達しがお上から降りてくる別の理由なんじゃないかと思います。彼らの仕事は基本的に自分の上下(と外)に挟まれて利害を調整することなんだろうと思うのですが。その際には上や外に向けて、現場で進んでいるプロジェクトについて説明する必要があるわけです。当然中間管理職の彼らは現場の担当者ほどの知識や情報を持つことは難しいわけで。だからこそ、それでも順番に読み上げればひとしきり説明が成立するようなパワポを彼らは欲しがるわけです。
しかし、どんなにパワポが一人歩きできるように作られていたとしても。僕は人一倍不器用なので、他人の作ったパワポそのままでプレゼンで喋るのは無理なんです。その昔、「資料はこっちで作るからプレゼンだけ君がやって」と頼まれてプレゼンをやったことがあったのですが。結局このときはもらった資料を全部いじって自分が喋りやすいように作り直したのでした。
このように、どんなに丁寧にパワポに文章を書いて一人歩きできるようにしたところで、結局は作った人の想定するストーリーなどの属人性が入り込んでしまうのが避けられないと思うのですが。一人歩きできるパワポを望む人達って他人の作ったパワポでそのまま喋れるんでしょうから、僕より器用で柔軟なのか、或いはそんな細かい事言ってられないくらい忙しいのか、どっちかなんじゃないかなと思います。

ありがちな「日本人だけが世界の中で特殊」という話形にあまり拘泥したくないですし、それを一ひねりしただけで「日本は外国と違っている=だからダメ」と大橋巨泉みたいなことを言うつもりも無いのですが。「一人歩きできるようにパワポを作れ」と言う彼らは、字ばっかりのパワポを作れるのは世界的に見るとたぶん少数派だということは理解してほしいなと思います。その上で、外国人に向かっても「一人歩きできるようにパワポを作れ」と言えるのであれば、それはそれで立派な御意見だとは思いますよ。
後でガイジンに説明する必要に迫られたときの使い回しまで考えたら、一人歩きは潔く諦めて最初から全部英語で作っておいた方が効率良いと思うんだけどな。。

2013年9月24日火曜日

a nice cup of espresso

我が家に念願のエスプレッソマシンが来たので、最近は毎日家でエスプレッソば三昧です。というのも、ちょっと前に家を新築した友達が新居にエスプレッソマシンを置こうとしたら奥さんから許可が出ずそのままになっているので、いるならあげるよといわれて大喜びでもらわせていただいたのです。かくして我が家にようやくエスプレッソマシンが導入されたのですが、これに至るまでには帰国から一年に渡る紆余曲折があったのです。というわけで今回はエスプレッソの話を。

およそ一年前。日本に帰った直後は、生ハム食べたいとかワイン飲みたいとかボカディージョ(スペインのサンドイッチ)食べたいとか、そりゃアレ食べたいコレ食べたいの連続だったのですが。その中でも比較的なんとかなるようで、案外そうでもないのが「エスプレッソが飲みたい」でした。
スペインというか南欧のラテン国家ではコーヒー=エスプレッソです。何も説明せずにコーヒーを注文するとほぼ間違いなくエスプレッソが出てきます。日本人が考える普通のコーヒーをスペインで飲もうと思ったら、「カフェ・アメリカーノ」と明示的に頼む必要があります。で、たぶんカフェの店員に嫌そうな顔されます。
渡西当初はあんまり得意じゃなかったのですが、すっかりエスプレッソに慣れてしまった後で日本に帰ってくると、日本のコーヒーは無駄に量だけ多くて薄いと感じてしまうようになりました。そして、帰国後一年経った今でもどっちがいいかといえば断然エスプレッソです。
しかしながら日本ではエスプレッソを飲むのはそんなに簡単なことではありません。スタバとかドトールならエスプレッソが飲めますが、普通の喫茶店でエスプレッソなんて飲めません。休日ならわざわざスタバとかドトールまで出かけることもできますが、普段の生活で「今ここでエスプレッソ飲みたい」というときにエスプレッソが飲めるようにするにはエスプレッソマシンを自宅に買うしかないわけです。
かくして帰国から一年の間、エスプレッソマシンを買うか何度か悩んだ末に結局最後は決め手が無くて買わずじまいでいたのですが。結果としては上述の通り、たまたま友達から譲ってもらえたのでようやく我が家にエスプレッソマシンが手に入りました。

さて。エスプレッソマシンは手に入ったものの、思ってた以上にいろいろと面倒くさいのです。まずは豆をどこで買っていいのかちょっと困りました。日本だとエスプレッソ用の豆はもちろん、カフェイン抜きのエスプレッソ用の豆なんて尚のこと買うのが難しいんですよね。。スペインのスーパーだとどっちも普通に売ってるんですけどね。
そして、家にエスプレッソマシンを買ってみて意外と面倒だと思ったのは日本で売ってるコーヒーフレッシュじゃエスプレッソに対してあんまり有効なミルクにならないということです。今までぜんぜん知らなかったんですけど、ほとんどのコーヒーフレッシュって乳製品じゃなくて植物由来の脂肪と乳化剤の混ぜ物なんですね。。おかげで、2個くらいエスプレッソに入れてみてもミルクが入ってるような味がまるでしませんでした。スペインだと牛乳は高温殺菌されているので、まずいですが常温で長持ちするのであんまり日持ちを気にせずに買えたのですが。日本の牛乳は数日しか持たないので普段牛乳飲まない僕としては「コーヒーのためだけに牛乳を少量買う」というのがちょっと面倒なのです。
あと。僕は砂糖一切入れないのでこれは完全なうんちくになりますが。スペイン人は日本人が見たらドン引きするほど大量の砂糖をちょっぴりの量のエスプレッソにこれでもかというくらい入れます。それも、たぶん最低でも10gは入ってると思われる砂糖袋を丸ごと全部入れてしまいます。途中までとかほどほどに加減するとか、そういうことが彼らの発想にはたぶん無いのです。さらにうんちくついでに言うと、スペインにはアイスコーヒー用のガムシロップもありません。アイスコーヒーを頼むとエスプレッソとは別に氷の入った別のカップが出てきて、エスプレッソに狂ったように大量の砂糖を入れてかき混ぜた後に氷の入ったカップにコーヒーを全部注ぎます。

単にコーヒーがエスプレッソというだけでなく、スペインでは食事とコーヒーの関わり方自体がだいぶ日本人の感覚と違います。例えば、どんなレストランでも食事の後にはほぼ「デザートとコーヒーはどうする?」と聞かれます。このとき、どちらか一方だけ頼んでもいいのですが、両方頼んだとしてもデザートを食べながらコーヒーを飲むことは基本的にできないのです。いや、頼めば両方同時に出してくれるのかもしれないですけど、両方頼んだらまずデザートが先に出てきて、その後にコーヒーが出てきます。日本人の感覚だと同時に出して欲しいと思うのですが、彼らは必ずこの順番なのです。
そして、ファストフードのセットメニューのドリンクの選択肢にコーヒーはありません。もしコーヒーが飲みたいならそれはセットメニューとは別に注文するしかないのです。が、当然出てくるのはエスプレッソです。その代わり、南欧のファストフード店ではセットメニューのドリンクの選択肢にビールがあります。ファストフード店でビールが飲めるというのは不思議に感じるでしょうが、南欧ラテン諸国ではこれが当たり前なのです。すっかりそれに慣れてしまった頃に、ヘルシンキだったかどこか北欧の街で夜中にマクドナルドでビールを買おうとしたら「は?ビール?そんなもんマクドナルドに買いにくんなよ?」という顔をされたことがあったなぁ。。

2013年9月19日木曜日

「海外で大活躍の日本人」「海外で大人気の日本文化」という大本営発表

ここ最近はほとんどオリンピックとかクールジャパンとかの文句ばっかりですが、残念ながら今回もそんな話です。というのも、オリンピックが決まってから「おもてなし」をはじめとするメディアの国威高揚ムードのしつこさに本気でイラついてきたからです。もう十年以上前から、「世界で大人気の日本文化」や「世界で大活躍の日本人」を報じる際の日本のメディアは「都合のいいところだけ誇張とつまみ食い」の大本営発表を執拗に繰り返しているのですが。これは「国威高揚のために都合のいいことだけ誇張したりつまみ食いしたりする」という態度が日本人の日常的習慣として定着してしまったことと決して無関係ではないと僕は思っています。

じゃぁまずクールジャパン=「世界で大人気の日本文化」から。
「クールジャパン」の話になると、いつも判で押したように「日本の漫画・アニメは海外で大人気で、数万人規模の漫画フェスが開かれている。書店にも日本の漫画がたくさん置かれている。」ということになっています。この文言自体はスペイン及び南欧諸国に限って言えば僕の実体験とそんなに違ってはいません。
でも以前の投稿で言及したように、ヨーロッパでも日本の漫画やアニメの受容に関する態度が国によって違う上に、漫画やアニメに対して親和性の高いスペイン人でさえみんながみんな漫画やアニメが好きなんてことはさすがにありません。そういう人がある一定量いるのは事実ですが、フェスにコスプレで参加するような積極的な人はどう考えてもごく一部の少数派です(日本でだってそうでしょ?)。クールジャパンの企画などに絡んでいる電通などの「ビジネス」の立場からみれば、たとえマイノリティでも世界中のオタク全部を相手にして商売ができるなら十分な「市場規模」ではあるのかもしれないですけどね。
さらに、日本人が相手だと外国人も気を使って漫画やアニメの話を話題として振ってくることが多かったり、日本語や日本に興味を持つ外国人は大体入り口が漫画やアニメであることが多かったりするので、「ガイジンはみんな漫画やアニメが大好きなんだ」という錯覚に陥り易い傾向もあるんじゃないかと思います。
しかしながらメディアが繰り返すのは上述したとおり「世界で大人気のクールジャパン」という大本営発表であり、結果として日本人は「インド人はみんな数学が得意」とか「スペイン人はみんな昼寝(シエスタ)している」なんかと同じレベルで「漫画やアニメは日本を代表する文化として世界中の人々に好意的に認知されている」と実態以上に過剰に思い込んでるんじゃないでしょうか?

次に「世界で大活躍の日本人」ですが。
宮崎駿や北野武がカンヌやヴェネツィア映画祭に出るときに「試写会の後、場内からは拍手が鳴り止まず、スタンディングオベーションが起きました。」って言うの、もういつものパターンですよね?彼らの映画は公開される前からすでに「素晴らしい作品」だったということになっていて、彼らの作品に対する辛辣な見解を大手メディアが報道することはほぼありません。
海外サッカーの報道でも「香川率いるマンチェスターユナイテッド」とか、どう考えても控えの2番手以下の香川がマンUを率いてるかのような言い方を日本のメディアはときどきしますよね。キャプテンとかよほどの中心選手じゃない限り「擁する」という日本語の方が妥当なんでしょうが。単に日本語運用能力の問題ではなくて、「プレミアリーグ随一のクラブであるマンUで日本人の香川がプレーしている」という事にだけしか関心が無いのが分かりやすく顕在化しているように思います。

といった具合に、戦前の大本営発表に一喜一憂してた頃や、戦後に力道山がシャープ兄弟を空手チョップで倒すのに熱狂していた頃と日本人は大して変わって無いんじゃないかなと思うのですが(変わって無いからダメだとか言ってるつもりも無いんですけどね)。こうなったのは単にメディアだけが悪いというわけではなく、国民もある程度共犯関係にはあるとは思います。
そして、こうやって「日本人にとって都合のいいところだけを誇張したりつまみ食いする」ということを延々と続けたことで、「国威高揚のためには都合のいい物を何でも誇張したりつまみ食いする」という習慣が日本に定着するのを後押ししてしまったように僕には思えるのです。

具体例としてその中でも一番最悪だと思う「なんちゃって武士道」の話をしますね。武士って江戸時代に人口の数パーセントしかいなかった特殊な支配階級です。毎日腰に刀を差して歩いて、もし鞘が当たったらそれだけでも切り合いになりかねないような状況を日常としてきた人々です。ご存知の通り、責任をとるためには切腹する覚悟も持って生きていたのでしょう。
武士の存在及びその倫理規範である武士道がわが国固有の文化であるということは否定しないですし、武士道に現代の日本人の心を打つものがあると言いたいのは分かります。でも、あまりに何もかもが違いすぎる現代に例えば「いじめの解決に武士道を!」とか言って、うわべだけの武士道を導入したところで「都合の良いつまみ食いのなんちゃって武士道」別の言い方をすると「コピペ武士道」にしかならないんじゃないですかね?本当に武士道に取り組むならば、毎日心身の鍛錬を行い、刀をさして歩き、責任を取るとために切腹するとか、それくらいの覚悟がいると僕は思いますし、それくらいの覚悟を持って生きる人でなければ哲学としての「武士道」は意味を持たないんじゃないでしょうか?
「いじめの解決に武士道を!」とか安直な事を言う人は武士道に敬意を持っているフリをして実はものすごく失礼なんじゃないかと思うのです。こういう人達って当時の武士という人達の置かれていたであろう立場や日々の生活の隅々に対する想像力が致命的に欠如しているんじゃないかと思います。いじめがここまで深刻な問題になった一因として「他人の痛みに対する想像力の欠如」というのが挙げられてますけど、そうだと仮定すると「いじめの解決に武士道を!」とか言ってる人は問題の解決法を示しているつもりで、「想像力の欠如」という同じ根っこの問題を違う言葉で再生産しているだけのように見えるのです。
「いじめの解決に武士道を!」以外にも「国家の品格」なんかもこの「なんちゃって武士道」の文脈に含まれると思うんですけど、我々日本人はつくづくこういうの大好きですよね。そのうち「汚染水処理に武士道を!」とか「沖縄の基地問題を武士道で解決!」みたいな勢いでなんでも武士道で解決できると言い出す人が出てきたらどうしよ。

以上、ここまでに書いたことについてこれでもかというくらいに分かりやすく書いた例を見つけました。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130913/art13091303130000-n1.htm


文句ばっかりになってしまったので最後にわが国のいいところも褒めておきますが。メディアが徹底的な自国びいきになるのは日本だけに限ったことでは有りません。というより、日本のほうがだいぶマシです。外国のテレビなんてスポーツの国際大会の時には自国選手をひたすら持ち上げて相手の選手をボロクソに言ったりする国もあるそうですから。その点では日本のテレビって最低限の中立性に配慮した中継をしますし、日本人の観客もフィギュアスケートの大会で日本選手のライバルが演技を終えた後もちゃんと拍手したりと、丁寧ですよね?こういうところは日本の良い所だと思いますよ。

2013年9月15日日曜日

滝川クリステルの合掌は「日本文化の自己wok化」に見えた

このblogも開始からすでに4ヶ月を超えましたが、あらためて読み直してみると「日本はダメで外国はいい」と単純に言ってるスペインかぶれのように見えてしまうことに気づきました。その昔、大橋巨泉がたまに「来日」して、単純にアメリカを持ち上げて日本をダメ出ししているのをテレビで見るのが心底嫌いだったんですけどね。

で。くどいようですがまたしても前回に続いてオリンピックの話です。とりあえず東京での開催が決定してから一週間、テレビはこれでもかというくらい「オリンピック招致決定バンザイ!」一色でした。今更テレビが商業主義だとか政治に対する批判能力が無いとかそんな可憐なことは申しませんが、あの「汚染水とかとりあえずもういいから、とりあえずはしゃいどけ」というのは、市井の人々の感覚に本当に沿っているんでしょうかね?
そして、特に滝川クリステルの「お・も・て・な・し」がマスコミにすごく持ち上げられているわけですが。あれはさすがに太田光じゃなくてもみんな怒るでしょう。あの手話みたいな手の動きでの「お・も・て・な・し」の後にタイ人みたいな合掌は日本人から見ると明らかにヘンですよね。あんなこと日本で誰もやらないのは、当の滝川クリステルはもちろん彼女にあんなことやらせたプレゼンのブレーンみたいない人達も勿論分かってるんだろうと思います。あれを見た僕の直感的な印象は"wok"でした。

wokというのは、日本ではあまり馴染みが無いかもしれませんが、海外(とりあえず僕の知る限りヨーロッパではどこに街にもある)に行くと頻繁に見かける形態のアジア料理店です。wokのお店は寿司とか中華料理とかカレーとかタイ料理とか、ヨーロッパ人から見て「アジアっぽいアレとかコレとかそんな感じの食べ物」をごちゃ混ぜにした料理を提供しています。こういうお店はだいたい中国人がやっていて、ヘタに和食を注文しようものならヘンテコな食べ物が出てきてガッカリするのが目に見えてるので在住日本人は「とりあえずwokって書いてあるところには行きたくない。行ったとしても和食は注文したくない。」と思ってる人がたぶん多数派です。

滝川クリステルのスピーチは、「プレゼンとしての効果を最大化するためにガイジンから見てグッとくるように、日本の文化や習慣を意図的に歪めてタイ人みたいな合掌を取り入れる=wok化」ということを国際的な舞台で日本という国を挙げてやっちまったように僕には見えました。それとも、わざわざ自国文化を毀損してまで「ガイジン=お客様」の都合に合わせて差し上げる事そのものが滝川クリステルや五輪招致ブレーンの考える「お・も・て・な・し」なんでしょうかね?自国の文化の有り様を「お客さん=ガイジン」の都合に合わせるという意味では、クールジャパンとか言ってる人達とたぶん根っこは一緒なんじゃないかと僕は思います。

さらにメディアでの取り扱いは「日本独自の文化『おもてなし』の勝利」みたいになっていますが、僕の知る限りでは英語だとhospitalityとかそんな単語が「おもてなし」にだいたい対応しています。ほかにもhospitalidad(西語)とかhospitalité(仏語)なんかもだいたい似たような意味の言葉です。もちろん、これらの単語は日本語の「おもてなし」と必ずしもイコールではなくて大なり小なり意味は違うんでしょうが、「おもてなし」が日本独自の文化っていうのはちょっと言いすぎなんじゃないかと思います。ここには、外国人に比べて自分達日本人が特殊であると思いたがるという日本人の辺境民性(例によってこれは内田樹の受け売りです)が強く反映しているように思えるのです。

もし仮に本人が納得してやってなかったとしても、滝川クリステルは「日本人」という自己認識の下に外国人をもてなすときには死ぬまであのタイ人みたいな合掌ポーズをする責任を御自身に課して欲しいと思いますし、あのプレゼンを肯定する人も今後少なくとも2020年のオリンピックの際にはあのタイ人みたいな合掌で外国人を迎えて欲しいと僕は思います。
最後に、これは別に僕がそう願ってるつもりは無くて単なる空想ですが。もし今「毛唐のアイノコの分際で世界中が注目している場で日本の文化、習慣を意図的に辱めた」として滝川クリステルが右翼に暗殺されでもしたら、それこそ彼女は国葬とか国民栄誉賞とかのお手盛り付で日本政府に「お・も・て・な・し」されるんでしょうね。そのとき、日本国民は彼女がプレゼンで見せたような合掌で彼女を見送るんだろうな。。

2013年9月10日火曜日

東京にオリンピックが決まりましたが

毎年この時期になるとうちの部署では外国人のインターン生がやってきて、僕は面倒見るのを振られることが多いのですが。いや、ガイジンの面倒見るのは別にいいし、特にスペイン語で話す機会が増えるのは歓迎なのですよ。でもね。一番めんどくさいのはガイジンが来たからといってハシャぐエラいおじさん達に振り回されることなのですね。そりゃまぁ田舎の製造業のなんちゃって研究職の職場は変化に乏しいのでおじさん達がハシャぎたいのも分からんでは無いのですが。金曜日にそのうちの一人の、一番マイルドでまだ話の分かりそうな人に「酸味げる君のおかげで無事に導入がうまくいったよ。ありがとう。」とか言われたので、ついうっかり「そりゃありがとうございます。でも、貴方があんなことやこんなことをしなかったらもっと効率よく済んでたんですけどね。」と、文句言っちゃいました。我ながらこういうのって、審判に抗議してイエローカードをもらうサッカー選手みたいな余計さですね。

