2020年12月30日水曜日

煉獄さんは反知性主義と戦って落命したのではないだろうか?

 年末になりました。今年も例によってこのblogに書こうと思って書かず仕舞いだったことを可能な限り年末年始にしたためてみようかと思います。で、しかしながら、またしても鬼滅の話です。すいません。念のため申し上げておくと、僕はこれを書いている現在、TVで放映された内容以上にちゃんと鬼滅を見ていません。なので、漫画はもちろん読んでないし、みんな泣いたという映画もYouTubeで流れる断片以上には見ていない状態です。しかし、映画の話の筋については、煉獄さんが猗窩座に「鬼にならないか?」と誘われて断って、最後煉獄さんは落命する・・・という程度の粗筋は理解しているつもりで書いています。

鬼滅については「儒教的価値観の復権」という切り口で色々評論されているのをしばしば目にすることがあります。確かに、この作品は鬼殺隊のお館様への「忠」、炭治郎の兄弟への思いやり=「悌」、炭治郎のが倒した鬼に見せる惻隠の情=「仁」など、これまでの少年漫画では有り得ないくらいに儒教的なエッセンスが散りばめられています。一方で、この儒教的価値観の極北にあるのが、ここ数年日本のみならず世界で猛威を奮ってきた「反知性主義」なのではないかと思います。トランプや橋下徹、安倍晋三などの反知性主義者は「目先の勝ち負けに固執する」「弱者に対して配慮したがらない」「自分と政治信条の異なる人の利益を考える気がない」といった点において、儒教的価値観とは非常に相性が悪く見えるのです。

つまり、彼ら反知性主義者は「鬼」そのものなのではないかと思うのです。自分より弱い者の面倒を見たり、意見の異なる他人と折り合おうとしない方が、自己利益の追求だけ考えたら効率的なのです。でも、それを放棄したら、子供も育てられないし、社会を形成することもできない。つまり、人間ではなくなるのです。実際に鬼滅の鬼は子供を成すこともないし、単独でしか行動しない(鬼が群れて自分を襲ってくるのを鬼舞辻無惨が恐れたからだという説明が有りました)という設定になっています。

トランプが選挙に負け、安倍政権がやっと終わる、という形で2010年代に猛威を奮った反知性主義はようやく一時期の勢いを失い始めました。鬼滅の刃という作品はそういう世相に呼応して必然的に出てきたのではないでしょうか?そして、今回の映画の中で煉獄さんは反知性主義に対してNoを突きつけるべきだという強烈なメッセージを日本人に残して落命していったように見えます。その甲斐あってなのか、少しずつではありますが自民党政権に対して忖度する空気も変わってきているように思います。

あと10年くらい経った頃に、煉獄さんは反知性主義に対して反旗を翻した国民的英雄として感謝される日が来る・・・なんてことは無いかもしれませんが、この先の未来がそのような世界になってくれることを願わずにはいられません。

2020年11月30日月曜日

オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?

 鬼滅の刃については一回書いちゃったのですが。その後もブームは衰えるどころかどんどん加熱しています。一応申し上げておくと、これを書いてる現在、僕は「地上波で放送されたアニメしか見てない、煉獄さんが死ぬ映画はおろか、原作の漫画も一切読んでない」という立場です。しかしながら、この異様ともいえる鬼滅ブームをみてて、表題にあるように「オリンピックがコケなかったら鬼滅の刃はここまでのブームにならなかったんじゃないだろうか?」ということについてどうしても日々考えてしまうのです。

ここ数カ月の話ですが、とにかく自販機からコンビニのキャンペーンから、何から何まで鬼滅のキャラを目にしないで過ごすことはできないくらい街のあちらこちらに鬼滅のキャラを見かけます。しかし、半年ちょっと前の状況を思い浮かべると、今鬼滅のキャラが占拠している場所は全て「TOKYO2020」で埋め尽くされていたように思います。つまり、「TOKYO2020」で埋め尽くしてた場所を鬼滅で埋め尽くすことによって、あたかも「TOKYO2020」がなかったかのように糊塗することに暗黙の裡に国民的レベルで合意が形成されているように思うのです。

そんな最中に紅白の出場者が発表になりました。鬼滅の歌を歌っているLiSAは今年も当選、まぁ、それはいいとして。「TOKYO2020」と繋がっていた「パプリカ」を歌っていたFoorinが選ばれているのですね。NHKとしてはオリンピックがコケたとはいえ、ここまで散々プッシュしてきたFoorinは切れないのでしょうね。もしも紅白の場で「これで事実上Foorinは解散します」なんていうことは十分ありえるし、そういう形で「TOKYO2020」を供養して終わらせるのが一番美しいと思うのですが。まぁ、たぶんそうはならないですよね。。

前回鬼滅について言及したときに僕は、「鬼滅の果たしている役割は、懼れながら申し上げると天皇である」と言いましたが。この文脈で考えると「TOKYO2020」は、安倍政権が擁立した「天皇」だったのかもしれません。安倍政権はこの「天皇」を錦の御旗として掲げて長期政権を続けてきましたが、この偽物の「天皇」が去ったことで引導を渡されたともいえるでしょう。話を紅白に戻しますが、もしも紅白での出番がFoorin→LiSAだったら、これは「即位」という意味を持つことになる…と思ったのですが。よく見たら両方とも紅組なので連続して出場ということはどうやらなさそうです。

でも、やっぱりオリンピックと鬼滅はどうも繋がってるように見えるんだけどな。。オリンピックのロゴと炭次郎は市松模様で繋がっているし。

2020年10月31日土曜日

日曜の午前中にいいとも増刊号を再放送して欲しい

前回の続きです。

鬼滅の刃の人気が高じて、とうとう関西で鬼滅の刃をゴールデンタイムに再放送というニュースが入ってきました。鬼滅の刃のブームについては色々思うところもあるのですが、ここ最近の鬼滅ブームは過去のエヴァンゲリオンのときともだいぶ様子が違うように思います。鬼滅は老若男女問わずみんな好きなんです。我が家の幼稚園児も鬼滅のキャラは大好きで、毎日のように絵に描いています(アニメはグロ過ぎてみせられないのですが)。エヴァンゲリオンや進撃の巨人のときに、ここまで子供まで巻き込んだムーブメントはなかったと思います。

こういうこと言うと不敬だと怒られるかもしれませんが、現在の鬼滅は何に一番近いかというと憲法が規定する天皇制の役割なのではないかと思います。これだけ多くの国民が「鬼滅大好き」に染まっている様を見ると、鬼滅は「国民統合の象徴」なのではないかと思えてくるのです。しかし、一方では前回も触れたようにこの国では「みんなで同じ地上波のテレビを見ている」ことが終わり始めて、Netflixなどの動画サービスによって各々が好きな物を見るようにマルチカルチャー化が急速に進んでいます。以上をまとめると、かつて「国民統合の象徴」であったテレビがその機能を果たさなくなりつつある中で、鬼滅という一つのコンテンツがその「国民統合の象徴」の役割を果たしていると考えることもできます。そう考えれば、テレビがゴールデンタイムに鬼滅を再放送するのは自然な流れだと思います。

