2014年3月30日日曜日

空間除菌とアミニズム

二酸化塩素による殺菌(殺ウイルス)効果を謳った空間除菌(除ウイルス)商品に対して消費者庁から措置命令が出たんだそうです僕が理解した範囲では、二酸化塩素という薬品をウイルスと一緒に試験管に入れて放置するような実験では二酸化塩素の効果が認められたものの、開放空間においては本当に効果があるのか疑わしいということみたいです。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。

同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。

こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。

散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。

2014年3月22日土曜日

日本人の永遠のテーマ「ヤンキー論」をちょっとだけ

今回のお題は「ヤンキー」です。これ、「天皇」とか並んで日本人にとっての永遠のテーマの一つだと僕は思います。ナンシー関は生前「日本人の血からヤンキーとファンシーは消えない」と言ってましたが、彼女の没後10年以上経った今でも本当にその通りだと思います。「ファンシー」に関しては、ぱっと思いつくだけでも「ゆるキャラ」「きゃりーぱみゅぱみゅ」「初音ミク」など、佃煮にして売れるくらい日本はファンシーで埋め尽くされています。まぁ、実際に「クールジャパン」っていう名前の佃煮にして外国に売り出そうとしているんですけどね。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。

前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。

平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。


2014年3月15日土曜日

日本では大して人望が無くても人の上に立てる

今回は日本では「サラリーマンの愚痴」と言われるような話をします。というのも、以前はそこまで気にならなかったのですが、日本に帰ってきてから日本の会社の管理職やエライ人のクオリティの低さにイラっとくることが本当に多いのですよ。何が問題っていうと、
・人を前向きな気分にさせる能力が乏しい、もしくはそういう気が最初からまるで無い
・部下が嫌がることを命じるのに、情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない
・上記のようなことがいちいち気になる。つまるところ人望がない、若しくは人を使うのがヘタ
ということなのです。みんながみんなそうだって言うつもりはなくて、勿論優れたリーダーだっているんですよ。でも、「人の上に立つ資質を欠いているのに人の上に立っている人」が結構な数いて、そのうちの何人かは大変残念なクオリティなのではないかと思うのです。
なんでこうなるのか。について僕なりの結論だけを先にを言うと「日本の会社はすごく安定しているので、資質が無い人が上に立っていても特に困らない」ということなんじゃないかと思うのです。

これは「会社」をひっくりかえして「社会」にしても全く同じ事が言えます。欧州で生活してみると、民主主義というのが彼らにとって必然のなりゆきとして生まれたという事が生理的なレベルでの納得感を伴って理解できるのです。個人の利益や自由を保証することと、社会を維持するという二つを両立するために、色々な試行錯誤を経た上で彼らは民主主義という社会システムを作り出したんだろうと思うのです。別の言い方をすると、そういうシステムが無いとたぶん彼らは本当に社会が維持できないんだと思うのです。実際、地震やハリケーンなどの甚大な自然災害によって秩序が崩壊すると、日本のように被災者が整然と避難所に集合して助け合うようなことにはならない国の方が多いようです。
これに対して日本という国は、ムラ的な相互監視システムによってそれなりに自律的に社会を維持できるんじゃないかと思うのです。このムラ社会では基本的に全員横並びであることが重要で、そこから逸脱しようとすると、出る杭は打たれるようなことになるわけです。そして日本では「誰かの文句を一緒に言う」などの形で「負の感情を共有する」ことによってムラの結束をより強めるという習慣があります。この辺りが外国人から見て一番理解されにくい日本の奇習の一つなんだと思いますが、日本人の「飲みニケーション」みたいな文化ってたぶん昔からあったんだろうと思います。なので、無理難題を押し付ける役人(上司)が上にいたとしても、致命的に限度を超えてない範囲ならば、かえって文句の言い甲斐があるので結果的にムラのチームワークがよくなってしまうようなことが起きたりさえするわけです。

話を会社に戻して、ここでいつもどおり海外では…という話を、例によって僕が嫌いな「欧米」という言葉を便宜上使ってしますが。人望が無かったり人の使い方がヘタな人が上に立つと、会社に対する帰属意識が弱い欧米では日本以上に組織のパフォーマンスが劣化して、それが結果に割と分かりやすく出てしまうんじゃないでしょうか。あと、何よりも日本と違って「嫌なら会社を辞めて違う仕事を探す」ということが割と当たり前なので、あんまり人望の無い人が上に立って部下に無理難題を押し付けてたりしてると、人が逃げていって組織自体が維持できなくなって死活問題に発展してしまいます。
だから、あんまり人を使うのがヘタな人や、人望が無い人が上に立ち続けることが難しいシステムになっているんじゃないかと思います。少なくとも、割と簡単に人に逃げられる欧米では人を使うということに関して日本の比ではないくらいの労力が要求され、管理職は個人の能力として単に優秀なだけではなく、それなりに人望が無いと務まらないんじゃないかと思います。