で本題のオリンピックですが。安倍や猪瀬を見てるとウチの職場のエラいおじさん達と全く一緒に見えるのです。
「東京は福島から250キロも離れているから安全」
「日本の安全は私が保証する」
「港湾内0・3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている」
「Fukushima situation is under control」
「健康問題は『将来も』まったく問題ない」
とか、明らかにウソが混ざってる上に日本国民に対して今まで言ったことも無いような楽観的かつ威勢のいいこと言い切っちゃいましたね。今回のオリンピック招致では、復興途上の被災地の状況や未だに危険な状態の原発への対応よりも、ガイジン相手にカッコつけることやオリンピックの経済効果の方が優先だとはっきり示しただけでなく。さらに。日本国民もIOCの委員も、そして言ってる本人さえも真に受けないようなウソを国際的な舞台で自信満々に言ってのけるという、今まで日本の政治家が超えなかった一線を安倍晋三は踏み越えました。「ガイジンにアピールするためには自信満々でプレゼンしてください」みたいな事をブレーンに言われて、いわれたとおりにやったんだろうと思うんですけど。これ、たぶん後々高くつくと思いますよ。今後安倍晋三は「外で調子に乗って奥さんの悪口言ったりして亭主関白なフリをしてたのがバレて後で奥さんに平謝りする」ようなことを強いられるだろうと思います。またお腹壊さないように祈っててあげてください。

直感ですが、安倍晋三ってここから下り坂に向かうだけなんじゃないかと思います。いや、おなかだけじゃなくて彼の存在そのものが。日本人は「日本を元あった状態に戻して、震災そのものをなかったことにしたい」という願望に駆動されて自民党を支持してきたというのが僕の仮説なのですが。安倍晋三の発言は「ただちに健康に影響は無い」とか「基準を10倍の何ミリシーベルトまで引き上げる」とかいう震災直後の民主党政権の対応に日本人が感じた失望と憤り(日本人は震災にまつわる負の記憶を民主党に背負わせて葬ったと僕は思っています)を再び思い出させたんじゃないでしょうか。しかも国民の頭越しにオリンピック招致の場で急に言い出したことでさらに強い反感を買ったんじゃないかと思います。

散々指摘されている通り、今回のオリンピックには前回のように「焼け跡からの復興」みたいな国民と共有された物語が全くありません。たぶん東京に決まって諸手を挙げて喜んでる人はオリンピックでお金が落ちる広告会社とか建設会社とか、そんな一部だけだろうと思います。東京とコールされた瞬間に招致委員が泣いて大喜びしている姿に大半の国民は距離を感じずにはいられなかったんじゃないでしょうか。招致委員の彼らにとってはこれまでの招致活動の「物語」があるんでしょうけどそんなのわからない国民は、彼らが泣いて喜んでるのを見せられても全然知らない人の結婚式や葬式に紛れ込んでしまったような気分にしかならなかったんじゃないでしょうか。

まぁでも、東京に決まったことで汚染水や原発の処理に関しては前向きになれる材料もあることはあると思うのです。だって、おじさん達はガイジン相手になるとカッコつけたがるし、海外のジャーナリズムは日本と違って批判することはちゃんと批判するので、今までよりはちゃんと汚染水や原発の処理をやるようになるだろうとは期待しています。
なんだけど。ネットでの反応を見てると「日本が選ばれなければ良かったのに」と怒ってる人がかなり多数いるように見えます。たぶん、上述の通り
・元々オリンピック自体にそこまで積極的じゃなかったところに
・国民の頭越しに安倍晋三が外で放射線の問題について調子のいい事言ってしまった上に
・しかも結果東京が勝ってしまったことでかえって怒りの持って行きようがなくなった
んじゃないでしょうか?あれだけ調子のいい事を言ってしまった後となっては、むしろ負けて罵倒されてた方が自民党や安倍晋三には得だったんじゃないかとさえ僕は思います。

散々税金使って招致活動したんだから日本に決まった方がまだ良かったはずじゃないか?というのは僕だって頭ではわかってるのですが。でも今回はどうしても肯定的な気分にはなれないんだよな。。

2013年8月28日水曜日

あだち充の漫画の"間"は外国人に理解できるか?

とりマリの「当事者対談」 マンガ家にもクールジャパンにひとこと言わせろという記事を読みました。クールジャパンって簡単に言うと「ガイジンにウケそうな日本の文化っぽい物をセットにしてクールジャパンって名前にして、外国に売り出そうぜ」と言っているのだと思うのですが。この一番の問題は”市場原理”を国家の文化政策にそのまま導入しちゃったことなんじゃないでしょうか。「ガイジンにウケそう、カネになりそうな物だけをプッシュする」という国策は、自国の文化の有り様や価値を自己評価することができないと公言することで、日本という国を自己毀損しているようにしか僕には見えないのです。
内田樹風に言えば、そうやって外国の顔色を伺うことでしか自分達の有り様を判断できないということそのものが辺境人たる”日本人の民族的奇習”であり、クールジャパンはうっかりそんな日本人の民族的奇習まで世界に輸出しようとしているように僕には思えるのです。

さておき、上記の対談記事ではラテン国家間でも国によってアニメの受容が異なるという、非常に面白いことに言及されていました。確かにクレヨンしんちゃんはスペイン人には大人気です。スペインに住んでた当時、スペインのテレビで唯一見れる日本語コンテンツがクレヨンしんちゃんでした。他のアニメは全部吹き替えされてるのに、しんちゃんだけはなぜか吹き替えと字幕だけの物が半々だったのです。そして、スペイン以外の国ではどうやらクレヨンしんちゃんは人気がありません。
たぶん、クールジャパンとか言ってる人達はこういう細かい国民性の違いみたいなのにちゃんと配慮する気は無いんじゃないかと思います。だって「ガイジンにウケそう、カネになりそう」というのは都合のいい”ガイジン”像を想定できるくらいデリカシーが欠如してないと考えつかないですから。

上記の対談記事で最も気になったのは「イタリアでアタックNo.1のスポ根は許容されるか?」「萌えが輸出できるか?」というところです。僕の直感的な印象として、スポ根と萌えは儒教国家ならまだ理解される余地があるかもしれないけど、それ以外は無理なんじゃないかな?と思うのです。
だからアタックNo.1がイタリアで人気だったとしても、それはバレーボールがイタリアで人気だからというだけなんじゃないかな?とか、インドでは巨人の星をクリケットに置き換えたオリジナル作品(ちゃんとギプスまではめてるらしい)が作られてるのも、スポ根に対する需要というよりはクリケットに対する需要なんじゃないだろうか?とか色々思うわけですよ。
他にも、日本の漫画で外国人に理解されなさそうな物って結構あるように思うのです。
・アンパンマン:アンパンマンの「顔を食べさせる」という仏教っぽい雰囲気がたぶん理解されない。
・あだち充:あの独特の"間"というか全体的に白くて余白のある空気感が外国人には理解され辛い気がする。
・吉田戦車:たぶん彼の作品の面白さを理解できる人の方が世界的にはマイノリティだろうと思う。

”文化”の定義の一つに、「ある人には当たり前だけど、他の人にとっては当たり前で無いこと」というのがありますが。この先には「当たり前じゃないけど、受容される物」と「理解不能で全く受容されない物」があります。前者はそのまま「文化」として扱われるでしょうが、後者は「奇習」としてキモい扱いされる可能性を十分に孕んでいます。クールジャパンは”文化”を発信するつもりなのでしょうが、うっかり一緒に”奇習”も発信しようとしています。そしてこのクールジャパンの放つトホホ感というかマヌケさもわが国の”奇習”の一つですよね?天国のナンシー関先生?

とりあえず”萌え”だけは本当にキモい扱いされて終わるだけだと思うから引っ込めて欲しいんだけどな。。

2013年8月25日日曜日

「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」から「世界はこんなにたくさん日本人を必要としていない」へ

派遣社員の規制緩和が検討されているようです。趣旨としては「派遣社員の雇用の安定化」とか言ってはいるんですが。もう少し掘り下げて言うと、「もう日本は派遣社員なしでは立ち行かない」「みんなが正社員という世の中を維持するのはもう無理だから、せめて非正規雇用をパートやアルバイトではなくなるだけ派遣社員にしよう」と言ってるようなのです。でもこれって小泉以降の規制緩和路線そのものであり、結局のところ雇う側にとって都合の良い方向に向かうんでしょうね。
終身雇用モデルで雇用される人はこの先益々減っていく方向に向かうでしょうし、この終身雇用モデルによってある程度支えられてた均一な社会も崩れて格差が拡大する方向に向かうことでしょう。

「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」というのは、10年ほど前に田舎の製造業のわが社に就職したときに直感的な印象でした。当時、製造は海外シフト可能な物はひとしきり海外シフトが完了していて、プログラムなどの開発業務もインドに外注できるか?とか言い出してたところでした。社会の授業で習った「産業の空洞化」が生産だけでなく開発にまで及び始めた気配を感じたのでした。当時社会問題になりはじめていたニートや引きこもりという人達は、たぶんこういう空気に敏感な人たちなんじゃないのかな?なんて思ったのを覚えています。
あれから10年。経済成長の伸びしろがいよいよなくなってしまった中で利益を確保するために、企業はどんどんなりふり構わなくなりました。たとえば追い出し部屋を構えて陰湿なリストラを始めたり、妊娠した女性社員を退職に追い込んだり(マタハラっていうらしいですね)、低賃金で自殺に追い込まれるくらいの激務を強いるブラック企業が問題になったり…こういった現象は日本式の終身雇用モデルの終焉とかっていうレベルの話じゃなくて、単純に「社会がこんなに日本人を必要としていない」ということがより顕在化してきたんじゃないかと僕には見えるのです。ここでいう「日本人」というのは、より厳密には「これまでの日本人の生活水準を維持して暮らす日本人」のことです。

一方で、日本という国そのものに対する帰属意識の希薄な”グローバル企業”が台頭しめはじめました。ユニクロの会長は世界同一賃金を導入することで、仕事に付加価値がつけられない人は年収100万円になるのも致し方無いと言ってるのですが。これってつまり、「替えがきく=誰でも出来る仕事は年収100万円の奴にやらせればいい」とあからさまに言ってるわけですよね。これから途上国にどんどん展開していこうとする”グローバル企業”としては、誰でも替えがきくような日本人に対して日本人としての給料払うよりは、今後成長が見込める途上国の優秀な若者を日本人並みの高給で釣る方がメリットはあるのでしょうね。
英語を公用語化しているところからも分かるように、最早ユニクロは彼ら自身を”日本の企業”だと思って無いんでしょうね。良い悪いはさておき、”グローバル企業”というのはそういう物なんでしょう。彼らが言ってるのは「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」ではなく、「世界はこんなにたくさん日本人を必要としていない」ということなんだと思います。
さらに日本はTPPに加盟しようとしてるんですよね?EUが"ヨーロッパ"という共同体幻想を背景に共有しているのと違って、TPPは文化的な背景が全然違う国同士が参加しているので、コケるか或いは自由貿易協定に毛の生えたもので終わるような気がしているのですが。ともあれ日本に移民が沢山入ってくるのはおそらく避けられないだろうと思います。


この先の日本という国の姿をちょっと予想してみると。

A. 欧州の先進国のようになる:日本国民の間でも格差が拡大する上に、貧しい日本人はより貧しい国から来た移民に仕事を奪われる。貧しい日本人は移民排斥を訴えて右傾化する。

B. そこまで変わらない:日本語という難易度の高い言語や、日本人のムラ的な閉鎖性が障壁になって、貧しい日本人にも一定量の需要が発生する。格差はありながらも今とそこまで変わらない。

どっちにしても排外的な傾向が加速する気がする。今のところ日本では、自民党の規制緩和路線によって発生した社会的弱者が右傾化して安倍政権を支持していることで奇形的な安定を得ていますが、いずれ血盟団みたいなのができて安倍や柳井や三木谷みたいな”グローバル企業推進派”を襲うような事になったりするんじゃないだろうか?

あと、他に有り得る可能性は

C. 貧しいけど共産的な農耕社会になる:”グローバル企業”が当たり前になった結果、日本人のエリート層は日本に縛られる意味を見失って海外流出。元から資源が無い上に産業まで無くなった日本に残された日本人は、貧しいながらも牧歌的な農耕社会をつくる。

どっちにしても、日本人の表面的な器用さと内面的な不器用さがどんな結果をもたらすのか、予測は困難を極めます。

2013年8月18日日曜日

「風立ちぬ」を見てきました

夏休み最後の思い出にと、「風立ちぬ」を見てきました。
一言で感想を申し上げると、前評判どおりこの映画は宮崎駿の「遺作」だと思いました。だってもう、好き放題やってるもん。新作を出す度に家族みんなで見に行くことが国民的行事になってしまった宮崎駿の映画は「家族で見に行ける」、「子供が見て楽しめる」といった制約の下にこれまで作られていたんだと思いますが。「風立ちぬ」はあからさまに子供が見ることが想定されていません。前評判で、子供が途中で飽きて映画館で走り回るという話を聞きましたが、そりゃそうなるよなと見て納得しました。
この映画は「コテコテの映画」なので、見るなら絶対に映画館で見るべきだと思います。映画が終わって席を立つときには宮崎アニメ特有の浄化作用みたいなのを感じたと同時に、飛行機に乗って空を飛びたくなりました。

--------- ここから先は映画見た人向けに書いてあります ----------

「風立ちぬ」の画面には、大正~昭和の日本の風景、乗り物(特に飛行機)、キレイ事だけでできたラブストーリーなど、宮崎駿の好きな物だけが出てきて、宮崎駿の好きなように展開します。「もう最後なんだから好きにやらせてくれ」と言わんばかりの好き放題ぶりです。そりゃこんだけ好き放題やって、自分が一番感動するような映画を作ったんだから完成したのを見て泣いたりもするでしょう。

特に、「女」の描き方の都合良さは男の僕が見てもどうかと思うくらいでした。普通に考えたら「アタシとヒコーキどっちが大事なの?」となると思うのですが(そういや「私の彼はパイロット」っていう、そのままの歌詞の歌があったな)。「文句一つ言わずにけなげに尽くす、弱くて、まもってあげたい」という、男目線で都合のいい女だけが描かれているのですよ。もちろん宮崎駿だって本当はこんな都合のいい女なんていないことくらい分かってると思いますが。「そんなことわかってるよ、でもこうしたいんだよ!」と宮崎駿は言ってるような気がします。
そして、ジブリ映画でたぶん最初で最後の濡れ場「来て…」ですが。僕もここは顔が思わずニヤけてしまいました。隣で見てたヨメも顔が半笑いでした。あとでヨメに聞いてみたら、「あそこは『キモっ』て思った」とすっかりドン引きしたそうです。これまで「性」なんていう物とは無縁のキレイ事の世界を何十年描いてきた宮崎駿が最後の最後で繰り出した濡れ場シーン。しかも100%男目線の都合だけから出てきたとしか思えない「来て…」というセリフ。のこのこやってきた親子連れをさぞかし凍りつかせたことでしょう。
だいたい、男女の間で恋が芽生えて成就するまでのネチネチしたプロセス(女子目線で見るとこっちの方がたぶん重要で、少女マンガってそこだけを基本的に描いてるのだと思うのですが。)に宮崎駿は全然関心が無いように見えるのです(宮崎駿の言い分としては「風が二人を結びつけた」なんでしょうが)。再会して数日でもう「結婚しましょう」にしちゃって、その後の「仲睦まじく愛し合う二人」っていうところだけただ描きたかったんだろうなという風に見えました。

「風立ちぬ」は宮崎アニメでは珍しく、主人公が男です。僕が思いつく限り主人公が男の宮崎アニメは「紅の豚」くらいですが。ポルコ・ロッソの比ではないくらい、「風立ちぬ」の二郎にはあからさまに宮崎駿自身が投影されています。禁煙ファシストに槍玉にあげられるくらいやたら煙草吸うのも、またそれがチェリーなのも宮崎駿そのままです。どういう経緯で庵野秀明が二郎の声をあてることになったのかよく分かりませんが、彼を後継者として意識していること(「ナウシカは庵野がやればいい」と宮崎駿は言ったそうな)と全く無関係ではないだろうと思いました。

「風立ちぬ」という映画の中で、風は帽子やパラソルや紙飛行機を飛ばしたりして出会いを作ったかと思ったら、風と一緒に空を飛んだり、風の中で機体がバラバラになったりします。もっと言うと、結核菌や米軍の爆撃機も風に乗ってやってきます。この映画での「風」というのは言うなれば「運命」とか「天命」とか、宗教的な言い方をすると「神」という言い方もできるでしょう。「風が吹いている限り生きねばならぬ」というのは、「天命がある限り、生きてる素晴らしさを味わって精一杯生きていきなさい」ということなんじゃないかと思いました。
これって漫画版ナウシカの結論と同じ事を全然別の映画を通して言ってるように僕には見えたのですが。だったら「庵野がやればいい」とか言わずに、自分の手でナウシカを最後まで全部映画にすればよかったんじゃないかなー。と、宮崎アニメとの出会いがナウシカだった世代としては思ったりもするのですが。まぁでも、漫画版ナウシカの残り全部を映画にするには普通の映画二本分くらいの長さにはなるのでそれを今自分がやるのはやっぱり無理って思ったんでしょうかね。

ともあれ長年お疲れ様でした。

って言ってて、もののけ姫の後みたいにまた引退撤回して結局復帰してくるなんていうこともあるかもしれないけど。。

2013年8月15日木曜日

終戦の日です

終戦の日です。
昨年の今日、僕はスペインで観光客の韓国人(日本に留学経験があるらしくて、日本語ペラペラだった。)とたまたま知り合いになって一緒にバルでごはん食べてました。「韓国では光復節っていうんだっけ?不思議だよねー。こんな日にスペインで見ず知らずの日本人と韓国人がメシ食ってるのも。」と一応話題にしてみたけど、彼は日本にも留学経験があるのでさすがにかなり柔軟な人のようでした(不慣れなスペインでご飯の面倒見てもらってるので遠慮してたのかもしれませんが)。李明博の竹島上陸についてかなり冷ややかなコメントをしていたのを覚えています。
その一年後の今日。安倍晋三は結局靖国に参拝しないようですね。一時期勢いのいい事言って右寄りの日本人を煽ってたけど、アメリカにすごまれるとあっと言う間に聞き分けのいい子になっちゃいましたね。判断としては正解ですが、彼の「中身が空っぽのおぼっちゃん」ぶりが改めて露呈してしまった感は否めません。安倍晋三って、背中にでっかい電池が入ってて、岸信介の亡霊がリモコンで操作してるんじゃないかと思うくらい彼自身が空っぽに見えるのです。だから、彼が右寄りの威勢の良いこと言ってても、「この人本当にそんなこと思ってるのかな?」といつも首をかしげてしまうのです。

