2016年4月17日日曜日

ラテン系は本当にいい加減か? (その2)

このblogのごくごく初期にラテン系は本当にいい加減か?という文章を書きました。この文章の趣旨を一言で言うと、「お互いにいい加減でも社会が成り立つのはラテン系の人々が他人を許す能力が高いからで、日本人が過剰にキッチリしあいたがるのは他人を許す能力が低いからだ」ということでした。
しかしながら、昨今の日本を見ていると僕には日本人の方が「いい加減」に見えることの方が多いのです。たとえば福島で原発があれだけの事故を起こしたにも関わらず原発を再稼動させた上に、熊本で地震が起きても近隣の原発を止めようとはしませんでした。なぜこうなるかについては、前回の投稿で内田先生を引用したように原発=一神教の神との付き合い方が日本人には分からないので、日本人は「怖いものほどぞんざいに扱って安心したがる」からではないかと思います。こういう日本人の原発への接し方は僕から見ればとにかく「いい加減」に見えます。
また、自民党は選挙の際に「TPP反対」とか言うだけ言って、選挙が終わったらあっさりTPP推進に回りましたが、これに対して「いい加減なことを言うな」とか「もう自民党は信用ならない」と非難の声を上げてる人は少数派ですよね?
長い目で見たらいつか大きな地震が来るのは分かっていながら都会に高層ビルを林立させられるのも僕には正直なところ理解できないです。あれだけ高層ビルが立ち並んでいると、本当に大地震がきたら大変なことになりそうなのは誰でも理解できると思うのですが。たぶんあそこで働いている人達は地震が来てビルが倒壊するとか、そういう可能性について「真剣に考えない」というソリューションを集団的に採用しているんだと思います。そうでもなかったら、たぶん怖くてあんなところで働く気にはなれないだろう思います。


こういう日本人の「いい加減さ」の事例は枚挙にいとまがありません。どんな国のどんな文化にも悪いところはあるので、「だから日本はダメだ」とか短絡的に言うつもりは全く無いのですが。おそらく日本人の大半はこういう日本社会の有り様を「いい加減」だと言われたらある程度は納得するんでしょうが、かといってそれが致命的に問題だとは思っていないのではないでしょうか?
「文化」という言葉の定義の一つに「ある社会集団にとっては当たり前でも、それ以外には当たり前でないこと」というのがあります。この語義に鑑みると、良いか悪いかはさておきこの種の「いい加減さ」は日本の文化の一部なのでしょう。内田先生の言い方を借りると「民族的奇習」と言ってもよいかもしれません。
なぜ日本人が時間や納期などにキッチリしたがる半面、政治や社会のあり方といった「お上」のやることに対してここまで「いい加減」なのかをクリアカットに説明することはできないのですが、何度も申し上げているように「多数派でいたい人が多数派」であることや、「恥の文化=絶対的な善悪ではなく、他社との相対的な関係が判断基準」といったことは背景にあるのではないかと思います。

話をラテン系に戻します。
確かにラテン系は日本人に比べて開始時間にはルーズです。でも、彼らは終わる時間には厳格です。日本人とラテン系の違いは、「開始時間と終わる時間のどっちにプライオリティを置くか」の違いでしかなくて、この両者には優劣は無いと思います。優劣は無いといいつつも、個人的にはそれだったら、他人を許す能力が高く、おおらかでギスギスしない社会を作れるラテン系の方がよいと思います。
そして、これはラテン系だけでなく欧米ではどこでもそうだと思いますが、政治や社会について明確な意見を個々人が持つことは当たり前というか、市民として最低限の勤めだと思われています。彼らの感覚からいうと、職場でお昼ご飯たべながらでも普通に政治の話をしますし、意見が違えばそこで議論を戦わせたりするのも当たり前なのです。あんまり人のこと言えないんですが、日本人ってこういう局面で面と向かって政治の話をしたりするのが苦手な人って多いですよね?でも、そういう態度でいると欧米人からは「ちゃんと自分の意見を言えない=いい加減な人」と思われるんじゃないでしょうか。
以上より、ラテン系(とりあえず西欧のラテン国家の人を想定)と日本人では「いい加減」さが発揮される対象がそもそも異なるのはないでしょうか?例えば日本人だと「(開始)時間にルーズ」とか「ルールを守らない」といったことを「いい加減」だと考えますが、ラテン系からすると「論理的に考えようとしない」「安易に他人と同調したがる」「自分の意見をちゃんと表明しない」といった日本人の特徴が「いい加減」に見えるのではないかと思うのです。


