2015年4月19日日曜日

イデオンを見てたおじさんがGのレコンギスタを語ってみる

このblogにアニメの作品の感想をそのまま書くなんていうことは一回もやったことがないのですが。今回は3月末で放映が終了した「Gのレコンギスタ」というアニメをやっとこさ先日最終回まで見終わって、その感想を書き残しておきます。僕にとってはロボットアニメは血のようなものなので、ましてや富野監督が15年ぶりに直々にガンダムを手がけるとなると、「逆襲のシャア以降の富野監督はガンダムという名前の作品で今までのガンダムとは違うものを作りたがってるのはわかるんだけど、なんだかなー」とかなんとか文句言いつつ、子供が生まれてからテレビを見れる時間も限られていつつ、それでも結局は見ちゃうんですよね。

■エネルギー=欲が宗教によってコントロールされた世界
この作品では地球を含めて全人類の利用するエネルギーは金星で作られるフォトンバッテリーによって賄われています。そのフォトンバッテリーを地上へ運んでくる軌道エレベーターを神聖視するスコード教にすべての人類が帰依していて、科学技術を発展させることはおろか、太陽光パネルを地上に設置することさえもスコード教によって「タブー」として禁止されています。こういう世界になった背景には「欲に任せて拡大路線を続けた結果、人類が一度滅びかけた」という設定が裏書されています。
この作品での「エネルギー」というのは日本における原発がどうこうとかいうよりは「人間の欲」とそのまま直結していて、「限られたエネルギーで可能な範囲に欲をコントロールしながら世界と調和しなければ人類は滅びてしまう」「欲のコントロールを可能にするのは宗教くらいなのではないか」というメッセージを僕は感じ取りました。もっと深読みすると、「社会主義は頭でっかちな理屈でしかなかったので欲のコントロールができなかったけど、宗教ならばそれが可能なのではないか?」と言ってるようにも思えました。

■イデオロギーが違う ≠ 敵
ガンダムという作品が確立したのは「イデオロギーによって世界はいくつかの陣営に分断され、それぞれの陣営の理念や理想を演説しながらロボットに乗って戦う」「リアルな戦争を描いているので、敵陣営とは個々人では理解し合えることはあっても、組織としては反目しあうだけ」という図式で、これはその後のリアルロボットアニメの多くにもそのまま受け継がれたんじゃないかと思うのですが。Gのレコンギスタでは富野監督がこの図式(と、基本的に変わらない現実の社会)に対して意図的に「そうじゃない世界」を描こうとしたんじゃないかと思うのです。
Gのレコンギスタの登場人物は、全員がスコード教という宗教の信者です。別々の陣営に分かれて戦争をしている一方で、お互いにまったく相容れないわけではなく、共通の宗教感は共有しているわけです。なので、ついさっきまで宇宙でロボットに乗って殺し合いをしていたかと思うと、地球へのエネルギー(フォトンバッテリー)供給源のご機嫌を損ねないために突然一緒に協力して宇宙のゴミ拾いを始める…なんてことが起きたりするのです。このくだりは見てる側には「はぁ?」としかならないわけですが、たぶん富野監督の意図はまさに「はぁ?」って言わせることだったんじゃないかなー?と思います。

■特定の組織の利害だけに囚われるキャラクターは全員死ぬ
死亡していくキャラを列挙しようとしてひとしきり疲れたところに、便利なまとめ動画がありました。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25928085
この作品で死んでいくキャラクターに共通するのは、「特定の組織やの利害だけに囚われている」ということです。こうやって死んでいくキャラクターの大半は悪そうなキャラ(先々死ぬのがなんとなく予想できる)として描かれているのですが、中にはそうでもないキャラクター(例えばアイーダの父やキア隊長)も含まれています。特に初期にあっさり死んでいったカーヒル大尉とドレンセン教官などは、周囲の人望も厚い人物として描かれています。この二人はかつてのガンダムであれば主人公の頼りになる兄貴分的な位置付け(初代ガンダムで言えばリュウとかスレッガー)で活躍しそうなのに、初期の数話であっさり死んでしまったのはこの作品のルール(「特定の組織の利害に忠実=模範的な軍人タイプは死ぬ」)を示すためだったんじゃないでしょうか。
最後にクリム中尉が自分の父親を殺そうとするのはまさにこのルールの実践なんだと思います。

■メガファウナ(海賊船)は出自を問わず人を受け入れる箱舟
元々キャピタルガードだったベルリ少年がふんわりと敵だった海賊船に所属するところから始まり、メガファウナに集まって定着するキャラクターはラライアとリンゴ(トワサンガ)、マーニィ(キャピタルアーミー)、ケルベス中尉(キャピタルガード)と、悉く出自がバラバラです。そして、定着にいたる経緯とか葛藤といったものは一切描写されていないので、見ている側としては「あれ?なんかよくわかんないけどアイツも仲間になったんだ」とか思ってるうちにいつの間にやら当たり前のように一緒に戦ってるわけです。
例えばZガンダムでエマ中尉がエウーゴ側に寝返った直後には、「監視カメラの無い部屋にエマ中尉は入れない」といった描写がされていました。だけど、Gのレコンギスタではそういう軍隊としてのリアリティみたいなのを描くことにそもそも富野監督自体が関心がなさそうに見えるのです。そんなことより「はぁ?」って言わせたかったんじゃないかなと思うのですね。

■Gセルフ / クレセントシップ / ベルリとアイーダの両親  =  イデオン / ソロシップ / イデ
結局のところベルリとアイーダの両親は何の意図を持ってGセルフやクレセントシップを作ったのか、その意図はよくわからないのです。ひとつだけ確かなことは、ベルリやアイーダがGセルフに乗ってやってくるのをクレセントシップはずっと待っていたということです。その後、「ベルリとアイーダの両親 = イデ」の意思を乗せたGセルフとクレセントシップに導かれてベルリ達は地球に帰っていく…いろんなことを端折ってまとめるとそういう話のように見えるのです。
どうしてもGのレコンギスタとイデオンと比較したくなるおじさんとしては、Gセルフとクレセントシップはイデオンとソロシップそのもののように見えちゃうんですね。最終的にはクレセントシップは生き残った(上記の死亡ルールに該当せずに仲良しになった)人達を全員乗せた箱舟として旅立ちます。イデオンみたいに皆殺しにはなってないですが、イデオンのラストとどうしてもカブるんですよ。

以上、ネット上での評判を見た限りでは、Gのレコンギスタは「世界観の説明が不十分」「キャラクターの心情の描写が不十分なのでキャラクターの行動が突飛で不可解に見えて感情移入しにくい」、つまり簡単な一言で言うと「意味がわからない」と、酷評されているように見えます。そう言いたくなる気持ちはものすごくよくわかるんですが、富野監督は「人類が一度滅びかけた後に宗教戒律によって欲をコントロールして生き延びた後の、今より何千年後の世界には現代人に理解できないことが沢山あって当たり前。」と半ば割り切っているようにも見えます。
そして、「そんな今までの常識では理解できないような新しい世界観にこそ、人類の抱えるあらゆる問題(環境、エネルギー、戦争…)を解決する可能性があると期待してみてはどうか?」という問いを投げかけているようにさえも見えます。

と、これだけ好意的に評価しておきながらどうしてもこれだけは気に入らないということが一点だけありまして。それなりにスペイン語やってた立場から申し上げますが、「レコンギスタ」はどう考えてもダサいっていうかセンスを感じないです。このタイトルはこの作品において一番致命的な欠点だと思うということは最後に申し上げておきます。