2014年11月3日月曜日

妖怪ウォッチと能

先日、姉が甥っ子達を連れて実家に帰省(別に込み入った話ではなく、単純に子供が小学校に上がって気楽に帰省できなくなる前に子連れで帰省したかったそうです。念のため。)してきたので、そのタイミングにあわせて久々に実家に帰ってみました。4歳と6歳になる甥っ子達は妖怪ウォッチ(と昆虫)に夢中らしく、聞いてもいない妖怪ウォッチのキャラ(コマさんが一番人気だとか)の話を散々聞かされたり、ようかい体操第一の振り付けを無理やり一緒にやらされたり、"肉球百烈拳"(ジバニャンの必殺技だそうです)と叫びながらポカポカ殴られたりしてきました。
甥っ子達の話を聞いていると、ジバニャンは交通事故で亡くなった猫の自縛霊だとか、大人目線で考えて「子供相手のアニメにそんな設定を盛り込むのか?」と思うような事が沢山盛り込まれていたので、とりあえず妖怪ウォッチを一度見てみることにしたのですが。いやはやこれが結構面白いんですよ。そして、妖怪ウォッチは「妖怪=この世ならざるもの」のもたらす災厄を呪鎮するという意味で、能に極めて近い存在なんじゃないのかという事を考えたのですね。というわけで、今回は久しぶりに文句ではなく割と楽しい話です。

まず。最初に申し上げますが、僕が言いたい事は例によって内田先生の受け売りです。これを読んでもらえれば、妖怪ウォッチが能と同じ機能を果たしているという事はご理解いただけるんじゃないかと思います。
一回しか生で能を見に行った事の無い僕が言うのもどうかと思うくらいおこがましい事ですが、能の多くの作品は妖怪や怨霊などこの世に災厄をもたらす存在を鎮めるという物語にになっています。このような「この世ならざるもの」のもたらす災厄を軽減するために能は上演されてきたわけです。
妖怪ウォッチのアニメも基本的にはこういう話になっているように見えました。ただし、妖怪のもたらす災厄を鎮めるための方法として、ポケモンのように友達になった別の妖怪をぶつけて解決するのが基本なのです。この辺はさすがに妖怪ウォッチは元々はゲームから始まってるので能とは違っていて、ポケモンや女神転生、古くはゴジラvsモスラのような「この世ならざるもの同士の戦い」の形式をとっています。

たぶん京極夏彦とかいろんな人に言い古されているだろうと思うのですが、妖怪というのは日本人のアミニズム的な霊的感受性が生み出した伝統文化なんだと思います。中世には妖怪画というジャンルが存在して多くの妖怪画が描かれていますし、そこからゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチに到るまでいつの時代にも妖怪は大衆文化のモチーフとして身近な存在でした。
wikipediaによると、妖怪はこのように説明されています。
自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。
この感性って科学が発達した現代になっても日本人には「血」のように受け継がれていると思うのです。

「表面的に器用だけど内面的に不器用」な日本人の「内面的な不器用さ」の源流の一つであるアニミズム的な感性を前面に打ち出した妖怪ウォッチのようなアニメが子供の間で流行っていることを深読みしてみると、世界のグローバル化という趨勢に対するカウンターとして日本人独自の感性への回帰という志向が見て取れるような気がするのです。
ポケモンも十分アミニズム的といえばアミニズム的(あれって言ってみれば精霊とかそういう類の、架空の動物ですよね?)なのですが。ポケモンって外国人にもまだ咀嚼可能なレベルだったんじゃないかと思うのです(本当にポケモンが海外で大人気だったのか、僕はやや疑わしいと思っていますが)。しかし、妖怪ウォッチはアミニズム的な感性を持つ国々(たとえばインドネシアなど東南アジアの国々)でさえ咀嚼できるか怪しいんじゃないかな?と思うのですよ。

2014年10月7日火曜日

マッサンはクールジャパンと同じ香りが漂ってる気がする

朝の連続テレビ小説を一番ちゃんと見てたのは小学生だった昭和末期の頃なんじゃないだろうか。夏休みとかになるとヒマだから毎日のように母親と一緒になって見てたのですよ。その頃の朝ドラは必ず明治~大正~昭和初期という時代設定で、必ずと言っていいくらい主人公が空襲で焼け出されたり、「おしん」みたいに苦労したり、とにかく苦労や災難やトラブルの間になにかしらの幸せ(意地悪な人が優しくなってくる、恋愛~結婚~出産、ダンナが戦地から生きて帰ってくるなど)が挟まって話ができているという王道パターンを踏襲していたような記憶があります。
苦労する人を見て感情移入したり涙を流したりするのがエンターテイメントとして成立するという感覚ってたぶんアジア人に独特なんでしょうね。韓流ドラマとか見てても同じこと思いますし、インドネシアで「おしん」が大ヒットしたのもきっとそういうことなんだろうなと思います。

実は大人になってからはこういう喜怒哀楽のローテーションで構成されているドラマ(敢えて言うと、女性の好きそうなドラマ)がなんだか苦手になってしまったのです。「わざわざそんなアップダウン激しくなくても、小津安二郎の映画みたいに淡々と日常が描かれてるドラマでもいいんじゃないかな?」とか思ってしまうんですけど、それを奥様に言うと「そのアップダウンが面白いんじゃん!」て言われるんですね。まぁ、そうなんだろうな。。
朝ドラの時代設定が「あまちゃん」以降3作連続で戦前に戻った理由には、「あまちゃん」のインパクトが大きすぎたので現代劇を持ってくるのに勇気がいるというのもあるのでしょうが。あの戦前の時代を舞台にすると苦労や貧乏を現代劇に比べてより鮮明に描ける上に、そこまで差し迫った現実感の無い「バーチャルな苦労や貧乏」としてほどほどの距離感を保ちながら安心して受容できるんじゃないかと思うのです。例えば現代劇でダンナのDVの末に離婚して生活保護受けながら子供を育てる女性の苦労を朝ドラで毎日のように見せられたとしたら、たぶんあまりに現実的すぎて見てる側がいたたまれなくなりそうでしょ?

さて。そんなこんなでようやく本題、先日から始まった朝の連続テレビ小説「マッサン」の話です。朝ドラ史上初の外国人ヒロインということでどんなものかと初回から数回見てみたのですが。早くもクールジャパンにも通じる「日本人による、日本人のためのセルフ接待に外国をワンクッション噛ませただけ」という空気をなんとなく嗅ぎ取ってしまったのです。
まず、スコットランドでの回想シーンが全部吹き替えっていうのはさすがにどうかなー?と思うのですよ。前作の「花子とアン」は「戦前の日本で山村の貧民出身ながら英語が喋れるようになった日本人」の話だったので、とにかく登場人物に英語を喋られせては全部日本語字幕で表示してたのですが。今回の「マッサン」は「ガイジンが日本に来る」という話なので、「ガイジンが英語で喋ってる会話なんてどうでもいいから全部吹き替えにしちまえ」という空気を感じるのですね。別の言い方をすると、アウェイ(花子とアン)の後にホーム(マッサン)を対置したような関係になっているから、ホームではガイジンの会話も全部吹き替えにしちゃったということなんだろうと思います。
吹き替えっていうのはリアリティとか外国語とか、色々な物に対する冒涜なんじゃないかなと思うのですよ。しかもそれをスコットランドでの回想シーンだけに限定して適用するのってなんかヘンじゃないか?と思うのですね。二回目の放送なんて主人公の二人が初めて出合った重要なシーンなのに、そこでの会話が全部吹き替えなんですよ?さすがにあんまりだと思いました。これについては僕だけじゃなくて、同じ指摘をしている人は沢山いるそうです。

マッサンは「世界のこんなところに日本人が」とちょうど真逆の構造なのですね。この手の番組ではたいてい日本人が外国に嫁いで色々と苦労もしながらも現地に馴染んで暮らしている(けど時々日本のアレが食べたいとか日本のアレが懐かしいとかそんな)絵を流しているのですが。不思議なことに日本人妻が日本の悪口を言うところを一切流さないんです。
海外にローカライズされて長年暮らしている人から見たら、日本は忘れられない祖国であると同時に今更あの国で暮らすのはちょっと無理って思ってるだろうと思うので。当然「ココがヘンだよ日本人」的な指摘があってもいいはずなのですが、そういう言動は全く放送されないのですね。結局は日本人の視聴者に「海外での暮らしぶりをを少しだけ追体験させる→でも結局海外よりも日本で暮らすのが一番」という満足を与えるためにあの手の番組は存在しているように見えるのです。

