2014年5月19日月曜日

「贈与と反対給付」とビジネス

このblogで再三言及していることですが、僕はその昔仕事がらみで2年間バルセロナに住んでたことがありました。会社としては何の拠点もないバルセロナで、取引先の会社に出向して一緒に仕事して来るように(本当はもうちょっと違うのですが、まぁだいたいこんなところです)と言われてバルセロナに来てみたものの、最初はスペイン語なんて全然できないので、銀行口座を作ったり家の面倒を見てもらったりと、色々なところで先方のスペイン人に助けてもらったのでした。
そんな彼らとは今でも仕事の関係は続いてますし、また一方で、在西当時から時々ですが彼らのサイドビジネスで日本語への対処が必要になったときに手伝ってあげたりもしています。僕としては彼らに在西当時に散々私生活でもお世話になったんですから、大した労力でなければボランティアで彼らを手伝ってあげてもいいと思っているのですが。それを会社の人に言ったら「なんで金とらないだよ?アイツらは仕事ではいつも都合の言いこと主張してふんだくろうとしてくるんだから、こっちから何かしてやるときくらい金取れよ?」とか言われたわけです。

彼らの発言の背景におそらく伏流しているのはこういうことなんだと思う。
  • ビジネスでの利害関係がある相手にはプライベートにもその利害関係を持ち込むべきだ
  • ビジネスというのはその時々の利害関係においてなるだけgiveしないでたくさんtakeすることだ

先方のスペイン人とプライベートな関係というのを持ったことが無い我が社の日本人にとって、彼らはビジネス上の利害以外の何の関係も無いので、「プライベートでの友達関係とビジネスでの利害関係は別」ということを想像して下さいと言っても難しいんだろうとは思いますが。だいぶ飛躍しますが、これは平田オリザが提唱しているモンスターペアレンツが日本に発生するに至った過程と全く同じだと思うのです。
曰く、モンスターペアレンツが生まれた背景には、地域社会に重層性がなくなってしまったために、一つの側だけからリスクなしでものが言えるようになってしまったことがあるんだそうです。例えば昔の村落共同体であれば、学校の先生と生徒の親は同じ井戸の水を使って生活しているようなことが普通だったので、一方的に相手を糾弾するような態度に出ることはリスクを伴う行為だった。よって、そういうことは自然と抑制されていたんだそうです。
こういう観点で考えると、日本人はプライベートの関係とビジネス上の付き合いが重層的に共存しているような複雑さを受け入れるのが難しいんじゃないかと思うのです。そもそも、核家族や地域社会の分断によって、そういう重層的な関係を人と築くことを経験しながら育つことが日本では難しいんじゃないかと思うのです(僕なんてニュータウン育ちだったので地域社会というのは取ってつけたようなハリボテ感がどうしてもついて回るものでした)。だから、モンスターペアレンツ的に「ビジネス」という一側面だけから先方と付き合う単純な関係の中にとどまりがたがるのも、まぁしょうがないかなぁとは思うのですよ。

もう一つの、「なるだけgiveしないでたくさんtakeする」という態度なんですが。いきなり結論から書くと、これは「贈与と反対給付」という人類の原則に反しているのではないだろうか?と思うのです。これについては例によって内田先生の受け売りなので、こちらを参照願います。かいつまんでエッセンスだけ抜き出すと「私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。」ということです。
さらに、「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。というのは、僕がボランティアでスペイン人の手助けをする理由そのものなのです。スペイン人の彼らにバルセロナ生活当初に色々助けてもらって贈与を受け取ったという意識があるからこそ、僕は反対給付としてボランティアでできることで彼らのためにできることをやろうと思ったわけです。
もちろん「贈与と反対給付」が世界のルールで、現代におけるビジネスはこれに反しているから間違っている。。なんてことまで言うつもりは無いのですが。現代でも普通の人がやってるのは「贈与と反対給付」で、この枠組みから逸脱して収益を上げてるのは一部特殊な才能を持った人達だけなんじゃないかと思うのです。こういう特殊な人達の「才能」という重要なファクターを度外視して、「君にもできる」というマニュアルを提供するビジネス啓蒙書がモテるためのマニュアル本と同じ構造なんじゃないかと僕は前々から思っているのですよ。ついでに余計な事を言うと、「アメリカンドリーム」という名の下に、スポーツ選手になって大活躍したりビジネスで一旗揚げて巨万の富を得ることを称揚しておきながら、それを実現できるのがほんの一握りしかいないアメリカの社会とそっくりだと思うのですけどね。

