2013年8月15日木曜日

終戦の日です

終戦の日です。
昨年の今日、僕はスペインで観光客の韓国人(日本に留学経験があるらしくて、日本語ペラペラだった。)とたまたま知り合いになって一緒にバルでごはん食べてました。「韓国では光復節っていうんだっけ?不思議だよねー。こんな日にスペインで見ず知らずの日本人と韓国人がメシ食ってるのも。」と一応話題にしてみたけど、彼は日本にも留学経験があるのでさすがにかなり柔軟な人のようでした(不慣れなスペインでご飯の面倒見てもらってるので遠慮してたのかもしれませんが)。李明博の竹島上陸についてかなり冷ややかなコメントをしていたのを覚えています。
その一年後の今日。安倍晋三は結局靖国に参拝しないようですね。一時期勢いのいい事言って右寄りの日本人を煽ってたけど、アメリカにすごまれるとあっと言う間に聞き分けのいい子になっちゃいましたね。判断としては正解ですが、彼の「中身が空っぽのおぼっちゃん」ぶりが改めて露呈してしまった感は否めません。安倍晋三って、背中にでっかい電池が入ってて、岸信介の亡霊がリモコンで操作してるんじゃないかと思うくらい彼自身が空っぽに見えるのです。だから、彼が右寄りの威勢の良いこと言ってても、「この人本当にそんなこと思ってるのかな?」といつも首をかしげてしまうのです。

さて。そんなこんなでどんどんこじれていく一方の中韓との歴史認識問題ですが。例えば従軍慰安婦や南京大虐殺に関して日本と中韓との間で相互に「事実はこうだった」という共通見解にたどり着くことはもう無理なんじゃないかと思うのです。この手の話題になると、例えば橋本徹などは「旧日本軍が従軍慰安婦に組織的に関与していた証拠は無い」と言ってたり、一方韓国では先日「旧日本軍が組織的に関与していた証拠が見つかった」と報道があったりするわけです。このどちら側も「事実は一つだけ」という前提で「何らかの根拠を提示した上」で「自分が正しい=相手が間違ってる」と言っている、つまり、両者は主張自体が対立してるだけで問題に接する態度は完全に相似形を成しているわけです。
ではこの両者が時間をかけてお互いの根拠を付き合わせたら何かしら同じ歴史認識にたどり着くかと言うと…それはたぶん有り得ない思うのです。もう、この文脈で言いたい事は内田樹の受け売りになので、ここから先はちょうどその部分だけwebに貼り付けてあったのを読んでください。こういうことです。 

芥川龍之介の「藪の中」という小説もこういうことを描いている一例だと思います。男と女が藪の中で盗賊に襲われ、結果的に男は殺される。だけどその結果に至るまでの説明が当事者の男、女、盗賊それぞれに三者三様で、結局何が本当に起きたのか分からない。「事実」っていうのはこういう物なんじゃないでしょうか。
「事実は一つ」を頑なに信じていると、相手の言ってることが一つでも「事実」でないと判断するとすぐにウソつきよばわりして全否定に向かってしまうと思うのです。例えば、よくある「南京大虐殺はウソだった」説の論拠の一つに「南京の当時の人口は10万人程度だったのにどうやって30万人も殺せたのか?」というのが挙げられるのですが。仮に30万人という数字が事実ではなかったとしても、「南京大虐殺」があったかなかったかというのはまた別の問題だと思うのですが。ネットでよく見かける嫌中とか嫌韓の人ってこういう矛盾を一個でも見つけるとすぐに「あいつらはウソつきだ」と全否定しにかかるように思うのです。

以前、慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみるという投稿で、右寄りの人が戦時中の日本を擁護する際のロジックは「日本も悪いことはしたけど他国に比べればマシだった」とか「他国も同じようなことをやっていたのに日本だけが非難されるのはおかしい」という相対的な比較の話になりがちだということについて書いてみました。また、内田樹は「日本辺境論」で、右寄りの人達が採用する大東亜戦争肯定ロジックはだいたい「ABCD包囲網によって資源封鎖されて戦争をせざるを得ないところまで追い込まれた」といった被害者意識(ここにその箇所の抜粋がありました)に論拠していると指摘しています。
彼ら、右寄りの人達の言う事のいくつかはなるほどと思うことも無くは無いのですが。だからといって当時のアジアの国々の人が日本に侵略されることを諸手をあげて歓迎してたなんてことは絶対に無いでしょう。そして、程度の大小はあれど南京大虐殺や従軍慰安婦への軍の関与はあったことは間違いないでしょう。日本が侵略しなければ起きるはずもなかったこれらの問題に対して、ある程度は非を認めて謝るくらいのことは日本はするべきだと僕は思うんですけどね。

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