話をマッサンに戻しますが。なんとなくこの先を予想すると、エリーが苦労しながらも日本人の人情に支えられて日本の「お・も・て・な・し」の心を学んでいくとか、そんな話になっていくんじゃないんだろうかと思うのです。つまり、国民全員が小姑目線で「日本の生活習慣に不慣れな外国人が色々失敗するのを優しい目で応援してあげる」とか「だんだん日本の素晴らしさが解ってきたか、よしよし。」みたいなイイ気分にしてあげる方向に向かいそうな気がするのです。
前作の「花子とアン」と「マッサン」をセットで考えると「少しずつだけど国際化しつつある日本」という現実に対して日本人の心象を何かしら投影しているようにも見えるのですが。前作の「花子とアン」は戦時中の日本で一部の知識階級が無知蒙昧な差別を受ける姿を通して右傾向化する日本をやんわりたしなめているように見えたのに対して、こうも真反対のクールジャパンバンザイ方向に急に振れてしまっているのは本当に不思議なんですよね。やっぱりあのNHKの会長とか経営委員とかのせいなのかなぁ。。

2014年9月15日月曜日

はしゃぎたがる日本人

これを書いている現在、朝日新聞の吉田調書問題が取り沙汰されて一週間くらい経過したのに収束する気配が見えないところです。朝日以外のマスコミはここぞとばかりに集中砲火を浴びせていますね。
僕には朝日新聞の誤報がどうとかよりも、吉田調書の「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」「本当に死んだと思った」という言葉や、この調書を朝日がリークするまで隠蔽しようとしていた政府の方が心底恐ろしく思えます。これでもまだ経済のために原発を動かそうとかいう人達はどうかしているんじゃないかと僕には思えるのですけどね。
ともあれ、今回は安倍晋三と彼を支持する右寄りの方々、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者なんかもそうなんですけど、とにかく「はしゃぎたがる人」というのが日本という国全体でどんどん増えていることについての話です。
例に寄って先に結論だけ述べると、ジャンルを超えて日本全体でこうなっちゃった理由はやっぱり震災と原発事故がキッカケなんじゃないかな?と思うのですが、まぁ順を追ってご説明しますね。

これだけ吉田調書誤報問題が長引いているのはなぜか。というと、単純にこのニュースにはしゃいで大喜びして朝日新聞を攻撃したい人が沢山いるからなんじゃないかと思うのです。安倍晋三のはしゃぎっぷりなんてヒドくて、「ついでに慰安婦の件も誤報だったと世界中に伝えろ」と、ついでの勢いで慰安婦問題も無かったことにしようとしにかかっていたりします。またこれで中韓との関係が悪化する方向に向かうでしょうね。。
国家間の外交というのは、物の考え方の度量衡がそもそも異なる外国と利害関係を交渉をするわけですから、「僕ちゃんの理屈」だけ振り回しているのではなく相手が言ってきそうなことを想定した上で立ち振る舞ったり、相手の言い分との間を取ったりする必要があるのですが。どうも安倍晋三ってそういう複雑な話を複雑なまま受け入れることができないので「僕ちゃんの理屈」の中で閉じてはしゃぎたがっているように見えるのです。内田先生もだいたい同じことを言ってますね。

”はしゃぐ人達”とひとくくりにした安倍晋三及びそれを支持するネトウヨを含む右寄りの日本人、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者も全部そうなんですが、彼等の表面的な態度は判で押したように「はしゃいでいる」ように見えるんです。
いい大人にもなってはしゃいでるように見える彼等に共通しているのは「僕ちゃんは僕ちゃんの信仰や、僕ちゃんを理解してくれる人のことだけを考えています。それ以外の人のことは一切考えていません。」といった具合に、自分に都合の悪い事の存在を一切無視して自分の価値観の中に閉じこもりたがるということです。
で、ようやく本題なのですが。「なんで彼等がこのようにはしゃいで閉じこもりたがるのか?」ということについて考えると、やっぱり震災と原発事故にたどり着くように思えるのです。それまで磐石の安定感の上で暮らしていると信じていた日本人は、震災と原発事故によって自分が今まで磐石と信じていたものが実はものすごく不安定なもので、思ってたよりずっと簡単に死んじゃったりするということに気づいてしまいました。しかも、関東~東北の日本人は誰もはっきりとは言いませんが大なり小なり被爆してしまいました。ケガレに対して異常なまでに敏感な日本人は、ケガレないようにすることには一生懸命になりますが、放射能によってケガレてしまった後に生きていく術に関してはびっくりするくらい方針が立たないのです。この結果として日本全体がやんわりヤケクソになってはしゃぎはじめたんじゃないかな?と僕は思うのです。

震災以降の日本を見ると、中韓には歴史問題でも領土問題でもとにかく強行な態度に出ようぜとか、オリンピックが決まったぜイエーイとか、クールジャパンで日本は世界中から尊敬を集めてると思い込んだり、憲法も変えちまえとか、もうどうせ被爆しちゃったし原発は再稼動して金儲けを最優先しようぜとか…これらはすべてやんわりヤケクソになってはしゃいでいるように僕には見えるのです。
一方で、じゃぁみんながみんな同じようにはしゃいでいるか?というと、勿論そんなわけでもないのです。全員がそうってわけじゃないけど、例えば子供がいて命を未来につないでいかなくてはいけないと思ってる人はあんまりヤケクソになってはしゃいだりしないように見えるのです。だって、自分にもし子供がいたら、再び原発が事故を起こして子供達が汚染されることや、憲法を変えたことで子供達が徴兵されることなんて絶対に避けたいだろうと思いますよ。
勿論、子供がいるけどはしゃいでる人もいれば、子供がいないけどはしゃいでない人もいるんですよ。子供がいる/いないという短絡的な話ではなくてもう一段掘り下げて言うと、はしゃいでいる人に共通しているのは「今、ここ」の事しか考えていなくて、その先の未来に対して責任を持とうという意思を感じないのです。
先日ふと気になって検索してみたら、歴代首相の中で子供がいないのは安倍晋三にくらいなんだそうです。最初に述べたように安倍晋三が「僕ちゃんの理屈の中に閉じこもって、はしゃぐ」という子供じみた振る舞いをするのもなんとなく理解できるような気がするのです。彼はおじさんとして成熟する機会を逸したまま社会的な立場だけ大人になって、しかもあろうことか総理大臣にまでなってしまったんじゃないかと思うのです。だから、彼の目線は常に祖父(岸信介)や父親といった過去~現在にしか向かっていなくて、未来を見据えているようには見えないのです。

2014年9月9日火曜日

エヴァンゲリオンはイマドキの若者にはそれほどササらないんじゃないかな?

だから日本はズレているという本を読みました。リーダー不要論やクールジャパン、ポエムの蔓延など、最初の方に書いてあることにはそれなりに同意できて面白いところもたくさんあったのですが、結局のところ諸悪の根源は「おじさん」であるとする世代格差論に帰結するところには、どうにも残念という気分になりました。
現在29歳の著者古市氏は賞味期限が切れかけつつあるものの「若者代表」の立場で発言しているようなのですが、自分が歳とともに変化していった果てにおじさんになることに自覚がないのって本当に若者の特権なんだなと思います。氏の話には若者がソーシャルメディアなどで「つながる」という話が度々出てくるのですが、あくまで若者同士の横のつながりなんですね。「おじさん」や老人や子供が位相を変えた別の自分であって、彼等とも縦方向につながって社会を築いていくという気はどうやら頭に無いっぽいのです。

氏の著書では若者の新たなライフスタイルとしてダウンシフターズ(減速生活者)という人々が紹介されていました。彼等はお金への執着が薄くて、生活するための最低限のお金だけを稼いだら後は好きな事をやって時間を過ごすのだそうです。中には農業をやって自給自足で生活するダウンシフターズもいるそうな。
ところが、このダウンシフターズについて語る際に「でも彼等は隔離されて閉じているのではなく、スマホやパソコンで社会とつながっている」ということを著者がしきりに強調するのがすごく不思議に思えたのです。全体的にダウンシフターズはユルそうで賛成なのですが、ソーシャルメディアなどで人とつながっていることがそこまで強調するほど重要なことなのかな?と僕には思えたのです。

そんなことを考えているときにテレビをつけたら、たまたまヱヴァンゲリヲン新劇場版Qをテレビで放送しているのを見て、はたと閃いたのです。若者にとって、ネットやソーシャルメディアというのは人類補完計画のように機能しているんじゃないんだろうか?と。
当たり前といえば当たり前なのですが、最初のエヴァンゲリオンから20年近く経った今となってはシンジ君がイマドキの若者とはだいぶ乖離してるように見えるのです。なんでこうなるかって、シンジ君のような「自分の存在に悩む内省的な少年」というのは、ネットやソーシャルメディアが人類補完計画のように機能している社会にはあんまりいないんじゃないかと思うのです。

以前も触れましたが、進撃の巨人やONE PIECEみたいにちゃんと丁寧に伏線を回収して終わってくれそうな安心感のある物にしか今の若者は飛びつかなさそうな気がするのですね。だって、wikipediaでなんでも調べられるのが当たり前で育っているんですよ?そんな彼等に、答えの用意されていない謎だらけで悶々としなければいけないエヴァンゲリオンみたいなものがササるようには思えないのですよ。想像ですけど、イマドキの若者がエヴァンゲリオン見ても「なんか謎だらけでよくわかんないけどまぁいいんじゃん?」くらいでサラっと流されそうな気がするのですよ。