さて。そんなこんなでどんどんこじれていく一方の中韓との歴史認識問題ですが。例えば従軍慰安婦や南京大虐殺に関して日本と中韓との間で相互に「事実はこうだった」という共通見解にたどり着くことはもう無理なんじゃないかと思うのです。この手の話題になると、例えば橋本徹などは「旧日本軍が従軍慰安婦に組織的に関与していた証拠は無い」と言ってたり、一方韓国では先日「旧日本軍が組織的に関与していた証拠が見つかった」と報道があったりするわけです。このどちら側も「事実は一つだけ」という前提で「何らかの根拠を提示した上」で「自分が正しい=相手が間違ってる」と言っている、つまり、両者は主張自体が対立してるだけで問題に接する態度は完全に相似形を成しているわけです。
ではこの両者が時間をかけてお互いの根拠を付き合わせたら何かしら同じ歴史認識にたどり着くかと言うと…それはたぶん有り得ない思うのです。もう、この文脈で言いたい事は内田樹の受け売りになので、ここから先はちょうどその部分だけwebに貼り付けてあったのを読んでください。こういうことです。 

芥川龍之介の「藪の中」という小説もこういうことを描いている一例だと思います。男と女が藪の中で盗賊に襲われ、結果的に男は殺される。だけどその結果に至るまでの説明が当事者の男、女、盗賊それぞれに三者三様で、結局何が本当に起きたのか分からない。「事実」っていうのはこういう物なんじゃないでしょうか。
「事実は一つ」を頑なに信じていると、相手の言ってることが一つでも「事実」でないと判断するとすぐにウソつきよばわりして全否定に向かってしまうと思うのです。例えば、よくある「南京大虐殺はウソだった」説の論拠の一つに「南京の当時の人口は10万人程度だったのにどうやって30万人も殺せたのか?」というのが挙げられるのですが。仮に30万人という数字が事実ではなかったとしても、「南京大虐殺」があったかなかったかというのはまた別の問題だと思うのですが。ネットでよく見かける嫌中とか嫌韓の人ってこういう矛盾を一個でも見つけるとすぐに「あいつらはウソつきだ」と全否定しにかかるように思うのです。

以前、慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみるという投稿で、右寄りの人が戦時中の日本を擁護する際のロジックは「日本も悪いことはしたけど他国に比べればマシだった」とか「他国も同じようなことをやっていたのに日本だけが非難されるのはおかしい」という相対的な比較の話になりがちだということについて書いてみました。また、内田樹は「日本辺境論」で、右寄りの人達が採用する大東亜戦争肯定ロジックはだいたい「ABCD包囲網によって資源封鎖されて戦争をせざるを得ないところまで追い込まれた」といった被害者意識(ここにその箇所の抜粋がありました)に論拠していると指摘しています。
彼ら、右寄りの人達の言う事のいくつかはなるほどと思うことも無くは無いのですが。だからといって当時のアジアの国々の人が日本に侵略されることを諸手をあげて歓迎してたなんてことは絶対に無いでしょう。そして、程度の大小はあれど南京大虐殺や従軍慰安婦への軍の関与はあったことは間違いないでしょう。日本が侵略しなければ起きるはずもなかったこれらの問題に対して、ある程度は非を認めて謝るくらいのことは日本はするべきだと僕は思うんですけどね。

2013年8月13日火曜日

夏休みの憂鬱

開設当初に比べると更新頻度がだいぶ落ちてきましたが。細々ながら続けていくつもりです。

サラリーマンの僕はお盆休みです。帰国したのが昨年の8月末だったので、日本で夏休みというのを取るのは実は3年ぶりだったりします。で、3年ぶりの日本の夏休みですが…無いよりは勿論あったほうがうれしいんですよ。一週間も仕事がお休みなんて有り難い話だと思います。でもね。なんかあんまりうれしくないのです。。というのも、
・暑い : 北海道、東北、避暑地以外はわざわざ出かけたいという気になれないくらい暑い
・人が多い、混雑 : 一斉にお盆休みに入るのでどこ行っても人が一杯で交通機関はどこも混雑する
・高い : まぁ、そんな状況だから当然お盆時期の旅行は高いですよね。しかもマトモなところは予約がすぐ埋まるし。
・行きたいところが近場に無い : 旅行で行きたいのはヨーロッパかスペイン語の通じる国なんですが、どっちも遠いし高いのでわざわざ夏休みに行く気にならない
以上の理由により、日本の夏休みってあんまり楽しい気分になれないのです。かといって、丸一週間休みをもらっておきながらどこにも行かないというのもなんだか気が咎めるので、昨日まで2泊3日で近場の長野に行ってきました。これで今年の夏休みのお出かけは終了です。もう少し達観して「どこにも行かないけどそれでいいじゃん」くらい言えるといいんですけど、その境地にはまだ達することができません。

また例によってスペイン…の話なのですが。バカンス(夏休み)を2週間とか3週間とか取るのは本当の話です。不況で仕事が無いとか失業率50%とか言いつつも、バカンスはしっかり取ってる印象があります。夏休み明けに日焼けしていない白い肌だと「かわいそうに、仕事が忙しくてバカンスにいけなかったのね」と普通に言われるそうです。僕は言われたこと無いけど、在住日本人でも美白派(美白をやめて、スペイン人のようにガンガン焼く方向に向かう人もいます)の女性は夏休み明けにこの攻撃にさらされることがあると聞いたことがあります。
そして、たぶんスペインだけでなく、ヨーロッパ全体が同じような仕組みになっています。例えば、夏休みにフィンランドの人とスペインの人が互いの家を何週間か交換してバカンスを過ごす…なんていうことも普通にあるそうです。日本人の感覚からするとそんなに長い時間家の外にいるとお金がかかってしょうがないと思うかもしれませんが、長期滞在向けの別荘を借りたり、上述した家の交換なんかをして自炊して過ごせば、そんなにお金をかけなくてもバカンスは楽しめるそうです。

てなわけで、スペインに滞在中に二回ほど夏休みをスペインで取るチャンスがあったのですが。三週間も休みがあるからってスペイン人みたいに長いバカンスを取ったかというと…これができないのですよ。
スペインに在住できる期間は最初から決まっていたので、その間にヨーロッパのいろんなところに可能な限り行きたいとは勿論思ってました。でもだからと言って、例えばパリ→ベルギー→オランダ→デンマークみたいに数日ずつ滞在して観光するだけの旅行を続けると、移動が多くてお金がかかる上に毎日観光してるのでなんだか疲れる旅行になっちゃうのです。
さらに、いくらスペインに在住してたとはいえ、5日くらい家の外に居続けるとだんだん疲れてくるのです。在西当時も普段の生活では最低一日一食くらいは自炊した日本食を食べてたのですが。さすがに5日くらいの間自宅を離れてると日本食がすごく食べたくなるのです(大体旅行から帰ったら茶そばとアボカドの刺身による”緑一色御膳”を食べてました)。
じゃぁ、ヨーロッパの田舎のどこかに日本食材も持ち込んで数週間ゆっくり過ごす…というのもこれまたなかなか辛いのです。だって、「何もしないでいる」という能力が求められるからです。スペイン人(や多くの欧州人)のように安息日=日曜日はお店も閉まってて徹底的に何もしない文化で育ってると「何もしないでいるバカンス」というのも出来るのかもしれませんけど、僕には無理でした。
そもそも、そんなに長い休みをもらえた経験がこれまでに無いので、二週間もの間ずっと旅行するということを積極的にやろうと思えなかったのです。結果として、夏休みというのは3,4日で帰ってくる旅行を二つ(例えばスイスに3日、ギリシャに4日など)ほどするだけで、あとの時間は何していいのやらよく分からないまま過ごしてしまいました。

そんなにみんなが長い夏休みとって社会が回るのか?と思うかもしれませんが。確かに7-9月の夏休み時期は欧州の社会全体の生産効率が明らかにに落ちてます。でもこの時期は個人経営のお店も一ヶ月閉まってたりするのが普通で、夏休み時期に社会全体の効率が落ちることが当たり前なのです。不況なのに?と思うかもしれませんが、不況だからってがむしゃらに働こうとかそういう風にはどうやらスペイン人は考えないみたいです。むしろ仕事がすくないんだったらゆっくりバカンスを楽しもうとか、そんな風に考えるようです。僕の職場だったところはスペインの中でも特に極端で、8月の間3週間エアコンが止まる=実質職場に誰も来ないようになっています。昔はそんなことしなかったらしいんですが、経済危機以降はアレもコレもコストカットになって、結果として夏休みは3週間エアコンを止めることになったそうです。
夏休みをとるタイミングは日本みたいに一斉ではなく、交代で休みを取るのが一般的なんだそうです。だから日本みたいにお盆になるや否や猛烈な勢いで大移動をしたりすることもなく、何ヶ月も前から手配しないと観光地の宿が取れないというようなことは無いようです。そして、この時期は基本的に日本より寒いヨーロッパを旅行するのに丁度よい時期です。

最後に少々恨み言を申し上げると、日本の夏休みはせめて時期を前後にずらして取れるようにしてもらえないですかね?そうすればせめて「人が多い・高い」という問題だけでも緩和できると思うのです。お盆というのが重要な先祖供養の儀礼であることは勿論分かるので、それを大事にしたい人は今までどおりのお盆に休みをとればよいと思うのですが。すっかり核家族化が進んだ昨今では、お盆時期の休みじゃないといけない理由が無い人はずらして取れるような制度にせめてしてほしいと思うのです。僕はたとえ一日休みが少なくなるとしても一週間ずらして取りたいです。
当然、一斉にお盆休みを取る現行のシステムの方が会社には都合は良いんだとは思います。でも、欧州のように「交代で休む」ということができるのは、言い換えると「互いの不在をバックアップしてやりくりする」ということが可能なシステムなわけです。一つでも歯車が欠けるとシステム全体が機能不全に陥るとでも言わんばかりの日本式だと、働く側が歯車として常に100%機能し続ける事を求められます。
やや飛躍しますが、日本で育児と仕事の両立が難しい原因の一つってこういう「歯車として100%機能することを常に求められる」という労働風土なんじゃないかなと思うのですよ。もちろん夏休みを取る時期をフレキシブルにするだけで働く女性の育児との両立が解決できるとか、そんな簡単な問題だとは思っちゃいませんが。お互いの都合に可能な限り配慮して補い合えるような労働風土の確立が、こういう状況を少しでもマシにしていく一助にはなるのではないかと思うのです。

2013年7月29日月曜日

小手先の「新しさ」による資本主義の延命

田舎のメーカーでサラリーマンを10年くらいやっていますが。我が社(に限らず日本の会社ってどこでもそうだと思いますが)はある一定周期で必ず組織変更があります。「今後の方針についてエラい人から話があるからいついつどこどこ集合」というメールがくると、「あー、またか」となるわけです。なんだかんだいって終身雇用前提の田舎のメーカーのエンジニア職場なんて普段あんまり人の出入りが少なくてイベントにも乏しいので、組織変更って言われると中高生の席替えの1/1000くらいのわずかなワクワク感はあります。これで嫌なアイツがどこか違う部署に行ってくれないかと少しだけ期待したりするのです。まぁでも、そんな都合の良いことは滅多に起きないんですけどね。そして、僕が経験した限りでは直近でやることはいつも何一つ変わりません(まぁ、ドラスティックにやることが変わらないというのはそれなりに平和で良いことだと思いますが)。

多くの場合、「組織変更」の実態は「あっちのグループをこっちに動かす」とか「あっちのチームとこっちのチームをまとめて一つのグループにしてシナジーを…」とか「管理職の交代」であることが多いのです。だから直近でやることはいつもだいたい変わりません。下々の立場から見ると、わざわざ名刺を刷りなおしたり、人の出入りに伴う雑務が発生したり、新しい上司にこれまでやってきた仕事の中身を説明したり、と、ただめんどくさいだけで意味があるのかよく分からないんですが。それでも会社の上の方から見ると何かしら価値はあるのかもしれません。いや、そうだと信じたいな。。
よくある「効率的なアウトプットの促進」「グローバル環境での生き残りに向けた体制強化」なんかを標榜して行われる組織変更は、組織変更によってもたらされるであろう利益もさることながら、「とにかく色々頑張ってるんですよ」という事を社会や株主に向けてアピールするという狙いが大なり小なり含まれているんだと思います。場合によっては、それだけが狙いだったりするのかもしれませんが。。

で。ここで本題なのですが。最早オワコンの香りがしつつある資本主義という制度そのものが生来的に抱えている「新しくし続けなくてはいけない」「(会社も、社会全体の経済も)成長し続けなければいけない」という病が、日本では上述した組織変更などの「小手先の新しさ」の連発として奇形的な症状を呈しているんじゃないかと思うのです。
この「小手先の新しさ」に対して最初に違和感を感じたのは、約一年前に日本に帰ってきたときでした。二年ぶりに帰って来た日本を車で旅行してたら、高速のインターで「しいたけマドレーヌ」とか「静岡おでんラスク」などの無理矢理感のあるお菓子が売られているのに衝撃を受けたのです。このとき、「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という日本人の情熱は最早病の域に達してると思いました。あれだけ経済危機で若者の失業率が50%とか言ってたスペイン人でさえ、新しい食べ物を無理矢理に発明してまで仕事を増やそうとはまず考えつかないだろうと思いました。

今でも僕には日本のスーパーは「無理矢理作り出された新商品」の見本市のように見えるのです。たとえば、冬場は「キムチ鍋専用シーチキン」というものが売られていました。今のシーズンでは、そうめんのバリエーションとして「イタリアンつゆ」などが店頭に並んでいます。先日スーパーに行ったら日清製粉の「チキンラーメン お好み焼き」という商品が並んでいました。
こういった商品にも、日本人の「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という病を感じるのですが。これってつまるところ会社の「組織変更」と同じで、商品そのものがヒットするかはさておき、小手先の「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続けることが主たる目的なんじゃないかと思えるのです。
直観的な印象として、この国はこういう「小手先の新しさ」によって資本主義というシステムを維持延命しようとしているように思えるのです。でもこうやって、無理矢理新商品をひねり出す(とりあえず株主に何か新しいものを出したという既成事実を作る)→たくさん広告費を使う→誰かがとりあえず買ってみる…っていうサイクルもそろそろ維持できる限界なんじゃないのかな?

2013年7月21日日曜日

選挙の日に思うこと

以下、選挙について思ったことをつらつらと書いているだけです。模範的な駄文です。

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本日、参議院選挙の投票に行ってきました。その昔、20歳になって選挙権を得たときは面白半分で投票に行ってみたのですが。その後はぱったりと行く気が起きないので10年以上ずっと投票には行かなかったのです。理由はまぁ、よくある話です。特に入れたいと思える人がいるわけでもない上に、どの党が政権を取っても自分の生活は大して変わらないと思ってたからです。
そもそも、「選挙」という映画が描いているように、日本の選挙活動のクオリティがあまりに残念すぎるので選挙という物に関わること自体が嫌だったのです。典型的なドブ板選挙はとにかく候補者の名前を大音量で連呼したり、握手したり、手を振ったり。僕にとっては大音量で連呼されている名前にはますます票を入れたくなくなるんですけど、それでも一定の効果があるから彼らはきっとやってるんでしょうね。こういう、有権者をバカ扱いしてるとしか思えない選挙活動をする候補者ばっかりの選挙にわざわざ投票しに行く気にまるでなれなかったのです。そういう意味では一切選挙運動をせずに都知事になった青島幸男の選挙運動スタイルもっと評価されて欲しかったのですが、残念ながら彼の選挙運動スタイルを踏襲する政治家を僕は知りません。

そこから選挙に行くという習慣を定着させたのは民主党が政権を奪取した2009年の選挙からです。このときばかりはさすがに自民党は有り得ないと思って民主党に入れました。そして、僕がスペインに行ってる間に震災・原発事故が発生して、帰ってきたら2012年年末の衆議院選挙でした。僕としてはとにかく原発をさっさとやめて欲しいので原発に対して否定的な党に投票しました。けど、残念ながら自民党が大勝しました。
自民党があそこまで大勝したのは僕だけじゃなくて、たぶん当の自民党も含めてほとんどの日本人にとって意外だったんじゃないかと思います。もちろん民主党政権に国民が落胆したというのはあったとは思いますが、原発があれだけの事故を起こしたのにも関わらず原発を推進する政党にあそこまで票が集まった背景には、以前書いたように震災や原発事故について自己批判を伴う反省に疲れた日本人が「震災や原発事故を『無かったこと』にして、とにかく日本を昔あった状態に戻したい」という意識が働いたんじゃないかというのが僕の解釈です。

ともあれ、自民党が政権を握ってからTPPはどんどん本格化していくし、アジア諸国との関係は悪化するし、原発はどんどん再稼動させようとする、しかも何のために必要なのかよく分からないけど国民の自由や権利を制限する方向に憲法改悪を推進し始める(で、賛同を得るのが難しいと思ったらあっさり引っ込める。)。これらは僕から見ると、ほんとに「いらんことだけわざわざ選んでやってる」ように見えるんですけど。日本人のマジョリティにはそうは見えて無いのか、もしくはどうかと思うけどアベノミクスで経済がよくなり始めてるしまぁいいかと思ってるのか…どうなんでしょうかね?
「国破れて山河あり」って言いますけど、山河があれば国が破れてもまた別の国は興せます。ヘタすると日本の国土に人が住めなくなるような事態を招きかねない原発を、デカい地震が起こる可能性が極めて高いこの国でこの先も稼動していくというのはどう考えても損得勘定が合わないと思うのですが。そんなに目先の経済って大事なんでしょうかね?

