2017年8月11日金曜日

子供番組と科学

このblogを開始してから気が付いたら4年ちょっと経過しました。開設当初にこのblogを始めたことを3-4人の友達に連絡した記憶があるのですが、基本的にそれ以外の誰かに自分からこのblogの存在を広めたことはないですし、SNSからこのblogへリンクを張ったりしたこともありません。昔からインターネット上の孤島みたいな誰も来ない場所に一人で思いついたことを書き連ねるのが好きなのです。もしかしたらgoogleか何かで検索して偶然このblogに辿り着いて、以後定期的にこのblogをチェックしてる人もいるのかもしれませんが。もしいたとしても僕のポリシーをなんとなく理解して、穏やかに今後も見守ってていただけているのでしょう。
そんなこんなで気が付いたら今回が100回目の投稿となりました。僕は20世紀末のweb1.0時代の空気を苦笑いしながらときどき回顧したい方なので、キリ番(なつかC)ではほんの少しだけはしゃいでおきたいのです。4年ちょっとで100回ということは、一年で24回なので、平均して一カ月に2回の更新頻度ということになります。開設当初は猛烈な勢いで色々なことを書いていたのですが、その後徐々にペースダウンして、子供が生まれてからはさらにペースが落ちて2カ月以上ほったらかしてるときもあったのですが。それでもここまで続いてきて、最近は再びペースが少しだけ上がりつつあります。

さて。前回「科学的思考と受験エリート」という話を書いたのですが、今回もその続きの話をさせてください。というのも、SNS上で関わりのある30歳くらいの人が「日本人がテクノロジーに対してどこか否定的なのは、宮崎駿がテクノロジーをネガティブに描いているからだ」と言ってるのを見て、「それはちょっと違うんじゃないか?」「それは表層でしかなくて、その背景を考えようよ」「何でも簡単に誰か、何かのせいにしたがるのってどうなんでしょうね?」とか思うことはいっぱいあるんですけど直接は言えない…ので。もし彼に何も遠慮せずに言えるとしたら言ってやりたいことをしたためてみようと思います。
まず宮崎駿の話から言うと、宮崎駿は「テクノロジーの塊である飛行機が大好きな一方でアミニズム的な自然観も大好きで、その両者の間で常に葛藤している」のだと思います。これは宮崎駿個人の問題ではなく、我々日本人が普遍的に抱えている問題で、例えばドラえもんについても全く同じことが言えます。ドラえもんはテクノロジーが行きついた先の未来を「ピカピカの服を着た人たちが暮らす便利で豊かな理想の世界」として描いていている一方で、だいたいの話は「ドラえもんの道具に味を占めたのび太が調子に乗った挙句に痛い目に遭う」という話型になっています。

前回の投稿でも言及しましたが、キリスト教を文化的背景とする欧米人にはこういう葛藤はおそらく無いんだと思います。前回の最後でおさるのジョージの歌詞を引用しましたが、おさるのジョージはドラえもんや宮崎アニメとは違い、徹底して「科学的なチャレンジは善」なのです。だから、ドラえもんにおける「のび太が道具の味を占めて調子に乗る→痛い目に遭う」のようなシーンは見たことがありません。ジョージは時々色々なアイデアを思いついて実行します。時にはそれが失敗して周りの人に迷惑をかけることもあるのですが、黄色い帽子のおじさんは決してそのことでジョージを怒ったりはしないのです。
同じように「科学的であることは善」が徹底しているという傾向は欧米人が作った別の子供番組「ミッキーマウスクラブハウス」にも見て取れます。この番組はミッキーと仲間たちが適切な道具を選びながら問題を解決していく形で話が進むのですが。話の最後で必ず歌うマウスケダンスという歌は「とっても楽しい一日 みんなで力合わせて 問題を解決したね」から始まります。「問題に対して適切な解決策(道具)を選んで問題を解決する」という科学的なフォーううムがここでも徹底的に肯定されているように見受けられます。

以上より。キリスト教文化圏だと「科学」は全肯定される半面、日本人はどうしても「科学、テクノロジーが大好き」と「それをどこか否定したい気持ち」の間で揺れているのです。なぜこうなるか?というと、いくらでも説明のしようはあるだろうとは思うのですが、過去のblogの投稿から説明してみると、養老孟司の「脳化」というキーワードとか岸田秀の「内的自己・外的自己モデル」辺りが妥当なんじゃないかと思います。
養老孟司曰く、江戸時代という長い平和な時代が続いたことによって日本人は「脳化」したそうです。脳は予測と統御を司る器官であり、例えば「都市」というのは典型的な脳の産物なんだそうです。ドラえもんの道具や、作中の「ピカピカの服を着た人たちが暮らす未来の世界」などはまさに脳的な快楽の典型だと思います。一方で脳は予測不可能な自然を忌避します。結果として我々日本人は常に脳と自然とのせめぎ合いの間で揺れていて、その葛藤が宮崎駿の作品やドラえもんには描かれているのではないでしょうか?
一方で別の見方をすると、西洋科学はペリーの来航→開国の時代にやってきた外来文化なので、これに対応するのは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルでは外的自己の担当になります。岸田秀曰く、ペリーによって半ば強引に開国されたときに日本人は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂したんだそうです。このモデルで考えると、外的自己としては西洋科学を器用に受け入れた半面、内的自己としては日本固有のアミニズム的な自然観にノスタルジーを禁じ得ない、という日本人像が形成されることになります。そして、宮崎駿の作品やドラえもんはこの対立のもたらす葛藤を描いていると言うことができるでしょう。