さらに言うと、この問題を更に厄介にしているのは「いい加減」という日本語がそもそも「いい加減」だということなのです。日本語の「いい加減」という言葉はぱっと思いつく範囲で
  • 非論理的 : illogical 
  • 時間にルーズ : not punctual
  • ルールを守らない : not keeping rule
などなどを包含する多義的な言葉ですが。隣に英語を添えてみたように、それぞれが意味することは英語だと別々の言葉があてられています。つまり、『いい加減』という日本語の語義そのものが再帰的に『いい加減』であることが話をややこしくしているのではないでしょうか?
もしも日本人が「ラテン系はいい加減だ」ということを外国人に説明して理解してもらおうとしても、相手の外国人が余程日本語が堪能な人でない限り日本語の「いい加減」の概念が伝わらないので、問題点の共有という一番最初のステップにさえ到達しない可能性があるのではないかと思います。

原発と一神教文化

3・11の記憶が少しずつ過去のものになりつつあるところに熊本の地震が来ました。この地震は日本が地震国であることを改めて日本国民に思い出させたのではないでしょうか。これを書いているのは最初の大きな地震から3日後ですが、今も余震は続いています。余震がまだ続く可能性があるのだからこんなときくらいはとりあえず原発を止めてしまうべきだと思うのですが、阿倍政権にはそのつもりは全く無いようです。むしろ、「地震が起きても問題なかった、だから原発は安全だ」という実績作りのために意図的に原発を動かし続けているように見えます。
Twitterを見てる限りでは、今回の地震によってここ最近の「なし崩し再稼動」で下火になっていた反原発派がかなりアクティブになったように見えます。反原発派曰く、川内や伊方原などの原発は中央構造線という大きな断層の上にあるので、今回のような地震が原発を直撃した際に無事で済むわけが無いんだそうです。断層の件はさておいても、これだけ地震や津波などの自然災害が多くて、3・11で一回失敗したんだから日本では原発はやめるべきだと僕は思います。

地震のニュースの度にメディアがさらっと「原発に異常なし」を繰り返しているのは、原発が不安であることにある程度は配慮する反面、一方では原発について騒ぎ立てるなという無言の自粛を求めるているように見えます。このように「原発を怖がっている反面、その裏返しとして楽観的な態度を見せて強がっていたがる」というのは阿倍政権や原発推進派に共通しているように思います。
原発を再稼動させるにあたっても、リスクや安全対策、非常時の対応についてもう少しちゃんと考えたり説明したりする態度があればよいのですが。残念ながら阿倍政権の態度は一貫して「都合の悪いことについては考えない」と言ってるだけにしか見えないです。そもそも、日本人の考える安全対策や地震/火災などへの避難マニュアルは平時に考えられた精緻な机上の空論になりがちで、本当に災害が起きたときに次々と仮定に反する事態が起きるとあっさりシステムクラッシュしてしまいます。実際に3・11のときは電源喪失などの想定外の事態によって原発がメルトダウンしてしまいました。

このように日本人の原発との関わり方を見ていると、原発を稼動させることの是非以前に原発という危険極まりない物を扱う上で重要な資質を日本人は欠いているのではないかと思わずにはいられないのですが。なぜこうなるのかについては、内田先生が3・11直後にこれ以上に無いくらい的確な文章を残しています。この「『原発=一神教における神』との付き合い方が日本人には分からない」というのは原発と日本人の問題についての説明の中で一番納得感があると思います。ここから先を僕がくどくど書いても劣化コピーにしかならないので、内田先生の文章をそのまま貼り付けて今回は終わりにします。