「人と重層的な関係を築く」とか「贈与と反対給付」というのは現代社会にそぐわないように見えて、特別な才能を持たない大多数の一般人としてこの社会を生きていくうえで重要な示唆を含んでいると思うのですが。僕はそういうことをスペイン人と平田オリザと内田先生から、なぜかほぼ同時期に学んだのでした。

2014年5月15日木曜日

配偶者控除問題と女性免許制

政府税調が配偶者控除の見直しの検討を開始したというニュースに対して、賛否両論分かれているようですね。政府はこれを「女性の社会進出を促すため」とか言ってる訳ですが、それだったら育児環境とか労働風土とか、先にそっちを見直すことから始めるべきなんじゃないかなと思うのですけどね。というのも、以前の投稿でも指摘したように、日本という国は育児と仕事の両立をさせるのが欧米の比じゃないくらい難しいと思うのですよ。だって、

  • 企業の雇用システムに柔軟性が無さすぎるので、働く側の都合に企業が合わせられない
  • 終わる時間に対する意識が低いので、「できたところまでで終わり」にならない
  • 他人の不在を補い合うことができないので、常に100%歯車として回転することを要求される
  • そもそも育児に労力がかかりすぎる
こんな国で産後数年で職場復帰して育児と仕事を両立するなんて負担が大きすぎやしないか?と思うのですね。

しかしながら配偶者控除について賛否分かれるのは、「働く女性」とか「女性の社会進出」とかいう言葉で曖昧にぼやかされていた問題を表面化させたんじゃないかなと思うのです。つまり何って、子供がいながら働く女性と一口に言っても、たとえば出産前と同様にフルタイム働きたい人もいれば、軸足は家庭に置いた上でパートなどで働く主婦まで、いろんな人がいるわけです。

だいぶ昔から思ってることなのですが、この国の「働く女性」のための施策を単一の制度だけでカバーするには限界があるんじゃないかと思うのですよ。もちろん、本当は上述したような育児環境や労働風土の問題に手を入れることがより本質的な解決法ではあると思うのですが。日本人の表面的な器用さと内面的な不器用さを考慮すると、たとえ欧米風の制度を導入しようとしても「なんか違う」形にしかならないだろうと思うのです。それぞれの事情に合わせて働く女性を支援できるような制度にしようと思ったら、行き着く先の一つとして「女性免許制」というのは案外アリなんじゃないかと思うのです。これは社会との関わり方を軸に女性をいくつかのカテゴリに分類して、それぞれに異なる社会制度を適用するということです。例えば、ぱっと思いつくだけでもこれくらいには分かれそうな気がするのです。
  • 出産後も出産前と同様にフルタイムで働きたい人:女性甲種
  • 軸足は家庭に置いた上で、パートなどで働く主婦:女性乙種
  • とにかく働かないと生活が成り立たない人(シングルマザーなど):女性丙種
託児所や保育園は丙>甲>乙の優先順位でアサインするとか、乙種は配偶者控除の上限を200万円くらいまで上げるとか…もちろんこれはこれで階級社会化を助長するとか、法の下の平等にそもそも反してるとか、たくさん問題はあるのは自明なのですが。でも直感的には、これくらい思い切ったことしないと女性の働き方の多様性に社会制度が追いつけないんじゃないかと思うのです