日本人とテレビについて多くの的確な批評を残したナンシー関が存命だった当時、テレビは国民統合の象徴であり、テレビから流れてくる国民的合意事項(というファンタジー)を我々国民は「なんかちょっとヘンな気がするけど、みんな見てるんだからきっとこれでいいんだと思う」と内心疑問に思いつつも納得して享受していました。ナンシー関の功績はそのギャップを的確にとらえてみせたことだと思います。話がナンシー関に少し飛びましたが戻しますと、かつてテレビは国民統合の象徴でありました。そのようにテレビが隆盛を極めた時代の中心に「笑っていいとも!」という番組がありました。僕は今でもときどき「いいとも増刊号をぼんやり見る日曜日の午前中」を過ごしたいと思うことがあります。実際にリアルタイムで放送されていた当時には積極的に見ていたわけでもなかったのですが、あの何もやることもない日曜の午前にぼんやり「いいとも増刊号」を見ている時間が時々懐かしく思えてくるのです。

話を鬼滅に戻しますが、ゴールデンタイムに鬼滅を再放送するというのは「テレビは無理に新しい番組をつくらなくても、国民的な合意形成ができている過去の良質なコンテンツだけ放送すればよい」という時代の始まりのようにも見えます。このような流れが、資本主義が生来的に抱えている「新しい物を無理矢理に作り出さなくてはいけない」「経済成長しなくてはいけない」という病からの解放へと繋がってくれると願いたいです。

以上より、これをキッカケにテレビは中途半端に新しい番組を作るのをやめて、昔の優良コンテンツを再放送する方向に舵を切るべきだと思います。というよりも、そうなっていくと思います。この先のテレビは、緩やかにではありますが「紙メディアでしかエロを摂取できない世代に特化して細々生き残っているエロ本」と同じような道を歩むことになると思います。エロ本は対象世代の嗜好をそのまま反映してか、人妻モノとか熟女モノだけが残っているようです。テレビも今後は老人しか見ないものにだんだんなっていくので、老人が喜ぶような昔のテレビ番組を再放送する形にだんだん近づいていくことになるのは必然だと思います。

2020年10月25日日曜日

斜陽国日本の最後のキラーコンテンツ:池の水を全部抜く

またしてもテレビの話をします。およそ5年ほど前に、日本という国ではネットはテレビに勝てなかったという投稿をしました。この投稿の当時には「多数派でいたい」という人が多数派のこの国において、テレビは最大多数の最大幸福のための娯楽としてインターネットが登場した後も揺るぎない地位な保持していました。しかしここ最近はNetflixなどの動画配信サービスに押されてか、日本という国の国力の衰退を反映しているのか、かつてあれほど栄華を極めたテレビが目に見えて凋落の一途を辿っているように見えます。「悪化乱造」を得にしたかのように、番組の質は下がっていくのに各局とも判で押したように同じような番組ばっかりだし、CMなのか番組なのかわからない通販が増えてきたりと、5年前だったらちょっと想像できないくらいの劣化ぶりですね。

僕自身、Amazon Fire Stick TVを買って以来、家のテレビはほぼNetflixやYouTubeなどのネット動画サービス専用機となっていて、地上波のテレビ番組を見る機会がほとんどなくなりました。かつてはテレビのハードディスクレコーダーの残容量を常に気にしていて、録ったくせに見てもいないデータのせいで残容量が逼迫したときにはそれが原因で奥様とケンカにさえなっていたものでしたが。とうとう、ハードディスクレコーダーの残容量を気にしなくなり始めました。多分もう容量オーバーして溢れてるんだと思いますが、そのまま放置しています。例えとして妥当なのかは分かりませんが、育児放棄してホストクラブなどで好き放題遊んでる母親のような気分をちょっと味わっています。

さて、そんな中でこの前地上波のテレビを見ていたら、池の水を全部抜くという番組をやっていました。これ、最近のテレビ番組では割と当たりの企画のようなのですが、生物の生態系について素人の僕でさえ「こんなことやる必要があるのか?」と思うわけですから、当然その道のプロからは色々と批判されることにはなるわけです。でも、この企画がヒットする理由もすごく分かる気がするのです。この番組では「外来種は駆除、在来種は保護」という極端で単純な二分法によって水棲生物を扱っていますが、このようなシンプルなロジックはネトウヨに代表される排外主義的なマインドに通底しているのです。外来種が捕獲→駆除される様子にカタルシスを感じる人達は、関東大震災の時に朝鮮人を探し出して虐殺することに加担した人達と同じマインドを共有しているのではないかと思います。

「池の水を全部抜く」のもう一方の側面として、日常生活のすぐそばにありながら普段接する機会の無い池に潜んでいる在来種というお宝を「保護」しています。これは、古い蔵や開かずの金庫を開けるテレビ番組と同じで「普段の生活では気にもしていなかったところに隠れているお宝を見つける」というカタルシスを提供していると思います。このフォーマットは「なんでも鑑定団」のような形で四半世紀近く前から存在するのですが、今思えば「なんでも鑑定団」がブレイクしたのはちょうどバブルが弾けたことの具体的な影響を国民が感じ始めた時期でした。伸びしろのなくなったこの国では「向上心を持って努力する」ことよりも「日常生活の中で見落としていた棚ぼた的ラッキー」の方がリアルであることが四半世紀に渡って続いているからこそ、このフォーマットの番組は廃れずに今も残っているんだと思います。

以上まとめると、「池の水を全部抜く」は排外主義と「日常生活の中で見落としている棚ぼた的ラッキー」のコンボでできているので、斜陽国日本の庶民には抜群の訴求力を持ったアタリの企画なんだろうと思います。でも、こんなことしてまで新しいコンテンツを無理矢理作らなくても、テレビは過去に作った優良なコンテンツを再放送してた方がよっぽどマシなのではないか?ということを次回は書いてみたいと思います。

2020年9月6日日曜日

スポンジボブをラカン風に読み解く

前回の投稿でお伝えしたように、動画サービス入会+引っ越しの忙しさによってこのblogを更新するのが2カ月くらい後手に回り続けてきたのですが。引っ越しの疲れによってちょっと病気になり、おかげで酒をやめているために時間も増えたので今まで書こうと思っていて書いてなかった話を一つしてみようと思います。といっても、結局動画サービスとは切っても切れない話で、我が家の幼稚園児がNetflixで狂ったように見続けているスポンジボブについてです。スポンジボブをそれなりに長い時間子供の隣で見ていると、時々「あー、これってラカンのアレだよ!」という描写が度々登場するのです。そこで今回は、スポンジボブとラカンが繋がって見えるポイントについて語ってみることにします。


■「秘密のレシピ」は対象aである

スポンジボブの物語を駆動する一つの要素として、スポンジボブが働いてるカニカーニの看板メニューである「カー二バーガー」の「秘密のレシピ」があります。スポンジボブの話のうちたぶん5回に1回くらいはこの「秘密のレシピ」ネタで構成されているのではないでしょうか。この「秘密のレシピ」ネタの話は、秘密のレシピを奪おうと常に狙っているプランクトンという悪者(カニカーニのオーナーであるカーニさんとは長年敵対しつつも腐れ縁)があの手この手で「秘密のレシピ」を手に入れようとします。