2014年8月30日土曜日

なぜ日本人のグローバル化は外にしか向かわないのか

日本に在住歴5年近くなる外国人が、「そろそろ日本のクレジットカードを作りたい」と言い出しました。銀行の取引履歴があって信用がないとクレジットカードを作れないというのはどこの国でもある程度同じなんでしょうが、日本って僕が思ってたよりもはるかに外国人がクレジットカードを作るのが大変みたいです。
ともあれ、カード会社によって審査の通りやすさというのはいろいろ違っていて、日本在住外国人の間でもどこの会社が審査がユルいとかそういう情報交換はされているようなのですが。どうもそういうサイトからの情報によると、ユルめのカードの一つに「楽天カード」があるようなのです。
ところが英語公用語化とかいってイキってる割には、楽天のカード申し込みは日本語のフォームでしかできないのです。だから、英語で書かれた楽天カード申し込み攻略サイトみたいなのが存在するようなのです。

別に楽天カードだけじゃなくて、楽天の日本国内向けのサービスのほとんどはどうやら日本語でしか利用できないようなのです。これ、かなりおかしいと思いませんか?だって、社内の会話を英語にするとか言えるくらい英語ができる人ばっかりの会社なんだったら、日本在住の外国人や外国人旅行客向けに英語でも自社のビジネスを展開すればもっと利益が得られそうじゃないですか。
もっと言うと、これって別に楽天だけに限った問題じゃないと思うのです。日本人の考える"グローバル化"はなぜか「海外に留学する」とか「海外の現地法人に赴任する」といった"外向き"な方向にしか向かわないのですよ。例えば日本にもっと外国人の労働者や留学生を受け入れるとか、日本在住の外国人のためのビジネスを充実させるとか、"内向き"なグローバル化っていうのも十分立派なグローバル化なんですけど、どうも日本人はそこにはほとんど関心が無いようなのです。

じゃぁ、日本を外国人に対してもった開かれた国にしていけばいいじゃないか?と思うのですが。いきなり否定から入りますが、とりあえず昨今の状況だとまず無理でしょう。だって、大多数の語学ができない日本人に痛みを強いる度胸なんて政治家にも企業経営者にも無いでしょうから。もし日本国内にもっと外国人を招いてグローバル化するとか、日本人全員がある程度英語を喋れるようになれとか言うと、ネトウヨとかヘイトスピーチなんていうことが今よりもっと増えるでしょう。
つまり、安倍晋三は日本のグローバル化とか言ってる一方で、安倍晋三を支持しているであろう、右寄りの日本人の大半はグローバル化なんていうのは他人事なわけです。やや脱線しますが、こういう安倍晋三と彼の支持者の不思議にねじれた関係って別にこの問題だけじゃないと思うのです。例えばアベノミクスで貧富の差が拡大する方向に誘導した結果、貧しい人たちは右傾化して安倍をむしろ積極的に支持しているのもその一例だと思います。

そして、楽天やユニクロなどのグローバル企業が目指しているのは、海外のグローバル企業が20世紀に通ったコースを周回遅れで追いかける事だと思うのです。外国に工場を作ったり、外国を市場として開拓したり…こう考えると、彼等グローバル企業が日本国内のサービスを外国人に利用しやすくすることに意識が向かないのも納得がいくかと思います。彼等の関心は最初から日本の外にしか向いていないのです。
みんながみんな外国語ができたりする必要は全く無いのですが、例えばコピー機のボタンに簡単な英語の説明をつけてあげるとか、そんな小さなことでも外国人には随分快適になったりするのですよ。ここまで述べたように、グローバル企業という彼等はどうやら日本で外国人が快適に過ごせるように自社の国内ビジネスを多言語に拡張する気はたぶん無いっぽいですが。外国人が日本で快適に暮らせるようにするためにクレジットカードとか銀行とか自動車保険とか、そういうサービスを外国語で行う会社が出てきても良いと思いますし、たぶん遅かれ早かれそうなっていくと期待したいです。

何でもすぐ動画に撮りたがる奴はたぶんモテないと思う

たぶんここ10年くらいの話だと思うのですが。ちょっとしたイベントとかセミナー等に行くとどこかにカメラが最低一台は置いてあったりするのがすっかり当たり前になってきましたよね?たぶんSDカードやメモリースティックの大容量化や、そこそこの画質で簡単に動画撮影できるカメラが安価になったことなどが理由の一つだとは思うのですが。こんなことが当たり前になった昨今では、外部講師を呼んで講演依頼をする際に必ず録画や録音の可否について事前に確認画必要になっていて、中には録音や録画を拒否する人も結構いるようです。
録画拒否する人が言うには、例えば悪意のある人が前後の文脈から切り離して発言の一部だけを切り取ってYouTubeにアップロードするようなことって十分に起こり得るので、撮影されている状態で何かを喋るという事自体が今の世の中では相当にリスクが高いんだそうです。
最近では、後でわざわざ見る奴いないだろ?と言いたくなるような社員ばっかりの内輪の発表会からプライベートでのちょっとしたパーティーまで、「とにかく何でも動画に撮りたがる人」というのが結構目につくようになってきたのですが。今回は「こういう人達って困るよね」から始まって「なんでそうなるのか」についてちょっと考察して、最後は「でも彼等ってたぶんモテないよね」と着地する話をします。

まず最初に申し上げますが、何でも動画に撮る奴って、たぶん後で見ていないです。彼等にとっては「録画する=後で再生可能にする」ことが重要なのであって、後で見ることにはおそらく彼等は価値を感じていないです。彼等をそこまで駆り立てるのは、録画して後で再生可能にすることで時間や空間を超克したいという幼児的かつ「脳」的な欲だと思うのです(例によって養老孟司の「脳化」の話の受け売りです)。ご存知の通り、YouTubeやクラウドの登場はこういった脳的な欲を爆発的に亢進しました。
この、「あらゆる出来事をYouTubeやクラウドにアップロードして世界中の人とシェアする(=脳が喜ぶような)ことは人類の幸福に貢献する」という信仰に加わるために、彼等はライブをその場で見る事と後でYouTubeで見る事の差異に鈍感になるように自身の身体的な感受性を自ら捨てようとしているように見えるのです。だって、ライブの「一回性」とか「その場」に対する敬意が本当に感じれたら、とにかく何でも動画で撮ってYouTubeにアップロードしようなんて思わなくなるでしょうからね。

かくして、動画を撮って何でもネットにアップロードすることで功徳を積めると信じる彼等は、TPOとかあんまり気にせずにとにかくあらゆる場所でカメラを回すようになるわけですが。これ、本当にデリカシーがないですよね?人によっては今日は化粧のノリが悪いとか、最近太ってるから映りたくないとか、思ってるかもしれないけど彼等はたぶんそんなこと意に介していないのです。
動画を撮影することで彼等は、おそらく本人も自覚が無いまま「オマエ達はこの動画の登場人物になれ。オマエの一挙手一投足、全部そのまま未来永劫残してやる。」と一方的に宣言しているわけですが。これって、動かない真実の中に人間を未来永劫縛り付けて呪いをかけているのと一緒です。
例えば飲んで散々カラんだ翌日に「あー、そんな事言ったかもしれない。えー、でも覚えてないや、ははは。」とか言ってごまかしたり、都合よく記憶を作り変えたり、それなりにいい加減だから人間って生きてると思うのですが。もしその場面を動画に撮ってしまう(飲み屋で動画録る奴がいるとは思えないけど)とそういうことを一切許さずに、事実だけを何度でも残酷に再生してしまうのです。
「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった」という映画の攻殻機動隊のセリフがどうしても思い出されます。

以上より、簡潔な一言で結論を述べると「何でもすぐ動画に取りたがる奴ってたぶんモテない」と思います。だって、身体的な感受性が低くてデリカシーが無いって、どう考えてもモテないでしょ?
自分が村上龍にでもなったつもりで最大限にイキった言い方をすると、「何でも動画に撮る奴とセックスできるような女子はこちらからお断り申し上げたい。」くらい言いたいんだけど。でも僕はすごく小心者で自分がマイノリティだという自覚があるので、「何でも動画に撮る奴とセックスできるような女子は全員ブサイクであって欲しいと願っている。」くらいの言い方にしておきます。

2014年8月29日金曜日

Apple信者と本を読まない映画ファン

あのー。色々溜まってきたのでApple信者の文句を書きまーす。
といっても先にお断りしておきますが、デザイナーとかミュージシャンとかプログラマーとか学者とか、そういう何かしら創造的な仕事をなさっている方々はコンピューターを商売道具として使っているので、Apple信者でも全然いいんじゃないかと僕は思います。
僕がどうかと思っているApple信者というのは、
・Apple製品にただ使われてるだけの人(=創造的な仕事にコンピュータを使ってない人)
・ガジェット好きの延長でApple信者をやってる人(=昔はSONY信者だった人)
こういう人達です。ほら、身近に一人くらいいません?ジョブズの思想がどうとかいう理屈をやたら語って、新しいApple製品が出るとすぐに買う(でもそれを何に使っているのかよく分かんない)人。

