2022年7月15日金曜日

日本が存在する限り、たぶんカルトは無くならない

安倍晋三が撃たれて亡くなった事件から、一週間経ちました。正直に申し上げると、この10年の間に「誰か安倍晋三を暗殺してくれないかな」と思ったことは何度もありました。しかし、それを実行する人が「宗教がらみの怨恨」という動機で事件を起こすことは全く想像していませんでした。この件についての速報をテレビ中継が伝えているのを見ているとき、僕はオウムの地下鉄サリン事件の時のことを思い出していました。まだ報道の初期段階で、統一教会はおろか「特定の宗教団体」の話も一切出ていなかったのに、伝わってくる空気が四半世紀前のオウムの事件とすごく似ているように感じたのです。

あれから一週間経ってようやく自分の中でも諸々が整理されてきた気がします。おそらく、問題の根底にあるのは、日本人の作る社会は規模の大小や程度の差こそあれど、必ずどこかしらカルトのようなものになってしまうということなのではないかと思います。小さなところではオウムや統一教会などの宗教団体、もっと大きな規模になると戦前の大日本帝国や現代の「日本スゴイ」など、規模の大小はあれども「奇矯なイデオロギーやリーダーに対する忠誠を信者が競い合い、敵対勢力を面罵することで徳を積める」という構造はどれも同じなのではないでしょうか。そして、今回の件で明らかになったのは、自民党は日本会議や統一教会など複数のカルトとの共依存関係によって形成されたカルト複合体であり、彼らの利権のためのこの国はどんどん食いつぶされようとしているということです。

四半世紀前のオウム事件の後、それまで基本的にノンフィクションなんて出したこともなかった村上春樹は突然オウム事件を扱った「アンダーグラウンド」を書き、その後にもカルトの教祖が暗殺される「1Q84」という小説を書きました。特に「アンダーグラウンド」が出た当時はいろいろ賛否の声がありましたが、今回の事件によって村上春樹がこれらを書かざるを得なかった理由が何となくわかるような気がしてきました。オウム事件は、閉鎖的な「カルト組織=ムラ社会」が形成されてしまうことは我々日本人の宿痾であるということを突き付けたのではないでしょうか?当時高校生だった僕には明確にそれを意識することはできなかったのですが、今にして思えば、あのオウム事件によって我々日本人は「閉鎖的なカルト組織=ムラ社会しか作れない」という自分たちの血にまつわる負の側面について内省することを迫られてしまったのだと思います。そして、 おそらく村上春樹はそれを無視できなかったのではないでしょうか。

ここからは話がかなり飛躍しますが、三島由紀夫が理想としていた天皇の在り方こそが「カルト=村社会」組織の理想形なのではないかと思います。この理想形での天皇は当然ながら神でなくてはいけないので、その真似事を人間がいくらやったところで、そんなものは偽の天皇でしかないのです。だから三島は象徴天皇に対しては大反対だったのだと思います。安倍晋三だって、亡くなった今となって振り返ってみれば、出来損ないの偽の天皇だったと言うことができるでしょうし、だからこそ殺されるしかなかったのかもしれません。いずれにせよ、一見接点があまりなさそうな三島由紀夫と村上春樹はこの文脈においてつながると思います。