もちろん、何回もネタとして出てくるということは、結局は毎回入手できないのですが。この秘密のレシピの存在自体がラカンの言うところの「対象a」そのものだと思います。対象aについてはウェブで検索すればいくらでも解説が出てきて、それぞれ言ってることが微妙に違ってたりすると思いますが。僕の理解だと、「あらゆる人の欲の中心にあるけど、誰もそれを手に入れることができない。しかし、手に入れることができないことが世界を駆動している。」というものです。わかりやすい例を挙げると、

  • 「火の鳥」の火の鳥
  • 「桐島部活やめるってよ」の桐島

なんかはその最たる例だと思います。 

 

■「スポンジボブの運転免許」も対象aである

スポンジボブの免許ネタというのもこの作品の中で頻繁に現れるテーマです。スポンジボブは常軌を逸して運転がヘタで、そのために教習所に通っているけどいつまで経っても免許証を手に入れることができないのです。スポンジボブにとっての運転免許というのも、対象aとしてこの物語を駆動していると思います。


■ビキニタウンはラカンの三界における想像界である

三界というのもラカンを語る上で欠かせないキーワードです。今まで聞いた中では、この概念を説明する上ではマトリックスという映画が一番妥当な気がします。スポンジボブの世界もこのラカンの三界と同じような構造を持っていることが時々垣間見えるのです。スポンジボブの世界(ビキニタウン)の大半の登場人物は魚などの海の生物です。これらの海の生き物は魚であっても通常は二足歩行して口を開いて会話する半魚人のような擬人化された形で描写されています。ただし、ビキニタウンという舞台の外に出てしまうと、時々彼らはリアルな魚として描かれる時があるのです。これをラカン風に言うなら、「海の生物はビキニタウンという想像界の中にいる限りは二足歩行して会話する半魚人のように描かれている。しかし、一度ビキニタウンという想像界から出て現実界に入ってしまうと、途端にリアルな魚として描写される」と言えるかと思います。

極まれにですが、スポンジボブは実写の世界と交わったりします。たいていの場合には海賊パッチ―という実写のキャラクターが登場するのですが、こういうシーンもビキニタウン=想像界の外側の存在を知らしめているように見えます。結果的にスポンジボブは「単なる海の生物の擬人化」ではなく、ラカンの三界における象徴界と現実界が折り重なった世界として描かれています。


■スポンジボブとサンディーは三界の結び目に位置する存在

ラカンの三界を持ち出したついでに言うと、海の生物でないスポンジボブ(スポンジ)とサンディー(リス)について言及しておきます。この両名は時々カップルのように描かれることもあるのですが、海の生物ではない故に三界の結び目に位置しているという点が彼らには共通しているのです。この両者でもスポンジボブはまだ「水が無いと干からびてしまう」という点で海の生物と同じ生息圏を共有しています。一方、サンディーは普段は空気のある場所に住んでいて、海の生き物と同じ場所(海中)に出る際には空気を供給できる宇宙服のようなものを装備して海の生物と完全に一線を画しています。


■ラカンと関係ないオマケ:ビキニタウンはバイストン・ウェル

子供がスポンジボブを昼間散々見たあとに、僕は夜な夜な動画サービスでダンバインをみています。ダンバインは「海と大地の間の世界バイストン・ウェル」の物語で、時々「空の上まで行ったら海に出てしまう」という台詞が出てきたりするのですが。これって、海の底の世界であるビキニタウンと同じなのではないかと思えてくるのです。たぶん、ダンバインとスポンジボブを同時に見てる僕じゃないと思いつかないことだろうと思うので、ここについでに書き残しておきます。


2020年9月1日火曜日

今更ですが鬼滅の刃の話を

 約2か月に渡って、このblogの更新をサボっていました。理由は新居(中古住宅)のリフォームや引っ越しで忙しかったからです。未だに家の中に段ボールは沢山残ってますし、家のリフォームもまだ続きをやらなきゃいけなかったりで、やらなきゃいけないことだらけなのですが。一方でとりあえず日常生活に問題ない程度には片付いています。「いやいや、ここで気を抜いてはいけない、ちゃんとやらなきゃ」という気持ちと「とりあえず暮らせるようになったし、いいや」という気持ちとのせめぎ合いの中を日々暮らしています。

もう一つblogの更新をサボってしまっていた理由は、とうとう動画サービスに入ってしまったからです。引っ越しで忙しくなるので子供の相手をせずに済むように動画サービスに入ってみたたものの、子供が寝た後は僕自身が酒飲みながらぼんやり動画サービスでアニメを見るのがすっかり定着してしまったのです。いやー、あんなのあったらいくらでも廃人になれますよ。しかも引っ越しの諸々で疲れてると、自分が楽をできる方向についつい流れてしまうのです。おかげで、ここ数か月はblogは更新してないし本もロクに読んでいません。

そんな矢先に、なんと病気になってしましました。おそらく引っ越しを含めて夏の疲れが溜まっていたのでしょうが、現在投薬治療中です。ちゃんと治せばちゃんと治る病気なんだそうですが、これまで経験したことないレベルで日常生活に支障をきたす(飲食が難しい)レベルの病気なので、さすがに投薬治療中は酒は飲めなくなりました。これによって、今まで夕食後に酒とアニメで埋めていた時間がなくなったので、いい加減サボっていたblogを更新しようかということになったのです。

前置きがだいぶ長くなりましたが、そう、鬼滅の刃の話でした。結局、世のブームに乗ってアニメは動画サービスで全話見ちゃいました。いやー、これ、みんなが騒ぐのも分かるくらい面白かったです。四半世紀くらいジャンプはまともに読んでないですが、ジャンプの漫画として新たな可能性を開拓したんじゃないかとさえ思いました。以下はTV放送されたアニメだけを見ただけのコメントです。ちょっと前に漫画は完結しているらしいので漫画で一気に読んじゃいたいけど、一過性のブームで消費するのは勿体ない気がするので続きをアニメでじわじわ見ていきたいです。というわけで、漫画をちゃんと読んだ人から見ると的外れな事も言ってるかもしれませんが、そこはご容赦ください。



■主人公がしっかり者

これまでのジャンプ漫画の主人公の王道はドラゴンボールの悟空やHUNTER X HUNTERのゴンなど、「ちょっと抜けてて、どこかおバカ」なのです。これは長嶋茂雄や浅田真央にも通じる日本人がどうしても好きなキャラクターであり、ONE PIECEのルフィに至ってはこの路線の最終形だと思います。一方で鬼滅の刃の主人公の炭次郎は思慮深くて明るく前向きな、リーダータイプの優等生なのです。もう四半世紀以上ジャンプはまともに読んでないですが、「こんなに非の打ちどころのない完璧な人間が主人公の漫画がジャンプで連載されている」ということに、隔世の感を覚えずにはいられませんでした。


■波紋法=呼吸法による肉体への回帰

鬼滅の刃の作者本人も言及しているそうですが、鬼滅の刃はJOJOから多大な影響を受けているようです。たとえば、「JOJO」の吸血鬼と「鬼滅の刃」の鬼は、「太陽の光に弱い」という設定が類似しています。そしてこのJOJOとのつながりの中で最も重要なのはJOJO第二部までの「波紋法」と鬼滅の刃の「呼吸法」の類似性です。ここからちょっと脱線してJOJOの話になりますが、JOJOは第二部までは「波紋法」という肉体技によるバトル漫画でした。そこから第三部になって「スタンド」という異能力で戦うことが中心のバトル漫画に大きく様変わりします。現在では「スタンド」はこの後に少年漫画の主流となる「異能力バトル漫画」の元祖という位置づけにされているようなのですが、当時小学校高学年だった僕は「スタンド」が登場したときに「あれ?肉体で戦わなくていいの?あ、でもみんな受け入れちゃってるんだ。そうなんだ。。」と違和感を感じたのを覚えています。