こういうApple信者という方々と話してて感じる違和感について考えてみたのですが。彼らが「ジョブズの思想」「Apple製品の素晴らしさ」なんかの話を得意げに語っているときに感じる、どうしようもないくらい僕と根本的にねじれているような感覚というのは、「本を読まない映画ファン」が映画について語っているときに受ける印象とすごく似ているのです。
もうちょと別の言い方をすると、あらゆる物事に対する度量衡が人それぞれ異なるかもしれないという可能性に対する配慮、まぁ、平たく言うとデリカシーが無いように感じるのです。この「躊躇の無さ」というか、自分は世の中の中心に立っているという根拠のよく分からない確信みたいなのが大前提になっているのって、Apple信者と「本を読まない映画ファン」に共通しているのですね。
単に彼らをKYだとかバカだとかって言ってるわけではなく、純粋にそういう可能性について考えるという習慣を彼らは最初から持ち合わせていないだけのように見えるのです。

みんながみんなそうってことは無いと思いますが、Apple信者の人って仕事と一切関係の無い本を純粋に娯楽として読むような習慣がなさそうな人が多いように思えるのですね(彼らのバイブルであるジョブズの自伝とかAppleを褒めちぎるだけの本は除外して)。まぁ、本っていっても色々あるので何でも読めばいいってもんでも無いんでしょうけど、本を読むことの効用であり楽しさの一つに「他人の思考に一時的にでも同調する」ということがあると思うのです。こういうことを繰り返していると、例えば武道や芸能の達人と稽古を一緒に続けるとだんだん動きが達人に近づいてくるのと同じように、頭のいい人の思考フォームを獲得できるようになるわけです。
読書を娯楽として楽しめる人って、たぶん一度くらいは本を通して今まで自分になかった他人の思考フォームに同調して感銘を受けたことがあるんじゃないかと思うのです。そして、様々な先賢の思考フォームに同調する経験を通して、他人の思考フォームが自分とどのくらい違っているか慮る習慣や、特定の人の言ってる事だけを過度に狂信しないバランス感覚を涵養するのではないかと思うのです。
「本を読むことでしかそれができない」わけでもなければ、「なんでも本を読みさえすればそうなる」というわけでも勿論無いとは思いますが、おしなべてそのような傾向はあるんじゃないかと思いますよ。

森毅先生の名言botにこういうのがありました。
美学がなくなっている。学生が本を読まなくなったというのも美学の問題だと思う。大学生になったからと難しい本を読みだしてもどうせわからんに決まっている。わからん本なんか読んでもむだというのでは美学にならぬ。むだを承知で読むところに美学があるのだ。効率優先合理主義では美学は生まれない。
この森先生の発言がいつ頃の物かはわかりませんが、この「本を読まない学生」が後にApple信者になったんじゃないかと思うのです。信者になれば、美学も含めて全部Apple様からコピペできますから、それは最も効率的で楽な方法なのです。

2014年8月24日日曜日

今更ですが進撃の巨人の話を


今回はかなり今更ですが進撃の巨人の話をします。と言っても、僕は原作の漫画は読んだことがなくて、去年アニメを見ただけの関わり方しかしていません。漫画はアニメよりだいぶ先に進んでいるらしいので、もしも最新の漫画の展開からすると見当違いなことを書いちゃう可能性はありますが、その際は平にご容赦を。というのも、あの作品は世の中に数少ない「漫画よりアニメで見たほうが面白い」作品なので、アニメでしか見る気が起きないのです(この逆のパターンは佃煮にして売れるくらいたくさんあるんですけどね)。
さて。進撃の巨人ですが。去年は社会現象と言われるまでに大ヒットして、主題歌は紅白にまで出ちゃいましたね。すっかりクールジャパンのキラーコンテンツの一つに仲間入りした感があります。確かにバルセロナの漫画フェスティバルでも進撃の巨人のコスプレは大人気だったらしいですし、半年くらい前に出張でバルセロナに行った時には中心街の大きな書店の一区画に特設コーナーがあって、そこで進撃の巨人のDVDをずっと垂れ流していました。

進撃の巨人についてはいろんな人がいろんなところで言及しているのですが、なんであそこまであの作品が世界中の人をひきつけるのかについては、街場の漫画論の文庫版に収録されている内田先生と高橋源一郎の指摘が一番妥当だと僕は思います。
「生まれたときから不条理なルールを一方的に押し付けられてきて、どうすればこんな世界を変えられるのかよくわからないけど、とりあえずその場その場をしのいで生きていくしかない」という状況は日本だけでなく世界中のあらゆる国で同じような状況なんじゃないのかなと思います。少なくともスペインやギリシャはリーマンショック以降そういう状況だと思います。

僕が付け加えるとすると、進撃の巨人は我々人類の遺伝子に刻まれていている「大型動物に捕食される恐怖」に訴える物があるのではないかと思うのです。人類の祖先であった小型哺乳類は大型動物に捕食される危険に常にさらされてきたわけですから、その記憶は我々に引き継がれていていも不思議ではないでしょう。
フロイドは、乱暴に言えば「なんでもかんでもとにかく人間の心的活動は性欲に起因している」という彼の主張の根拠として、性=生物として種の存続は人類の祖先にとって最優先事項であったため、人類にもそのまま遺伝して引き継がれているからだと言ってます。僕はこの説明はあまりに強引過ぎて賛同できないですが、このロジックだけを援用すると、同じように生き残るために必要な「エサを探して食べる」「エサとして食べられることを避ける」ということもたぶん大なり小なり我々の遺伝子には刻まれていると思います。まぁ、そのくらいは言ってもいいんじゃないですかね。
上記のうち、性欲と食欲については"欲"と名のつく通り今日ではAVやグルメなどのエンターテイメントとして昇華されていたり、一方ではカウンターとして宗教などの"禁欲"の対象ともなっています。しかし、「エサとして食べられることへの恐怖」をエンターテイメントとして見せた物ってあんまり無いですよね?いやまぁ、"ジョーズ"とか言い出したら前例はあるにはあるでしょうけど。

さらにもう1個、付け加えると。進撃の巨人はストーリーが緻密に練られていて、見事なまでにここまで張った伏線をちゃんと全部回収していますよね?今まで浦沢直樹(MONSTER, 20世紀少年)やエヴァンゲリオンなど、謎や伏線を散々張り巡らした挙句に「えー、で、結局終わり方それなの?」というのを散々僕らは眼にしてきたわけですが。進撃の巨人はもう連載が終了した漫画で言うとナウシカ、からくりサーカスぐらい、ちゃんときれいに伏線を回収して納得させてくれそうな気がするのです。
この、「スッキリ終わらせてくれそうな期待感」に関しては、進撃の巨人はONE PIECEに匹敵すると思います。だから我々はどこか前向きに安心してドキドキできるのです。逆の言い方をすると、これらの作者には「辻褄があっててスッキリちゃんと終わらせなければいけない」という現代的な空気を感じ取れてしまうのです。だから、珍遊記みたいに途中で連載を投げ出して終わったり、ドラゴンボールみたいに強さのインフレを続けた挙句に「絶体絶命になったところでスーパーサイヤ人として目覚める」なんていう子供だましみたいな展開にはまずならないという安心感があるのです。
ちなみに、張り散らかした伏線が全く回収されないまま終わってしまう漫画を読みたければ、車田正美先生の「男坂」をお勧めします。伏線を張るだけ張り散らかしたところで何一つ回収しないまま見事に打ち切りになっています。しかし、30年のブランクを経て最近続編の執筆が始まったそうです。読みたいような、読みたくないような。。

2014年8月23日土曜日

野球と美学

夏休みが開けて一週間が経ち、渋々サラリーマンとしての日常にようやく戻りました。と言っても夏休みだからって特別どこに行くわけでもなく、ぼんやり本読んだり高校野球見たりしてる間に過ぎていったんですけどね。
さて、今年の高校野球で健大高崎というチームが大差が開いた後もひたすら盗塁を繰り返していたのが色々物議を醸している(これとかこれをご参照ください)ようなのですが。高校野球っていつもこういう議論がありますよね?去年の「カット打法禁止」とか、その前の「クロスプレーでのタックル禁止」とか。
高校野球に限らずプロ野球にしてもそうなんですけど、「勝ち負け」にこだわると、やる事がどうしてもチマチマしてたり陰湿な方向に向かってしまうのって日本人の「民族的奇習」の問題なんじゃないかと思うんです。そういう意味では高校球児達は「勝つためにチマチマと陰湿な事も厭わない」という軍人的側面と、「高校球児らしいハツラツとした爽やかさ」という見ている側の幻想の二つを同時に要求されるダブルバインドの状況に置かれてるように見えるのです。

