2015年1月26日月曜日

イスラム国人質事件と戦後の終わり

これを書いている現在、イスラム国に二人の日本人が誘拐されて身代金を要求された事件は「タイムリミットの72時間を過ぎ、どうやら湯川さんだけが殺害されたようだ。」という状況です。
本件に関連して、イスラム国と日本の間をつなぐことが可能と思われるイスラム法学者の中田考先生(http://blogos.com/article/104005/)は、公安に押さえつけられて身動きが取れなくなっている立場を押して会見を開きました。彼の会見からは「日本人に理解されるとはそもそも期待してないけど、それでもここで何もしないよりはマシ」という、諦めが大前提にあった上での切実で真摯な空気が感じ取れると同時に、安倍晋三および日本政府の外交がいかに中東情勢を理解しない素人の立ち振る舞いであるかを静かに糾弾しているように見えました。
この事件に対する安部晋三及びその支持者であろう右寄りの方々の反応を見てると、この国の国民やってるのがどんどん嫌になってくるのですが、まぁその辺の話を順を追って。

まずネット上のニュース等でよく見かける「自己責任」という言葉を使う人々について。
自己責任という言葉の根底にあるのは以前取り上げた恥の文化という日本独自の心性なんじゃないでしょうか。わざわざ危険な場所に出向いてイスラム国に人質になるようなことは「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の戦陣訓と同じ「恥の感覚」に基づいて人質になった二人を非難しているように思えるのです。
この件に対する反応はアルジェリア人質拘束事件のときと極端までに正反対のように見えるのです。あの当時の日本の論調は「イスラム過激派に襲われて不慮の死を遂げた企業戦士の英霊」みたいな形で、亡くなった方々を悼む作業に過剰なまでに日本全体が熱中しました。そこに乗った安倍晋三は遺体回収に政府専用まで出すお手盛りぶりで犠牲者を遇したのでした。当時、細々ながらネットに「ハイリスクハイリターンの油堀りに自分から行って死んだんだから自業自得だ」みたいなことを言う人もいましたが、ものの見事に叩かれていたのを覚えています。でも、職業的必然性によって危険な場所に赴いたという点では今回人質にとられた二人とアルジェリア人質拘束事件の被害者は何も変わらないんじゃないかと僕は思います。
彼等の評価を分けた要因は「生きて虜囚の辱めを受けた挙句に身代金を要求される事態に至り、日本政府を含む多くの人に迷惑をかけた」か、「テロリストに問答無用で殺害されて非業の死を遂げた」かの違いでしかありません。つまり「生きて虜囚の辱めを受けず」を守ったかどうかの違いでしかないのです。もしかしたら現代の日本では人様に迷惑をかけない教の支配がもしかしたら戦前以上に強いんじゃないかとさえ思います。
さらに何が問題かというと、「自己責任」という言葉を使う人の頭の中では「わざわざそんな危険な場所に自分から出向いていったのが悪い」ということと「殺されても仕方がない、身代金なんて払う必要はない」が何の躊躇もなくイコールで結ばれてしまっているように見えるのです。
二人の日本人がイスラム国に捕らえられて人質になったのはだいぶ前の事ですが、殺人予告ビデオに引っ張りだされて身代金を要求された挙句に殺害される結果になったのは安倍晋三が中東の西側寄りの国を外遊して不用意にイスラム国を刺激したり「戦う」なんていう言葉を不用意に持ち出したからです。
「自己責任だから殺されても仕方ない」と言っている人たちは僕の想像ではネトウヨなどに代表される安倍晋三支持層なんだと思いますが、この人達は二人の日本人が殺害予告の対象になるような結果を招いたことが御自身の支持する安倍晋三にある、翻って自分にもわずかながら責任があるという意識が全く無いんだろうと思うのです。