数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるかという問題に対しての一つの「答え」であった。
人知人力をはるかに超える巨大な力と「折り合う」ためには、ただ巨大な力を畏れ、慄くだけでは足りない。
信仰する側が、「絶えざる自己超克」という苦役をおのれに課すことではじめて、一神教の宗教意識は成り立つ。
おのれの理解も共感も絶した存在に向けて、おのれの知性の射程を限界まで延長し、霊的容量を限界まで押し広げるという「自己超越」の構えそのものを「信仰」のかたちに採用することによって、人類はその宗教性と科学性の爆発的な進化を成し遂げたのである。
爾来、一神教文化圏においては「主」を祀る仕方について膨大な経験知が蓄積されてきた。
原子力は20世紀に登場した「荒ぶる神」である。
そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型的な持つはずである。
神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも「神殿」を模してつくられたものであることがわかる。
中央に「神殿」があり、「神官」たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
その周囲何十キロかは恐るべき「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・
原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。
そうではないかと思う。
それに対して、日本人はこれにどう対応したか。
最初それは広島長崎への原爆投下というかたちで日本人を襲った。
でも、それは「神の火」ではなく、「アメリカの火」であった。
だから、日本人は「神」ではなく、アメリカを拝跪することによって、原子力の怒りを鎮めることができるのではないかと考えた。
それが日米安保条約に日本人が託した霊的機能だったと私は思う。
神そのものではなく、世界内存在であるところの「その代理人」「その媒介者」「そのエージェント」に「とりなし」を求める。
代理人におべっかを使い、土下座し、袖の下を握らせることで、「外来の恐るべきもの」の圭角を削ろうとする。
これはきわめて日本人的なソリューションのように私には思われる。
神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。
一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせるのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。
全員がそういう語り口を採用したのである。
政治家も、官僚も、もちろん電力会社の経営者も、原発を誘致した地方政治家も、地元の土建屋も、補償金をもらった人々も、みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身の中にある底知れぬ恐怖をごまかしたのである。
一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを「畏れ、隔離する」というかたちで「テクニカルなリスクヘッジ」を試みた。
日本の人々は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を安っぽいベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くもなんともないよ」と言い募ることで、「心のリスクヘッジ」を試みた。
福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。
どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」扱うのだろう・・・と海外の原子力研究者は頭を抱えたはずである。
そこまでして「コストカット」したかったのか?日本人は命より金が大事なのか?
もちろんそうではない。話は逆なのだ。
あまりに怖かったので、「あれは金儲けの道具にすぎない」という嘘を採用したのである。
原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、「強がって」みせていたのである。
私はそう思う。
そうでも思わないと、あの粗雑な設備や安全管理のすさまじい手抜きを説明することができない。
原発は人間の欲望に奉仕する道具だ。
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。
もちろん、そうではなかった。
だから、私たちはいま「罰が当たった」という言葉に深く頷いてしまうのである。
自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。

2016年4月3日日曜日

「おかあさんといっしょ」はいつまで続くか

4月になりました。新しい生活のスタートとなった人もたくさんいらっしゃるんでしょうが、僕は何も変わらずのままです。昨日は4/1なので組織名称の改変や役職呼称が代わっただけとかいうしょーもない理由だけで辞令をもらう人がいたのですが、そんな彼等でさえちょっとうらやましく思えてしまい、「エイプリルフールでもいいから辞令でないかなー」とつぶやいてしまいました。
一方で、4月1日でNHKの教育番組にはとてもインパクトの大きい人事異動がありました。子育て世代のお父さんお母さんならほぼ全員お世話になっている「おかあさんといっしょ」が大幅にリニューアルされることになったのです。人形劇コーナーが完全リニューアルになる上に、なによりも歌のおねえさんが交代することになったのです。歴代最長の8年に渡って歌のおねえさんを担当してきた「たくみおねえさん」の卒業については、発表されたと同時に「たくみロス」という言葉も聞かれるほどの反響がありました。
かくいう僕も「たくみロス」気味の一人でして。あの男性女性問わず「ほとんど敵を作らない=誰でも好きになてしまう」能力たるや一時期の山口智子とか能年玲奈とか(あと漫画のキャラを含めていいなら朝倉南)、そのクラスだと思います。