そして、プロ野球も同じように「お客さんにお金払って見てもらうエンターテイメントとしてのプロスポーツ」という側面と、「チマチマとしてて陰湿で細かいインサイドワークの積み重ねで勝つことにこだわる」という二つの矛盾した要求にさらされています。特にここ数年のプロ野球って後者の比重が強くなった末に総力戦の傾向が強くなっているように見えるのです。例えば
・主力選手でも状況(ピッチャーが左から右に変わったとか)によっては割と簡単に替える
・代打、代走などは使える限りとにかく使う
・セ・リーグの場合、試合終盤の選手交代の際にピッチャーを9番以外の打順に置く
こういうことやり始めると、余程のことが無い限り選手層の厚い巨人みたいなチームが有利になるでしょう。でも僕には逆に「そうやって潤沢な資金で獲得した選手をありったけつぎ込まないと勝てない、若しくは、それだけ金で買った戦力をありったけつぎ込んでまで勝つことに執着する」という風に見えてしまって、ちょっと引いてしまうのです。90年代に江藤や清原など他チームの4番バッターをFAで取ってきて並べてみたものの鳴かず飛ばずだった頃の巨人の方がまだほほえましかったとさえ思えます。ええっと。だいたいもうなんとなく察しがつくと思いますけど、僕はアンチ巨人なのですけどね。

上述したような矛盾した二つの要求にさらされるのは今に始まった事じゃなくて、ずっと昔からプロ野球が抱えてる問題だったんだろうと思うのですが。単に僕の好き嫌いの問題だけじゃなく、ここ数年の「勝つ」ということに重きを置いた総力戦の野球と、プロ野球ファンが思い描く理想のプロ野球像が乖離してきているんじゃないかと思えるのです。
森毅先生は「効率優先合理主義では美学は生まれない。」とおっしゃってますが、まさにそういうことなんだと思うのですね。勝つことを最優先してそのために効率を重視したために今のプロ野球が失ってしまったものは一言で言うと美学なんじゃないかと思うのです。
もっと言うと、「美学とかは度外視で、手持ちのカードを使えるだけ使って『自分が起こしたアクションによって世界を動している』という満足を最大化したい」という幼児性は安倍晋三と原監督に通じているように思えるのですが、その話をすると長くなるのでそれはまたいずれかの機会に。

2014年8月6日水曜日

STAP細胞と技術立国ニッポンの落日

約一ヶ月ぶりの更新です。今回はSTAP細胞や小保方氏の話を書きます。
この件については何度かこのblogに書こうかと思った事はあったのですが。捏造疑惑以降の世の中のバッシングぶりが余りに酷かったので、否定にせよ肯定にせよ、とにかくこの件について触れることに気が進まなかったのですが。昨日とうとう笹井氏が自殺しちゃったのを見てなんだか気分が変わって、僕もようやくこの件に触れる気分になりました。
この心境の変化をもうちょっとちゃんと説明すると、長い間日本人が異常ともとれる熱意を傾けてきたこの件を、笹井氏が自ら人柱となって"供養"したことでようやく「過去の事件」となったように思えたのです。僕の想像ですが、これでSTAP細胞や小保方氏についての一連の騒動は収束すると思います。この「供養された感」は佐村河内氏(の記者会見)にはあったけど小保方氏とSTAP細胞には今まで全くありませんでした。だからこそこれだけ長々とバッシングされ続けたんじゃないかと思うんですけどね。

僕自身はなんちゃって研究職という職業上、一応世の中の区分としては理系に該当します。確かに記者会見の小保方氏の受け答えを見た限りでは、まともな科学者には見えなかったのは事実です。しかしながら、僕はなんちゃって理系だけど実験ノートをつくるような分野ではなかったしそんな経験も無いので、彼女の実験ノートがマトモなのかどうなのか判断できません。だから、自分が分からない事や知らない事には判断を保留するのが妥当だと思いますし、硬い言い方をするとそれこそが科学的な態度だと思うのですが。
最初に小保方氏をリケジョだの割烹着だのとメディアが持ち上げらているのをそのまま鵜呑みにしていた人達が、一旦捏造疑惑が持ち上がるや否やテレビに出てくる「専門家」が実験ノートの不備などを指摘しているのをそのまま鵜呑みにしてバッシングする側に回っているのを見て、これはさすがにヒドいと思ったのでした。
「信じる」ということは多大なリスクと責任を伴うと思うんですが、メディアの情報を鵜呑みにする人達ってたぶんそうは思ってないんでしょうね。そして彼らは捏造疑惑が持ち上がるや否や、「だまされた被害者」の位置に瞬く間に移動して、自身がバッシングに加わることを何の躊躇もなく正当化することができたんだろうと思います。これはいつも僕が言ってる事の繰り返しですが、こうやって正義を背にしているとどこまでも残酷で苛烈な仕打ちができる日本人の社会が僕は本当に怖いのです。

自然科学の分野では、後に革新的だったと評されるような研究も最初は頼りなさげな仮説の一つでしか無い場合がほとんどなのですが。もし後で問題が見つかると笹井氏や小保方氏のように検証の機会もロクに与えられないまま社会から抹殺されるようなことが横行すると、この国の科学技術の発展にとって大きな障害になるんじゃないでしょうか。
だいたい、アインシュタインでもケプラーでもそうですけど、後に名を残すような大科学者も間違った事も沢山主張してますし。現在我々が自然科学と思っているのは「みんな間違った事もいっぱい言ったけど、わずかに残った正しいっぽいもの」だけが残って体系づけられたものです。
科学そのものの定義も「今のところどうやらそうであるらしい」であって、これはつまり「絶対に正しいかどうかはどのような人間も知ることができないので、常に間違っている可能性を考量しつづける責任を負わなくてはいけない」ということを意味しています。
発表した仮説が後でどうやら間違ってるようだと判明した途端に小保方氏や笹井氏のように社会全体からバッシングされるようなことが起こり得るような国では、自然科学という分野の研究に従事することそのものがハイリスクだということになりますし、最先端を行けばいくほどよりこのリスクが増すことになってしまいます。

そして、一連の小保方バッシングでも特に気になったのは、小保方氏の高級ブランド服やホテル暮らしについての非難です。確かにそんな金がどこから出てきたのかというのは僕も不思議だとは思いますが。研究費横領などの不正があったかどうか以前に「年間何百億円もの税金を投入されている理研の職員がそんな贅沢な暮らしをしているなんておかしい」という世間の反応に対して、これはさすがに違うんじゃないかなと思ったのです。仮に研究費の横領などが一切なくて、ホテル暮らしができるほどの給与を理研から得ていたとして。優秀な研究者がその能力に応じた待遇を受けるのに何か問題があるのでしょうか?というより、そうでもしないと本当に優秀な研究者は日本から離れていきますし、実際そうなりつつあると思います。
自民党は理研や産総研の給与の上限をなくす法案の成立を検討していましたが、結局STAP細胞騒動の煽りで見送りました。かくして技術立国ニッポンは、自分が全く専門知識を持たない事象に対しても審級を下す権利が自身に備わっていると考える正義の庶民によって足を引っ張られて、諸外国に遅れをとっていくように僕には見えるのです。

青色ダイオードを発明した中村修二氏は「文系が金持ちの国は後進国」とまで言ってのけました。まぁ彼の場合、この言葉の裏にはそれまでの日亜化学の永年の仕打ちに対する積年の恨みもあったのでしょうが。それはさておき、結果として彼は日本を離れてUCLAに行っちゃったわけです。このように能力のある人を遇することのできない国からは、より良い待遇と研究環境を求めてどんどん優秀な人材が流出していきます。
もうすでに小保方さんは有名になりすぎた上にNHKのパパラッチに追いかけ回されたりで、日本ではまともな社会生活が送れない状況だろうと思います。捏造ではなくSTAP細胞が本当に存在して、それを発見できるほどの能力があったのだとしたら、小保方氏は外国に飛び出すべきだと思います。

2014年7月5日土曜日

帰ってきた「決定力不足」と集団的自衛権

これを書いている現在、ワールドカップはベスト8が出揃ったところです。日本は予選リーグでほぼいいところが無いまま敗退となり、テレビ各局が連日繰り返していた内容の薄い「ニッポンガンバレ」報道(たいていブラジルから中継で松木やゴン中山などがハイテンションで吼えて終わるだけ)も沈静化し、椎名林檎による「国際舞台とかそういうこと一切ガン無視の右寄りな歌詞の大会テーマソング”NIPPON”」を未だに流し続けるNHKにはやんわりとした罰ゲーム感さえ漂っています。あの曲は彼女のキャリアの汚点として語り継がれるんじゃないでしょうか。なんでもNHKから曲調や歌詞についてあれこれ注文がつけられて結果ああなったらしいですね。。

