2022年3月21日月曜日

Everybody wants to rule the world

スマホでSNSに投稿したメッセージが世界中を駆け回るような時代に、まさかの戦争が起きてしまいました。この戦争によって、キューバ危機以来50年以上ぶりくらいで、一つ間違えば核戦争で人類全体が絶滅するかもしれないという危機を迎えています。「まさかそこまでしないだろう」と誰もが思っていた一線を、プーチンはやすやすと超えてしまいました。

このような非常事態を受けてわが日本にも少しだけ変化の兆しが見えてきているように思います。というのも、今まで一枚岩に見えていた反知性主義陣営にも小さな断裂が見えはじめたのです。具体的に列挙してみると、

  • A. 橋下徹やテリー伊藤のように安易にウクライナに降伏を呼びかける人
  • B. 安倍晋三のように、核武装論を唱える人
  • C. ゼレンスキーが真珠湾に言及したことに反応してウクライナ支援に異議を唱える人

簡単にウクライナに対して降伏せよと言うAの彼らには、「勝ち負け」という単純な基準にしか関心がないのでしょう。橋下徹なんてまさにそういう人ですよね。しかし、これとCとは矛盾してしまうんどえす。Aの人たちの価値基準に従えば、第二次大戦で日本がアメリカ相手に勝ち目があるわけもない戦いに打って出たことは愚行以外の何物でもないし、だまし討ちのような形で戦争を始めたのに結果ボロ負けしたことなどは恥以外の何ものでもないことになります。でもCの人達はそれに納得したくないわけですよね?

その一方で、上記A-Cの反知性主義者達に共通しているのは「自論に対して異議を唱える人や利害が異なる人がどのように反応するかを考慮していない」ということです。例えばウクライナに降伏せよと主張する彼らは、仮にウクライナが全面降伏した後にロシアがウクライナにどのような苛烈な扱いをするかを想像できていないですよね?だからこそウクライナ人は安易に降伏せずにほどほどにマシな停戦合意に持ち込むために戦っているわけです。Bの安倍晋三のような核武装論者も、日本が仮に核を持とうとした場合、周辺諸国との間に緊張をもたらすことまで本気でシミュレーションしているようには思えないです。

 たとえて言うなら、彼ら反知性主義者は「ゲームでしか麻雀をやったことがない人」のように見えるのです。ゲームの麻雀ではいくらでも他のプレイヤー(実際の人ではない)を待たせて考えることもできますし、なにより負けたところで掛け金も何も失うものがありません。しかし、本物の麻雀では流れを悪くしないように配慮しなくてはいけないので周りを待たせて長時間ゆっくり考えることはできませんし、負けたらいくばくかの掛け金も持っていかれるわけです。

 このような独善的な自己愛に耽溺している反知性主義者達は、プーチンとよく似ているように見えます。一部報道では、プーチンは発狂まではしていないものの、長い独裁体制で視野狭窄になっていて、ウクライナや国際社会の反応を十分にシミュレートできていないまま今回の軍事行動に踏み切ったのではないかと言われています。これがどこまで事実なのかはさておき、仮にそれが正しいとするなら、プーチンの起こした軍事行動について、日本のテレビではプーチンの劣化コピーみたいな人達が意気揚々とコメントしていることになるわけです。

 プーチンおよび日本の反知性主義者は、岸田秀の「内的自己/外的自己モデル」に照らして考えると内的自己そのものであるように思えます。日本のテレビはこのような反知性主義者をどんどんテレビの画面に映し出していますが、その一方でここ最近の日本社会には「各国と連帯してウクライナ支援しよう」という空気が主流になってきているように見えます。これは、岸田秀のモデルで言うところの外的自己にあたると言ってよいでしょう。このように国際社会のチームワークの一翼を担うこと(=外的自己の充足)に対しては、日本人はオリンピック以来の高揚感を感じているようにも見えるのです。結果的に、シリアやミャンマーの難民には何もしなかったのに、ウクライナの難民だけはものすごい勢いで受け入れようとしていますよね?

Everybody wants to rule the worldという曲は冷戦終結が見え始めた1985年くらいに流行った曲です。一説ではこの曲はジョージ・オーウェルの「1984」をモチーフにしているとも言われています。みんなが世界を思い通りにコントロールしたい…でも、そんなことは歴史上ほんの数人しか成しえなかったことです。たとえそれを運よく達成できたとしても、孤独と猜疑心の中を生き続けた末に寂しく死んでいった人がほとんどだったのではないでしょうか。僕にはプーチンがそういう系譜の一人のように思えてなりません。