2014年9月15日月曜日

はしゃぎたがる日本人

これを書いている現在、朝日新聞の吉田調書問題が取り沙汰されて一週間くらい経過したのに収束する気配が見えないところです。朝日以外のマスコミはここぞとばかりに集中砲火を浴びせていますね。
僕には朝日新聞の誤報がどうとかよりも、吉田調書の「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」「本当に死んだと思った」という言葉や、この調書を朝日がリークするまで隠蔽しようとしていた政府の方が心底恐ろしく思えます。これでもまだ経済のために原発を動かそうとかいう人達はどうかしているんじゃないかと僕には思えるのですけどね。
ともあれ、今回は安倍晋三と彼を支持する右寄りの方々、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者なんかもそうなんですけど、とにかく「はしゃぎたがる人」というのが日本という国全体でどんどん増えていることについての話です。
例に寄って先に結論だけ述べると、ジャンルを超えて日本全体でこうなっちゃった理由はやっぱり震災と原発事故がキッカケなんじゃないかな?と思うのですが、まぁ順を追ってご説明しますね。

これだけ吉田調書誤報問題が長引いているのはなぜか。というと、単純にこのニュースにはしゃいで大喜びして朝日新聞を攻撃したい人が沢山いるからなんじゃないかと思うのです。安倍晋三のはしゃぎっぷりなんてヒドくて、「ついでに慰安婦の件も誤報だったと世界中に伝えろ」と、ついでの勢いで慰安婦問題も無かったことにしようとしにかかっていたりします。またこれで中韓との関係が悪化する方向に向かうでしょうね。。
国家間の外交というのは、物の考え方の度量衡がそもそも異なる外国と利害関係を交渉をするわけですから、「僕ちゃんの理屈」だけ振り回しているのではなく相手が言ってきそうなことを想定した上で立ち振る舞ったり、相手の言い分との間を取ったりする必要があるのですが。どうも安倍晋三ってそういう複雑な話を複雑なまま受け入れることができないので「僕ちゃんの理屈」の中で閉じてはしゃぎたがっているように見えるのです。内田先生もだいたい同じことを言ってますね。

”はしゃぐ人達”とひとくくりにした安倍晋三及びそれを支持するネトウヨを含む右寄りの日本人、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者も全部そうなんですが、彼等の表面的な態度は判で押したように「はしゃいでいる」ように見えるんです。
いい大人にもなってはしゃいでるように見える彼等に共通しているのは「僕ちゃんは僕ちゃんの信仰や、僕ちゃんを理解してくれる人のことだけを考えています。それ以外の人のことは一切考えていません。」といった具合に、自分に都合の悪い事の存在を一切無視して自分の価値観の中に閉じこもりたがるということです。
で、ようやく本題なのですが。「なんで彼等がこのようにはしゃいで閉じこもりたがるのか?」ということについて考えると、やっぱり震災と原発事故にたどり着くように思えるのです。それまで磐石の安定感の上で暮らしていると信じていた日本人は、震災と原発事故によって自分が今まで磐石と信じていたものが実はものすごく不安定なもので、思ってたよりずっと簡単に死んじゃったりするということに気づいてしまいました。しかも、関東~東北の日本人は誰もはっきりとは言いませんが大なり小なり被爆してしまいました。ケガレに対して異常なまでに敏感な日本人は、ケガレないようにすることには一生懸命になりますが、放射能によってケガレてしまった後に生きていく術に関してはびっくりするくらい方針が立たないのです。この結果として日本全体がやんわりヤケクソになってはしゃぎはじめたんじゃないかな?と僕は思うのです。