今回のワールドカップで改めて印象的だったのは、サッカーというスポーツは「絆」「仲間」とかいうポエムや農耕民的な精神論ではなく、タフな状況にも最後まで冷静にじっと耐えてギラギラとゴールを狙い続ける狩猟民族な姿勢を最後まで維持できた方が勝つ可能性が高いということです。ギリギリのところで後半ロスタイムに点を入れて勝ったりするチームと日本との決定的な差はこのメンタリティなのではないかと思うのです。

本田という選手はこのメンタリティの差にとても敏感であったが故にビッグマウスと言う表面的な態度によって自分の能力以上のものを「言葉」という日本的な手段を通して背負って、自分を追い込む道へと進んでしまったように見えるのです。内田樹先生の言葉を借りて言うなら、彼はこうすることで「自分自身に呪いをかけた」とも言えるでしょう。
本田は「ガイジンみたいになろうとするけど根本的なところで方法論が日本人的でどこかズレてしまってる、結局やっぱり日本人」という意味ではとても現代的なのです。これは、前回の投稿で言及したように海外の反応をやたら気にするけど根本的なところで自分達が世界とズレていることを理解できない日本人と相似形を成しているように僕には見えます

あれだけ散々「ベスト8はイケる」などと言っていた反動で「真に受ける」ということが自己責任だと思わないお客様体質の日本人から本田は「口田圭祐」と戦犯扱いを受けました。彼の言動は「汚染水はコントロールされている」とか世界に向けて言ってた人と同じで、言ってる当の御本人がそもそも100%真に受けてないと思うんですけどね。
そして日本の予選リーグ敗退以降、何年かぶりに「決定力不足」という懐かしいフレーズが聞こえるようになってきました。でもこの「やっぱり決定力不足でダメな日本」という空気に僕は一抹の安堵を覚えるのです。というのも、一方では「決められる政治」をスローガンに掲げた安倍政権がなし崩し的に集団的自衛権の容認に踏み切ろうとしているのを見てると本当に気鬱になるからです。

集団的自衛権および安倍政権に対する僕の見解はほぼ内田樹先生の受け売りなのですが、ぱっと思いつくところで列挙すると
・そもそも憲法というのは時の権力者によって国家の本質が揺らいだりしないためにある
・憲法の恣意的解釈を許すと法治国家から人治国家に向かってしまう
・ねじれて決まらないことが二院制の本質である
・政治というのは「国家百年の計」であるべきで、市場経済の"スピード感"と同じスケールで考える物ではない
・アメリカの代わりに中東で人殺しを引き受けることによってイスラム文化から憎まれることの代償を過小評価している
といったところでしょうか。
戦後60年に渡って日本に平和をもたらしたのは「急に変化しない、なるだけ同じ状態を保つ」という安定感(理系語で言うとヒステリシス)と、それを支える「決定力不足」の体質だったんじゃないかと思うんですけどね。しかし、本田と同じように安倍晋三が非難される日もそう遠くない将来にやってきそうな気がするんだけどなぁ。。

2014年6月24日火曜日

ワールドカップでのゴミ拾いとクールジャパン

これを書いている現在、ワールドカップはグループリーグの途中です。日本はまだ敗退が決まってはいませんが、コートジボアールに負けてギリシャに引き分けたので決勝トーナメントへの進出が厳しい状況になってきたというところです。ちなみにもうスペインは敗退が決まりました。ここ数年のスペイン代表のパフォーマンスからすると、信じられないくらいまるでいい所がありませんでしたね。。
さて、コートジボアール戦の後で会場のゴミを拾っていた日本サポーターが世界中で賞賛されているという報道がありました。ええっと、勿論ゴミを拾うのは良い悪いで言えば良い事なのは間違いないのですよ。でも、判で押したように「世界で大絶賛の日本の美徳」みたいに大喜びしているのを見てるとなんだか息苦しいやらもどかしいやら、という気分になってきたのですよ。まぁ、負けちゃったから他に喜べるところが無いので、ナンシー関言うところのオリンピックやワールドカップに対する日本人の「感動させてくれ」欲が行き場を無くしてそこに集中してしまったというのもあるんじゃないかと思います。
このゴミ拾いの件から受ける息苦しさやもどかしさについて考えた結論を言うと「ワールドカップでのゴミ拾いが放つ違和感はクールジャパンと同質の物だ」ということになっちゃっいまして。残念ながらやっぱりまたしてもクールジャパンの悪口とかそういう話です。いや、本当はあんまり日本の悪口ばっかり言ってたくないんですけどね。

自分が知る限りの海外、特に欧州と比較してみますが。「ゴミを拾う」とか「掃除をする」ということは日本以外の国ではより単純に労働であり職業だと思われていて、それを率先して行う事が美徳と考える習慣はたぶん無いんじゃないかと思います。
例えばスペインでは「掃除する人」という職業が日本以上にポピュラーな存在で、街路樹から落ちた葉や煙草の吸い殻(基本ポイ捨て。こうやって回収されるからある意味ポイ捨ては合理的なんです。)まで、色んな物を清掃車や人間が掃除します。また、ルームシェアで複数人が同居しているアパート等で週に一回くらい掃除のプロにお金を払って掃除してもらったりするのは割と普通だったりします。このように掃除は労働であり職業である傾向が強いのです。
そして、日本の学校では掃除を道徳と絡めた教育の一部として位置づけていますが、生徒が学校を掃除をするのは世界的に見ると日本を含めた一部の少数派だけです。だから、教育とか道徳とかそういうものと掃除が結びつく以前に、そもそも外国の生徒のほとんどは学校で掃除をすることがありません。
よって、日本のサポーターがゴミを拾ってたこと自体は海外から賞賛されたのでしょうが、日本人がこのニュースから感じ取るような”崇高な美徳意識”と同じ感覚をもって外国人が賞賛しているわけではたぶんないんじゃないかと思うのです。想像ですが、「日本人ってなんかよくわかんないけどキレイ好きでびっくりするぐらい丁寧でマナーのいい人達だなー。」くらいに思われてるんじゃないでしょうか?

クールジャパンについては散々悪口を書いているのでこのblogを検索してもらえればいくらでもみつかるとは思いますが。改めて僕の見解を申し上げると、外国の人々がどのような文化的背景を持っていて日本文化のどういうところを面白がって受容していて、どの程度誤解されているのかもあんまりよく分からないまま、「とりあえずガイジンにウケるっぽいアニメや日本食や伝統芸能などをまとめて売り出そう」というのが「クールジャパン」なんだと僕は思うのです。
この「クールジャパン」に伏流している「海外から評価されたい欲」に対してはある程度国民的合意が得られていて、特にここ数年はあらゆる事に「世界で大絶賛の日本のナントカ」という国威高揚エピソードに熱狂するようになったと思うのですが。
こういう人達って、例えばロボットアニメは海外ではウケないとか、マジンガーZとクレヨンしんちゃんだけなぜかスペインでは異常に人気があるとか、そういう細々した受容のされ方に対してはあまり関心が無いままとりあえず「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語にだけ固執しているようで、僕にはなんだかねじれているというかズレているように思えるのです。
この違和感をやや細かいたとえ話で説明すると。狩野英孝が天然すぎて笑わせようと思ってもないところで「笑われてしまった」ときに、何を笑われているのかよく分からな(くて少しムッとした顔をすることもある)いけど、ウケてる事自体にはある程度満足しているのを見ているのと同じような感覚なのですね。

以上まとめると。
掃除に対する日本人の文化背景がいかに特異であるかについて自覚が無いながらも、とりあえずゴミ拾いは外国人から評価されるだろうというブリっ子的な打算も多少はあった上で日本人サポーターはゴミ拾いをしていて、それは案の定「世界が絶賛する日本人の美徳」という話形に日本では回収されました。しかし、これが放っている空気は外国人の文化的背景やその受容態度に対して意識があまり無いまま、クールジャパンという名前の下に「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語に大喜びしている日本人と全く同じようなねじれやズレを感じるのです。
さらに厄介なのは、ワールドカップの会場でゴミを拾うという美徳は「ゴミ出しのルールにいちいち細かい正義の主婦」や「オレ様の基準に合わせて掃除することを強要するきれい好きの上司」といった負の側面と表裏一体で不可分だということです。こういう「正義を背にして(いると本人が思っていると)、どこまでも他人を許す能力の低い人達」は僕にとって日本という国が住みにくく感じる大きな原因の一つなのです。
また、教育や道徳と掃除を関連付ける習慣は、大人になった今でも「ホワイトカラーも含めて全従業員に『クリーン作戦』という名目で敷地内の草むしりをさせる」という形で名残を残しています。わが社ではせいぜい半年に一回程度とはいえ、こういうのって日本人以外にはまず理解不能でして。外国人は「俺は草むしりのプロとしてここで働いているわけじゃない」と当然文句を言いますし、また彼の言ってることはまったくもって正しいのです。こういうことをいつまでもやってると日本の企業はいつまで経っても外国人にとって働きやすい場所にならないんじゃないかなと思うのです。