以上まとめると、日本の会社というのは、こういう風にできてるんじゃないかと思うのです。
「人の上に立つ資質を欠いた人」でも人の上に立ててしまう
                  ↓
人望の無い上司の無理難題に振り回されても部下は簡単には会社を辞めずに我慢する
                  ↓
部下達は上司の文句を言い合うことで連帯を深める結果、チームワークがよくなったりもする
これには一長一短あって、悪いことばかりでも無いと思うのです。能力の高い人が上に立つという弱肉強食的な競争社会って、それはそれで相当なストレスだと思いますよ。実際アメリカやイギリスなどの露骨な競争社会って精神的に病んでいく人が多いイメージがあります(という話を聞くだけで、本当にそうなのかは実体験を伴っていないので分からないですが)。
それに比べたら、資質が無くてもそれなりに上のポジションにいけるようにできてる(伝統的な)日本の会社システムってまだ平和だと思うのですよ。だいたい、儒教的な家父長制度をそのまま援用したような伝統的な日本の会社組織では一般的に年長者ほど上の立場に立つという仕組みになっていますが、こんなの完全な競争社会だったらまず実現しないですからね。
しかしこの、「儒教的な家父長制度」の上下関係だと、上司と部下は「親から子」のような関係になっちゃうんですよね。これが冒頭に挙げたように、「情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない」とか「人の前向きさを引き出そうという気がそもそも無い」という、態度にもつながってるようにも思えるのです。

一長一短ありながらも、それにしてもこれはさすがにどうかなー?と思うのは、人望も無い上に部下を子供扱いする態度に出るおじさん達が、一方では「イノベーション」とかいう言葉を振り回しながら社員に対して何かしら自発性や創造性を求めていることなのです。社員にそこを求めるんだったら、さすがにまずは自発性や創造性を喚起するような人の扱い方をすることから始めるしかないと思うのですが。そんなおじさん達が上に立って「イノベーション」とか言ってられるうちは、まだまだ会社も安泰なのかもしれません。
こういう事を言ってると、日本人サラリーマン諸氏には「まぁまぁ、腹立つ事とか納得できないことなんてサラリーマンやってればあって当たり前だよ。いちいち怒ってたらキリが無いだろ?大人になれよ。」とか言われるんですが。彼らは「子供扱いされるのを受け入れること」を「大人になる」と言ってるわけで、このパラドクスを咀嚼できる器用さが残念ながら僕には無いのですよ。


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ついでにこの文脈で我が国の政治家について言及しておきますと。ここ20-30年の日本の首相というのは、とても人望があるようには思え無いけど、ほどほどに文句の言い甲斐のある人達が大半だったと思うのです。
僕の知る限りの例外は小泉純一郎です。彼は「愛させる能力」だけで首相をやってたと思います。「小泉改革」が何を改革しようとしているのか国民のほとんどが実際は理解していないにもかかわらず、とりあえず国民に支持され続けたのって、ひとえに彼の「愛させる能力」の成せる業だと思うのです。
そしてこれを書いてる現在の安倍首相なのですが。彼は旧来の自民党首相とは違って、たぶん欧米の大統領みたいなキャラを目指しているんだろうと思うのです。が、残念ながら彼の発する全てのメッセージは「裏でジャイアンみたいな怖い奴に脅されて、お金持ちのお坊ちゃんが無理矢理言わされてる」かのように僕には見えます。まぁ、日本以外の国で大統領が務まったりする器だとは正直なところ思えません。何より彼が不思議なのは、憲法をいじったりして国家の株式会社化を進めることによって、日本という国を「安倍晋三では首相が務まらない国」に変えることに熱意を傾けていることです。

