2013年7月29日月曜日

小手先の「新しさ」による資本主義の延命

田舎のメーカーでサラリーマンを10年くらいやっていますが。我が社(に限らず日本の会社ってどこでもそうだと思いますが)はある一定周期で必ず組織変更があります。「今後の方針についてエラい人から話があるからいついつどこどこ集合」というメールがくると、「あー、またか」となるわけです。なんだかんだいって終身雇用前提の田舎のメーカーのエンジニア職場なんて普段あんまり人の出入りが少なくてイベントにも乏しいので、組織変更って言われると中高生の席替えの1/1000くらいのわずかなワクワク感はあります。これで嫌なアイツがどこか違う部署に行ってくれないかと少しだけ期待したりするのです。まぁでも、そんな都合の良いことは滅多に起きないんですけどね。そして、僕が経験した限りでは直近でやることはいつも何一つ変わりません(まぁ、ドラスティックにやることが変わらないというのはそれなりに平和で良いことだと思いますが)。

多くの場合、「組織変更」の実態は「あっちのグループをこっちに動かす」とか「あっちのチームとこっちのチームをまとめて一つのグループにしてシナジーを…」とか「管理職の交代」であることが多いのです。だから直近でやることはいつもだいたい変わりません。下々の立場から見ると、わざわざ名刺を刷りなおしたり、人の出入りに伴う雑務が発生したり、新しい上司にこれまでやってきた仕事の中身を説明したり、と、ただめんどくさいだけで意味があるのかよく分からないんですが。それでも会社の上の方から見ると何かしら価値はあるのかもしれません。いや、そうだと信じたいな。。
よくある「効率的なアウトプットの促進」「グローバル環境での生き残りに向けた体制強化」なんかを標榜して行われる組織変更は、組織変更によってもたらされるであろう利益もさることながら、「とにかく色々頑張ってるんですよ」という事を社会や株主に向けてアピールするという狙いが大なり小なり含まれているんだと思います。場合によっては、それだけが狙いだったりするのかもしれませんが。。

で。ここで本題なのですが。最早オワコンの香りがしつつある資本主義という制度そのものが生来的に抱えている「新しくし続けなくてはいけない」「(会社も、社会全体の経済も)成長し続けなければいけない」という病が、日本では上述した組織変更などの「小手先の新しさ」の連発として奇形的な症状を呈しているんじゃないかと思うのです。
この「小手先の新しさ」に対して最初に違和感を感じたのは、約一年前に日本に帰ってきたときでした。二年ぶりに帰って来た日本を車で旅行してたら、高速のインターで「しいたけマドレーヌ」とか「静岡おでんラスク」などの無理矢理感のあるお菓子が売られているのに衝撃を受けたのです。このとき、「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という日本人の情熱は最早病の域に達してると思いました。あれだけ経済危機で若者の失業率が50%とか言ってたスペイン人でさえ、新しい食べ物を無理矢理に発明してまで仕事を増やそうとはまず考えつかないだろうと思いました。

今でも僕には日本のスーパーは「無理矢理作り出された新商品」の見本市のように見えるのです。たとえば、冬場は「キムチ鍋専用シーチキン」というものが売られていました。今のシーズンでは、そうめんのバリエーションとして「イタリアンつゆ」などが店頭に並んでいます。先日スーパーに行ったら日清製粉の「チキンラーメン お好み焼き」という商品が並んでいました。
こういった商品にも、日本人の「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という病を感じるのですが。これってつまるところ会社の「組織変更」と同じで、商品そのものがヒットするかはさておき、小手先の「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続けることが主たる目的なんじゃないかと思えるのです。
直観的な印象として、この国はこういう「小手先の新しさ」によって資本主義というシステムを維持延命しようとしているように思えるのです。でもこうやって、無理矢理新商品をひねり出す(とりあえず株主に何か新しいものを出したという既成事実を作る)→たくさん広告費を使う→誰かがとりあえず買ってみる…っていうサイクルもそろそろ維持できる限界なんじゃないのかな?

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