2014年6月1日日曜日

日本における「信者」とヤンキー度

たぶん高校生くらいの頃からずっとなんですが、村上春樹や坂本龍一やAppleなどの「信者」の方と話すのが僕はすごく苦手なのです。単純な好き嫌いで言うと上記のどれも割と好きな方ではあるのですが、これらの「信者」の方と話しているとなんだかすごく疲れるのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。

さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。

「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。

2014年5月19日月曜日

「贈与と反対給付」とビジネス

このblogで再三言及していることですが、僕はその昔仕事がらみで2年間バルセロナに住んでたことがありました。会社としては何の拠点もないバルセロナで、取引先の会社に出向して一緒に仕事して来るように(本当はもうちょっと違うのですが、まぁだいたいこんなところです)と言われてバルセロナに来てみたものの、最初はスペイン語なんて全然できないので、銀行口座を作ったり家の面倒を見てもらったりと、色々なところで先方のスペイン人に助けてもらったのでした。
そんな彼らとは今でも仕事の関係は続いてますし、また一方で、在西当時から時々ですが彼らのサイドビジネスで日本語への対処が必要になったときに手伝ってあげたりもしています。僕としては彼らに在西当時に散々私生活でもお世話になったんですから、大した労力でなければボランティアで彼らを手伝ってあげてもいいと思っているのですが。それを会社の人に言ったら「なんで金とらないだよ?アイツらは仕事ではいつも都合の言いこと主張してふんだくろうとしてくるんだから、こっちから何かしてやるときくらい金取れよ?」とか言われたわけです。

彼らの発言の背景におそらく伏流しているのはこういうことなんだと思う。
  • ビジネスでの利害関係がある相手にはプライベートにもその利害関係を持ち込むべきだ
  • ビジネスというのはその時々の利害関係においてなるだけgiveしないでたくさんtakeすることだ

先方のスペイン人とプライベートな関係というのを持ったことが無い我が社の日本人にとって、彼らはビジネス上の利害以外の何の関係も無いので、「プライベートでの友達関係とビジネスでの利害関係は別」ということを想像して下さいと言っても難しいんだろうとは思いますが。だいぶ飛躍しますが、これは平田オリザが提唱しているモンスターペアレンツが日本に発生するに至った過程と全く同じだと思うのです。
曰く、モンスターペアレンツが生まれた背景には、地域社会に重層性がなくなってしまったために、一つの側だけからリスクなしでものが言えるようになってしまったことがあるんだそうです。例えば昔の村落共同体であれば、学校の先生と生徒の親は同じ井戸の水を使って生活しているようなことが普通だったので、一方的に相手を糾弾するような態度に出ることはリスクを伴う行為だった。よって、そういうことは自然と抑制されていたんだそうです。
こういう観点で考えると、日本人はプライベートの関係とビジネス上の付き合いが重層的に共存しているような複雑さを受け入れるのが難しいんじゃないかと思うのです。そもそも、核家族や地域社会の分断によって、そういう重層的な関係を人と築くことを経験しながら育つことが日本では難しいんじゃないかと思うのです(僕なんてニュータウン育ちだったので地域社会というのは取ってつけたようなハリボテ感がどうしてもついて回るものでした)。だから、モンスターペアレンツ的に「ビジネス」という一側面だけから先方と付き合う単純な関係の中にとどまりがたがるのも、まぁしょうがないかなぁとは思うのですよ。

もう一つの、「なるだけgiveしないでたくさんtakeする」という態度なんですが。いきなり結論から書くと、これは「贈与と反対給付」という人類の原則に反しているのではないだろうか?と思うのです。これについては例によって内田先生の受け売りなので、こちらを参照願います。かいつまんでエッセンスだけ抜き出すと「私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。」ということです。
さらに、「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。というのは、僕がボランティアでスペイン人の手助けをする理由そのものなのです。スペイン人の彼らにバルセロナ生活当初に色々助けてもらって贈与を受け取ったという意識があるからこそ、僕は反対給付としてボランティアでできることで彼らのためにできることをやろうと思ったわけです。
もちろん「贈与と反対給付」が世界のルールで、現代におけるビジネスはこれに反しているから間違っている。。なんてことまで言うつもりは無いのですが。現代でも普通の人がやってるのは「贈与と反対給付」で、この枠組みから逸脱して収益を上げてるのは一部特殊な才能を持った人達だけなんじゃないかと思うのです。こういう特殊な人達の「才能」という重要なファクターを度外視して、「君にもできる」というマニュアルを提供するビジネス啓蒙書がモテるためのマニュアル本と同じ構造なんじゃないかと僕は前々から思っているのですよ。ついでに余計な事を言うと、「アメリカンドリーム」という名の下に、スポーツ選手になって大活躍したりビジネスで一旗揚げて巨万の富を得ることを称揚しておきながら、それを実現できるのがほんの一握りしかいないアメリカの社会とそっくりだと思うのですけどね。

「人と重層的な関係を築く」とか「贈与と反対給付」というのは現代社会にそぐわないように見えて、特別な才能を持たない大多数の一般人としてこの社会を生きていくうえで重要な示唆を含んでいると思うのですが。僕はそういうことをスペイン人と平田オリザと内田先生から、なぜかほぼ同時期に学んだのでした。

2014年5月15日木曜日

配偶者控除問題と女性免許制

政府税調が配偶者控除の見直しの検討を開始したというニュースに対して、賛否両論分かれているようですね。政府はこれを「女性の社会進出を促すため」とか言ってる訳ですが、それだったら育児環境とか労働風土とか、先にそっちを見直すことから始めるべきなんじゃないかなと思うのですけどね。というのも、以前の投稿でも指摘したように、日本という国は育児と仕事の両立をさせるのが欧米の比じゃないくらい難しいと思うのですよ。だって、

  • 企業の雇用システムに柔軟性が無さすぎるので、働く側の都合に企業が合わせられない
  • 終わる時間に対する意識が低いので、「できたところまでで終わり」にならない
  • 他人の不在を補い合うことができないので、常に100%歯車として回転することを要求される
  • そもそも育児に労力がかかりすぎる
こんな国で産後数年で職場復帰して育児と仕事を両立するなんて負担が大きすぎやしないか?と思うのですね。

しかしながら配偶者控除について賛否分かれるのは、「働く女性」とか「女性の社会進出」とかいう言葉で曖昧にぼやかされていた問題を表面化させたんじゃないかなと思うのです。つまり何って、子供がいながら働く女性と一口に言っても、たとえば出産前と同様にフルタイム働きたい人もいれば、軸足は家庭に置いた上でパートなどで働く主婦まで、いろんな人がいるわけです。

だいぶ昔から思ってることなのですが、この国の「働く女性」のための施策を単一の制度だけでカバーするには限界があるんじゃないかと思うのですよ。もちろん、本当は上述したような育児環境や労働風土の問題に手を入れることがより本質的な解決法ではあると思うのですが。日本人の表面的な器用さと内面的な不器用さを考慮すると、たとえ欧米風の制度を導入しようとしても「なんか違う」形にしかならないだろうと思うのです。それぞれの事情に合わせて働く女性を支援できるような制度にしようと思ったら、行き着く先の一つとして「女性免許制」というのは案外アリなんじゃないかと思うのです。これは社会との関わり方を軸に女性をいくつかのカテゴリに分類して、それぞれに異なる社会制度を適用するということです。例えば、ぱっと思いつくだけでもこれくらいには分かれそうな気がするのです。
  • 出産後も出産前と同様にフルタイムで働きたい人:女性甲種
  • 軸足は家庭に置いた上で、パートなどで働く主婦:女性乙種
  • とにかく働かないと生活が成り立たない人(シングルマザーなど):女性丙種
託児所や保育園は丙>甲>乙の優先順位でアサインするとか、乙種は配偶者控除の上限を200万円くらいまで上げるとか…もちろんこれはこれで階級社会化を助長するとか、法の下の平等にそもそも反してるとか、たくさん問題はあるのは自明なのですが。でも直感的には、これくらい思い切ったことしないと女性の働き方の多様性に社会制度が追いつけないんじゃないかと思うのです

2014年4月13日日曜日

なぜロボットアニメは外国人にウケないか?