そして、安倍晋三の「テロには屈しない、戦う」と向かって言い張る姿勢を評価する人達って、「テロは許されるべきでない」と「戦う」が何の躊躇もなくイコールで結ばれているように見えるのです。テロは許されるべきではないのは誰だってわかります。だからって不用意に「戦う」なんて言うと尚のこと日本および日本人がテロの標的になってしまいます。この辺りを「煮え切らない態度の末にやりすごす」という一昔前までの日本の政治のような立ち振る舞い方が安倍晋三には致命的にできないのです。わざわざイスラム国の反感を煽るような言動の後に「卑劣なテロの被害者」という被害者の立場を先取して自身を正当化しにかかるという外交政策は、日本を大東亜戦争へと導いた戦前の日本の外交政策のロジックそのものです。
現在の中東情勢の背景には中東のイスラム教徒が西側諸国に振り回されて不当に扱われてきた歴史があります。こういう歴史的背景をわきまえずに不用意に西側諸国の側について「戦う」とか言ってしまうと、イスラム教徒の立場からは「十字軍に参加した」と見做されて、積もりに積もったイスラム教徒の西側諸国への恨みまで一緒に引き受けてしまうことになってしまうわけです。そのことがもたらす災厄を安倍晋三およびその支持者は過小評価しすぎているんじゃないかと思います。
もっと言うと、外交というのは「僕ちゃんの正義」が最初から通用しない相手と交渉することだという感覚が彼等には無いんだろうと思います。あんまりこういうこといいたくないけど、これこそが「島国根性」という心性(分かり合いたがりすぎる、分かり合えると期待し過ぎる)のように僕には思えます。

しかしながら、日本政府というか安倍晋三が目指していたのって最初から今回のような結果になることだったんじゃないかなと思うのです。つまり、西側諸国と同じように「テロの標的になる」「テロと戦う態度を示す」「イスラム国と交渉する」ことこそ彼らが望んでいたことなのではないかと。だから中田考氏のようなイスラム国の側の考え方を理解できる人材を人質解放の交渉に活用するなんて彼は最初から望んでいないんだろうと思うのです。
繰り返しになりますが、かくして「相手のことを考えない、相手の土俵に乗ろうともしない」という稚拙で一本調子な外交の末に「悪のテロ組織によって貴重な人命が失われた」と、被害者の立場を先取して自身を正当化することは、日本を大東亜戦争へと誘導した戦前の日本政府と何も変わりません。政治に携わる人は「僕ちゃんの正しさをわかってもらう」ことよりも国民の生命、自由、権利といった「国民の利益」に重点を置くべきですし、そもそも「僕ちゃんの正しさ」だけ吠えてればいいんだったら政治なんて必要ありません。

かくして日本という国は戦後70年にわたって平和憲法と煮え切らない外交によって維持してきた「他国から敵と見做されない立場」をとうとう捨ててしまいました。この状況は別の言い方をすると「戦後」が終わり、新たな戦争の「戦前」かもしくは「戦中」に入った事を意味しています。というような事を誰かが言ってたのを読んだ気がするのですが、誰だったか思い出せないので参照もせずにそのまま使わせていただきます。若しくはこうやって戦争に巻き込まれに行くことが安倍晋三の言う「戦後レジームからの脱却」なんでしょうかね?
今度の戦争においては従来型の戦争のように明確な戦場という場所がたぶんありません。テロは当たり前のように市民生活が営まれている場所で発生します。日本でテロ事件が発生したときに被害に遭うのは、今回のイスラム国による人質事件の被害者を「自己責任」と断罪した方々かもしれませんし、僕なのかもしれません。「自己責任」や「卑劣なテロ」という言葉を使って事態を「正義」と「悪」のような簡単な図式に落とし込むことで知的負荷を減らしたがる方は、一度その事について考えていただけないかなぁ。と、日本国民の一人として思うわけです。

2015年1月3日土曜日

ヨルタモリは能に見える

30歳になったときに「そこから40になるまでびっくりするくらい早いよ」と職場のおじさんに言われたのですが。これ、本当にその通りで、気がついたら四捨五入して余裕で40歳になってしまうような年頃になりました。こうやっておじさんへの道を着々と歩んでいると、新しい何かを自分に取り入れるのがどんどん面倒になってくる反面、これじゃいかんという危機感も相まって、新しい何かに出会うとすごくうれしく思えるようにもなりました。
そんなこんなで、昨年新たに自分の興味の対象に「能」が加わったときにはなんだかすごくうれしかったのですよ。興味を持ったきっかけは例によって内田樹先生です。内田先生はフランス現代思想と合気道に加えて趣味として能をやっていて、能に関する講演や著作活動もしています。その影響で去年は何度が能楽堂まで実際に見に行ったのですが、そしたらこれが面白かったんですよ。あれはオーケストラなんかと一緒でテレビではなくライブの場で見るべきだと思います。