その昔僕が「投票に行かなくても自分の生活はそんなに変わらないだろう」と思えたのは、もちろん若かったというのもありますが、それだけじゃないように思うのです。あの頃は「ほっといてもまぁこのまま可もなく不可もないままなんだろう」という空気があったのですが。ここ数年はこの国はどんどんひどい方向に向かってて、これはさすがにマズいという危機感を感じるのです。それに少しでも抗いたいというのが僕が投票に行くようになった動機なんだと思います。

最後に。ネット選挙が解禁になりましたが。これが今後”ネット政党”みたいな物を形成して、ドブ板選挙とは根本的に異なる選挙の有り方を示したり、多様な意見の受け皿になったりする可能性にはちょっと期待したい気がするのです。今、政治とネットの関係というとネトウヨくらいしか思いつかないけど、もうちょっと多様な可能性が出てきてもいいんじゃないかな。とか言ってると、「ホリエモンがネット政党をつくりました」とか、そんなオチになりそうな気もしてきた。

2013年7月13日土曜日

うっかり外国語を使うことで発生する不条理の連鎖

以前のエントリで、会社のイベントの実行委員でテーマ名のジャパニーズ英語でひどいという話を書いたのですが。その後我慢できずに散々大立ち回りをしてみたのですが、結局最後は力及ばず元の案のままになりました。一応守秘義務もあるのであんまり書きすぎるとマズいのですが。結局のところ最後何に負けたかというと、我が社の「ダサさ」という伝統を守りたいという集合的無意識に負けたように思います。ともあれ決まったことはしょうがないので、僕がやるべきことは納得しなくても結果には従うことですね。

上記のジャパニーズ英語バッシングの際には「できもしない英語をやたら使いたがる日本人ってヘン」という話形を散々使わせていただいたのですが。知りもしない外国語や外国文化に対して失礼千万な態度を取るのは別に日本人だけじゃありません。例えば日本に行くスペイン人に「女体盛りはどこで食べれる?」と聞かれたことがありました。なんでも、スペイン人の作った映画で女体盛りが出てきて、それ以来スペイン人の間では女体盛りがすっかり有名になってしまったのです。まぁそこまではしょうがないとしても、体寿司っていう店の名前はいくらなんでもひどいと思いました。まぁ、翻訳エンジンの直訳なんでしょうけどね。
他にも、海外のアジア系のスーパーの日本食コーナーにはたいてい怪しげな日本語が書かれた商品が一杯並んでます。また、海外にはヘンな日本語名の日本食レストラン(たいていは中国人がやってて、寿司と中華とかインドとかがごちゃ混ぜになった物=wokを出している)も沢山有ります。

一方、芸術分野で「わざわざ外国語を使う」ということをやると、それが他国語に翻訳されるときに大変面倒なとこになり、結果として不条理の連鎖が起きるという事例をスペインにいる間に沢山目にしてきたのでいくつかご紹介しようと思います。
まずわが国が誇るクールジャパンの代表ともいえる宮崎アニメの「天空の城ラピュタ」。ラピュタという名前はガリバー旅行記から取ったらしいのですが、この言葉は"la puta"(スペイン語で娼婦という意味)が語源になっていて、それを「ガリバー旅行記」を書いたスイフトは知っててやっていたのに宮崎駿はそんなこと知らなかったんだそうです。ここにひとしきり書いてあります。在西当時、スペイン人のアニメオタクと映画の話をしてて、「当然"ラピュタ"見たことあるよね?」と言っても話がちっともかみ合わなかったときに初めて僕もこの事実に気付きました(スペイン語では"el castillo en el cielo"、英語だと"castle in the sky"と呼ばれています)。でもまぁこれはちゃんと気付いて代えた名前がそれなりにマトモなのでまだよかった方だと思うのですが。
次に"ターミネーター2"。これ、日本語で「地獄で会おうぜベイビー」と言ってるところはオリジナルの英語版では「hasta la vista(スペイン語で"また会いましょう")」と言ってるんだそうです。で、スペイン語に翻訳する際にこれをどう対処したかとうと、なんとこのセリフを「sayonara!」という日本語に変えてしまったのだそうです。だからスペイン人はsayonaraという日本語だけは割とみんな知ってます。

何よりも残念極まりないのは大島渚の「愛のコリーダ」でして。"コリーダ"はcorrida de toros(闘牛)というスペイン語から持ってきたのに、スペイン語でのタイトルは"El imperio de los sentidos"という名前になっていて、corridaがどっかに行っちゃってるのです。なんでも、フランス語のタイトルをつけたときにロラン・バルトの日本文化論"表徴の帝国"(ちなみに。これ自体はすごく面白い本です。)をもじって"官能の帝国"という名前をつけちゃったのを、そのままスペイン語にしちゃったんだそうです。だから、スペイン語でも"官能の帝国"というタイトルになっています。例によってwikipedia様にその辺のいきさつが書いてあります。
その昔、語学学校で日本の映画の話になったときに先生が、「私が昔"El imperio de los sentidos"という日本の映画を見たことがあって…」という話を始めたのですが。最初は何の映画の話をしているのか全く理解できませんでした。でもそのクラスに日本人なんて僕しかいないから、しょうがないので頑張って話を聞いてみると。先生が「男のチンコを女が切り取ってしまう」という説明をしたときにようやく愛のコリーダのことを話しているんだと理解しました。そして"コリーダ"がスペイン語のタイトルには使われてないことに愕然としました。

というわけで。優れた芸術作品を作る人は外国語をよくよく考えて使いましょう。場合によっては本人も予想してなかったような残念な訳し方をされてしまいます。しかしなんでスペイン人は女体盛りとか阿部定とか、そんな偏った日本だけを映画で知ってるんでしょうかね。

2013年7月6日土曜日

自由と権利と嫌煙ファシズム

もう話題に出したり考えたりするだけでもゲンナリする橋本徹ですが。大阪市の職員相手に苛烈な煙草狩りをしているそうです。煙草一本で100万円ですか。この人はこれまでも自分の部下にあたる大阪市の職員や教育委員会などを相手に子供じみたケンカをふっかけたり苛烈な扱いをすることで自分を「正義の改革者」に見せるという手法をずっと続けてきたのですが。こんな「きたかぜとたいよう」のきたかぜみたいなことやって、市民サービスの質は改善されたんでしょうかね?職員を上手く使って働かせるのが市長の仕事なんじゃないかと思うんですが。部下とうまく付き合おうという気がそもそもこの人には無いですよね。人を使うのがヘタすぎるというか、自分が人をうまく使って仕事をさせるべき立場だという意識が本人に最初から無いんじゃないかと思うのです。子供じみたケンカを続けて自分を「正義の改革者」に見せるという「手段」の自転車操業的な継続が彼の目的になってしまってるように見えるのです。

しかし日本は嫌煙ファシズムがかなり市民権を得ている社会なので、刺青とかアンケートとかの過去の問題に比べると煙草狩りは職員側から強い反対が出にくいのんじゃないかと想像します。例えば市の労働組合にも嫌煙ファシストはある一定量いるでしょうから、喫煙者の権利を保全せよと足並みを揃えるようなことにはたぶんならないんでしょうね。
ここでまぁ、いつも通りスペインとの比較になっちゃうのですが。まず、スペインの方が日本より圧倒的に喫煙率が高いです。そしてスペインの方が圧倒的に喫煙者に寛容な社会です。僕が渡西した直後は飲食店内での喫煙が合法でしたが、2011年から飲食店も含めて公共空間での喫煙は違法になりました。この法律が施行されてから、さすがに飲食店の店内での喫煙は見かけなくなりましたが。その代わり屋外での喫煙には誰も特に文句を言いません。歩き煙草も普通にしてますし、吸殻のポイ捨ても当たり前のようにします(ただし、スペインには「街を掃除する仕事」をする人達がいて、吸殻や落ち葉をまとめて掃除してくれるようになっています。ある意味ポイ捨ては合理的なのです。)。

2011年の法律施行前に非喫煙者とバルやレストランでの喫煙について話していたときに、あるスペイン人が「確かに煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言ってました。たぶんもう説明する必要もないくらいだと思いますが、こういう物の考え方は日本の嫌煙ファシズムに致命的に欠けています。嫌煙ファシズムは副流煙の害などの科学的根拠を旗印として「吸わない人の権利」だけを主張するんですが。「吸う人の権利」に配慮する気がまるで無いように思います。
日本人に他人を許したり愛したりする習慣が全く無いことがこの違いを生む原因の一つだと思いますが。それだけでなく、欧州人(今回はアメリカを含めていい気がしないので除外)は自由や権利を行使することが大なり小なり他人の自由や権利を犠牲にすることだということをよく理解しているんだと思います。別の言い方をすると、世の中は譲り合い無しには成り立たないという合意形成があるのだと思うのです。「あなたの言うことには一つも賛成できないけれど、 それを言う権利は命にかえて守る」という教科書にも載ってるヴォルテールの言葉は、自由や権利の本質をとてもよく表現しているんじゃないかと思います。
欧州人には「自由」とか「権利」という概念の発生から、それを獲得するまでの歴史、そしてそれが自分達に先人から遺産として引き継がれていることが一つながりのコンテクストとして認識されているように思うのです。一方、日本人にとって民主主義とか自由とか権利とかっていうのは、ある日突然よそからもらってきた借り物の制度なんだなと思います。

煙草に話を戻すと。実際のところ日本では日常生活からはだいぶ煙草が隔離されている印象はあるんですが。でも、僕にとって煙草が迷惑だと感じる機会は実は日本の方が多いのです。というのも日本の居酒屋、飲み屋で煙草を吸う人がいるからです。せっかくそれなりにお高いお金出して美味しい食べ物を食べるときに隣で煙草吸われるとちょっとイラっときたりします。少なくともスペインだと屋内の席は禁煙で、煙草を吸いたい人は屋外のテラス席を利用します。だから屋内で食事中に煙草の煙に煩わされることがスペインでは無いのです。まぁこれはさすがに2年間スペインに住んでたおかげでだいぶスペインかぶれになってるせいもあるとは思いますけどね(歩き煙草くらい迷惑とも何とも思わなくなりました)。
さておき、スペイン人みたいにもっと他人に寛容になって譲り合って生きればもっと暮らしやすくなるのになといつも思います。これは煙草に限った話ではなく、いろんなことについて思うのですが。
嫌煙ファシズムって、日本人の「正義」を背にすればいくらでも苛烈で残酷な仕打ちができる恐ろしさとか、相手を愛したり許したりする能力の乏しさとか、「自由」とか「権利」に対する意識の低さなどなど、日本の嫌な側面ばかりを見るようで本当に悲しくなるのです。
副流煙に含まれる化学物質による健康被害よりも、僕には日本人の「他人を許さない態度」「結論から話さない、話が長くて分かってもらいたがりすぎ」なんていう性質も健康に良くないと思えるのですよ。こういう物って副流煙と違って影響が計量できないんでしょうけど、だからって野放しにしないでなんとかして欲しいと常々思ってるんですけどね。
最後に。昔煙草を吸ってた立場から言わせていただくと。嫌煙ファシストっていうのは往々にしてちょっと頭のよろしくない人であることが多いので。そういう人達を小バカにしなが吸う煙草がすごくうまいこと、そして、それが煙草部屋コミュニティの連帯をより強固にするということをここに書き残しておきたいと思います。

2013年7月1日月曜日

多崎つくるとアルジェリア人質拘束事件

今更ながら村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読了いたしました。ヨメが友達に借りたのをついでだから読ませてもらったというとても消極的な動機で読み始めたんですけどね。程よい長さで楽しくさっくり読めてしまいました。感想を書くとネタバレになる気がするので、どうしても気になる方は本稿の最後の方の不自然な余白を気にしてみてください。で、本稿において大事な事は、この本が前煽りでアナウンスされていたように、震災~原発事故と日本人の関係を意図的に描写しているように僕には見えたということで。そこから少し飛躍しますが、2013年1月のアルジェリア人質拘束事件の犠牲になった日揮の従業員に対する日本と日本人の反応について思い出したので今日はそれについて書きます。

まずは震災の話を。2011年3月。震災が起きた当時、僕はスペインにいました。あの事件から数日は、ネットのニュースから目が離せませんでした。ロクに仕事も手につかなかったのを覚えています。津波でいとも簡単に流されていく日本の街の映像に衝撃を受け、そして原発の事故で国土が全部汚染されて誰も住めなくなるんじゃないかと不安になりました。僕の家族、そして僕の帰る国が無くなってしまう不安で一杯でした。
あの時日本に居なかったという話をすると、たいていの日本人は僕に向けて「日本人の同胞としてみんなが経験すべき災厄からオマエだけ逃げた」という非難が少し混じった口調で「その後日本は変わったよ」と言うのです。具体的に何がどう変わったのかは説明してくれないんだけどね。。とにかく彼らはその場にいなかった僕に対して何かしら非難がましい口調になるのです。まるで自分達だけデスクイーン島で育ったとでも言わんばかりに。正直なところを申し上げると日本とスペインの違いがあまりに激しすぎて、帰国しても震災前後で日本が変わったとは僕にはあんまり分かりませんでした。だけど、帰国直後から僕が感じてる日本の住みにくさの一部は、もしかしたら震災以後にもたらされたのかもしれないですね。いや、そうであると願いたい。。

そして、アルジェリア人質拘束事件です。2013年の年明けに発生したこの事件のいきさつはについてはwebでいくらでも情報は入手できると思うのでそれを参照してもらうとして。僕が不思議に思ったのは犠牲になった日揮の社員に対する日本人の論調でした。当時首相(まぁこれを書いてる時点でも首相なんですが)の安倍晋三は7人の日本人が犠牲になった事に対して、企業戦士として世界で戦っていた人が命を落とし、痛恨の極みだ」と言っていました。僕は首相までがこんなこと言って大丈夫なんだろうかと思ったのですが、twitter等を見る限りでは当時大半の日本人はこの言説にほぼ「賛成、異議ナシ」状態でした。ここで「あれ?」って思ったわけです。
まず「企業戦士」という表現。これ、「企業戦士」とそれ以外では命の重さが違うと首相自らが言ってしまってるように見えるわけです。これは揚げ足取りでもなんでもなくて、日本政府としてパスポートを発給している限り、日本政府はすべての人を平等に扱うべきなのに、そんな意識がまるで無いことをあっさり宣言してしまっているわけですよ。さらに言うと、「戦士」という言葉が示しているように、この件を戦争とのアナロジーで取り扱うことを日本政府として公式に宣言しているわけです。
これはさすがにマズいだろう?と思ったのですが、twitter等では事件の犠牲者を「英霊」という言葉を使って美化するような人までいました。亡くなった方は「英霊」と呼ばれて祭り上げられるのを歓迎するのでしょうか?少なくとも残された我々にはそれを知る術さえありません。内田樹が言っているように、戦没者への供養の有り方は「我々は彼らがどのように供養されたいのか分からない」という謙虚さをまず持って臨むべきでしょう。

挙句、日本政府は政府専用機を出してまで彼らの遺体の回収に乗り出します。だけど、国外で亡くなった日本人なんてこれまでに沢山います。そのうちの何人かは不慮の事故だったりもするでしょう。今までそういった際に日本政府は亡くなった方の遺体回収のために何かをしたという前例は無いのに、なんでこのときに限って政府専用機を出したのでしょうか?
アルジェリアの事件で被害に遭った方はそれこそ「企業戦士」なので、彼らを送り込む側の日揮という会社もバカじゃないんだからそれ相応の準備は当然しているだろうし、彼らの遺体回収を実行するだけの能力が無いとは到底思えないし、日揮だってその責任があることくらいは理解しているだろうと思います。
例えばスペインという国では、学生ビザを更新する際でも「もしも死んだときには母国への移送費用をカバーする」という項目が契約に盛り込まれた保険に入ることが義務になっていました。海外への長期滞在者のための保険にはこのオプションが存在することを、海外に人を送り込んだりしている日揮という会社が知らなかったとは思えません。
かつて海外に在住していた者の率直な感想として、日本という国は僕が不慮の事故で死んだとしても絶対に政府専用機なんか出してはくれなかっただろうなと思います。そして同じ感想を「フリーランス」や「学生」、「芸術家」、「外国人と結婚した日本人妻」など、「企業戦士」ではない立場で外国に居住している日本人(僕の友達の大半がこのパターンでした)に与えただろうと思います。でも政府が本当に手を差し伸べるべき先は、遺体回収をする能力も資金も十分にある私企業の従業員ではなくて、何も頼れる物が無いまま海外で亡くなった力の無い日本人なんじゃないでしょうか?
その昔、戦時下のイラクにわざわざ出向いて行って人質になった日本人の開放のために日本政府が身代金を払った際には、人質になった日本人に対して非難の声が上がったのを覚えているのですが。人質になった人はともかくとして、少なくとも日本政府の対応としてはそれが正解だったと僕は思います。社会の論調はさておき、日本のパスポートを持っている以上、仮にどんな最低の人だったとしても助けるのが道理だと思います。

以上の通り、アルジェリア人質事件への日本人および日本政府の反応は僕には常軌を逸しているように見えました。だけど政府の対応を非難する言説はtwitterを見た限りではほとんどありませんでした。このときの僕の率直な感想は、「今、日本人は『悼む』という作業に熱中したいんじゃないだろうか?」ということでした。そして、そこまで彼らを駆り立てた物はなんなのかというとやっぱり原発事故なんじゃないかと思えたのです。
原発事故について振り返るときに、日本人は「原発の作る電気に依存する生活を享受してきた」とか「原発を推進している自民党が政権与党である世の中を許容してきた」といった自己批判に必ず直面せざるを得ません。しかも原発事故の直接のキッカケは地震と津波という自然災害です。相手が人ではなく自然災害だと具体的にそれを「悪」として憎むことができないんじゃないかと思うのです。つまり、津波や原発事故について振り返るときに、日本人は必ず自己批判を伴い、そして怒りを向ける先の犯人もはっきりしないのです。
それに対してアルジェリア人質事件の場合は、日本人は何の自己批判や痛みも伴わずに「悼む」という作業に没入できたのだと思います。イスラム原理主義なり、外国なりを「悪」として憎んで、そんな悪によって損なわれた被害者の方を、こういっては大変失礼ですが、日本人は「安心して悼める案件」として扱っていたように僕には思えるのです。
そして。繰り返しになりますが、彼らがここまで「悼む」という作業に耽溺したがった理由というのは、津波や原発で亡くなった人について「悼む」ということを自己批判の辛さのために十分に行えないままであることや、あれだけの災厄をもたらしたにも関わらずまた原発を動かそうとしていることへの罪悪感なんじゃないかと思います。


多崎つくるについてのネタバレ的考察
これは震災とそれに対する日本人の接し方を描くことを、少なくとも一つの意図とした作品だと思います。非の打ち所の無い美人でピアノの上手な「シロ=ユズ」は現代科学の粋を凝らして作られた原発そのものの象徴として描かれています。「シロ=ユズ」は最初から「全てが完璧なんだけどいつか壊れてしまうことが約束されている物」として描かれています。
そして、彼女はやがて誰なのかもわからない巨大な悪によって損なわれて、最後は殺されてしまいます。これは津波を象徴するものです。
彼女以外の残り4人は原発事故と日本人の関わり方を示しています。彼女がいつか壊れていく存在であることを薄々理解していたはずなのに5人組のグループを謳歌していた彼らが持つ罪悪感、壊れて行く彼女をなんとかしようと頑張ったけどどうにもならなかった無力感、などなど。特につくるとクロは罪悪感を募らせた先に自分がシロを殺したのではないか?という強い意識を持っています。彼らは原発という物がいずれ問題を起こすことをなんとなく分かりつつも原発に依存した生活を謳歌していた日本人であり、原発事故が起きた後に罪悪感や共犯意識を募らせながらもそれぞれなりに折り合いをつけて生きていこうとする日本人でもあります。

2013年6月26日水曜日

プロレスラー達は政治をめざす

参議院選が近づいてまいりました。橋本徹の自爆とそれに伴う内輪モメで死に体ともいえる維新が、何を思ったかアントニオ猪木を候補として擁立してきました。もうやめとけばいいのにそれでも出てくるアントニオ猪木。しかも維新から?維新っていうとやっぱり長州の方が…とプロレスファンは突っ込まれるのは目に見えてるのに。やっぱりこの人は常にある一定量世間に対して認知されてて目立ってたいんだろうな。その点に関してはヘタな政治家よりも全然ブレて無いと思いますよ。頭の中が完全に昭和の頃のままで止まってるだろうから。。しかしながら、「プロレスラーの政界進出」を最初に成し遂げた彼の功績は大きいと思います。アントニオ猪木の後にも思いつく範囲で高田、大仁田、神取、馳、サスケ、デルフィン…と、プロレスラー達は選挙に出ています。

彼らが次々と政治に進出しようとする背景に、政治とプロレスがとても似ているということがあるように思うのです。表面的なところでは確かに、団体(政党)の離散集合とかマイクアピール、乱闘などプロレスと政治は似てる要素があるとは思うのですが。何よりも政治とプロレスに共通しているのは「本気」と「演技」がシームレスに同居しているということなんじゃないかと思うのです。よくプロレスを「あんなものはショーだ」と言い切る人がいますが、これは随分貧しい物の見方というか、こういう人ってプロレスを見ても全然楽しいと思えないんだろうなと思います。だって、ドロップキックやブレーンバスターをくらったらすんごく痛いですよ?全部がリアルファイトだとは当然僕だって思いませんが。痛いものは本気で痛いですし、それに耐えれる彼らはやっぱり強いと思うのです。そして、優秀なプロレスラーからはこういう痛みや強さ、凄みが説得力を伴って伝わって来ます。

プロレスのこういう側面はそのまま政治にも当てはまると思うのです。上述したプロレスを楽しむ才能の無い人(この10年くらいで急速に増えた気がするのですが)って、政治家を「私利私欲に走る強欲なオッサン」として扱いたがる人と同じカテゴリに属してるように思うのですが。政治家だって全く私利私欲だけを望んでるわけでもないだろうとは思うのです。二世議員とかはよくわりませんが、たいていの政治家が政治を目指した最初の動機はおそらく「世の中をよくしたい」という青雲の志だったんじゃないかと思うのです。まぁでも、現実に政治家やっていこうと思ったらキレイ事ばっかり言ってもいられないのでそりゃ悪いことの一つも出来ないと勤まらないとは思いますよ。でも、彼らにだって青雲の志はあっただろうし、今も大なり小なりはそれを持ってはいると思うのですよ。

