2013年6月3日月曜日

"スタンダード"を信仰できる彼らは器用なのか不器用なのかよく分からない

サラリーマンに向いてる人ってどういう人か?というと、そりゃまぁ人って色々なんで一概に決め付けることなんて無理なんですが。「"スタンダード"を血肉化できる器用さ」がある人って、サラリーマンに向いてるんじゃないかとよく思うのです。一番最初にこういう才能に自分が恵まれていないと感じたのは就職活動のときでした。同時期に就職活動に入った高校の同級生に会って就職活動の話をしていたときに彼が放った「それは自己分析がちゃんとできてないことが問題なんじゃないの?」という一言に、僕は衝撃を受けたのでした。

この同級生は、「就職活動のためには、まず"自己分析"が不可欠である」「自己分析によって自分がやりたいことが見える」という"スタンダード"をあたかも自分がずっと昔からそう考えていたかのように血肉化して当たり前のように僕に言ってのけたわけです。僕自身は就職活動が喧伝する「自分探しのゴールとしての就職」みたいなストーリーにはちっとも納得してなかったですが。かといって修士も卒業することだし、彼らが「自己分析」とかいう言葉で言いたそうなことはなんとなくは分からんでもないから、とりあえず合わせておこうかくらいに考えていたのですが。僕の同級生は僕とは違って後天的に押し付けられた”スタンダード”を器用に血肉化して見せたわけです。
改めて言いますが、こういう人はサラリーマンに向いてると思います。良い・悪いとかいう問題じゃなくて向き・不向きの問題として向いていると思います。だって日本の会社ってそういう人の方が幸せに生きていけるようにできてますから。僕は元々そういうことろがあんまり器用じゃない上に、スペインに行ったことでそれにさらに拍車がかかってしまった感があります。

こういう、ある日空から降ってきたスタンダードを当たり前のように血肉化して振り回せる人達への違和感は就職してからも続きました。ほら、5W1Hだとか、PDCAサイクルだとか、プロジェクトマネジメントとか。。たとえばPDCAって、そういう仕組みにすると「うまくいくことが多い」という先人の知恵ではあるんですけど、その通りにしさえすればいいとか、その通りじゃないとダメとかっていうわけではないと思うのですよ。
何度も言いますが、便宜上発明された"スタンダード"という道具を血肉化する器用さをもっていること自体は良いことでも悪いことでもないと思うのですが。あんまり行き過ぎると、「"スタンダード"に即していないものは悪」「"スタンダード"に則ってれば正しい」という安易な信仰にたどり着いてしまう人がいて、そういう人と話すときって本当に困るんです。ある日空から降ってきたものを血肉化できる器用さはあるのに、どうして彼らの信仰する"スタンダード"を信仰する気の無い僕との隔たりを理解して埋める器用さは無いんだろうと思ったりするのです。
そして、こういった"スタンダード"は人の才能とか資質を度外視して設計されている、別の言い方をすると「誰でも実行可能」「誰でもつかいこなせるよう」に出来ているということに彼らはあんまり気づかないようなのです。そういう物を杓子定規に振り回していると、"スタンダード"になじまない特異な才能を持った人のいい所を潰すことになってしまうが往々にしてあると思うのですが、彼らはそういう可能性について考えないんだろうと思います。逆に言うと、特異な才能を持たない普通の人だからこそ、彼らは"スタンダード"を信仰できるんじゃないかとも思います。

といったところで次回予告。次回は「ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す奴は『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える」という話を書こうと思います。

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