今にして思えば、「スタンド」はその当時のバブル末期→破綻という世相とリンクしていたのではないでしょうか。つまり、もう汗水たらして肉体で戦う(稼ぐ)よりもバーチャルで戦う(稼ぐ)という時代の空気に合致していたように思います。話を鬼滅の刃に戻すと、鬼滅の刃は鬼(=異能力)と人間(=呼吸法と剣)を戦わせることによって、人間の戦い方をもう一度肉体のドメインに戻すことを試みているように見えたのです。ややこじつけな感はありますが、バブル崩壊以降もバブル期と同じ「マネーゲームとしての経済」という価値観だけをそのまま延命させてすがりついてきた日本人が、またかつての身体性を伴った経済に回帰しようとしている過程とリンクしているように思えるのです。こうやって考えると、鬼滅の刃のブームと安倍政権の崩壊は繋がっているとも言えるのではないでしょうか。


■鬼を倒すことで鬼が供養される

倒される鬼の側についてもそれぞれのドラマがちゃんとあって、特に鬼が刀で首を切られて絶命するまでの間に走馬灯のように鬼になるに至ったキッカケや鬼としての苦悩などが描写されます。「鬼を倒して供養する」というのはどこか能に通じるところがあるのではないかと思いました。




夏の甲子園に代わる敗戦の物語

# この原稿は2020年の5月21日に書いて、もう一味足りない感じがするのでそのま
放置していたものです。安倍晋三がとうとう政権を投げ出した2020年9月1日に
# なって読んでみたら、確かにもう一味足りないけどまぁまぁいい感じで書けている
# ので、やや後出しジャンケンの感はありますが、そのまま公開してしまいます。

コロナのせいで、最後に職場に出社してからもう1か月近く経とうとしています。ここまで長期間にわたって職場に出勤しないのは、就職して以来初めての事です。これまでの最長記録はバルセロナ時代の3週間(夏休みの間3週間職場のエアコンが止まるので強制的に夏休みになる)だったのですが、まさか日本にいる間にそれを超えて会社に行かない日が続くことがあるとは思ってもいませんでした。これが明示的に休みだったらまだいいのですが、残念なことに1か月に渡ってずっとテレワークという時間が続きました。
この1か月のテレワーク期間で何が辛かったかと言うと、
・オンとオフの区別がないので生活にメリハリがなく、土日も休日という気がしない
・家事や子供に邪魔されるので、会社に比べて集中して仕事に取り組めない
つまり、メリハリも無ければあまり仕事は進まないし達成感もない、という1か月でした。最初は色々辛かったのですが、最近はこれにさえもだいぶ慣れてきて、今となっては会社に行くのが当たり前だった生活に戻るのがなんだか怖いとさえ思うようになってきました。

緊急事態宣言もどんどん解除されて、だんだん社会全体が元あった状態に戻り始めたこのタイミングで、「夏の甲子園中止」というニュースが入ってきました。春も夏も含めて、今年の高校3年生は誰も甲子園の土を踏むことなく卒業することになるようです(後の追記:救済措置として交流試合は開催されました)。一応wikipediaで調べてみましたが、夏の甲子園は終戦の翌年の1946年でさえ開催されていたそうです。終戦の翌年なんてまだ食うにも困る人が沢山いただろうと思いますが、そんな時代でさえ開催されていた甲子園が中止になったわけです。

このblogでも以前から高校野球については「戦没者を慰霊するために奉納される能」であるということ、だからこそそこで毎年「犠牲の物語」が繰り返される必要があるということには折に触れて言及してきました。夏の甲子園は単に高校球児や高校野球ファンのみならず日本人全員にとって「敗戦の再現と供養」という霊的な意味を持っています。ここから先はこれと言った根拠の無い想像なのですが、日本国民は中止になった夏の高校野球の代わりに何か別の敗戦の物語を必要とするのではないかと思います。

そこにハマるピースとして、「安倍政権の崩壊」はかなりあり得るのではないでしょうか?「権力の暴走に歯止めが利かなくなった政治体制が終焉を迎える」というのは敗戦の一つの側面です。繰り返し言いますが、これと言った根拠はありません。しかし、これを書いている現在の「Twitter世論の高まりによって安倍政権が強行採決を見送るなど、強気の政治体制にもさすがに限界が見え始めた」という状況を鑑みると、この先政権が総崩れになって、夏頃には総辞職というのはあり得る話のように思えてきます。

そもそも、現在の状況は敗戦時に戦犯として岸信介を処分しなかったことに端を発している「亡霊の物語」とも言えます。この亡霊を供養することから「本当にあるべきだった戦後」を迎える契機になるのではないでしょうか?こう考えると、日本にもまだ希望があるように思えてきます。

このblogは発足以来ほぼずっと安倍政権の文句を書いていますが、書いてる僕自身がいい加減飽きてきたので、さすがにそろそろ終わってほしいです。

2020年6月30日火曜日

東京オリンピックは戦艦大和と重なって見える

これを書いている現在、東京都知事選の真っただ中なのですが。田舎に住んでる僕でさえ、東京ではほとんど何も盛り上がっていない様子が伝わってきています。一応政策の争点としてはコロナ対策やオリンピックなどのトピックがあるにはあるのですが。ただでさえ小池百合子が有利そうなところに、山本太郎が立候補したことによって宇都宮健児と票が割れてしまい、結局小池百合子が当選するであろうことは事実上確定になってしまったのも盛り上がらない理由の一つなのだろうと思います。

オリンピックについては宇都宮健児は「専門家が無理と判断したらやめる」、山本太郎は「とにかくやめる」と言っています。都知事選は東京オリンピックを見直す上で最後のタイミングであったはずなのに、オリンピックの是非は都知事選のしらけムードの中でウヤムヤになろうとしています。オリンピックも都知事選も、日本国民にとっては「お上(テレビ)に誘導されるまま受動的に消費するイベント」という意味では、同じような物なのかもしれないですね。

さて、だいぶタイミングを逸してしまっているのですが、オリンピックの2021年への延期の際に森喜朗が言った「(安倍首相は)2021年に賭けたと感じた」という言葉がどうしてもずっと気になっているのです。まず、「と感じた」という言い方からして、これは安倍晋三の言葉ではなく森喜朗が勝手にそう感じたという話です。それが的を射た忖度なのか都合の良い曲解なのかはさておき、これで賭けに負けても森喜朗も安倍晋三もどちらも責任を取る気がないことだけは明らかです。

そもそも、「賭けた」というのは合理的な根拠がないまま「えいやあ」で決めたということです。本当に自分たちの決定について責任を引き受ける気があったら、「うまくいかなかったときのプランB、プランC」を考えておくべきなのですが。「賭けた」という言葉を使う人は「事態の複雑さに耐えきれないから『えいやあ』で決めてしまって、後は都合の悪いことについては考えない」という人なんだと思います。