「本気」と「演技」とか、「本音」と「建前」のような矛盾を矛盾したまま受け入れるという、清濁併せ持つ資質がたぶん政治家には必要なのですが。プロレスラーという人達はこの矛盾と常に付き合うことが職業上不可避なわけです。そりゃ政治に進出しようと思うのは自然なことだと思います。こういうことについて、プロレスラーから参議院議員になって今や自民党衆議院のベテラン議員の馳浩はどう思ってるんだろうか。

2013年6月24日月曜日

マザコン国家はメシがうまい

前々回の投稿で、ヨーロッパと日本では子育てに対する根本的な姿勢が全然違うんじゃないかということを書きました。でもヨーロッパって一口に言ってもいろんな国があって、そこにはいろんな文化や宗教があるのです。民族だけでも社会の授業で習ったように主だったところでラテン系、ゲルマン系、スラブ系などがありますが、実際はそんな単純な物ではありません。これに加えて、アラブ系とかユダヤ系とか、さらに移民がいたりします。バルカン半島とかもう民族的には何がどうなってるのか訳が分からないです。宗教も基本はキリスト教なんですが、その中も教科書で習った範囲でもカトリック、プロテスタント、正教系など色々で、でも実はさらにもっと複雑です。

結果として前回の投稿の最後で触れたように、ヨーロッパでも漫画やアニメの文化に対する受容は国によってだいぶ異なります。フランスが一番の漫画/アニメ大国で、スペインでも同じく人気があります。日本のアニメが違法アップロードされている動画サイトを見ると、たいていポルトガル語かスペイン語の字幕がついています(また字幕の翻訳のクオリティがすごく高くていつも関心します。誰がやってるんだろ?)。
これらのヨーロッパでのアニメ受容国は、つまるところ南欧=ラテン=カトリックの国々なわけです。ヨーロッパの北の方の国で漫画やアニメが盛り上がってるという話は聞いたことが無いです。こういったヨーロッパ各国のアニメに対する受容の態度は、丁度「メシがうまい国」と「メシが不味い国」で大きく分かれるように思うのです。

マザコン男は買いであるという本には、本稿のタイトルにある通り「マザコン国家はメシがうまい」ということが書いてありました。曰く、日本や韓国、イタリアなどの美食の国々は国家として「マザコン体質」であり、対してアメリカやイギリスなどのメシの不味い国は父性原理が優勢な文化であると。マザコン国家では母親が子供のために手間ひまかけて手の込んだ料理を作るのでメシがうまくなるというようなことが書いてあったと思います(この本、家にあるはずなんだけど探しても見つからなかったのです。)。
これを読んだ当時はなるほどなと思った記憶があります。これは、ヨーロッパに限って言えば、プロテスタントとカトリックの違いというのは一つの大きな要素なんじゃないかと思います。カトリックの教会に行くと、イエスよりもマリアの方が前面に押し出されている印象を受けることが多いのです。一方、プロテスタントの教会はほぼイエス一点押しでマリアはあんまり出てこないように思うのです。僕は聖書も読んだこと無い上にプロテスタントとカトリックの違いについてちゃんと勉強したことも無いですが。カトリック=マザコンとプロテスタント=ファザコンという図式には、ちょっと教会を見たことがあるだけ程度の印象ですが直感的に納得できるところがあります。だってほら、マンマに毎日電話するイタリア人の男とかイメージに浮かぶけど、そんなことするイギリス人ってイメージできないでしょ?

実際のところ南欧のラテン国家(たいていカトリックです)は概してヨーロッパでもメシがうまい国(アイルランドやオーストリアまで含めると話がややこしくなって「カトリック=マザコン=メシがうまい」という説明にもたぶん限界があるのでとりあえず"ラテン"という縛りを都合よく採用しています。)だったと思います。思い出してもヨダレが出ます。で、これとアニメとどう結びつくんだ?と言われたら、あんまりパリっとした答えが実は思い浮かばないんですが。ヨーロッパでも南のマザコン国家は北のファザコン国家に比べたらまだ「子供らしさ」への許容度が高いんじゃないかと思うのです。
前々回で触れたように、ヨーロッパは子供が子供らしく好き勝手に振舞うことを許さない、日本人の目から見ると「子供嫌い」と受け取れるような社会なのですが。(ここからは知らない世界のことは言えないのでとりあえずスペインに限定しますが、)でも彼らだって何から何まで子供の子供らしい振る舞いを否定しているわけではないと思うのです。「大人=人間」の世界に迷惑かけるようなことさえしなければ、全体として見たら日本よりもスペインの方が子供は甘やかされてるとさえ僕は思います。例えば日本では「我慢=禁欲」を美徳として子供に教育しようとすることってあるでしょう?たぶんああいう物の考え方ってスペイン人には無いと思います。やりたくないことはやらなくてよい、好きな事だけやっててよいというのはスペインでは割と一般的なんじゃないかと思います。結果としてガウディやピカソみたいな天才が出て来やすい土壌なんじゃないかとは思います。
つまるところ日本もスペインも、「子供の子供らしさを否定しない=甘やかす」という観点から見るとどちらも同様に子供を甘やかして育てる=マザコン的なんじゃないかと僕は思うのです。もちろん甘やかし方も違えば、その背景にある考え方も全然違うんですけどね。で、この「子供らしさ」への許容度というのが、日本の漫画やアニメが受容されるかどうかに密接に関わってきてるように僕には思えるのです。で、最後行き着くのは「メシのうまいマザコン国家でだけ日本のアニメはウケる」ということになってるんじゃないかと。あ、とりあえずまとまったぞ。

2013年6月23日日曜日

大人のいない国のクールジャパン

前回の投稿で言及したように、「菊と刀」という本では「日本人は無邪気に振る舞うことを許されていた幼少期と、それ以後の『恥を知る』大人としての時期とで明確な断裂がある」と指摘しています。僕はこれは結構鋭い指摘なんじゃないかと思います。というのも前回の投稿の通り、欧米、とりあえず僕の知る限りでスペインでは子供は「人間=大人」になるまでの過渡段階にあると考えられているようで、「人間=大人」の世界になるだけ早い段階で順応することを求められてるように見えます。だから、日本のように「子供のうちは好きにわめいて走り回ってもよい、子供に罪はない」という風には考えられていないように思えるのです。

しかしながらこれも「菊と刀」が書かれた60以上前の日本の話であって。日本ってどんどん大人のいない国になってきたように僕には思えるのです。つまるところ、大人と子供の断裂が曖昧になって、いつまでも子供みたいな大人が増えてきたということです。まぁ僕も人の事を言えた身ではないのですが。こうなった原因について「大人のいない国」という本が採用している説明の一つは、「日本はたいへん成熟した社会なので、人は未熟なままでも生きていけるようになった。」ということで。この説にはある程度の納得感があると思います。
日本に比べて安全な国なんてほとんど無いので、国によって程度の差こそあれ、海外で生活するには「自己責任で危険を回避する、身を守る」という大人としての能力が日本よりも要求されます。
例えばスペインでは池や川にフェンスなんてありません。バルセロナの海辺の埋立地にあったショッピングモールには敷地と海を隔てるものが何もなく、ショッピングモールのウッドデッキみたいなところから簡単に海に落ちてしまえるように出来ています。日本だとこういうところにはフェンスの一つでもつけておかないと何か事故があったときには責任を追及されそうなのですが、どうやらスペインではそういう風には考えられていないようなのです。体感的には、日本だと二重三重にセキュリティをわざとかいくぐらないとできないようなことがスペインだと簡単にできてしまうので、「うっかりしてると日本よりかなり簡単に死んじゃうかも」と、いつも思ってました。

そんなこんなで、スペインで2年間暮らして日本に帰ってきたら、日本が本当に「子供の国」に見えたからです。上述のフェンスの話だけでなく、例えば各自治体は判で押したように「ゆるキャラ」の着ぐるみをつくり、メディア媒体や看板にも萌えアニメ調の絵が当たり前のように出てくる。家電チェーン店では子供が歌うテーマソングが流れる。30代半ばの同期と久しぶりに会ったら、全員がAKBの押しメンについて当たり前のように語り合える。こういった日本を見て僕は「子供文化がどんどん大人の世界を侵食していて境界がどんどん曖昧になってきている」と感じました。で、さらにこういう物を伝統文化とセットにして”クールジャパン”と名前をつけて売り出そうとしているんでしたっけ?でも、結局のところクールジャパンがやっていることは「大人にならなくても許される日本」「子供の側に大人が擦り寄って合わせる日本」を世界に発信しているだけのように僕には見えます。

僕も中学生くらいまではアニメオタクだったのでアニメは今でも見ちゃいます。大好きです。それでもアニメや漫画やゲームには「子供文化」という出自に対してある程度自覚的で、それに対する後ろめたさを持ち続けてほしいのです。ましてや国を代表する文化であるような顔はして欲しくないのです。日本でアニメやゲームの文化が発達した一番の理由は、子供と大人の間に大きな断裂があるので子供のための娯楽(アニメや漫画やゲーム)を作ることが立派な商売に成り得たということなんじゃないかと思います。で、その子供文化に本気でハマる大人=オタクが出現したわけです。
これはアフロディズニーという本の受け売りですが、オタク文化が今のように社会的に認知されるようになる課程はアメリカで黒人音楽が市民権を得るまでの過程と相似形なんだそうです。曰く、アメリカの黒人音楽は人種差別と根深い関わりを持っていて、差別と戦いながらも最後は彼ら独自の文化を築いた。これは、日本のオタクが社会的に冷遇されながらも現在に至るオタク文化を育てた過程とまるで一緒であると。
でもその結果としてあれだけオタクについての自己言及的な啓蒙活動を続けてきた岡田斗司夫さえ、「オタクはすでに死んでいる」と言い出すに至りました。オタク的な物があまりに世の中で普通になってきたので、オタクがマイノリティとして相互扶助的なコミュニティを構築する必要がなくなってしまったと彼は言っています。そうなった原因は「オタク文化が立派に大人文化の一翼として認知された」というよりは、どちらかというと「大人と子供の境界が曖昧になってきて、気がついたらアニメも漫画もゲームも大人の世界で市民権を得てしまった」という側面の方が強いんじゃないかと僕は思います。簡単に言うと、スターウォーズのフィギュアを集めて部屋に飾ってる人がオタクでもなんでもなく割と普通になってしまったということです。
少なくとも僕が現役でアニメオタクだった頃(90年代前半)は、思春期の中学生がアニメ=子供文化が好きだなんて言うのはカッコ悪いという風潮がありました。そんなのより月9とかのトレンディドラマ(遠い目…)=大人文化をちょっと背伸びして見るのが当たり前という世の中でした。当時アニメオタクだった僕としてはそのような世の中に対して多少の憤りもあったのですが、今となってはアニメの立ち居地ってあの頃くらいが正常なんじゃないかな?と思います。中学生ぐらいになったら背伸びして大人文化に積極的に触れようとするのが普通で、子供文化の側にいるのはカッコ悪い…というくらいで丁度よいと思うのですよ。そういう意味では、中学生くらいにとってそこまで魅力的な大人文化に見える物って今あるんですかね?

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とはいえ漫画やアニメがある程度海外で認知されているというのは本当のことだと思います。だけど、漫画やアニメの受容はヨーロッパでも国によってだいぶ温度差があります。ヨーロッパ一のアニメ受容大国はフランスで、その次はおそらく我がスペイン…つまりラテン国家だけなんですよね。例えばイギリスとかドイツとかスウェーデンでアニメが人気という話はあんまり聞いたことないです(そりゃ好きな人はそれらの国にもいるとは思いますけどね。)。ヨーロッパでもラテン=カトリック=マザコン=メシのウマい国でだけアニメは人気があるのですよ。というわけで次回予告、「マザコン国家はメシがうまい」。

2013年6月17日月曜日

日本は子育ての人的コストがすごく高いんじゃないだろうか?

一週間のバルセロナ出張を終えて、渋々ながら日本に帰ってきました。バルセロナにいると人が楽しそうな雰囲気を発しているので「ここに生きてるだけで楽しい」と思えるのですよ。日本でそういう楽しそうな雰囲気を発してるのって、僕の住んでる街だと中南米系の日系人だけなんですね。10か月前に日本に帰ってきたときも、「日本人ってオシャレで細くて白いけど、楽しそうな雰囲気を発してない」と思ったのを覚えてます。あの頃は駅前にいるブラジル系の日系人に無理やりスペイン語で話しかけたくなったものでした。

さておき。今回は日本とスペインの子育て事情の違いについて、子育て経験も無いくせにちょっと考えてみようと思います。というのも、安倍晋三が「女性人材の活用」のために「育休を3年に増やす」とか「待機児童ゼロ」とか言ってるのを見て、そんな簡単な問題かな?と思ったのですよ。
とりあえず僕が分かる範囲でスペインという国と比較してみると。スペインという国は日本に比べれば少なくとも子供を育てながら働いている女性の割合は高いです。夫婦共働きというのがほぼ当たり前になっています。
この背景には、子育てをサポートする環境(保育園など)も勿論あるでしょう。そして、雇用が日本よりフレキシブル(みんな契約社員みたいなもので、その契約内容が個々人の事情に合わせて異なる)なのが日本と違うと思います。例えば「子供がまだ小さいから8時から2時(スペインの昼休み)まで働く」とかいうことができちゃうんです。勿論その分、雇う側の労務管理のコストは高くなるんですが、それくらいしないと女性が働くのが当たり前の社会って実現できないんじゃないかと思います。あと、終わる時間がきっちりしているので、「できたところまででいいことにする」というのも育児と仕事を両立しやすい要因かもしれません。
スペイン人の体力が日本人と比べ物にならないくらい強靭だということも大きく違うと思います。スペインで出産した日本人の女性が、産後数週間くらいの時期に姑から「もう回復しただろうから、庭に杭を打つ作業をやって」と言われて、言われた通りやってたら倒れたという話を聞いたことがあります。たぶんこれ、姑が意地悪なんじゃなくてスペイン人の体力が日本人と比べ物にならないくらい強靭だということを物語ってるんじゃないかと思います。実際のところ、朝までパーティーしてても次の日一応職場に来る(まぁ流してるんですけど)とか、そういうところをみてると日本人とは根本的な体力が違うと思います。

しかし何よりも子育てにかかる人的コストがスペインとは比べ物にならないくらい日本は高いんじゃないかと思うのです。日本に帰ってきてから不思議に思うようになったことの一つに、子供が飲食店などで大声でわめきながら走り回ったりしているのを親がそれなりに注意しつつも結局好きにさせてるということがあります。これはスペインではちょっと考えられません。そもそも、そういうった公共の場に小さな子供を連れて行く習慣がスペインにはなかったり、連れてきたとしてもちゃんと子供がお行儀よくしていることが多いのです。
どうしても必要なのであえて脱線しますが、同じことは犬にも言えます。僕がかつて住んでいたバルセロナという街ではほとんどの人が集合住宅に住んでるにも関わらず、当たり前のように犬を飼っています。日本人の感覚からすると集合住宅で犬を飼うなんて近所迷惑だと思うかもしれませんが、そうでもないんです。だって犬がほとんど吠えないから。彼らの世界では、犬というのはちゃんと躾された犬をペットショップで買ってくるのが普通なので、勝手に吠えるような犬は飼い犬として存在しえないのです。稀に飼い犬が言うこと聞かずに暴れてるときがあるのですが、そんなとき飼い主は何の躊躇もなく犬をボコボコに蹴ります。
つまるところ何って、"大人=人間の世界" >>>> (越えられない壁) >>>> "飼いならされた動物=家畜の世界" >  "野生動物の世界" というのが彼らの自然・文明観の根本にはあるように思えるのです。で、人間と共生を許されるのは家畜までなんです(その家畜さえ人間との間にも大きな断裂があります)。このヒエラルキーの中で赤ちゃんは生まれたときは"野生動物"で、これをまず"家畜"レベルに育てて"大人=人間の世界"に対して害の無い存在にして、そこから"大人=人間の世界"の成員にしてあげることが親の義務だと彼らは考えているようなのです。
だから日本の子供のように公共の場でわめきながら走り回ったりして大人の迷惑になるような行為をスペイン人の親は割と徹底して許さない傾向があると思います。こういう場合、スペイン人の親はまず”人間レベル”として「何がどう迷惑か」をちゃんと論理だてて説明して理解させようとする印象があります。で、それでも言うことを聞かない(=家畜以下レベルと見做す)と結構本気でお尻を叩いて戒めたりします。この段階での対応は飼い犬が暴れてるのをボコボコに蹴ってるのと基本はあんまり変わらないんじゃないかと思います。勿論相手は人間の、しかも我が子なんでそこは大きく違うんでしょうけどね。
こういった傾向は子供の寝かせ方にも反映されていまして。スペインでは"duermete niño(ひとりで寝なさい)"という育児メソッドがあります。これ、とにかく子供はお母さんと離されて一人で寝かせるんだそうです(これがどこまで普通なのかはわかりませんが僕の認識ではスペインでは結構普通なんだと思ってます)。どんなにぐずっても基本ほっとくんだそうです。このメソッドで育てると夜鳴きせずよく寝るとか、割と早い段階から分別のついた子供に育つとか、色々効用はあるそうです。もちろんこの育児法には賛否両論あるんだそうですが、少なくとも日本ではちょっと実践するのが難しいだろうと思います。

スペインで子育てをしている日本人のお母さんみんなが僕に同意するかは分かりませんが、僕から見たスペインという国の育児事情は上記の通りで。僕から見るとスペインでは「子供の世界」というのが明確に存在せず、子供は"大人=人間"の世界の成員へ至る過渡状態にあると考えられてるように思えます。そしてスペインというか、カトリックの国はまだ欧米(例によってこの言い方好きじゃないんですけど)の中では子供に甘い方だと僕は思います(この話はいずれ、「マザコン国家はメシがウマい」というタイトルで書こうと思ってます。)。"大人=人間の世界"の都合に合わせてる限りはスペイン人の方が日本人より子供に対して甘いとさえ僕は思いますし。
一方我が日本について。また例によって「菊と刀」の受け売りですが、「日本人は『イノセントな存在』として無邪気に振る舞えた幼少期と、それ以後の『恥を知る』大人としての時期とで明確な断裂があり、大人になった後も楽しかった幼少期の記憶をいつまでも持っている。日本人が2,3杯サケを飲むと途端に子供のように幼稚になってしまうのはそのためである」。なんだそうです(私見ですが、これは「菊と刀」が書かれた60年前の話であって、今の日本では大人と子供の断裂さえも希薄になってきているような気がするのですが。これについて書いてるとまた長くなるので後日)。同意できるようなできないような微妙なところですが、結構鋭いことを言ってるように僕は思います。
結局のところどうって、例によってどっちがいいとかは抜きにして育児に際して子供に対してかける手間が日本とスペインでは大きく異なっています。日本では子供が大人の都合に合わせることを求められないので、常に走り回ってる子供に気を配ったり、夜泣きする子供をなだめたり、子供のワガママにつきあったりする必要がある分だけ育児コストが高いんじゃないかと思うのです。こういう文化・風習である以上、育休を1年延ばしたり保育所を充実させるくらいで本当に日本が女性に働きやすい国になるのかはちょっと疑問なのですよ。しかも上述したように、なんだかんだで「年功序列、終身雇用」を前提としたシステムに働く側が合わせることを求められる日本では、尚のこと育児と仕事を両立するなんて大変なんじゃないかと思うのです。

慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみる

ちょっと前の橋下徹の慰安婦発言について。発言そのものよりも、その後のらりくらりと言い訳しながらも撤回しなかったり、マスコミの誤報だとか人のせいにしたり。で、アメリカが結構毅然とした態度に出てきたら結局謝ったんだっけ?途中から追うのも面倒になって最後どうなったのか知らないですけど、とにかく橋下という人は自分の価値を下げたということは確かでしょう。それだけならまだ勝手にやってくれればいいんですけど、日本という国の価値まで一緒に巻き込むのは本当にやめてほしいです。
最後結局どうなったか知りませんが、少なくとも初期に橋下の言ってたことは「戦争の際に兵士の性処理に女性を利用した国はほかにもある。日本だけが避難されるのはおかしい。」ということで。これってスピード違反で捕まった人が「なんで俺だけ捕まるんだよ?他にも違反してる奴いるだろ?」と逆ギレしてるのとまったく同じにしか僕には見えないのですが。そういう趣旨のことをtwitterに書いたらネトウヨっぽい人が「戦後60年スピード違反で日本だけが捕まってるならそりゃ逆ギレもするさ!」と、僕の指摘した問題点を分かり易くそのまま居直って再生産しただけのメッセージを返してきたので、これはどうしたことかと思ってちょっと考えてみました。

結論から言うと、日本の右寄りの人が採用する論拠は「日本のやったことは相対的な尺度で他の国よりマシ」とか「日本だけが他国に比べて相対的な尺度で不当な扱いを受けるのはおかしい」という”相対的な尺度”の話が多いように思うのですが。これって日本が、絶対的な善悪の基準が行動規範となる「罪の文化」ではなく、「人前で恥をかかない」という他人との相対的な関係が行動規範となる「恥の文化」の国であることを如実に物語っているように思うのです。ええっと。例によって以前もご紹介した「菊と刀」という日本文化論の古典的名著の受け売りにちょっとアレンジを加えただけなんですけどね。
恥の文化では「俺だけが捕まる」というのは「自分だけ恥をかかされた」という点において由々しき事態なんでしょうね。だけど、それがスピード違反という罪を帳消しにしてもらうに相応すると考えるのは日本人(の一部)だけなんじゃないのでしょうか?少なくとも罪の文化では「でも君のやったこと罪でしょ?何を居直ってるの?」ってなるんじゃないかと思います。
他にも、右寄りの人の言うことって「その当時の基準で言えば帝国主義的な侵略は普通のことだった。日本だけ非難されるのはおかしい。」「欧米列強はアジア植民地を単に奴隷として搾取しただけだったが、日本は原住民を国民と位置付けて植民地の子供達に対してちゃんと教育をほどこした。」「従軍慰安婦があったおかげで日本軍の民間人への性暴力は最小限で済んだ。そういう制度を持たなかったソ連の民間人への性暴力はひどいものだった。」と、他者との関係を引き合いに出して当時の日本を正当化しようとする印象があるのです。繰り返し言いますが、この語法が正当な自己弁護だという風に罪の文化の人々には認識されないんじゃないかなと思うのですよ。「罪は罪として認めて謝れ」というのが罪の文化の考え方なんじゃないでしょうか。

アメリカが橋下徹に対して毅然とした態度を示してきた理由も、「戦争を理由に女性の尊厳を踏みにじる」という「罪」に対する居直りともとれる姿勢をアメリカ人の罪の文化では許容できないということなんじゃないかと思います。特にアメリカっていう国はいまだにアフガンやイラクに軍隊を派遣して現役で戦争をやっている国です。戦争を継続するためには彼らは「正義の軍隊」である必要があるので、「アメリカだって沖縄占領時代は好き勝手やってただろ?お前らだって一緒じゃん?性暴力は戦争につきものだろ?」と言われて同意するわけありません。
安倍晋三の「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う。」という言葉も、「絶対的な善悪の価値基準=罪の文化」を否定して自己弁護につなげようとしたから諸外国から非難を受けたんじゃないかと思います。

別に僕は「日本は恥の文化だからダメだ」とか言うつもりもなければ「罪の文化が正しい」と言うつもりは毛頭無いです(韓国は「恨(ハン)の文化」らしくて、これはとても深い上にややこしくなるので今回は省略しましたけど)。しかし、相手と自分の何がどれだけ違うかということを理解しないまま「なんで俺だけソンしなきゃいけないの?」て言ってると、ただ他国との軋轢が増していくだけで、結果的に右寄りの人が好んで使う「国益」を損ねるだけになっちゃうんじゃないですかね?実際のところ橋本徹はそうやって日本を嘲笑の対象にしてしまいました。僕はそのことが我慢なりません。だってほら、僕だって「恥の文化」で育ってますから。
自分達がどういう「文化=民族的奇習(これも内田樹の日本辺境論からの受け売りです)」を持っていて、それが他人とどう違うのかということを理解した上で、「わかりあえないところから」相手と対話するそういうのを国際感覚と呼ぶのではないでしょうかね。

2013年6月9日日曜日

初めて英語よりスペイン語で話したいと思ったとき

来週からバルセロナに出張に行ってきます。バルセロナ ああバルセロナ バルセロナ。と、バルセロナという街に対して日本的情緒で思いを馳せるのはなんか倒錯していますね。こういうとき、やっぱり日本人なんだなと思います。そういえば昔、在西暦十年以上の日本人が「日本に居たときは中島みゆきが大好きだったけど、スペインに来てしばらくしてから全く聴く気がなくなった」と言ってた話を思い出します。日本的なフォークの感性って「いつでもどこでも楽しい」スペイン人と対極にあるので、そうなるのはすごくよく分かる気がします。

さて。そんなスペインですが。3年前にスペインでの生活を開始した直後はそりゃ色々と大変だったのですよ。なにせ言葉がほとんど分からなかったので。一応スペイン語の基礎みたいなのは勉強して行ったのですが、最初は電車の中で人がカタラン語で話してるのか標準スペイン語で話してるのか、その区別さえ出来ませんでした(9ヶ月くらい経ったら「理解できなかったことはカタランだったことにする」という習慣が定着したのですが)。しかもそんな状況で家をさがしたり役所(スペインの外国人局の職員はほとんど英語なんて喋れません)をまわったりといったことをやらなければいけないので、さすがに色々しんどかったです。この時期は、カラオケ屋にいって大声で歌いたいとよく思いました。

当然この当時は、とりあえず英語で話してくれる人がすごく有り難かったです。少なくとも職場の中は全員英語ができるので最初はほとんど英語で会話していました。しかしそれも「英語で話してもらってる」という感じはどうしてあった上に、僕に気を使ってわざわざ英語で話してくれてる内容がわからなかったりすると本当に申し訳ない気分になったものです。この頃は自分のことを「もしもこの職場が悪魔超人だったら、英語さえも不自由な自分は明らかに一番弱いステカセキング」だと思ってました。

しかしながら、辛い思いをしながらもしばらく生活しているうちに少しずつスペイン語にもだんだん慣れてきまして。ある日、スウェーデンからきていたERASMUS(ヨーロッパ内での交換留学制度)の学生と英語で話しているときに「今この人とスペイン語で話したい」と初めて思ったのです。なぜかって、彼の英語が訛ってる上に流暢過ぎて何言ってるか全然わからなかったからです。で、ためしにスペイン語で話してみたらだいぶ会話しやすくなったのです。彼は短期滞在なのでそんなにスペイン語ができるわけでもなければ、そんなに熱心に勉強しているわけでもないので、僕とスペイン語のレベルがだいたい釣り合っていたのです(って言ってもそれなりに頑張ろうとしてた僕と大差ないレベルだったんですけどね)。

僕だってスウェーデン人の彼だって、絶対的な語学力はどう考えても英語の方が上なんですが。それでもスペイン語で会話した方が(すくなくとも僕には)スムーズだったということは。つまるところ、快適にコミュニケーションするには絶対的な語学力の高さよりも、お互いの語学力の相対的なレベル差が少ない事のほうが大事なのかもしれないと思ったわけです。

ではとりあえず行ってきます。たぶん思ってる以上にスペイン語がヘタになっててしょんぼりして帰ってきそうな予感がするのですが。ともあれ、パンコントマテやパタタブラバスや生ハムや…アレやコレを食べれるだけでもヨシとしましょう。

「分かり合えることには限界がある」ということを分かってもらいたいというパラドクス

平田オリザの本はわかりあえないことからニッポンには対話がないというたった二冊しか読んだことないのですが。この二冊に通底しているテーマは、日本人はコミュニケーションを「分かり合うこと」と位置づけてしまうけど、異文化間コミュニケーションは「分かり合えない同士が妥協点を探っていくような作業」である、ということなんじゃないかと思います。そのことをしみじみと実感するようなことに日本に帰ってきてから頻繁に直面します。

といっても僕が日本人に対して引き合いに出せるのはせいぜいスペイン人くらいなのですが。彼らのコミュニケーションは「人が分かり合えることには限界がある」という諦めが根底にあるように思います。それが暗黙の大前提として存在している上で、お互いに意見を言いあって妥協点を探るなり結論を出すなり、そういう作業をすることをコミュニケーションと考えているように思います。
みんな意見が違うのは当たり前なので、反対意見を言うときに特に気を使ったりすることはありません。また、最後にみんな同じ見解に達するなんて事は最初から期待していないのである程度話したら割とさっくり結論を出します。そして、彼らはこういう一連の作業を当たり前のことのように笑顔でやります。

日本人の会議が長い理由の一つに「分かり合えることには限界がある」ということを認めようとしない、別の言い方をすると「たくさん時間をかけて話し合えばわかってもらえるはずだ」という物の考え方が根底にあるように思うのです。そしてさらに言うと、彼らは「分かり合わなければ前に進めない」と思ってるようにも見えるのですが。結論に対して納得してなくてもとりあえず決定には従うということは実は全然可能な事なんですけどね。

とりわけ厄介なのは、「正義」を背にして「正論」を展開する「正義の人」タイプの日本人で。こういう人って、口で言ってることは当然ロジックとしては筋が通っているのですが。「筋が通っている=正義」だから自分の主張は歓迎とともに受け入れられるべきだと信じて疑っていない気配を感じるのでホント困ります。こういう人の言ってることは「正しい・正しくない」で言えば確かに「正しい」のです。しかし、「正しい」ことはたくさんあって、彼らの言ってることは「たかが正しいことのうちの一つ」でしかなかったりするのですが。「粘り強く説得して最後はわかってもらう」「最後まであきらめない」なんていう日本人の好きそうなストーリーを信じて自分の正義を振り回した結果、「自説に都合のいい要素を次から次へとエンドレスに並べ立ててとにかく譲る気が無い人」っていますよね。ねぇ安西先生?

「納得していないけど結論に従う」というのは民主主義で国を成立させるために重要な資質だと僕は思うのです。アメリカでもフランスでも、大統領選挙のときは投票する候補をめぐって国が割れます。当然です。割れなきゃ選挙する意味が無いですから。しかし、一度大統領が決まれば、散々ネガティブキャンペーンを行った反対派もある程度は大統領に対して敬意を表しているように思えます。日本にはこういう習慣は、少なくとも今のところ無いと思います。どっちかと言うと、政敵は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になりがちなんじゃないかなと思います。別の言い方をすると、日本にはケンカのしかたにルールが無いように思うのです。

2013年6月8日土曜日

イタリア(とフランス)だけカッコいいっていうのはいつまで続くんだろ?

私、このたび会社のイベントの実行委員というメンドクサイ仕事をおおせつかりまして。先日初回の会議があったのですが、「まずはイベントのテーマを決めましょう」という話になりました。で、過去の我が社のその手のイベントのテーマというのを見てると、半分くらいが英語なのです。それも、「make ***」(長嶋茂雄の「メークドラマ」みたいなの)とかそんなやつ。ほぼ日本人しか関係しないイベントのテーマをわざわざ英語にしたい積極的な理由がどこにあるのかよく分かりませんが。誰か「メークドラマ」みたいなことを提案した人がいて、さらにそれを支持した人がいたのでしょうね。

国民の大半がほとんど英語喋れないのに横文字・カタカナが大好きというのはつくづく我が国(だけでもないんだろうけど)の不思議な国民性だと思います。たとえば鈴木楽器の大正琴みたいに「弁慶」とか日本語で商品名がついてるのはほとんど稀で、たいていの商品ってカタカナかアルファベットで名前ついてますよね。
さらに「メークドラマ」とか、あと松坂大輔の「リベンジ」(「リターンマッチ」という文脈ですっかり日本語になってしまった)みたいに本来の英語を逸脱して「奇形化」させたオリジナルの英語を生み出してすっかり定着させているあたりは、器用なのか不器用なのかもう判断不能です。松坂はこれを書いている現在マイナーにいるみたいですが、メジャーに復帰したときにはとりあえず「リベンジを果たしました」とコメントして、自身の発明したジャパニーズ英語を逆輸入して欲しいと思います。

そして日本に帰ってきてから思うのが、イタリア(とフランス)ばっかりカッコいいことにされすぎなのはなんかおかしくないか?ということです。例えばマンションの名前に「カサ・デ・フェリーチェ」とか、美容院の名前がフランス語とか、あとオシャレなカフェもだいたいイタリア語かフランス語ですよね。
「英語じゃなんか普通だからもうちょっとオシャレな何か別の外国語」となったときにはだいたいこのどっちかが使われる傾向があるのですが、みんなそろそろこれに飽きないのかな?と思うのですよ。僕は当然スペイン語を押したいのですが、ドイツ語でもベトナム語でもなんでもいいからそろそろ流れを変えてほしいと思うのです。

それにしても、イタリア料理店はどう見ても日本に多すぎるように思うのです。パスタとかピザが日本人の口に合うのはわかるし、僕も好きなんですが。一軒でいいからスペイン(のパスタは本当にマズい。日本の缶詰のミートソースの方がはるかにマシ。)に移転するか、スペインバルに変えるかどっちかしてほしいと思います。

2013年6月4日火曜日

ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す彼らは『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える

僕が働いているのは会社の研究開発セクションというところでして。茶畑に囲まれた職場で世の中の最先端を造り出せというのが我々のミッションなのです。この立地に加えて、そもそもが田舎の製造業という業態の我が社で”世の中の最先端”なんていうことを標榜している部署には、カウンターとして必ず一定の割合で「オレ、世の中のハヤりはちゃんと押さえてるから」「オレ、何でもわかってるから」とでも言わんばかりの、「言ってることだけ不自然に若作りな田舎のおじさん」みたいな人達がいるのです。

こういう彼らの特徴の一つに、ビジネスとかイノベーションとかアーリーアダプターとかコアコンピタンスとか、とにかく「やたらカタカナを使う」というのがあります。そして、彼らはだいたいソフトバンクがどうとかジョブズがどうとか、何かしら彼らが思う成功例を引き合いに出しながら、「うちの会社もあんな風になろうよ」みたいなことを言うわけです。さらにもうちょっと彼らの話を聞いてみると、どうやら彼らがこうなった背景には、彼らが感銘を受けたという(前回の言い方をすると「器用に血肉化した」)ビジネス書があるみたいなのです。
あんまりちゃんと読んだこと無いので、かなり思い込みも入ってますが。ビジネス書って例えばスティーブ・ジョブズがどうとか、松下幸之助がどうとか、googleがどうとか、勝ち組の成功例だけを羅列して後付でもっともらしい説明をつけて本が出来てるような印象があります。だけどそういう本に出てくるのって、人望だったり発想だったり、なにより”運”も含めて何かしらが人並み外れた人達であって。普通の人が真似できるような要素っていうのはほとんど無いんじゃないかと思います。そもそも、その本に登場する彼らはそんな本なんて読まなくてもその成功を成しえたという事実こそが、その手のビジネス書の無意味さを物語っているように思えるのです。

この関係は何から何まで「モテるためのマニュアル本」と相似形だと思うのです。モテるためのマニュアル本を読んでる人は、マニュアル本を手にしている時点で「モテる」ための重要な資質を明らかに欠いているというのは誰でもわかることです。もっと簡単な別の言い方をしましょう。週刊プレイボーイを毎号買ってる人にはたぶんプレイボーイはいません。それと同じです。
しかしながら、マニュアル本(これまたちゃんと読んだこと無いけど)はそんな本当のことを言っては商売にならないので、「君にもできる」「こうすれば君もモテる」とささやきかけてその気にさせるようにできてるんだろうと思います。実際にはその本を手にした瞬間に、読者に対して「モテる才能が無い」という烙印を押してるとしか思えないんですけどね。

「モテるためのマニュアル本」の話は結構誰にもでも納得してもらえると思うのですが。ところがこれが"ビジネス"の話になると、途端に理性的な判断を失う人がなぜか増えてしまうように僕には見えるのです。やっぱり「君にもできる」というメッセージにすがりたくなるからなんですかね?そして、ここから後は前回の「スタンダードを血肉化した挙句に信仰するに至ってしまう彼ら」と全く同じ話になります。凡庸な人ほどビジネス本の信者に陥りやすい上に、本から学んだであろうことを杓子定規に振り回してしまった結果、才能のある人のいいところまで潰していきます。かくして、ビジネス書が喧伝している何かデカい成功をつかむ可能性をどんどん潰していくわけです。

人にはそれぞれ天分っていうものがあって、それぞれが身の丈にあった役割を果たして社会が回ってればいいと思うんですけどね。世の中にインパクトを与えるようなことが出来る人っていうのは実際には世の中のほんの一握りだけです。むしろそんなに沢山いても困ります。いいじゃん、普通の人で。

2013年6月3日月曜日

"スタンダード"を信仰できる彼らは器用なのか不器用なのかよく分からない

サラリーマンに向いてる人ってどういう人か?というと、そりゃまぁ人って色々なんで一概に決め付けることなんて無理なんですが。「"スタンダード"を血肉化できる器用さ」がある人って、サラリーマンに向いてるんじゃないかとよく思うのです。一番最初にこういう才能に自分が恵まれていないと感じたのは就職活動のときでした。同時期に就職活動に入った高校の同級生に会って就職活動の話をしていたときに彼が放った「それは自己分析がちゃんとできてないことが問題なんじゃないの?」という一言に、僕は衝撃を受けたのでした。

この同級生は、「就職活動のためには、まず"自己分析"が不可欠である」「自己分析によって自分がやりたいことが見える」という"スタンダード"をあたかも自分がずっと昔からそう考えていたかのように血肉化して当たり前のように僕に言ってのけたわけです。僕自身は就職活動が喧伝する「自分探しのゴールとしての就職」みたいなストーリーにはちっとも納得してなかったですが。かといって修士も卒業することだし、彼らが「自己分析」とかいう言葉で言いたそうなことはなんとなくは分からんでもないから、とりあえず合わせておこうかくらいに考えていたのですが。僕の同級生は僕とは違って後天的に押し付けられた”スタンダード”を器用に血肉化して見せたわけです。
改めて言いますが、こういう人はサラリーマンに向いてると思います。良い・悪いとかいう問題じゃなくて向き・不向きの問題として向いていると思います。だって日本の会社ってそういう人の方が幸せに生きていけるようにできてますから。僕は元々そういうことろがあんまり器用じゃない上に、スペインに行ったことでそれにさらに拍車がかかってしまった感があります。