2014年3月2日日曜日

エロ本世代のおじさんが日本のポルノを語ってみる

先日、出張先でドイツ人に「どうして日本のポルノはモザイクがかかってるんだ?」と突然尋ねられました。そんなこと言われても「法律でそう決まってるから」としか答えられないのですが。そう説明しても当のドイツ人は「局部だけにモザイクかけることに意味あんの?」と、まるで納得してる様子が無くてちょっと困りました。我々日本人だってモザイクが必要だということについて納得感のある説明なんて多分できないですよね。
結局は「今はネットでモザイクかかってないのとかもいくらでも見れるけど、僕らの思春期にはインターネットなんてなかったのでモザイクかかってないのを見る機会がほとんど無かった。だから、なんだか今でもモザイクかかってる方が見てて落ち着く。」とか、「局部だけでなく、ニュース映像等では死体にモザイクをかけることが慣例になっているし、逮捕・拘束された容疑者の手にかかってる手錠にもモザイクはかかってる。」とか、そんな話でごまかしておきましたが。まぁでも確かに、日本のポルノ事情ってかなり特殊なんじゃないかと思うので、今回はその話について書こうかと思います。

そもそも歴史を紐解くと、江戸時代の春画なんて局部だけが過剰に強調されて描かれていたりするので。局部を見せてはいけないというルールが昔から日本にあったわけでは無いんだろうと思います。むしろそこだけ強調するために春画の大半は顔と性器以外は服で覆われていたそうです。まぁ、江戸時代は性に関してかなり奔放な時代だった(同性愛とかもごくごく普通だった)らしいですけどね。
そこからどういう変遷で現在のモザイク文化に至ったのかはよく分かりませんが、どうも明治時代くらいにできた法律における「わいせつ物」の解釈として「モロはNG」ということになってるみたいです。とまぁ、そこだけ見ると日本ってポルノに厳しい国のように思えるのですが。外国人に言わせると、日本のポルノ事情はビックリすることもあるそうなのです。
一番外国人が驚くのは、コンビニや書店などの普通のお店でポルノが買えることです。これ、日本人としては割と普通のことなのですが、外国人からするとかなり衝撃的なのだそうです。例えばヨーロッパの大半の国ではポルノというのは"sex shop"などといった名前のポルノ専門店でしか扱っておらず、子供がポルノに接することができないように割と徹底的に管理されているのです。
だから何って、思春期にインターネットなんてなかった僕と同じ世代のヨーロッパ人は、少年時代に日本ほどそう簡単にはエロ本は手に入れられない物だったらしいのです。日本だと、一応表向きにはダメということにはなっていたけど、多少恥ずかしい思いをすれば本屋でエロ本を買うことは中高生でもできたのですけどね。

だいぶ脱線して「最近の若い奴は…」というおじさんの口ぶりの話をしますが。僕と同世代の人って、男子ならほぼ全員が恥ずかしい思いをしながらも中高生くらいの頃にエロ本を買った経験があると思うのです。どんなに勉強できる人でも、どんなにスポーツができる人でも、世代共通の通過儀礼としてみんな経験してることなのですね。地元の本屋だと恥ずかしいから隣町の本屋にエロ本買うためだけに遠征に行ったり、布団の下に隠してたエロ本を母親が布団を干したときに見つかったり(だいたい母親は何も言わない)、処分に困った飽きたエロ本を草むらに捨てたりとか、なんだか書いてて懐かしい気分になるのですが。
そんな恥ずかしい思いをする必要もなく、ネットでなんでも見放題で育ったら、そりゃ「最近の若者は失敗を極度に恐れる」とか言われるようになるのもなんだか納得できる気がするのですよ。でもそういうこと言ってると、当の「最近の若者」には陰で「あのオッサン達、中高生の頃にエロ本買ってたんだぜ、ダッセー。」ってたぶん言われてそうな気がするんですよね。

海外(スペイン)在住時に、在住暦の長い日本人の男性から「引越しのために部屋を掃除してたら、昔日本から持ってきたAVが出てきたんだけど、いる?」と聞かれたことがありました。曰く、彼がスペインに住み始めた当時は今ほどネットは発達していなかったので日本に帰国した際には日本食材や薬等と一緒に日本のAVも持ち帰っていたそうです。そりゃぁ、その当時はさぞかし貴重品だったんだろうと思います。おかげで彼にとっては「捨てるのはなんかもったいないから、欲しい日本人がいるなら譲りたい」となって、わざわざ僕に聞いてきたんだと思います。
スペインにだって勿論ポルノはあるし、そういうお店に行けば大人なんだからいくらでも買えたんでしょうが。やっぱりそこは日本の方がいいんでしょうね。そんなに何度も見たことないですけど、洋モノのポルノって女優さんが目を開けてニコニコ笑ってたりするので、なんだか見ててゲンナリするので僕もちょっと苦手です。なんていうかな、「恥」の概念が欠けているのですよ。やっぱり日本は恥の文化だからでしょうか。