このオリンピックの一年延期の話は、戦艦大和の出撃に至るプロセスとも重なって見えます。勝算はほとんどないし、無駄な損害が出るだけなのは分かっているのに、戦艦大和を出撃させたのは空気だったと山本七平は指摘しています。一年後にコロナが収束している見通しもなければ、ワクチンの開発が間に合う見通しも無いので、今この段階で「東京オリンピックは中止」と決定するのが合理的な判断であることは誰の目にも明らかだと思います。でも最後には合理的な説明もなければ責任を引き受ける個人もいない「決定」だけが我々日本人には降ってくるのです。

10年以上前に同じような文脈で「賭けた」という言葉を上司が使ったのを僕は覚えています。上から言われた事を言われた通りにそのままやろうとするだけの、まぁ率直に申し上げると無能なおじさんでした。たしかその時は、この上司の更に上の立場の人に取り入って気に入られていた若手が好き放題やってるのがあまりに酷いので、耐えかねて僕が苦言を呈したのですが、その時上司から帰ってきた言葉が「私は***さんに賭けたんだ!」でした。

ちなみに、好き放題やってた若手はこれといった成果を上げることもなく、その後は行く先々の部署でトラブルメーカーとして盤石のポジションを確立した末に「この会社を入社数年で辞める覚悟を決められなかったのが最大の失敗だった」と言い放って数年前に会社を辞めました。そして、残念な元上司は賭けに負けた代償なんて当然払うわけもなく、近々円満に定年退職を迎える予定です。

2020年5月5日火曜日

コロナとsocial distance

これを書いている現在は、「緊急事態宣言の延長を受けて皆さんもうだいぶうんざりしながら、ぼんやりGWを過ごしている…」という局面です。かくいう僕も4月下旬からテレワーク(原則オフィスに出勤不可)になったのですが、この措置が5月の中旬まで伸びました。おそらく、このままの勢いだと5月いっぱいテレワークなんてことになりそうな雰囲気です。

今回のコロナの件についてはいろんな人がいろんなところでいろんなことを言ってて、もう皆さん食傷気味なんだろうと思います。結構な期間このblogをやってるおかげで、安倍政権のコロナ対応について言いたい事のいくつかはすでに過去に自分が書いていたりします。たとえば、


こうやって、「今言いたい事は前にココとココに書いといたことと同じだから…」といった形で、時事ネタに対応する投稿は過去の投稿のリンクだけになっていきそうな気もするのですが。ようやくコロナについて「昔の自分も含めてあんまり誰も言ってなさそうなこと」を思いついたので、それについて書いてみようと思います。

先日、アメリカ在住の日系人が現地の様子について「屋外では6フィート以上人と離れるように言われている」とテレビでコメントしているのを見ました。海外と日本を比較して、コロナに対する対策で決定的に違うのは、この「他人との距離の取り方」なのではないでしょうか。最近スーパーに買い物に行くたびに思うのですが、みんなマスクはちゃんとしているのに、お互いに距離を取ることが全然できていないのです。レジにはいつも通りの密度で列を作っています。そもそも、他人と距離を取らなきゃいけないという意識が無いように見えるのです。以前このblogでも触れたとおり、日本人のマスク好きは世界的に見ても突出していると思いますが。日本人はマスクをつけることで「自分と外界」の境界、より厳密には「自分と自分を取り巻く空気との境界」を作ることには熱意を傾ける一方で、「他人との距離」については意識が薄いように思うのです。

例えば、「アメリカ人は対人距離を非常に気にするので、日本人は不用意に近づきすぎないように注意するべき」というのはよく聞く話ではあります。僕は重度のアメリカ音痴なのであまり経験値は高くないですが、国土が広くて人がまばらなアメリカではそういう傾向があるのはなんとなくイメージできます。このアメリカのイメージを念頭に置くと、"social distance"という言葉はとてもしっくりくるのですが。日本人がカタカナで”ソーシャル ディスタンス”と言ってても、どこか実体があやふやな感じがするのです。これは、自分たちの身体感覚に馴染まないものは「カタカナ」としてそのまま扱うという、日本人特有の言語感覚の好例だと思います。誰も「social distance」を「社会的距離」みたいな日本語にして扱おうとはしないですよね?

一方で、スペインやイタリアなどのラテン国家ですが。こちらの方が僕ははるかに経験値が高いのですが、ラテン国家はとにかく人と人の距離がすごく近いです。なんせ、男性と女性の間での挨拶は基本的にベッソ(頬ずり)ですからね。それを考えると、イタリアやスペインでコロナが流行ったのも何となく納得はできるのです。しかし、「ではラテン国家も日本と変わらないのか?」と言われるとそこもまたちょっと違うと思うのです。ラテン国家は対人距離という意識はあった上で、普段はそれを意図的に詰めているような気がするのです。よって、ひとたびコロナが問題になるとちゃんと距離を取るということが日本人に比べるとまだ彼らはできそうな気がするのです。まぁ、これは「気がする」というだけであって、実際に見て確認したわけじゃないんですけどね。

2020年4月15日水曜日

コミュニケーションというのはそもそも面倒くさいものだと思うんだが

4月になりました。僕が働いている部署にもよくある4月付での組織変更がありました。そこで新たに数名のメンバーが同じ部署に加わることになったのですが。新しく加わった若手の中に割と極端な人がいまして。ご本人には悪意が無いんでしょうが、提案することがいちいち極端で、「オレと同じ世界観を共有する気があるのか無いのか、どっちか選べ」という二択を突き付けてしまうタイプの人がいるのです。彼を見てると、なんだか自分のダメなところを見せられているようで、なんともつらいのです。

具体的に例を挙げます。彼は職場のコミュニケーションを可能な限り部署内のローカルSNSのようなもので行うべきだと考えているようで、先日彼がそのローカルSNSの運用ルールについての提言をまとめてきたのですが。なかなかすごいことが書いてあったのです。例えば、
  • 対面での会話が必要ない限り、極力ローカルSNSでコミュニケーションを取る
  • 他人の投稿を読んだらとりあえず「いいね」を押すこと
他にもA42枚分くらいの勢いでいっぱい書いてあったけど、もう忘れました。。とにかく、要は「ボクちゃんはSNSによって職場のコミュニケーションを促進したいということを善意をもって提案しているんだ。だからアンタ達もボクちゃんの掲げる理想に同意してくれるよね?そして、ボクちゃんが考えたSNSの運用ルールにも従ってくれるよね?」と言ってるだけにしか聞こえないです。

この人の致命的な問題の一つは、「コミュニケーションというのはそもそも面倒くさいものである」ということを理解していないということだと思います。そもそもコミュニケーションがなぜ必要なのかというと、人それぞれ考えていることや価値観が違っているので、それを埋めるためにあるのではないでしょうか?しかし、彼は「自分と価値観の違う人間とはコミュニケーション取る気がないので、相手にしたくないです。だからアンタ達は自分と同じ価値観を共有してください。」と言ってるわけです。
ご本人の表面的な自意識としては「自分はコミュニケーションを促進したいと思っている」のだろうけど、実際には彼は職場内でのコミュニケーションを放棄しているのです。でも、そこに全く気付いてていないのです。むしろ、彼の放っているメッセージは「ボクちゃんと同じ価値観を共有してくれる人とローカルなSNSで毛繕い的なコミュニケーションを展開することを『コミュニケーション』だと思っていますが、何か問題でも?」とさえ言ってるだけに見えてしまうのです。