能の何がいいのかと聞かれると明快な答えはなかなか見つからないのですが、いろんな人に言われているように能は「祈りの芸能」なのです。あらゆる芸能は源流に遡ると大なり小なり宗教儀式という性格を持つのですが、中でも能は宗教儀式という側面をそのまま色濃く残している芸能なのです。だから、能を見に行くというのはお芝居を見に行くのと神社に参拝に行くのを混ぜたような不思議な感覚なのです。
そんなこんなで能や能に関する本ばっかり見てたら日本人のつくる物は妖怪ウオッチまで含めてなんでも能に見えてしまうようになりました。例えば、「千と千尋の神隠し」はあからさまに能の影響が見て取れます。川の神様(顔が能の神の面そのもの)を浄化する浴室の壁には老松が描かれていて能舞台を意識していますし、なにより話の構造自体が「ワキ(千尋)が異界へ引き込まれる→そこでシテ(川の神様、ハク、カオナシ)の苦しみを、ただ聞いて寄り添ってあげることによって浄化する」という、典型的な能の曲の構造になっています。

で、ようやく本題のヨルタモリなんですが。これも見事なまでに能の構造をしているように見えるのです。ざっくり番組について少し説明しますと、舞台は宮沢りえがママを務めている東京の架空のバーです。そこでゲストとタモリ扮する架空のキャラクターによるトークを基本として番組は進行するのですが。30分の番組の進行を時系列をおって記述するとだいたいこういう構成になっています。

  1. 宮沢りえとゲスト出演者とのトークで始まる
  2. しばらくするとタモリ扮する架空のキャラクターが登場する
  3. トークを繰り広げた後にタモリ扮する架空のキャラクターがトイレに行く
  4. トイレに行ってる間はタモリが別のキャラクターに扮する架空のテレビ番組が流れる
  5. 架空のテレビ番組が終わるとタモリ扮するキャラクターがトイレから戻ってくる
  6. しばらくトークして、タモリ扮するキャラクターがお金を払わずに帰っていく
能でいうと、宮沢りえ=ワキ、タモリ=シテです。
タモリが架空のキャラに扮して登場して、さらに途中で別のキャラクターになって架空のテレビに出てくるというフラクタル的な虚構の構造は能のシテが途中で正体(妖怪とか神とか)を現すのと同じように見えます。
そして。実は宮沢りえも暗黙のうちに「芸能人:宮沢りえ」と「架空のバーのママ」の間を行き来するのです(これは能のワキには普通見られないのですが)。宮沢りえが上記の1の場面では「芸能人:宮沢りえ」として昔話をしていることが多いのですが、タモリ扮する架空のキャラクターが出てくるといつの間にやら「架空のバーのママ」のキャラになります。その後また「芸能人:宮沢りえ」との間を暗黙のうちに行ったり来たりするのですね。
能の面白いところの一つは、同じ演者のキャラクターがいつの間にやら変わっていたり、時間がいつの間にやら何十年も後になってたり、場所が全然違う場所になってたりと、時空間が能舞台の上で変容していくところだと思うのですが。こういう観点からするとヨルタモリはとても能と共通する印象を受けるのです。


蛇足ですが「時空間の変容」という観点からすると、「ハウルの動く城」もとても能に近い印象を受けます。ソフィーが少女と老婆の間を行き来することや、城の中のいくつかの扉が全く違う世界に繋がっていることなんかが能っぽく見えるのですね。「千と千尋」と「ハウルの動く城」は製作時期も確か繋がっていると思うのですが、この二作は宮崎作品の中でも特に能に近い感性を感じるのです。

2015年1月1日木曜日

マニュアル本信者とスピリチュアル

だいぶ間が空きました。気がついたらもう年が明けてしまいました。そんなこんなでこのblogもほとんど文句ばっかり書いてる割には気がついたら一年半も続いてしまいました。昔から、一度始めたことを延々と続けることに妙に固執する性癖があるのです。小学生二年生のときには「冬でも半袖半ズボン」をやせ我慢の末に達成し、20代の頃はお正月に注連飾りを車につけてそのまま一年間走り続けたことがありました。というわけでこのblogも案外このまま続くかもしれませんし、突然ぱったりやめちゃうかもしれませんが、ともあれ今年もよろしくお願いします。
さて、例によっていきなり結論から入りますが、今回言いたいことは以前ネタにした「ビジネス書に対する態度がモテるためのマニュアル本信者と変わらない人達」ジェーン・スー女史が言うところの「スピリチュアルにハマる女子」はほとんど一緒なんじゃないかなと思ったという話です。
上記の両者のどっちらも根底にあるのは自身のポテンシャルと「特別な自分になりたい」という願望の間にギャップがあるということです。で、それを埋めるために女子の場合はスピリチュアルにハマり、男子の場合は何かしらのビジネス書などをマニュアル本として信仰する結果につながっているように見えるのです。いずれにせよ、願望と現実のギャップを埋めるための手段が「信仰」になってしまうということはこの両者に共通していると思います。

