2022年5月28日土曜日

糖尿と神

 なんとなくそうなんだろうなとはずっと思っていたのですが、意を決して糖尿病のクリニックを受診したところ、「初期の糖尿病」と診断されました。母が糖尿病だし、以前から健康診断でもちょいちょい指摘を受けてはいたのでなんとなくはわかっていたのですが。いざはっきり宣告されるとそれなりにショックでした。その後1か月は食生活や運動などに気を付けて、結果的に数値上は「初期の糖尿病」→「糖尿病予備軍」まで改善しました。が、ある程度気を付けて生活し続けないとまたもとに戻ってしまうのだそうです。

以前外国人と飲みに行ったときに、帰りにアイスをくれると言われたのですが。糖尿が心配なのでいらないと言ったところ、「えー、でも別に君そんなに太ってないじゃん。」 と言われたことがありました。欧米人はインスリンの分泌能力が高いので、見た目にわかるくらいかなり太らないと糖尿病にまで到達しないのです。が、我々日本人は欧米人に比べて元々インスリンの分泌能力が高くないので、僕程度の「ちょっとぽっちゃりしたおじさん」でも糖尿病になってしまうわけです。海外だと100kgを余裕で超えたようなレベルで太ってる人をよく見かけますが、考えようによっては、彼らはそれでも生きていけるくらい体が頑丈なのかもしれないですね。

一方変わって、会社の話をします。会社のそこそこエラい立場の人が全体に向けたメッセージで「他責はよくない、自分ができることを考えよう」というような趣旨のことを言ってるのを最近2回見ました。この2回はいずれも違う人です。これが彼らの経験を通して得た人生訓で、ご本人にとってはそれが今の地位に至る成功のコツだったと思っているのかもしれない。でもそれをわざわざ社員に向かって言う必要があるのでしょうかね?その人のキャラクターや話の文脈にもよりますが、言い方は丁寧なようで、結局「とにかく文句言わずに働け」と言ってるのと変わらない気がするのです。社員から出る不満の原因をたどっていくと、そのうちのいくつかは会社の制度や体制の問題にいきつくはずで、それは「自分ができること」として解決に取り組むのがエラい立場の人であるべきだと思うのですけどね。

「他責はよくない、自分ができることを考えよう」という人は、愛国心を子供に強要したがる政治家や、「置かれた場所で咲きなさい」といった言葉を自己正当化のために使うブラック企業のワンマン社長と同じなのではないかと思うのです。彼らに共通しているのは、「自分の都合のいいように振舞う事」を相手に要求していること、そして、「社会的に権力がある自分は、人の内面に干渉する正当な権利を有している」と思っているであろうということです。この「他人の内面に干渉する」ということについては、キリスト教などの一神教の世界観だともうちょっと慎重なのではないかと思います。例えば、「置かれた場所で咲きなさい」というのはアメリカの神学者の詩のタイトルで、原文では"Bloom where God has planted you."なのだそうです。そう、つまりこれは「世界のすべてをコントロールしている神」の存在を前提にした上での言葉なのです。一神教的な神の概念を理解できない人が背景もわからないまま振り回していいものではないと思います。

例えば、「神は死んだ」というニーチェの有名な言葉も、一神教的な意味での神の概念が理解できないと欧米人と同じ目線でこの言葉を理解することは難しいのだろうと思います。 欧米人と日本人では、インスリンの出方も違えば、文化的バックグラウンドもこんなに違うわけです。どちらがいいとかいう問題ではなく、こういった文化的背景の違いをちゃんと認識するのがdiversity(多様性)なのではないかと僕は思います。「他責はよくない、自分ができることを考えよう」と言ったエラい人達は、これを外国人に向かって言ったときに外国人がどう思うか想像できているとは思えないです。あまり前向きな感じの話で終われなくてすいませんが、こうやってネットの片隅に書き残すことくらいしか、「自分ができること」が思いつかないのですよ。。