震災以降の日本を見ると、中韓には歴史問題でも領土問題でもとにかく強行な態度に出ようぜとか、オリンピックが決まったぜイエーイとか、クールジャパンで日本は世界中から尊敬を集めてると思い込んだり、憲法も変えちまえとか、もうどうせ被爆しちゃったし原発は再稼動して金儲けを最優先しようぜとか…これらはすべてやんわりヤケクソになってはしゃいでいるように僕には見えるのです。
一方で、じゃぁみんながみんな同じようにはしゃいでいるか?というと、勿論そんなわけでもないのです。全員がそうってわけじゃないけど、例えば子供がいて命を未来につないでいかなくてはいけないと思ってる人はあんまりヤケクソになってはしゃいだりしないように見えるのです。だって、自分にもし子供がいたら、再び原発が事故を起こして子供達が汚染されることや、憲法を変えたことで子供達が徴兵されることなんて絶対に避けたいだろうと思いますよ。
勿論、子供がいるけどはしゃいでる人もいれば、子供がいないけどはしゃいでない人もいるんですよ。子供がいる/いないという短絡的な話ではなくてもう一段掘り下げて言うと、はしゃいでいる人に共通しているのは「今、ここ」の事しか考えていなくて、その先の未来に対して責任を持とうという意思を感じないのです。
先日ふと気になって検索してみたら、歴代首相の中で子供がいないのは安倍晋三にくらいなんだそうです。最初に述べたように安倍晋三が「僕ちゃんの理屈の中に閉じこもって、はしゃぐ」という子供じみた振る舞いをするのもなんとなく理解できるような気がするのです。彼はおじさんとして成熟する機会を逸したまま社会的な立場だけ大人になって、しかもあろうことか総理大臣にまでなってしまったんじゃないかと思うのです。だから、彼の目線は常に祖父(岸信介)や父親といった過去~現在にしか向かっていなくて、未来を見据えているようには見えないのです。

2014年9月9日火曜日

エヴァンゲリオンはイマドキの若者にはそれほどササらないんじゃないかな?

だから日本はズレているという本を読みました。リーダー不要論やクールジャパン、ポエムの蔓延など、最初の方に書いてあることにはそれなりに同意できて面白いところもたくさんあったのですが、結局のところ諸悪の根源は「おじさん」であるとする世代格差論に帰結するところには、どうにも残念という気分になりました。
現在29歳の著者古市氏は賞味期限が切れかけつつあるものの「若者代表」の立場で発言しているようなのですが、自分が歳とともに変化していった果てにおじさんになることに自覚がないのって本当に若者の特権なんだなと思います。氏の話には若者がソーシャルメディアなどで「つながる」という話が度々出てくるのですが、あくまで若者同士の横のつながりなんですね。「おじさん」や老人や子供が位相を変えた別の自分であって、彼等とも縦方向につながって社会を築いていくという気はどうやら頭に無いっぽいのです。

氏の著書では若者の新たなライフスタイルとしてダウンシフターズ(減速生活者)という人々が紹介されていました。彼等はお金への執着が薄くて、生活するための最低限のお金だけを稼いだら後は好きな事をやって時間を過ごすのだそうです。中には農業をやって自給自足で生活するダウンシフターズもいるそうな。
ところが、このダウンシフターズについて語る際に「でも彼等は隔離されて閉じているのではなく、スマホやパソコンで社会とつながっている」ということを著者がしきりに強調するのがすごく不思議に思えたのです。全体的にダウンシフターズはユルそうで賛成なのですが、ソーシャルメディアなどで人とつながっていることがそこまで強調するほど重要なことなのかな?と僕には思えたのです。

そんなことを考えているときにテレビをつけたら、たまたまヱヴァンゲリヲン新劇場版Qをテレビで放送しているのを見て、はたと閃いたのです。若者にとって、ネットやソーシャルメディアというのは人類補完計画のように機能しているんじゃないんだろうか?と。
当たり前といえば当たり前なのですが、最初のエヴァンゲリオンから20年近く経った今となってはシンジ君がイマドキの若者とはだいぶ乖離してるように見えるのです。なんでこうなるかって、シンジ君のような「自分の存在に悩む内省的な少年」というのは、ネットやソーシャルメディアが人類補完計画のように機能している社会にはあんまりいないんじゃないかと思うのです。

以前も触れましたが、進撃の巨人やONE PIECEみたいにちゃんと丁寧に伏線を回収して終わってくれそうな安心感のある物にしか今の若者は飛びつかなさそうな気がするのですね。だって、wikipediaでなんでも調べられるのが当たり前で育っているんですよ?そんな彼等に、答えの用意されていない謎だらけで悶々としなければいけないエヴァンゲリオンみたいなものがササるようには思えないのですよ。想像ですけど、イマドキの若者がエヴァンゲリオン見ても「なんか謎だらけでよくわかんないけどまぁいいんじゃん?」くらいでサラっと流されそうな気がするのですよ。