あんまりこんな言い方はしたくないのですが、一回でも欧米に出て生活してみれば職場内のツールの運用方法程度のことでA42枚分のルールを他人に向かって提案したりはしないと思います。「人それぞれ考えていることが違うのは当たり前なので、その中でお互いに可能な限りの自由を保障するために最低限の約束事を共有する」というコンセプトでできている欧米の世界観に一回でも触れたら、ルールは必要最小限のシンプルなものに留めようとするでしょうね。
ついでに言わせていただくと、
  • 「単なる情報の共有」と「コミュニケーション」の区別がついていない
  • 「自分がいいと思っているものは説明すれば理解してもらえるはずだ」という根拠の不明な思い込みはどこから出てくるんだろう?
  • 本人は「道具を使いこなしている」つもりなんだろうけど、こちらから言わせていただくと「道具に使われている」ようにしか見えない
とか、色々思うことはあるのですが。そういった彼らの立ち振る舞いを「若さ」で説明しようとしてしまうところに、自分が歳とったなという感想を禁じ得ないです。。

2020年3月23日月曜日

トップバリューの玄関ドア

まことに小さな人間が、転換期を迎えようとしている。

とでも言わざるを得ないくらい、公私ともに人生の転換点に差し掛かってきました。公はちょっとおいといて、私の方については、家を買う話がほぼ決まりになりました。ぼんやりと家を探し始めたのは去年の夏前くらいでしょうか。そこから中古物件をチェックしては見に行くということを繰り返していたのですが、希望に見合うものを見つけるのが大変でした。例えば、隣家との距離が近かったり、小学校が遠すぎたり…そんな時間を経て、初めて「これなら買ってもいいかも」と思える物件をようやく見つけました。とはいえ、家を買う話が現実的になればなるほど、やれ火災保険はどうする、表札はどうする…といった具合に決めなければいけないことが沢山発生します。

そもそも、僕は「所有する」のがあまり好きではないのです。車でさえも、できれば所有せずにカーシェアリングみたいなシステムで共有されてた方がいいと思っています。なので、家も一生賃貸でも別に構わないつもりでした。本当は海外と日本を往復するようなキャリアを目指したかったので、家もずっと賃貸で全然構わないつもりでした。しかし、そういう転勤族キャリアがシステムとして確立されている文系職場ならいざ知れず、まだまだ昭和の製造業の文化の残る理系職場ではそれを期待し続けるのは厳しい。子供が一年後に小学校に上がるという段階になって、さすがに諦めざるを得なくなりました。

とりあえず家が決まったこと自体はよかったのです。それはその通りなのですが、「決めなきゃいけないこと」が次から次へと降ってくるとだんだん気分が落ち込んでくるのです。この状況は、例えて言うなら「マリッジブルー」に近いのかもしれません。結婚(ブライダル産業)と家を買うこと(住宅産業)は似ているところが多いように思えます。両者とも、お客さんは基本的に経験が無い素人で、失敗したくないと思いが強い。だから、誘導されるがままにアレもコレも安全サイドに振った挙句、結果的にボッタくられる。そうやって利益を出している業界であるということは共通しているように思います。

そこで本稿の表題にある玄関ドアなのですが。購入予定の物件の玄関ドアの損傷が割と目立つので、入居までに交換することになりそうなのです。しかし、玄関ドアって想像していた以上に高いのですよ。素人なりに自分が玄関ドアに払ってもいいと思っていた金額は数万円程度だったのですが。現実的にはどんなに安くても20万円程度はするもののようです。このように、自分の価値観が世間の常識と乖離しているという事実を突き付けられる瞬間というのは、家を買う上で一番辛い時間なのです。

こんなときにいつも、「じゃぁトップバリューの****でいいんだけどな。。」と思ってしまうのです。たとえば、
トップバリューの車
トップバリューのパソコン
トップバリューのトイレ
トップバリューの家なんてのも、あっていいかもしれない。
イオンはトップバリューであらゆるものを作る代わりに、国民は特にこだわる気の無い物は全部トップバリューで揃える…というシステムで良いのではないでしょうか?ここでいうトップバリューの車は、たぶん事実上はカーシェアリングなんかと近いものになるような気がします。こうやって考えると、イオンとトップバリューは「資本主義を突きつめた先に待ち受けている共産主義」を先取りしているかのようにも思えます。

2020年2月8日土曜日

縦読みとホンネとタテマエ

バーガーキングが近隣のマクドナルドの閉店に寄せたメッセージを縦読みすると「私たちの勝チ」と読める。ということで、ネットで話題になっているそうです。「縦読み」はほかにも芸能人の不倫など色々な話題に絡んで最近よく聞くようになった言葉なのですが。この「縦読み」の流行にはどうも日本的な厭らしさが漂っていて、あまり好感が持てないのです。

まず、「縦読み」は漢字文化の国でしかおそらく成立しないです。その昔、スペインにいたころに日本の雑誌を職場で見せたら「これ、もしかして縦書きの文字と横書きの文字が混在してるの?それを君達は読めるのか?」と驚かれました。言われてみればその通りで、漢字文化圏以外の人には縦に字を並べられても本当に読めないし、ましてや両者の表記システムが混在した誌面を読めるなんて理解できないわけです。

そして、「縦読み」が登場するのは、だいたい今回のバーガーキングのメッセージのように「横読み=タテマエ」の中に「縦読み=ホンネ」が隠されているという「ホンネとタテマエ」の文脈ですよね。これは徳川家康が豊臣家を攻める口実とした「国家安康 君臣豊楽」の現代版のようなものだと思います。この「ホンネとタテマエ」のところに、どうも日本的な厭らしさが漂っている気がするのです。

ちょっと話は飛びますが、有名ブロガーのフミコ・フミオ氏の最近の投稿にこういう記事がありました。部下と一緒に外食したら、氏が習慣的に「ごちそうさまです」と言ったのに対して、部下が「僕たちは対価を払ってサービスを買っているのだから、そんなこと言う必要はない」と言い出した。という話です。

この話は、「ホンネとタテマエ」の典型的な事例のように思えるのです。フミコ・フミオ氏が「ごちそうさまです」と言ったのは「無意識の生活習慣になったタテマエ」であり、それに対して部下はビジネスライクな「ホンネ」の立場を取っているのだと思います。

我々日本人は他者との関係において、どうしても「ホンネ=悪意や攻撃性」か「タテマエ=ブリっ子的な善良さ」の両極のどちらかしか選べないような気がするのです。日本人は常にこの両者の板挟みにあっていて、これ日本人が大なり小なり抱えている「生き辛さ」の原因のように最近思えてならないのです。

自分の知る限りでは、少なくともスペイン人にはこのような板挟みは存在しなかったです。社会が「人はそれぞれ考えてることが違ってて当たり前」という前提でできているので、上下関係や同調圧力に晒されて「ホンネ」を引っ込めて表面的な「タテマエ」で取り繕う…という必要がたぶん無いからだと思います。