こういう、ある日空から降ってきたスタンダードを当たり前のように血肉化して振り回せる人達への違和感は就職してからも続きました。ほら、5W1Hだとか、PDCAサイクルだとか、プロジェクトマネジメントとか。。たとえばPDCAって、そういう仕組みにすると「うまくいくことが多い」という先人の知恵ではあるんですけど、その通りにしさえすればいいとか、その通りじゃないとダメとかっていうわけではないと思うのですよ。
何度も言いますが、便宜上発明された"スタンダード"という道具を血肉化する器用さをもっていること自体は良いことでも悪いことでもないと思うのですが。あんまり行き過ぎると、「"スタンダード"に即していないものは悪」「"スタンダード"に則ってれば正しい」という安易な信仰にたどり着いてしまう人がいて、そういう人と話すときって本当に困るんです。ある日空から降ってきたものを血肉化できる器用さはあるのに、どうして彼らの信仰する"スタンダード"を信仰する気の無い僕との隔たりを理解して埋める器用さは無いんだろうと思ったりするのです。
そして、こういった"スタンダード"は人の才能とか資質を度外視して設計されている、別の言い方をすると「誰でも実行可能」「誰でもつかいこなせるよう」に出来ているということに彼らはあんまり気づかないようなのです。そういう物を杓子定規に振り回していると、"スタンダード"になじまない特異な才能を持った人のいい所を潰すことになってしまうが往々にしてあると思うのですが、彼らはそういう可能性について考えないんだろうと思います。逆に言うと、特異な才能を持たない普通の人だからこそ、彼らは"スタンダード"を信仰できるんじゃないかとも思います。

といったところで次回予告。次回は「ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す奴は『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える」という話を書こうと思います。

2013年6月2日日曜日

日本はあらゆるシステムが複雑すぎる

(今回も敬体で…たぶんこのままなし崩しに敬体で通すと思います。)

9ヶ月前。日本に帰るにあたって、帰国直後の数日宿泊するためのホテルを予約する必要がありました。で、相当久しぶりに楽天トラベルを使って宿を探そうとしたら、欧州でホテルを探すときには考えられないくらい複雑なプランが一杯ありすぎてびっくりしました。同じホテルに宿泊するにも「Quoカード付」、「グルメチケット付」、「岩盤浴割引券付」などプランが一杯あるわけです。僕としてはそんなのどうでもいいから、昼前にホテルに着くのでチェックインの時刻が何時か知りたかったのですが、そういう基本的な情報を得るためにすごい苦労を要しました。このときは結果として、「12時からチェックイン可能!ラブカップルプラン」というプランを予約したのでした。なんか違うんだけどなと思いつつも、着いてすぐに布団で眠れるようにするにはそれぐらいしか選択肢がなかったのです。

そして。日本に到着したら、日本での生活インフラを1から整備する必要に迫られまして。まずは携帯を手に入れるところから始めようと某家電量販店に行ったら、今度は携帯のシステムがあまりに複雑すぎてびっくりしました。本体価格はいくらで、ナントカ割に入るとそれがいくらになって、でもそのかわり解約できる時期が限られてしまって、結果として本体価格の一部は月々の通話料と一緒に何円ずつ支払って…もう複雑すぎてさっぱり意味が分かりませんでした。
(また、このときの家電店の店員の一方的に畳み掛けるような説明もひどかったのですが、これについて書いてたら長くなった上に本題とはやや違うので全部カットしました。)

日本の電車やバスのシステムも欧州に比べたらすごく複雑です。僕の知る限りヨーロッパのたいていの国では市内交通は一回一律何ユーロと決まっていて、制限時間内ならどれだけ乗っても良いシステムになっています。乗車距離の違いを料金に反映させる仕組みは、大まかな”ゾーン”で料金が変わるようになっている程度で、日本みたいに数駅毎に細かくバスや電車の運賃が変わるような複雑なシステムは見たことがないです。

ホテルも携帯も電車も、日本のあらゆるシステムが複雑すぎることを示す解り易い例だと思います。どれも、各論ではそれぞれなりの理由があるんでしょう。ホテルや携帯は他社との競争だったり、電車やバスは乗車区間に応じて運賃を変えないと不公平だとか。でも、こういった個別の事情を汲んだ上で「全体をデザインする人」が日本にはいなくて、どんどん社会全体が複雑になっていってるように思います。結果として日本という国全体が、豊富な機能を持っているけどボタンがびっしり並んでて複雑すぎて「今これをやりたい」を実現するにはどうやっていいのか分からない残念な機械みたいに僕には思えるのです。

もっと言うと、「社会をシンプルに保ちたい」とそもそも日本人はあんまり思って無いんじゃないかなと思います。日本人だってこんなシステムの複雑さが本気で嫌だったらさすがになんとかしろと怒り出すだろうと思うのですが。こういう話を日本人にすると、僕の話に一定の理解を示してはくれるものの、それが重大な問題だとはあんまり思ってなさそうなのです。むしろ日本人って、こういう複雑なシステムに対して「知識」や「裏技」を披露しあったり、「コンシェルジュ」とかいってこの複雑さから最適な選択肢をレコメンドするサービスを作り出したりして、どこか楽しんで付き合ってるようにさえ思えるのです。スペインだったらたぶん日本みたいな複雑なシステムにはならないでしょう。お客さんの目に触れる以前に、サービスを提供する側がそんなに複雑なシステムを作ろうと思わないんじゃないかと思います。これはスペインに限らず、たぶん欧州全体そうだと思うんですが。彼らは社会をシンプルに保つべきだという意識があるように思えるのです。

2013年6月1日土曜日

遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人 (2011年8月、在西当時の日記より)


以下は2011年8月、在西当時の日記。



twitterの言葉botで「「あら、日本人は終わる時間には寛容なのに、始める時間には厳しいのね」という言葉を見て、ちょこっと考えました。 
https://sites.google.com/site/kotobabot1/1601-1700/1674 
http://www.j-cast.com/kaisha/2010/09/06075122.html 

まぁたしかにその通りなのです。特にラテン国家は時間が守れないというか、あんまり時間にきっちりしてない人が多いので、日本人としては本当にイライラすることはよくあります。例えばスペインで誰かの家でパーティーを8時からやるといわれて、もし本当に8時に行ったらたぶん誰もいないはずです。パーティーのホストもたぶんちょっと迷惑そうな顔をするだろうと思います。だいたい集合時間の1-2時間後くらいにのそのそ人が集まってくるのが普通だそうな。だけどこれがレストランの予約だったら、さすがに1時間も遅れるとマズいとは彼らも思うらしいのです。どうもこのへんの力加減は一年近く経ってもよくわかりません。 

しかし上記の言葉は、日本と欧米(という言い方を便宜上採用するけど、とりあえず僕の知る限りではスペイン)との間で「公」と「私」のバランスが完璧に逆転しているということを端的に示しているように思えるのです。日本の社会ではなんだかんだ言っても「公」が「私」よりも優先です。色々な「私」を犠牲にしてでも、「公」のために決められた時間に集合場所までたどり着くことがまず求められます。 
そして決められた時間に集まった後は、もちろんさっさと終わった方がうれしいのは誰だってそうなんですが。日本は「公」が優先なので、時間以内に物事が終わらなかったらお互いの「私」を犠牲にして時間を延長してでも目標を達成しようとします。さらに言うと、そうやって互いに「私」を犠牲にしあうことでむしろ何かしらの連帯感みたいなのが生まれたり、で、その連帯感を深めるために「私」をさらに削って飲みに行っっちゃったりするわけですよね。。たぶんこの「飲みニケーション」の辺りからスペイン人には理解不可能な世界なんだろうと思います。まぁ、僕の考えてる「日本」も田舎にある自分の会社をイメージしてるところがあるので、東京辺りではもう随分違ってるんじゃないかとは思いますが。

スペイン人って、「できたところまででお互いに許しあう」とか、「とりあえず決められた時間になったらそこで強制終了」みたいな文化が割と徹底してるように思うのです。その昔、初めてバルセロナに出張してきたときに。出張で話し合うべき議題があまりまとまらないまま最終日(金曜日)を迎えたので、「明日(土曜日)のフライトは昼からだから、明日の午前中も話をしようか?」と提案したら、出張先の会社の社長に「えー、ダメに決まってんじゃん。俺は明日車借りて**にドライブに行くことになってるから。」と言われたときにはびっくりしましたが。彼らの世界では「私」が「公」より優先なのです。だから明日遊びに行く予定がすでにあることは、提案を覆す正当な理由なのです。日本人だったらさすがにそこでわざわざ本当のことは言わないでしょう。「明日は私事でどうしても外せない用事がありますので。。」くらいの説明にとどめるでしょうね。 

例によって、どっちも一長一短あると思うので、どっちがいいかは何とも言えませんが。働く側としては確かに何時までに来なければいけないとか、そういう細かいルールが無い分だけスペインの方が働きやすいと思うときはあります。が、その分だけ自己管理が求められます。先日風邪気味なので仕事を休んだときには、有給が消化されたわけでもなく、上司に報告するわけでもなく、何も減らないまま自分が休んでいることに逆に不安を感じました。どうせだったら、日本にいたときみたいに消化しきれない有給が一日減るくらいの方が、休む上でむしろ精神衛生上いいんじゃないかとさえ思いました。やっぱり僕は日本人なんだなぁと思いました。文句言いつつも、ほどほどに管理されてた方がなんだか安心するのです。

ラテン系は本当にいい加減か?

(今回は文末を全て敬体で書きます。なんでかわからないけど、今日は敬体にしないと書きづらいのです。このブログはここまで全部常体で書いてきたんですけどね。)

一般的に「ラテン系はいい加減」と言われてまして。まぁ、これは実際にその通りだとは思います。特に日本人から見たらそりゃいい加減に見えると思います。だけど彼らだってお互いのいい加減さが許せないんだったら、もうちょっとお互いにキッチリしあう社会を作るでしょう。彼らがいい加減な国民性でいられるのは、他人を許す能力が高いからなんじゃないかと思うのです。具体的に例を挙げると、「ラテン国家の国民はいい加減だ、待ち合わせの時間に平気で二時間も遅れてきたりする。」というのは見方を変えれば「ラテン国家の国民は寛容だ、待ち合わせに二時間遅れても許してあげられる。」と言えるのではないかという事です。
「他人を許す能力」というのをもう一段踏み込んで考えると、「他人を愛する能力」であり、それはやっぱりカトリックという宗教と深く結びついているんだろうと思います。同じキリスト教でもプロテスタントの国はもう少しキッチリしてる印象がありますから。

「お互いに許し合う社会」では、自分がいい加減でも許されることがある反面、他人のいい加減さによって自分が不利益を被ることを許容することが求められます。最初は僕もスペイン人のいい加減さにイライラすることが多かったのですが、慣れてしまえばラテン式の方が生き易いと思いましたし、今も僕はそう思ってます。
スペインでの生活を終えて日本に帰ってくる頃には、「お互いに許し合う社会」の対極にある、日本の「他人を許さない社会」が怖かったし、今も正直なところ苦手です。「他人を許さない社会」である日本は、「他人」同士の関係が著しく非対称で、その事が社会全体をお互いに不機嫌にしあってるように僕には見えます。例えば会社の仕事では上司が部下に対して「完璧な仕事」を要求し、何か手落ちがあると当然の権利のように叱責するというのは珍しくありません。お店では”お客様”の立場が店員よりも絶対的に優位であり、少しでも店員の対応に落ち度があった場合は”お客様”は正当な権利としてクレームをつけてくることが普通にあります。結果として店員の態度は表面的には無駄にうやうやしい一方で、マニュアルに沿った機械的な態度になります。
こういう非対称な関係が連鎖すると…例えば、上司に叱責された部下が飲み屋で店員の対応にクレームをつけて…ということは社会をお互いにどんどん不機嫌にしあっていきます。そんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖は現実にはそう起こらないでしょうが、それが起こらないということは、上司やお客様の無理難題に振り回されるストレスに常にさらされることになってしまい、やっぱり社会全体が不機嫌になっていくんじゃないかなと思います。そりゃうつ病や自殺が増えるのも無理ないでしょう。

先日、スペイン時代の元同僚が書いてよこしてきたレポートを読む必要に迫られたのですが。一応締め切りまでに送ってきたものの、まぁこれが明らかに書きなぐりで、ところどころ説明不足だったりするので読むのにすごい苦労した。これは毎度のことなんですが、これに対して日本人は毎度のごとくぶつくさ不満を漏らしていました(そのくせスペイン人に面と向かっては言わないんだけど)。実際のところ僕も、「もうちょっとちゃんと書いてよ」とは思いました。が、一方では彼らの考え方から言うと「できたところまでで良いことにし合う」というのはわりと当たり前なのです。日本人の考え方のままで彼らと付き合うと、ただ相手のいい加減さに振り回されて損しているような気分にしかならないと思うのですが。そこを日本人に皮膚感覚として理解してもらうのはやっぱりなかなか難しいと思います。やっぱり結論としてはスペインに職場全体を移転させてしまうしかないのかな。。

2013年5月31日金曜日

挨拶ができないとダメかな?

日本に帰ってきてからもう9ヶ月経った。さすがに最近は話しかけられてとっさに「Si」と応得てしまうこともなくなってきた。けど、帰国直後はそりゃありとあらゆるものに違和感を感じて辛い思いをしたものだった。

例えば照明。日本はどこにいっても白色蛍光灯の照明が煌々としていて、帰国直後は家電店やコンビニにいると目が痛くて辛かった。今住んでる家も入居直後に全ての照明を白色系から暖色系に置き換えた。目が痛くて辛かったからだ。今でも白色蛍光灯が煌々としている僕の職場はちょっと苦手だ。ていうか、原発があれだけの事故を起こしたにもかかわらず、こんなに電気を使ってまで夜を明るくしたがるのが僕には未だに理解できない。

みんな日本語で話しているし、自分が日本語で話していることが理解されてしまうのも帰国当初は気持ち悪かった。スペインにいる当時は奥さんと僕の会話は誰にも理解されないし、道行く人の会話も聞こうと思って聞かなければ分からなかったのに、日本では日本人の会話は嫌でも耳に入ってくる。帰国当初はご飯食べに行った先で隣のテーブルの日本人の会話がどんどん飛び込んでくるのがすごく辛かった。

未だにどうしていいのか分からないことの一つに挨拶というのがある。スペインという国では、例えば買う意思が明確でなくてもお店に入るときには「Hola!」と必ず挨拶するのが当たり前だったり、エレベーターに見知らぬ人が乗っていてもとりあえず「Hola!」と挨拶して入っていく。つまるところ、全ての挨拶が「クラッチが噛み合ってる」ことが普通なのだ。これにたいして日本人の挨拶は「クラッチが噛み合ってなくて一方通行も普通」という雰囲気を感じることが多い。例えばコンビニに入ったら店員は「いらっしゃいませ」と言うけどこれに対して何か応えることは普通誰もしない。店員だって何か言い返して欲しいとはたぶん思ってなくて、つまるところ終始クラッチが噛み合って無いことを望んでるように僕には思える。これが悪いと言うつもりは毛頭無いし、コンビニはこれでもまぁ別にいいと思うんだけど。困るのは職場での挨拶だ。

朝、いつもと同じように会社に来て、普段毎日顔を合わせてる人が隣の席にいて、彼は画面に見入っている。彼は挨拶されることで集中を乱されたくないのかもしれない。ていうか、挨拶したところでクラッチが噛み合った挨拶を返してくるとは到底思えない。どうしようかなと思った挙句に黙って席につくと、隣の席から小さな声で「おはようございます」みたいなのが聞こえてくる。当然こっちを見る気配なんて無い。だったら挨拶なんてしてくれるなと思う一方でやっぱりなんだかちょっと自分が悪い事をしたような気分になる。こういうとき、彼をさらに下回る小さな声で「おはようございます」と独り言のようにつぶやくことになる。

一方で、会社のオフィスを掃除する清掃業者のおばちゃん達はまるで黒子のようにあたかもそこにいないかのように振舞ってくるんだけど、僕はこの人達に朝会うとなぜか積極的に挨拶してしまう。なぜだかは自分でも良く分からない。強いて言えば、彼女達の態度が発する「私はここの成員ではありません」というメッセージに対して「いや違う、君も毎日ここで働いてるメンバーだよ」と言いたい気分になるからだろうか。そういえばスペインの職場の掃除のおばちゃんはいつもニコニコしててやたらと僕に話しかけてきたなぁ。

お互いに違和感なく挨拶が成立するには、挨拶の仕方やタイミングに対する常識が共有されていることが不可欠だということはスペインから日本に帰ってきてから良く分かった。そして、僕のそれはスペインで2年過ごして帰ってきたら普通の日本人とはどこか違ったものになってしまったようだということもなんとなく分かった。よく「挨拶の出来ない奴はダメだ」と言う人がいるけど、こういう人は自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいとされていると信じて疑っていないだろうという点においてすごく幸せな人なんじゃないかと思う一方で、”挨拶ファシズム”によって世界を敵と味方に簡単に分けすぎのような気がする。当のご本人は「挨拶の出来る自分」を社交性の高い人間と位置づけている気配を感じるんだけど、実際には「挨拶の仕方」という一面だけで人を簡単に判断して切り捨ててしまう閉鎖的な人のように僕には思える。

2013年5月30日木曜日

語学とお仕事(5)

以前のエントリに書いたように、僕は(少なくとも僕より語学が出来ないと思っていた)後輩が会社から海外に送り出されるのを見たときにとても悔しい思いをして、その後紆余曲折ありながらも同じように自分が会社から海外に送り出された後に、日本に戻ってきて一年が経とうとしている。やれグローバル時代だとか言ってみたところで、田舎の製造業の我が社で理系のエンジニアが海外に行くのはまだまだ特殊事例だ。行く前と帰って来た後で僕に注がれたのは、かつて僕が後輩に向けてたのと同じで、簡単に言うと「ズル~い」というちょっと嫉妬の混ざった視線だった。確かに結果として運が良かったとは思うよ。だけど、君よりは語学をがんばったつもりなんだけどな。とか、行ったら行ったでいいことばっかりじゃなくて色々辛いことだってあるんだよ。特に最初の方はね。とか思ったりもする。まぁ、勿論そんなこと彼らには言わないけど。

ちょっと前にルース・ベネディクトというアメリカ人の書いた「菊と刀」という本を読んだらなるほどと思うことが書いてあった。この本は日本文化論の古典的名著であり、いかによくできているかはたとえば内田樹などさまざまな人がすでに言及しているのでそこはさておき。ルース・ベネディクトが言うには、アメリカという国では一代で巨万の富を得るのはアメリカンドリームの実現であり賞賛されるべきことであるが、日本では明治維新後に急に巨万の富を得た者は「成金」と呼ばれて庶民から蔑まれた。つまり、アメリカと日本では完全に反応が真逆になるんだそうな。曰く、日本は天皇から始まって武士、農民、果ては賎民まで明確な「カースト」が存在する階級社会で、それぞれの階級に与えられた特権を逸脱しようとする者は必ず罰せられ。だから成金は庶民から蔑まれたというわけだ。

僕の話に戻ると。興味深かったのは、会社の人達が僕を「階級を逸脱した特権を得た」としてやんわりではあるが攻撃的な目を向けてくる一方で、そのような処遇を与えたお上(=会社)を非難しようとはまるで思ってないことだ。もし僕が階級を逸脱した特権を得たと思うなら、僕にそれを与えたお上(=会社)も多少は非難するのが筋なんじゃないかと思うんだけど、彼らはそのようには考えない。

2013年5月29日水曜日

語学とお仕事(4)