なんでこうなるかというと、小田嶋隆氏が小保方氏の事件に際して指摘していたいように、この国では「女子力」や「コミュ力」のような「虚力」によって実力が水増しできるというよく分からない信憑があるからなんじゃないかと思うのです。もちろん所詮は虚力なのでいざとなると役に立た無かったり、それだけに頼ってると小保方氏みたいになっちゃうんですけどね。
もうちょっと飛躍した話をすると、「全員が神に愛された特別な人間である」という前提でできているキリスト教文化から中途半端に表面的な教育制度をコピペしてしまったのが問題の出発点なんじゃないかと思うのです。結果として日本の教育って「虐げられる者として収奪される庶民として生きること」と「特別な自分になるための自分探し」という矛盾したテーマを同時に突きつけていて、これが「誰でも特別な自分になれる」という信仰に傾倒する人々を生んでるように思えるのですね。
こんなことにならないためにどうしたらいいかというと、だいぶ説教臭いんだけどやっぱり教養というのはすごく重要なんじゃないかと思います。教養って、それを知っているからといってお金が儲かるとかモテるとかそういう実用的な価値はまるで無いけど、それを知っていることで人生が豊かになるような物だと思います。そういう資質が育てば、虚力によって実力不足を補おうとするのがどれだけカッコ悪いか生理的な反応のレベルで理解できるようになると思います。最近読んだ天才数学者岡潔の本に書いてあった言い方を借りると教養というのは「物の良し悪しがわかる」ということなんだと思います。

しかしながら、自称「未婚のプロ」であるジェーン・スー女史の本を読んでると、まだスピリチュアルにハマる女子のほうがマニュアル本信者の男子よりもマシなんじゃないかと思うのです。だって、スピリチュアルにハマる人はそれが虚力であるということをある程度わかってますが、マニュアル本信者ってマニュアル本によって自分に新たな力が加わったと本気で思ってるみたいですから。
そして、女子のスピリチュアルは身体性を伴うのに対して、マニュアル本信者の男は身体的要素が欠落していてたいてい脳的な快楽の追求だけを志向しているように見えるのですね。またしてもだいぶ飛躍しますが、女子って「自分が子供を生むか」について子供の頃からずっと意識的なわけで、自分が身体性と不可分な関係にあることを生まれながらに理解しているように思えるのです。一方、自分の身の回りの経験からの話でしかないのですが、「特別な自分になりたい」と言ってマニュアル本信者になる男子は子供を持ちたがらない人が多いように思います。
彼等の好きな"純粋に脳的な快楽"の対極にある「自然そのもの = 当たり前の手順で当たり前のように育つ(セックスしたら妊娠して普通にお腹が大きくなって血まみれで生まれてきて、ちっとも言うこときかない) 」として生まれてくる子供が彼等は怖いんじゃないかと思うのです。子供が生まれる=「自分にとって世界で一番大事な存在を人類が累々として積み重ねてきた当たり前の手続きで得る」ということは、自分が人類全体の営為の一部として生きているという実感を得る機会になるんじゃないかと思うのですけどね。

でもこれって、マニュアル本信者が志向する「特別な自分」という自意識と相反する感覚だから彼等は子供を忌避するんじゃないかと思うのです。もしくは、マニュアル本信者は「特別な自分」の実現(どうせできないんだけどね)という物語に夢中で子供なんて邪魔にしかならないと思ってるのかもしれません。でも子供ができるのって「特別な自分」という執着から自由になれるせっかくのチャンスなんじゃないかと思うのですけどね。
別の言い方をすると、子供ができるという経験によってはじめて男性は人類が累々と積み重ねてきた時間方向の営為の連鎖に取り込まれていくのではないかと思うのです。例えて言うなら、(ベタな例え話としてSNS等にように)同時代的に横方向にしか繋がっていなかった人が、子供の誕生によって縦方向に何万年と続く人類の時間の流れに接続されるわけです。女性はこうやって命が連鎖していることを誰に教わるでもなく最初からなんとなく理解しているように思えるのですけどね。

うーん。気がついたら、なんか消耗品として20世紀末に消費されつくした村上龍の本みたいな話になっちゃったぞ。