2020年1月27日月曜日

「誤解を与える表現」という言葉は絶対に謝罪につかうべきではない

日本のそこそこの大きさの会社でサラリーマンをやってると、どうしても組織間の利害調整というのは避けて通れない問題になります。だから管理職という仕事が必要になったりするのですが。まぁ、下々の立場から見ると社内の利害調整や政治ごっこでエネルギーを消耗しているのは会社の内部損失でしかなくて、管理職なんていうものは必要悪でしかないように思えるのですが。それを当の管理職をやってる方々の前で言うと烈火のごとく怒りだすので、20代ならまだしも、さすがに40代ともなると表立ってはそういうことを言えなくなってきます。
世界が上手く回らないからお金をもらえるという意味では、セロテープの台やクリップなどを作ってる人と日本の管理職は同じような仕事のように思えるのです。もし世界中の文房具がちゃんと循環すればおそらくセロテープの台やクリップは新しく作る必要なんてないですよね?もしも僕が総理大臣になったら、こういう風に「世の中が上手く回らないことで利益を得ている人」の給与は生産的な活動に寄与している労働者より安く設定したいです。

さておき。40代ともなると、一口に会社員といっても立場は色々です。入社同期の間でも管理職になって出世街道まっしぐらの人もいれば、この先一生ヒラ社員がほぼ確定している人まで、会社員人生はそれなりに明暗が分かれています。そんな中、同期でも出世街道まっしぐらの二人の管理職の同期が、先の見えない目下ヒラ社員の僕に仕事を頼みたいと言ってきました。同期がそれなりに会社を動かせるいい時代になってきたので、その中で一緒にいい仕事ができるならと思って、彼らの話は前向きに聞いていたのですが。

ある日呼ばれて会議室に行ってみると、要するにこういうことを言われました。
・技術的な実現可能性を度外視した「ドラえもんの道具のような技術」を実現してほしい
・これを来年のいついつまでに実現できなかったら今進めてる企画がストップする
・スペック的に君しかやれる人がいない
・でも僕の上司に話をしたら、その仕事は部門としては受けられないと言う
・だからこっそりやってくれないか

これはさすがに引き受けられるわけがないです。第一に、サラリーマンとしては上長の知らないところで勝手に何かをやるのは極めてリスクが高いのです。もし仮に彼らの無理難題を実現できたとしてもそれは「勝手にやってた」扱いになって、成果を正当に評価してもらえない可能性が高くなりますし、これで失敗したときなんてもっと不利な立場に追い込まれるでしょう。

更に、彼らの要求は技術的観点からは「僕に頼むよりドラえもんを探した方がよっぽど建設的な努力だと思うよ」と言った方が妥当なレベルなことが含まれていました。言ってることの全部が実現できないと本当に困るとは彼らも思って無いのかもしれないけど、自分が要求していることの実現可能性について自分の頭で考える責任を放棄して好き放題言ってくるような素人とは一緒に仕事できないです。こっちだってまがりなりにもプロなので。まだ「素人レベルの思い付きですいませんが、こんなことできないかな…って考えているんですけど…」くらいの言い方だったら相手にできるんですけどね。

そんなこんなで、結局同期の彼らには「ちゃんと筋を通して表口からちゃんと頼んでこないんであれば、君たちの相手はできない。それにしても君達の言ってることはあまりに自分たちの都合だけ一方的に主張してるように見えるんだが。本当に仕事頼みたいなら同期とはいえ最低限の礼は尽くすべきだろ?」という内容の返事しました。それに対して同期の彼らは各論について「アレとコレについては事実誤認だ」などの言い訳をしてきたんですが、その中で「誤解を与える表現があったのは認めますし、それについては謝罪します」という一文があったのです。この言い方、本当に気分が悪いです。

まず、「誤解」という言葉を使ってる時点で「オレの思ってることが正しいのに、お前の理解が間違っている」と言ってるように見えます。しかも「与える」という言い方が上から目線で気分が悪い。正しく意図を伝えられなかったのは完全にそちらのミスなので、素直に「私の言い方が悪かったです。すいません。」と誤った方がはるかに誠意が伝わると思うのですけどね。

つまり、「誤解を与える表現」という言い方は、「謝罪」という意図そのものに対して再帰的に「誤解を与える表現」になってしまうのです。人に謝るときにわざわざこんな言い方をするのは「オレは形だけ謝ってるけど本当は自分が悪いなんて思っていないからな」という意図を含ませたい場合を除いて、何のメリットもありません。実際にこの「誤解を与える表現」というワーディングは自民党の政治家の常套句になってきましたが、彼らはみんな判で押したように「形だけ謝っている」のです(最近では、もはや謝るのもやめて「謝らなければ責任は問われない」という意味不明の対応に出るようになってきましたが)。

このような悪意のある言葉は非常に高い感染力を持っています。「誤解を与える表現」という言葉を使って釈明してきた同期の彼も、たぶん本音では自分が悪いなんて思っていないんじゃないかと思います。そうでもなければ、わざわざこんな言い方しないでしょ。こうやって自民党の政治家のマインドを一般市民が内面化させた結果を、よりによって会社の同期から直接突き付けられててしまいました。

上司から訳のわからんファンタジックなことを言われるのより、やんわり友達や味方だと思っていた人からこういうこと言われる方がこたえるな。おじさんにはおじさんなりの辛さがあるのです。

2020年1月26日日曜日

ポテトチップスと住宅

子供がそこそこの年齢になってくると、子供が食べたがるけど食べさせたくないようなお菓子は自然と自分では買わなくなってきます。その代表例がポテトチップスなどのスナック菓子です。ビールのツマミとしては自分は時々食べたいけど、あんまり子供には食べさせたくはないのです。なので、買うとしても辛くて子供が食べれないやつになることが多いです。そんなポテトチップスなんですが、最近スーパーの店頭でまじまじとカルビーの袋入りのポテトチップスを見たら、なんか小さくなってる気がしたのです。

検索してみたらやっぱりそうでした。僕が育った80年代には90gだったのが今は60gなので、昔に比べたら2/3程度に減ってるようです。一時期はサイズを維持するために1袋が100円以上だった時期もあったような気がしますが、紆余曲折の末に100円で買えるサイズに落ち着いたのでしょう。
ポテトチップスがこういう変遷をたどる理由の一つはおそらく、輸入しにくいということなのでしょう。あんなに空間効率が悪くて割れやすいものは輸入しにくいので、日本で作るしかない。だから、どうしても高くなってしまうのではないでしょうか。

住宅についても全く同じような傾向を感じています。最近中古で家を買うことを考え始めているのですが、最近の住宅は自分が子供の頃の家に比べたら明らかに小さいです。しかも、家としての質もピンからキリまで色々あって、安い建売りの住宅については作りが明らかにチャチなものが多いです。住宅も海外から建材を輸入したりするには限界がある上に建設に携わる人の人件費は当然日本で発生するので、ポテトチップスと同様に「現実的な価格を維持するためには大きさや質をダウンするしかない」のだろうと思います。

YouTubeで僕が子供の頃の80年代のアニメの動画を見てたら、全体的に作りが丁寧なんです。オープニングやエンディングの歌も、「これアニメの主題歌にしては随分よくできてるな」と思ってよく見てみたら、羽田健太郎、久石譲、大野雄二なんかが作曲や編曲に携わっていたりします。これなんて作曲がタケカワユキヒで編曲が久石譲です。また、当時は今みたいにPCでなんでもできる時代ではなかったので、アニメの歌の伴奏も弦楽器、管楽器など含めて色々な楽器の生演奏が使われています。まだこの時代は今ほどアニメの地位は高くなかったのですが、それでも「テレビで放送される物に要求される最低限のクオリティ」の水準が今より断然高かったのだと思います。