今回は、日本に帰ってきてから気付いた日本人の外国語の問題点について。これは別に上から目線での話ではなくて、自分も苦手という話なので。自戒を込めて。


日本人は「大きいところから各論へ向かう」という風に話を構成(オーガナイズ)することにあまり意識が無くて、この逆の方向(各論から結論)へ向かってたり、話があちこち飛んでたりする人が割と多いように思う。これはおそらく日本語の曖昧さとか、みんな日本語が流暢なのが当たり前な(ほぼ)単一民族文化で異文化との交流が無かったこととか、いろいろな背景があるんじゃないかとは思う。これに対して、「まず結論から話す」という欧米(この日本語大嫌いなんだけどとりあえず便宜上使うことにする)的な会話スタイルは、互いに運用能力が不十分な言語でコミュニケーションを取る必要がある場合に、少しでも自分の言いたいことを相手に伝えたり、少しでも結果を自分の望む方向にもっていくための技術として発達したのではないかと思う。


日本人が英語で喋ろうとしているときによく感じるのは、「この人は今、日本語で話したいであろうことをそのまま英語に置き換えて話そうとしているんだろうな」ということで。僕は日本人だから彼らがそうなるのはすごくよくわかるんだけど、それでも「もういいからまず結論を言ってくれ」と思ってしまう。で、こういうとき、外国人は僕よりももっと更に焦れている。やがて日本人は、焦れてる外国人の空気を感じながらもしどろもどろで頑張った挙句に、結論にたどり着く前にどこかで語学力の限界を迎えてあきらめてしまい、話が空中分解してしまう。結論だけでもまず先に言えば、最終的にどうしたいかだけでも伝わる上に、どんな結論に向けて話したいのか受け手が分かるのでそこまで焦れずにしどろもどろを見守ってもらえると思うんだけどな。


スペインで語学学校に通ってた時に、欧米(うーん。。)人はみんな話をオーガナイズする能力が当たり前のように備わっているのを強く感じた。当時グループレッスンのクラスは僕以外全員欧米人だった。彼らの語彙力や文法知識は(文法と単語ばかり偏重してしまう日本人の)僕よりも明らかに下だったけど、彼らは話の途中で空中分解することはまず無い。彼らが言い淀むのは単語が分からないとか、言い回しが分からないとか、動詞の活用が分からないとか、そういった純粋な言語の運用能力の問題であって、話そのものはちゃんとオーガナイズされているので空中分解しないし、たどたどしくても聞いてる側は焦れてきたりはしない。


「英語で話すときは日本語で考えずに英語で考える」というのはよく言われることだけど、この効用は単純に「日本語→英語」の変換によって生じる効率の問題だけではなく、自分の英語力で説明できる範囲のことだけで思考できるので空中分解しないという事や、「結論から各論へ」という話し方のスタイルにスイッチが切り替わるという側面もあるのではないかと思う。まぁ、本当に「英語で考える」ということができるのかは僕はかなり懐疑的ではあるけど。


「なるだけ結論から話す」とか「自分の語学力でできる範囲で説明する」とか、こういうことを心がけるだけで不十分な語学力でもだいぶコミュニケーションが取りやすくなると思うんだけど。でも、それができるようになる頃にはだいぶ流暢になってるんだろうなという気もする。。そして、できれば日本語で話すときからそうしてくれると有り難いんだけどなと思う局面に日本に帰ってからしょっちゅう直面する。この、日本人とのコミュニケーションにおける焦れ方や違和感を皮膚感覚として理解してもらうには、生意気な言い方になるけど外国に一度行ってもらうしかないんだろうなと思う。というわけで、職場全体をスペインに移転させよう。そうしよう。

2013年5月28日火曜日

語学とお仕事(3)

今回は語学とお仕事という話で書きたかった本題。社員の語学力向上を願うなら会社がどうすべきかについて。

なぜ上の人が僕に社員への英語教育について相談してきたかと言うと。たぶん僕が「取り立てて英語が出来るわけでもなかった日本育ちの普通の理系社員が日本にいながらTOEIC900点(これも半分たまたまなんだけど)を取るに至ったモデルケース」だからなんだろう。確かに帰国子女や留学経験者でもない普通の理系社員がそこまでたどり着いた事例はあんまりないので、二匹目や三匹目のどじょうを狙いたがるのは分かる。で、なぜそうなったかと聞かれたら、僕の場合、努力が報われなかったら会社を辞めるくらいのつもりでやっていたからだということになる。しかしそんなことをどこまで上の人に向かって言って良いのかよく分からないので困る。ついでに言うと、そんな僕の英語力もたかが知れてて、ネイティブ同士の会話は何言ってるか全然分からない事の方が多いということも分かって欲しいんだけどな。。

そもそも。我が社では語学なんて全員が出来る必要は無いので、得意な人が自分の芸風としていけばそれで十分なんじゃないかと思う。楽天みたいに商社としての色合いが強かったり、ユニクロみたいなグローバル企業なら、社員全員に英語を強制するのも意味があるかもしれない。しかし我が社はドメスティックな製造業の会社であり、そこには設計したり生産したり…いろんな役割を果たす人が必要になる。会社の仕事というのは色々な技能を持った人が集まったプロジェクトやチームが組織として機能していれば成り立つので、プロジェクトやチームの誰かが語学ができる必要はあるんだろうけど全員がそれをできることは必然では無い。語学というのはプログラムを書くとか、回路設計をするとか、生産管理をするとか、そんなのと同じで技能の中の一つにカウントされていれば十分だと思う。

僕なりに会社がどうすればいいと思うか一言で言うと。社員に対して語学を「教育」しようとするのはもうやめて、努力しようとしている人を支援することと、努力した人を公正に評価してあげることの二つだけを会社がやればいいと思う。
まずは、中途半端な語学研修プログラムを社員に提供するのはやめた方がいい。会社の語学プログラムにもいいところだってあるのかもしれなけど、「会社の研修を受けてるから自分は語学のために努力している。これでいいんだ。」という満足と免罪符を社員に与えているという負の側面が強いように思える。しかし、特に必要に迫られてもいない状況である程度のレベルまで語学ができるようになろうと思ったら、レッスンを受けてるだけでなく、ネチネチ単語を覚えるとかコツコツとシャドウイングを繰り返しすとか、そういう努力を自発的にやらないと身につくわけが無い。しかも、人によって向き不向きがあるので、どのアプローチが効果的かは人によって異なる。だから、「自分にあった方法を考えて、自分で努力してください」とはっきり宣言した方がいいだろう。
そして。改めて言うと、会社がやるべきことは語学に対する努力を支援したり、その成果を公正に評価した上でキャリア設計などに反映させていくことだけなんじゃないだろうか。「支援」という意味では、ワーホリや自主的な語学留学で外国に行ってきたいという人を一年くらい休職扱いにしてあげるというのはアリだと思う。我が社の現行の制度では青年海外協力隊に行くための休職は認められるようだけど、ワーホリや語学留学も認めれば自発的に語学を習得したい人への支援になるので、ヘタな語学研修プログラムを社員に提供するよりよっぽど効果があると思う。
「公正な評価」という意味では、海外研修や海外駐在などの機会を得るための語学力の線引きをある程度明確にするべきなんじゃないかと思う。もちろん海外研修や海外駐在の対象者を選ぶにあたって語学は一要素でしかないんだろうし、「語学ができるんだったら海外研修に出す必要なんて無い」というのは出す側の言い分としてあるのかもしれないが。かといって、ある程度ちゃんとした線引き(あんまり気は進まないけど、例えばTOEIC何点以上とか)を持たないと、昔の僕みたいに「あの程度の語学力で外国に行った奴が、帰って来たころにはペラペラになってるかと思うとバカらしくて日本で自分の時間を削ってまでチマチマ努力する気になれない」と思う人は必ず出てくると思う。上述の通り、語学力を日本に居ながら伸ばそうと思ったら本人が自発的に努力するしか方法は無い。語学への努力が給与などの形で即物的に還元されるわけでも無い以上、せめて海外研修や海外赴任の機会を得るための最低限の語学力の線引きくらいは持つべきだと思う。でないと社員も「語学をやれと言うけど、どのレベルまで達することを会社は求めているのか良く分からない」と、目標感が定まらなくなってしまうと思う。

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以上ここまで書いてみて、「日本に居ながら語学という技能を習得するために、会社員は自分の時間を削って苦痛を伴う努力を強いられる」という書き方になってしまったけど、これはなんだか左翼的な感じがしてちょっと不本意だ。会社と社員という労使間の関係にフォーカスしてしまうと、語学そのものの楽しさとか、そういう話が出てこなくなってしまう。
しかしながら、家父長制度を会社組織に援用したような「年功序列、終身雇用」の風潮が未だに根強い我が社は、「社員の語学力向上を会社側は望んでいる。しかし、終身雇用を前提とした会社のルールによって社員を縛っていることによって、ワーホリや語学留学で社員が自主的に語学力を向上させる機会を社員から奪っている。一方で会社は中途半端な語学研修プログラムを日本にいる社員に提供しているが、これで会社が思い描いているような語学力を社員が得るような結果にはなっていない。」という倒錯した状況にあると僕は思う。外資や楽天みたいになるべきだとは思わないし、僕はどっちかというと我が社はまだ日本企業のいいところを残している方なのでそれは大事にしてほしいと思う。だけど、もう一段社員に自由を与えて放ったらかしてあげれば、少しでも悪循環から抜け出せるのではないかと思うんだけどな。

2013年5月25日土曜日

語学とお仕事(2)

前回のエントリで僕が語学とどう関わってきたのかについてざっくり記述してみたので、今回は僕が思う「語学への向き・不向き」について思うところを述べてみよう。

■耳がいい人
やっぱり耳が良い人は言葉を覚えるのが速いと思う。特に音楽家とか。この才能は僕にはなかった。残念。

■後先考えない迂闊さ
語学が上達しやすい状況の一つに「必要に迫られる」というのがある。この状況に追い込まれるのはなかなか辛いけど、短期間で飛躍的に語学力が向上するのにこれ以上の方法を僕は知らない。自分がフランス語を勉強したいためにフランス語を教える仕事に就いた枡添要一みたいな特殊な人は別にして、普通の人が「必要に迫られる」状況に追い込まれるには、後先考えない迂闊さが必要なんじゃないかと思う。例えば全然スペイン語できないのにスペイン人と結婚してスペインに来ちゃうような人って、その後の生活環境(毎日ずっとスペイン語漬け)もさることながら、その後先あんまり考えてない気質がそもそも語学に向いてるんじゃないかと思う。どうなるか分からないのにとりあえず外国に踏み出してみるとか、小さいところで言うと「ちゃんと説明できるか良く分からないのにとりあえず喋り始めてみる」とか、そういう後先考えない迂闊さって語学に向いてる人の素養の一つなんじゃないだろうか。逆に、慎重に考えて行動する人って必要に迫られるような状況にそもそも追い込まれにくいんじゃないかと思う。

■いらんことしい
英語で話せなくもない相手に向かってわざわざ下手なスペイン語で話してみるとか、覚えたてのフレーズを使ってみるとか、そういいうのは「いらんことしい」の素養が無いとできないと思う。自分自身を振り返っても、極度の心配性にもかかわらずそれでも外国に行きたいと思えたのは、「いらんことしい」だったからだと思う。「いつも結果として半殺しの目に遭うくせに、強い奴を見つけると戦ってみたくなるサイヤ人」みたいないらんことしい気質は語学に向いていると思う。

■よく喋る人
そりゃまぁ、沢山喋った方が身につきますから。

■論理的に言語を理解しようとする人
このタイプは「**語会話」というよりは「言語学」という学問に向いていると思う。「ここのwhen以下は副詞節だから動詞は原型で…」みたいなことを、ちゃんと論理立てて考える理知的な人。僕は明らかにこの才能には恵まれていない。僕は自分が過去に見聞きしたフレーズのストックから考えて、なんとなくの雰囲気で「たぶん正しいorなんかヘン」を判断するようなやり方でしか言語をとらえていない。

■どこか心がギャルな人
語学のための努力というのは、チマチマ単語を覚えたりするような大変地味な作業の繰り返しになる。こういった作業にエネルギーを注ぐには、大なり小なり「自分磨きOL」のようなマインドが必要とされると思う。別の言い方をすると、「心がギャル」ということになるのではないだろうか。例えば、blogやtwitterなどを頻繁に更新する人はある程度心がギャルだと僕は思う。よくある、語学を毛嫌いする超理系タイプの男性に欠けてるのはこの「ギャル気質」なんじゃないかと思う。

他にもいろいろあると思うけど、とりあえず僕が思うのはこんなところかな。もし僕に語学の才能と言うべきものがあったとしたら、それは単純に「迂闊でいらんことしいなギャル」だっただけだと思う。

語学とお仕事(1) 

先日。
会社の上の人から「社員への語学教育のあり方」について相談された。とりあえず、「skype英会話とかあんなのを活用して、とにかくなるだけ毎日でも喋る習慣をつけてはどうでしょうか?」と、薄っぺらい上に自分自身でも15点としか思ってない返答をしてみたものの、なんとなく言い足りない感じだけが残ってしまった。で、よくよく考えてみたら、僕はその昔「語学に関する努力を会社がちゃんと回収してくれなかったら転職しよう」と思っていたということを自分自身ですっかり忘れていたようで、たぶんこれは無意識的に抑圧されていたとか、そんいうことなんだろうな。だからこそロクな受け答えができなかったんじゃないかと思う。そこから色々考えることはあったんだけど、とりあえず今回は第一回として「語学」という観点から自分が会社に入ってから今までを振り返ってみることにする。

今をさかのぼること10年以上前。
入社当時、僕の語学力は理系の新入社員の平均よりはちょっとマシなくらいでしかなかった。新入社員研修のときに人生初めて受けたTOEICは確か525点とか、そのくらいだった気がする。この後5年くらいの間は仕事で英語を使う機会もほとんど無く、語学のための努力は会社の語学研修で週一回グループレッスンを受ける程度で、まぁつまり努力と言えるような努力はほとんど何もしてなかったに等しい。

状況が一変したのは、英語がペラペラの日本人上司と外国人二人のチームに配属されたときだった。この日を境に会社での会話やメールは基本的に英語になった。さらに、このチームの仕事は海外との共同作業を含んでいたおかげで、上司から「じゃぁ君は、明日から毎日夕方5時になったら海の向こうにいるxxx(オランダ人。当然日本語なんてできるわけない。)とチャットで進捗報告しあって」とあっさり言われてしまった。これはなかなかの無茶振りだった。チャットのための文面を半泣きで事前に作文したり、そのために英語の文法について高校の教科書から見直したりすることもあった。当時は英語で寝言を言ってたこともあるくらいなので実際辛かったんだと思う。しかし3-4ヶ月経った頃にはそれなりにゆとりを持ってチャットや職場での会話がこなせるようになっていた。この頃に試しにTOEICを受けてみたら780点取れた。一切準備せずに受けたにしてはまぁこんなもんだけど、ちゃんと準備して受けたら800点は越えそうだなと思った。ここから得られる教訓は「必要に迫られるという事は語学力の向上に寄与する」という至極当たり前の話であろう。

これ以後、上の人からは「チャンスがあれば将来は海外に行けるように考えてあげるから、そのときのために英語は頑張っておくように」なんて言われるようになったので、その気になって英語のニュース番組をpodcastで聞いたり、単語を覚えたりするのを毎日やっていたところに事件が起きた。とりたてて英語ができるわけでもない(と少なくとも僕は思ってた)職場の後輩が会社の海外留学制度で海外に行くことになったのだ。正直なところこれはすごく悔しかった。言っちゃなんだが、あの程度の語学力で外国に行かせてもらえて、帰って来たころにはそりゃペラペラになってるんだろう。って思うと、給料が上がるわけでも無い上に、本当に自分が外国に行かせてくれる確約も無いのに自分の時間を削ってまで語学のために努力してきたのがバカらしく思えてしまったのだ。
ここから得られる教訓として、会社側には「意欲を失わせないためにも会社側の公平な扱いは大事」ということ、社員側には「人の言うことを信じるというのは多大なリスクを伴う」ということになる。

さて。ここでどうしたか。結局はこう決めた。
・英語についての努力は継続することにする
・とりあえずの目標として、一度本気で勉強してTOEICを受けてみることにする
・そのTOEICでそこそこの点数取れても、会社が外国に行かせてくれなかったら転職する
ということにした。つまるところ、努力に会社が応えないならそれを評価してくれるところに自分を売り込めばいいと考えたわけだ。
この頃の僕を励ましてたのはH2のはるかちゃんのこの言葉だった:「いいじゃない。だれのためにがんばっても、がんばった自分は木根君のものよ。」
ここからは人生で最初(で、もう二度とやりたくない)の"TOEICで点数を取るための勉強"をやった。TOEIC用の問題集をやってみたり、自宅でできるTOEIC模試みたいなのを片っ端からやってみたりもした。先日久しぶりにこの当時の単語カードを見てみたけど、大半の単語を今は全く覚えてもいない。その後使う機会が全然無いような経済用語ばっかりだからまぁしょうがないのだが。この努力と、たまたま受けたときの問題が簡単だった(実際、平均点が通常よりも50点くらい高かった)ことも相まって、915点という予想をはるかに上回るスコアを取れてしまった。ちなみに今TOEICを受けたらたぶんやっと800を超えるくらいで、900はまず超えないと思う。ともあれ、いきなり900点とれちゃったので、もう今後一生TOEICのために努力なんかしないと決めた。「点数を取るための勉強」というのは本当につまらない上に、単語をほとんど忘れてることからも分かるように結局は身につかない。

これ以後、英語のために努力らしい努力をした記憶はほとんど無い。まぐれで取れてしまったとはいえ900点超えという点数はそれなりに会社に対してアピールする材料にはなったようで、結果として僕は会社から外国に行かせてもらえる事になった。めでたしめでたし。がしかし、行き先はEUでも最低の英語通用度を誇るスペインという国だった。これは全く予想してなかったことで、当初は「え~英語通じないじゃん。。」と凹んでいたものの、そんな贅沢を言ってられる余裕はなかった。まぁ、結果としてはすっかりスペインとスペイン人とスペイン語が好きになって帰って来たので良かったのだけど。

スペインとスペイン語の話は書き始めると長くなるので置いといて英語の話をすると。スペイン在住当時は語学への全ての努力をスペイン語だけに向けていたので、英語の語学力そのものはちっとも向上しなかった。むしろスペイン語という異物が入ってくる前の方が「外国語=英語」だったので迷いがなくて英語が上手だったんじゃないかと自分でも思っている。ただし、スペイン語にしても英語にしても、乏しい語学力を運用して自分の考えを伝えたりするのはスペインで生活したおかげで少し上達したので、これは英語で話すときにも活用されているのであろう。しかしながら、スペイン語ばっかりやってたおかげで英語という言語は僕にとって「他に共通言語がないときに仕方なしに話す言葉」「生きた生活の言葉と思えない」「中学生くらいからやってる割には結局ネイティブの会話は何言ってるか全然分からない言葉」というような位置づけになってしまった。今でも語彙力などの総合力では圧倒的に英語の方が上なんだけど、それでもスペイン語が通じる相手には極力スペイン語で話したいと思ってしまう。


開設の辞:今更blogを始めることにしました

最近SNSの利用はほとんどtwitterだけになっていて、facebookは旅行の写真を貼ったりする程度にしか使ってない。長文で何かを書こうと思ったときに、その昔はmixiの日記という形でかいたりもしてたんだけど、今となってはmixiを使いたいとも思わない。そもそも長文をがっつり書いたからといって、そんなに積極的に読んで欲しいわけでもない。かといって、人様に読ませる想定じゃなかったら単なる自分用のメモにしかならない。というわけで、今更blogを始めることにした。割と思いつきで長々と書き散らかしたいときにここを使うことにする。blogのタイトルはスペイン語でステーキの焼き具合などを指示するときに使うpoco hecho(ポコエチョ=レア、生焼け)という言葉に由来している。