2015年8月9日日曜日

ド根性ガエルと寅さんと少年漫画における「父」の存在

昨日から会社員の僕も夏休みになりました。とはいえ、乳幼児のいる我が家ではこれといった特別にどこかに旅行するわけでもないので、とりあえず高校野球を見たりしてぼんやりしてたら一日が終わりました。
そんなこんなで一日過ごして、あることに気がつきました。僕が小学生の頃には当たり前のようにやっていた「夏休みの午前中に3時間くらいまとめて古いアニメの再放送をする枠」がなくなっているのです。
こういう再放送枠が無かったら見る機会が無かったであろうアニメって結構たくさんあると思うのですよ。たとえば海のトリトンとかバビル2世とかサイボーグ009(最初のカラー版)とか、未来少年コナンとかハクション大魔王なんていう作品は子供心に「(絵もなんか古いし)明らかに10年以上前の作品なんだろうな」というのが分かりつつも夏休みのアニメ再放送枠でぼんやり見ていた思い出があります。
本稿で取り上げるド根性ガエルも僕にとってはそういう作品です。あの漫画が放っている高度経
済成長末期の雰囲気(みんな裕福というわけではないけど、食べるのに困るほどの貧乏はいない)
は、バブル期に小学生だった僕から見ると「ふた昔以上前の日本」に見えたのでした。

さて。そんなド根性ガエルなのですが、最近になって「原作の16年後」という設定の実写ドラマがテレビで放映されているのです。まだちゃんとテレビで見たことはないのですが、日テレのサイトで「30歳ニートのひろし(松山ケンイチ)」「バツイチ出戻りの京子ちゃん(前田敦子)」などの設定を見てまず最初に思ったのは「なぜ、誰が、今このタイミングで原作の16年後のド根性ガエルを作ろうと最初に考えたのか?」でした。
ド根性ガエルは70-76年に連載されていた漫画で、上述したように高度経済成長末期の時代の空気を色濃く反映しています。その16年後ってことは遅くとも92年とかになるわけですが。「ニート」という言葉が出てくるところからも分かるように、ドラマの時代設定は原作の16年後からさらに20年以上経った現代なのです。これはなんか無理があるんじゃないか?と誰しもが思うでしょう。
一番ありえる可能性としては、ド根性ガエルをリアルタイムで直撃していた世代が会社で一番権力を持つ50-60代になったので好き放題やってるということなんじゃないかと思ったりします。

改めて申し上げますが、僕は本稿を書いている段階ではこのドラマを一話たりとも見たことがありません。それを前置きした上で本稿の結論から先に申し上げると、「30歳ニートのひろし」等の諸所の設定からして、この実写ドラマは「寅さん」を目指しているんじゃないかと思うのです。
その結論にたどり着く前にどうしても必要なので少しだけ脱線して少年漫画における「父」の役割についての話をします。というのも、ド根性ガエルという漫画は少年漫画にしてはかなり珍しく「母親だけが出てきて父親が全く登場しない漫画」であり、それがアニメの歌詞にもあるような「泣いて、笑って、ケンカして…」の人情味あふれるドタバタコメディーを成立させている重要な要素なのです。
一番分かりやすいところで巨人の星にはじまり、北斗の拳、ろくでなしBLUES、ONE PIECE、ハイスクール奇面組…挙げてたらキリが無いのですが、たいていの少年漫画作品は関わり方(設定だけの存在~巨人の星みたいな親子鷹まで)の差はあれど何かしら父親が登場します。そして、母親はほとんど登場しないか、登場したとしても物語にダイナミズムを生み出すような存在ではありません。
少年漫画における父親の存在は、少年が非常識な戦いに巻き込まれざるを得なくなる動機であったり、時には少年に試練を与えて鍛える存在であったりします。また、ギャグ漫画に常識的な母親を登場させても特に面白くならないのでギャグ漫画は父子家庭設定で「ちょっとヘンテコな父親」が出てくるパターンが多いです。結果として、少年漫画雑誌というのはことごとく「母親不在で、父親ばかり出てくる」作品が多くなってしまうのだと思います。フロイド風に言うと「父の超克」、ラカン風に言うと「父なる者によって世界に秩序が与えられている」なんて言えるんじゃないかと思います。
脱線ついでに言うと、「父なる者」さえ登場しない少年漫画もいくつかは存在するのですが、例えばアストロ球団、あしたのジョー、風魔の小次郎、男塾、男坂、デビルマン、特攻の拓…と、このように父親が不在の少年漫画はあまりに荒唐無稽だったりどこか破滅的だったりします。

だいぶ脱線しましたが、「寅さんとド根性ガエル」の話に戻ります。
「寅さん」には寅さんの父親は出てきません。wikipediaによると寅さんと妹のさくらは異母兄弟(寅さんは芸者の子で、さくらは本妻の子)なんだそうです。そのせいか寅さんと父親は折り合いが悪くて、寅さんはある日家を飛び出してフーテンとなった…という設定が裏書されているそうです。
ともあれ、寅さんの世界では「とらや」の面々が全体として寅さんに対して「母親」として機能していて、この「母なる庇護者に守られた世界」は「人情物語」の舞台として機能します。なぜって、母親はとにかく子供に対する要求水準が低くて、極論すれば「生きてさえくれればいい」と思ってるので、いつまで経ってもうだつの上がらないフーテンが巻き起こす騒動を暖かく見守ることができるからです。
これは例によって内田先生の受け売りになりますが、少年漫画の下りで言及したように父親というのは子供を鍛えて相対的強者に育てようとするのに対して、母親というのは他人との優劣には関心がなくて、「弱者でも平凡でもいいから生き延びてくれること」だけを願っているんだそうです。だから、「父なる者の競争社会」から落ちこぼれたフーテンやニートを暖かく受容できるのは「母なる庇護者に守られた世界」になるわけです。
以上まとめますと。「母なる庇護者に守られた世界」という観点ではド根性ガエルと寅さんは繋がっているように見えます。時代背景などを無視してまでド根性ガエルの後日譚を作ろうと思った人が見せたかったのは母に見守られた世界で繰り広げられる寅さんのような人情劇のようなものだったんじゃないでしょうか?

というわけで、勝手な想像ばっかりでも失礼なので一回くらいはドラマ見てみますね。。