これらの事例は、日本という国が衰退局面にあることを示しているように思います。僕は経済についてはもちろん素人なのですが、直感的には日本全体が貧しくなっていくので「安かろう、悪かろう」しか選べないことがだんだん増えていってるんだと思います。そんな中でもそれなりに楽しみながら生きていく方法を見つけることが、これから先の日本を生きていく上で必要なんだろうなと思います。

2020年1月8日水曜日

「怒りの獣神」ライガーの引退によせて

僕が子供だった80年代にはまだゴールデンタイムにプロレスの放送があって、プロレスはそれなりに人気コンテンツでした。でも、残念なことに僕の母はプロレスを嫌悪していて、家ではプロレスを全く見れませんでした。その恨みの反動か、大学生になったあたりで突然プロレスに目覚めて、それ以降はそれなりにプロレス好きになってしまいました。

でもライガーは正直あんまり好きではなかったのです。なぜ好きじゃないか。を説明すると、
A. イチローのように「表面的なストイックさの向こうに幼稚な自己愛が透けて見える」 
B. 「怒りの獣神」の名の通り、「怒り」のような負の力で駆動され(ようとし)ているから
こんなところでしょうか。

Bは橋本真也にも通じるところもあるのですが、橋本真也の場合は「怒り」とは言っても、昭和のヒーローアニメにおける「正義」と直結したような、もっと幼稚で楽天的なものです。ここで、永井豪を経由してライガーと橋本は繋がる(橋本真也はお風呂にマジンガーZの人形を持ち込んで「ぎゅーーん」とか言いながら遊んでいたんだそうです)のですが、それと同時に永井豪という視点から見ると両者は隔てられます。

橋本真也の「勧善懲悪的な正義の怒り」に比べると、ライガーの背負ってる「怒り」というのは、例えば三島由紀夫が大絶賛したという総長賭博のように、義理とか世間とかいろいろな要素に挟まれている大人の怒りです。これまでこのblogで言及してきた言い方をすると、日本人の内的自己のような側面とも言えるでしょう。

この「内的自己=怒り」こそが欧米のプロレスと日本のプロレスを隔てる最も大きな要素であったのではないでしょうか。しかし、昨今のプロレスには良くも悪くもライガーのように「怒り」によって駆動されているレスラーがいないのです。もし僕の言ってることが正しければ、日本のプロレスはこの先「内的自己=怒り」と決別して、欧米のプロレスに漸近することになるはずですが、さて、どうでしょうかね。

ライガーは最後まで「怒りの獣神」でありつづけました。これを30年も続けるのはそりゃたいへんでしょう。別に自分が怒りたくなくても怒り続けてることを自らに課してきたわけですから。ライガーの引退によって、我々日本人はまた一歩昭和から解放されましたが、それと同時に昭和がまた一歩遠のいたような気がします。しかし、一番解放されたのは誰よりもライガー本人だったのではないでしょうか?

こんな風にライガーの引退を機に色々と考えていたら、僕自身も「ライガー=昭和の怒り=内的自己」から少し自由になれたような気がしました。今まであんまり好きじゃなかったけど、永らくお疲れ様でした。

2020年1月1日水曜日

カルロス・ゴーンは「日本の小ささ」を突き付けて去っていったのではないだろうか?

あけましておめでとうございます。これを書いている現在は2020年です。

なのですが、昨日、つまり昨年末の話をします。年の瀬も迫った大晦日、なんで今頃かいうタイミングで突然降ってきた「カルロス・ゴーン極秘出国」のニュースは、「フジモン離婚」と並んで「しかし、なんでそのタイミングかなー?」という形で2019年に何とも言えない後味を残していったのではないでしょうか。

この件についての日本の報道は「妻が出国の段取りを整えた」とか「楽器のケースに入って出国した」といった表面的な話を取り上げているだけで、本質的な問題については切り込んでいるようには見えません。その姿勢には、うっすらと「都合が悪くなったら結局逃げ出したガイジン」というメッセージが裏書されているような空気だけはあります。

一方で、ネットに目を向けていると、本件については賛否両論に分かれるのですが。この賛否両論の両陣営が全くと言ってよいほど噛み合っていないのです。噛み合ってないというか、左寄りの僕から見ると、右側の論調が結局「日本の入管とか、(彼らの言うところの)パヨクとか、いずれにせよゴーン氏ではない何かを非難する」形にしかなっていないのです。

より具体的な例を挙げて説明すると。左寄りの人がこの件についてコメントすることをまとめると、
・政権に近い側の人間はレイプしようが何しようが逮捕されない
・『桜を見る会』に至っては首相が明らかに詰んでいるのに検察が逮捕に踏み切れない
・このような状況を鑑みるとこの国は、法治国家ではなく人治国家である
・ゴーン氏の逮捕も、日産をめぐる駆け引きの末の国策逮捕的な側面が否定できない
・拘留中の劣悪な待遇も含め、この国には『人権』という概念が明らかに欠けている
・以上より、逃亡は合理的な判断だと言える
だいたいまとめると、こんなところでしょうか。

一方の右側のコメントは
・人質司法というけど、今回は保釈されているんだからそれには該当しない
・入管何やってんだ、ちゃんと仕事しろ
・日本はなんだかんだで甘すぎる。なぜ保釈した?
・レバノンは超人治国家のコネ社会なので、日本政府への引き渡しなんてたぶんしない
・でも、ここでナメられると日本の沽券にかかわるのでレバノンに毅然と立ち向かえ
・それにしてもサヨクが…(本件についてのサヨクの見解に対する悪口)
とかまぁ、言ってはいるけどなんかちょっと分が悪いんじゃないかなと思います。

これらを総じて一言で言うと、カルロス・ゴーンは日本という国の「小ささ」を我々に突き付けて去っていったのではないでしょうか?わかりやすいところから言うと、15億円なんていう保釈金は僕のような庶民からしてみれば大金ですが、世界的な富豪からしてみれば自由の代償としては十分に元が取れちゃうわけですよね?その辺りの勘定があまりに庶民的過ぎたのではないでしょうか。

「レバノン=人治国家のコネ社会」については、ヨソの事をどうこう言えないくらい日本もどんどん人治国家の国になっていて、ゴーン氏の言い分によると彼が日本から逃亡するに至った理由もそこなわけですよね?でも、中東は昔から露骨に「カネとコネ」で社会が成り立っている世界なので。レバノンのヒーローで、世界的な大富豪であるゴーン氏によるレバノン政府への介入なんて、安倍政権よりもはるかにスケールが大きくてエグいんじゃないかと思います。

安倍晋三とカルロス・ゴーンは「短期的な自己利益の追求のためには悪いことだってする」「世の中はカネとコネ」という点では、同じセントラルドグマを共有していると思います。だから、安倍応援団はゴーン氏やレバノン政府を非難できないんじゃないでしょうか。彼らを攻撃することは、自分が応援している安倍晋三や、その国政運営をも否定することになってしまうわけです。結果的に、安倍応援団は本件について入管だったり彼ら言うところのパヨクだったり、そういう人達に対してどこか歯切れの悪い攻撃をするだけになってしまうのではないでしょうか?