2014年2月22日土曜日

浅田真央や長嶋茂雄と「日本的=天皇的」情緒

年明け以降だいぶ間が空いてしまいましたが、細々と更新していきます。1月末から2月頭にかけて長い海外出張とかアレとかコレがあって、ようやく落ち着いてきたのです。

これを書いている現在、ソチオリンピックは終盤にさしかかっておりまして。ちょうど浅田真央の「ショートプログラムの失敗が響いてメダルには届かなかったけど、フリーでは納得の演技ができて、演技が終わった後感極まって涙ぐんでいた。」という結末に日本中が大騒ぎしたのがひと段落したところです。ご存知の通りこの結果に対する日本人および日本のマスコミの反応は「一緒にもらい泣きしてしまった」「メダルよりも大事な物を見せてもらった。」といった具合でして(あと、なんとなくの雰囲気として「金メダルがキム・ヨナじゃなくてよかった」というのはあります。)。誰も浅田真央を非難する人なんていなくて、ナンシー関が生前指摘していた「オリンピック=感動をありがとう」という、いつもの物語に回収することに国民的合意が成された感はあります。唯一浅田真央に対して「あの子は大事な時には必ず転ぶ」とネガティブなコメントを漏らした森喜朗は見事に炎上して方々から袋叩きに遭いました。

もうずっと前から思ってることなのですが、浅田真央という人に対する日本人の思い入れって常軌を逸して特別だと思うのですよ。彼女に対して否定的な事を言う日本人は誰もいないし、もしも悪口の一つでも言おうものなら森善朗のように大炎上してしまうのって、極めて異質で特別なポジションだと思うのです。安藤美姫が出産騒動のときにあれだけ叩かれたのも、浅田真央という「特別な存在」に対するカウンターという側面もあるんじゃないかと思ったりするのです。
この先どうなるかは分からないですが、少なくとも今現在の浅田真央の「この人の悪口は誰も言えない」という国民的コンセンサスは長嶋茂雄に匹敵するんじゃないかと僕は思うのです。実際のところ、直感的にこの二人から受ける印象はなんだかすごく近いものがあるのです。で、例によって僕が言いたいことは内田樹先生の受け売りなので、ここの真ん中の方にある「日本人の美意識と長嶋茂雄」というところを読んでみてください。もう僕が言いたいことはほとんどここで説明し尽くされています。内田先生のblogでも同様のことについて言及していますね。
かいつまんで言うと、長嶋茂雄という人はある種の「巫女」であり、我々日本人はこういう人達がどうしても大好きだと。長嶋茂雄のように、見てる人に野球というスポーツの楽しさだけがダイレクトに伝わってくるような「巫女」的な人はその中心に何かしらの非常に虚ろなものを抱え込んでいる人達で。この「巫女」性というのはすべてを受け入れる女性原理である「天皇」につながっている…というようなことを内田先生はおっしゃってます。これは、僕が浅田真央という人から受ける印象とほとんど同じなのです。

浅田真央という国民的ヒロインをメディアもあの手この手で持ち上げようとするのですが。もうこの国のメディアはナンシー関が健在だった時代から、アスリートを「努力」「家族や周囲の人との絆」(よく考えてみると「努力、友情、勝利」という週刊少年ジャンプの三大原則とかなりカブってます)などの「イイ話」「感動」の文脈に無理矢理乗せてしか取り上げなくなっているので、当然彼女についてもそういう文脈で煽ろうとするのですね。だから、彼女が更なる飛躍のために日々懸命に努力してきたことや、色々な苦悩や葛藤があることをメディアは事ある毎に刷り込もうとしてくるのですが。
彼女の演技をテレビで見ている僕(や、おそらく多くの国民)にはそんな「イイ話」と彼女がどこかで結びついていないのです。彼女からはフィギュアスケートというスポーツそのもの(美しさとか、華やかさとか、楽しさ)だけが直接的に伝わってきて、彼女自身のパーソナリティがどこかに消えているように感じるのです。この巫女性というのは、繰り返しになりますが長嶋茂雄から日本人が受けた感覚と全く同じなんじゃないかと思うのです。

ちなみに、上記の長嶋茂雄論の中で内田先生も言及していましたが、ロラン・バルトも表徴の帝国という有名な日本文化論の中で「中心に空虚がある」という日本文化の特徴を指摘しています。たしか、ヨーロッパの都市の中心には中心にたどり着いたことを実感できるようなシンボリックな建造物や広場などがあるのに対して、東京の中心には広大な森に囲まれた皇居という「空虚」だけが存在するとか、そんな話だったはずです。これは内田先生の言う「天皇的 = 巫女的 = 中心に何か虚ろな物を抱えている」ということが東京という街の構造そのものにリンクしているということを示しており、たいへん鋭い指摘だと思います。

もしも今、皇室に適齢期の男性がいて、その人が浅田真央と結婚したとしたら。多分誰も全く違和感を感じないし、国民は諸手を挙げて喜ぶんじゃないかと思うのです。
逆に。ヤワラさん(byナンシー関)みたいに浅田真央が選挙に出たりすることはたぶん無いだろうし、もしもそんなことにでもなったら当の本人は誰も非難せずに、「真央ちゃんを担ぎ出して利用しようとしている奴は誰だ!」と怒り出す人が沢山出てくるんじゃないかと思います。これは、「具体的な政治に関わらない」ということこそが「天皇という政治的意味」を担保しているというパラドクスを破ることになるので、この国では重度のご法度とされています。彼女を選挙に担ぎ出すことはほぼ「天皇の政治利用」と同じ扱いを受け、担ぎ出そうとした人たちは少なくとも山本太郎ぐらいのバッシングを受けることは避けられないでしょう。