たくみおねえさんのことを書いているといつまでも書き続けられる気がするのですが、それはさておき、ここ半年ほど子供と一緒にNHKの教育番組を見てて気になったことが一つあります。NHKの子供向け番組の世界は「老人、おにいさん/おねえさん、子供、妖精、動物」だけで構成されていて、ほぼ徹底して「親」が欠落しています。つまり、「親」は現実の親だけであってテレビの中の世界には「親」を登場させないというコンセプトがどの番組にも共通しているように見えるのです。
強いて例外を挙げるなら「みいつけた!」という番組だけは登場キャラクターだけで家庭生活を営んでいるような雰囲気があるのですが、そこで親に該当するポジションのキャラクター「サボさん」はときどき頭に花が咲いてオカマみたいになるというキャラクター設定になっています。深読みしすぎかもしれませんが、性別の概念を希薄にすることで現実のお父さんやお母さんとかぶることを回避しているんじゃないかと僕には思えます。
ところが、3月末で終了した「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ポコポッテイト」の最終回までの数話では「着ぐるみキャラ”ムテ吉”の(今まで存在さえ言及されなかった)お父さんとお母さんが帰ってくる」という話の展開だったのです。本当に親が出てくるのか結構ハラハラしながら見てたのですが、結局は「親が乗っているであろう船に手を振ってるシーン」までで終わりました。やっぱり親を登場させるのはハードルが高かったようです(最終話のためだけに親の着ぐるみつくるのも勿体無いというのもあるんでしょうが、それだけではないと思います。)。ともあれ、「ムテ吉の両親はムテ吉を残して宝探しに行ったままずっと帰ってきていない」という荒唐無稽な設定を後付けしてまで親の概念をわざわざ持ち込んだことにはちょっと驚きました。しかしながら、ギリギリのところまで引っ張った末にやっぱり親は画面には登場しませんでした。

NHKの教育番組は僕が子供の頃に比べたらやたらと番組の数は増えましたが、その中でもやっぱり「おかあさんといっしょ」は他の番組に比べたら別格です。wikipediaによると、「おかあさんといっしょ」は1960年頃から50年以上に渡って存続している看板番組なんだそうです。「おかあさんといっしょ」のスタート当時はまだ専業主婦が当たり前の時代だったので、子供とお母さんが一緒に見ることを前提にできたのだと思います。かくして、「おかあさんといっしょ」という番組は作り手が意図的に画面から欠損させた「お母さん」をその名前に冠してスタートしたのでしょう。ここから出発したせいもあってか、その後のNHKの子供向け番組も一貫して「親」が欠損した世界をつくり続けているんだと思います。
しかし、今の時代では「おかあさんといっしょ」を母親と一緒に見れる子供は少数派になりつつあるんじゃないでしょうか?共働きの家庭の子供の大半はおかあさんといっしょが放映される時間帯には保育園にいるんでしょうし、もしも一緒に家にいたとしても母親は何かと忙しくて子供と一緒にテレビを見るゆとりが無かったりするのではないでしょうか(我が家では子供向け番組を録画しておいて、家事で忙しくて手が離せないとき=「おかあさんといっしょにいれないとき」に子供に見せています)。もっと言うと父子家庭だってあるわけですから「おかあさんといっしょ」という番組名がこのご時勢には不適切だとか怒り出す人もいるんじゃないでしょうかね(2013年から「おとうさんといっしょ」という番組が日曜日だけですが放映されてはいますが、「マイノリティやポリティカルコレクトに対して配慮していますよ」という中途半端なポーズは逆に格差を浮き彫りにするという好例になっています)。

半世紀以上前に「おかあさんといっしょ」がスタートした当時のNHKの教育番組のコンセプトはさすがに時代にそぐわなくなりつつあるのは誰の目にも明らかです。「サボさんの登場(2009)」→「おとうさんといっしょ開始(2013)」→「最終回間際に突然持ち込まれるムテ吉の両親の存在(2016)」という一連の流れは、「おかあさんと一緒に見る前提で『親』は意図的に画面から排除された世界」に作ってる側も限界を感じ始めている兆候のようにも見えます。
そしてちょっと飛躍しますが、これは高度経済成長期の頃の制度設計をひきずったままのわが国の育児政策の有り様と相似形を成しています。「待機児童ゼロ」とか「女性が輝く」とか口先では言いながらも結局は保育園は足りないし、保育士は激務の割には待遇が悪かったりと、行政は働く女性のためのインフラ整備にはまともに取り組もうとはしなかったわけですが。こちらはとうとう先日ある限界を迎えて保育園落ちた日本死ねに端を発して国民が声を上げ始めました。
保育園の問題の切実さに比べたら教育番組の有り様なんて大したプライオリティではないので不用意に同列に比較するべきでは無いのは勿論ですが。とはいえ、漫画やアニメは時として作り手が意識していないところで世相を反映してしまうもので、教育番組もその例外ではありません。だからこそ、「おかあさんといっしょ」という名前の番組がいつまで「親が欠損した世界」のまま存続するのか、この先わが子が成長して教育番組から卒業した後でもこっそりチェックしようと思います。