我が家はほぼリーガ・エスパニョーラを見るためだけにWOWOWに入っているのですが。WOWOWはたまにシリーズ物のアニメを10話ずつくらいに分けて集中的に放映するのですね。3月は「伝説巨人イデオン」を全話放送してたのですが、いやはや、すっかりこれにハマってしまいました。
ガンダムやマクロスくらいなら少なくとも名前くらいはみんな知ってると思いますが、イデオンって決してメジャーではないし、子供が見ても面白いと思えるような内容ではないのですよ(まぁ実際に不人気過ぎて放映が途中で打ち切りになったのですけどね)。でもこの歳で大人目線で見てたらすごく面白いんですね。例えば、主役ロボットが滅びた古代人の遺跡であるという設定とかすごくシブいのですよ。
方々で言及されているようですが、イデオンはエヴァンゲリオンにも明らかに影響を与えてると思います。例えばロボット自体が意思を持っていて、それをある時期からパイロットが恐れるようになるところとか。そしてなにより結末が…

そんなわけで、僕はロボットアニメはやっぱりいくつになっても見てて面白いのですね。もうこれって、幼児期からの刷り込みなので老人になってもたぶん僕はロボットアニメを見てるんじゃないかと思うのですが。ロボットアニメって不思議なことに外国人にはあんまりウケないんですよ。例えば僕と同年代の日本人の男子だとアニメを語るとなるとガンダムは外せないと思うのですが。「海外で人気の日本のアニメ」の中に、ロボットアニメはほとんど含まれてないと思います。強いて含めるならエヴァンゲリオンはそれなりに人気あるみたいでしたけどね。
これは、バルセロナのアニメ・漫画フェスティバルに行ったときのコスプレの人気キャラの印象と附合していると思います。男子だとドラゴンボールとかONE PIECEやナルトなどの少年ジャンプ的な漫画のコスプレは沢山見る(女子だと初音ミクとかセーラームーンとか)んですけど、ロボットアニメのキャラのコスプレやってる人ってほとんどいなかったのですね。。
なぜ日本以外でロボットアニメが受けないのか?についての考察として、検索してみたらこんな記事がありました。まぁベタベタではありますが、やっぱり宗教の影響は無視できないというのはその通りだと思います。前回の投稿で言及したように、神道のようなアミニズムでは見えない物や無生物にも魂が宿るという考え方があって、無生物と生物をあまり分けて考えていません。一方、西欧人にとっては無生物に命を吹き込むというのは神の所業であって、人間がロボットを作るということ自体が、例えばフランケンシュタインやゴーレムなどのような禍々しい魔術、呪術的な営みになるわけです。確かにそう考えると、日本人ほど気楽にロボットアニメが理解される風土ではないだろうとは思います。

しかしロボットアニメというのが海外に全く無いというわけではないのですよ。僕が自分で見たことがある唯一の事例として、アメリカ産ロボットアニメのトランスフォーマーがあります。このシリーズのテレビ放送は日本でもやってて、僕も子供の頃見ていました。ところがこのトランスフォーマー、ロボットが人間のように喋ったりするんですけど、中に人が乗っているわけではないのですね。だから何って、このアメリカ産のアニメにはひたすらロボット同士の戦いだけが描かれていて、人が出てくる印象がまるで無いのです。
一方わが国のロボットアニメは、最初こそ鉄人28号みたいに少年が遠隔で操作する方式でしたが、マジンガーZあたりからは「巨大ロボットに少年が乗り込んで操縦する」というスキームが確立されて、その後は基本的にこのパターンですよね。実は上述のトランスフォーマーの話にも続きがあって、アメリカ産アニメの放映が終わった後に日本オリジナルの続編がつくられたのですが。日本版トランスフォーマーでは最終的には人間がロボットに変身するという形態になってしまったのです。
なんで日本人がつくるロボットアニメは必ず「人間がロボットを操作する」のか。そして、その大半はなぜ「少年がロボットに乗り込む」のか。これについて例によって内田先生を引用するのですが、今回ばかりは内田先生の説に僕はあんまり納得していません。内田先生が言ってるのは「武力(ロボット)を無垢な心を持った少年がコントロールする」という話形に戦後日本人の集合的無意識が反映されているということなんだと思うのですが。僕は太平洋戦争や米軍による日本占領などが無かったとしても日本人はロボットアニメを作り出していたはずだと思うのです。

まず、少年がロボットを操縦するのは、単純に見ている子供にとって感情移入しやすいからなんじゃないかと思います。以前も指摘したように、日本という国は子供の子供らしい振る舞いに寛容な国であるので、漫画やアニメのように「子供」という消費者層に特化した文化が醸成されたのだと思うのです。だからこそ、ターゲットである子供がより感情移入しやすいように、アニメでは少年が主人公なんじゃないでしょうか。別にロボットアニメに限らず、日本のアニメってだいたい少年が主人公ですから。一方、欧米では子供というのは大人への過渡段階だと考えられているように思えるのです。だから、子供のための娯楽である漫画やアニメのような文化は発達せず、子供達は大人向けのコンテンツであるサッカーに登場する大人のサッカー選手に憧れるわけです。
そしてロボットに乗り込むという形式には、「巨大ロボットという母の胎内で守られる」という母胎内回帰願望と関係があるように思います。エヴァンゲリオンなんて、本当に母親の魂がロボットの中に宿ってますからね。「巨大なお母さんに乗る」というのは龍の子太郎みたいな昔話にも出てくるモチーフでもあります。なんで日本人がこのモチーフを好むかといえば、日本的=天皇的=女性原理という説明にやっぱり行き着くのではないでしょうか。
あと、養老猛司氏が言うところの「脳化」もこれと関係あるように思えるのです。氏曰く、日本人の身体感覚は江戸時代くらいに急速に「脳化」して、身体性を喪失してしまったらしいのです。これはつまり、我々日本人の身体感覚というのは身体というロボットを脳というパイロットが操縦している感覚に極めて近いということなのではないでしょうか?だとすると、人型の巨大ロボットに人が乗って操縦するというロボットアニメを受け入れる素地が我々日本人には備わっているのではないかと思うのです。

以上、ここまでの話では一環して「日本のロボットアニメは海外ではウケない」と言ってきましたが。実は例外がありまして。スペインではなぜかマジンガーZが国民的な人気アニメなのですよ。少なくとも30-40代の男子の大半はマジンガーZを見たことがあるのですね。かといって、ガンダムとかマクロスみたいなリアルロボット系もウケるかと思いきや、そっちにはほとんど関心を示さないのです。つくづくスペインは不思議の国ですね。

2014年3月30日日曜日

空間除菌とアミニズム

二酸化塩素による殺菌(殺ウイルス)効果を謳った空間除菌(除ウイルス)商品に対して消費者庁から措置命令が出たんだそうです僕が理解した範囲では、二酸化塩素という薬品をウイルスと一緒に試験管に入れて放置するような実験では二酸化塩素の効果が認められたものの、開放空間においては本当に効果があるのか疑わしいということみたいです。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。

同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。

こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。

散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。

2014年3月22日土曜日

日本人の永遠のテーマ「ヤンキー論」をちょっとだけ

今回のお題は「ヤンキー」です。これ、「天皇」とか並んで日本人にとっての永遠のテーマの一つだと僕は思います。ナンシー関は生前「日本人の血からヤンキーとファンシーは消えない」と言ってましたが、彼女の没後10年以上経った今でも本当にその通りだと思います。「ファンシー」に関しては、ぱっと思いつくだけでも「ゆるキャラ」「きゃりーぱみゅぱみゅ」「初音ミク」など、佃煮にして売れるくらい日本はファンシーで埋め尽くされています。まぁ、実際に「クールジャパン」っていう名前の佃煮にして外国に売り出そうとしているんですけどね。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。

前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。

平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。


2014年3月15日土曜日

日本では大して人望が無くても人の上に立てる

今回は日本では「サラリーマンの愚痴」と言われるような話をします。というのも、以前はそこまで気にならなかったのですが、日本に帰ってきてから日本の会社の管理職やエライ人のクオリティの低さにイラっとくることが本当に多いのですよ。何が問題っていうと、
・人を前向きな気分にさせる能力が乏しい、もしくはそういう気が最初からまるで無い
・部下が嫌がることを命じるのに、情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない
・上記のようなことがいちいち気になる。つまるところ人望がない、若しくは人を使うのがヘタ
ということなのです。みんながみんなそうだって言うつもりはなくて、勿論優れたリーダーだっているんですよ。でも、「人の上に立つ資質を欠いているのに人の上に立っている人」が結構な数いて、そのうちの何人かは大変残念なクオリティなのではないかと思うのです。
なんでこうなるのか。について僕なりの結論だけを先にを言うと「日本の会社はすごく安定しているので、資質が無い人が上に立っていても特に困らない」ということなんじゃないかと思うのです。

これは「会社」をひっくりかえして「社会」にしても全く同じ事が言えます。欧州で生活してみると、民主主義というのが彼らにとって必然のなりゆきとして生まれたという事が生理的なレベルでの納得感を伴って理解できるのです。個人の利益や自由を保証することと、社会を維持するという二つを両立するために、色々な試行錯誤を経た上で彼らは民主主義という社会システムを作り出したんだろうと思うのです。別の言い方をすると、そういうシステムが無いとたぶん彼らは本当に社会が維持できないんだと思うのです。実際、地震やハリケーンなどの甚大な自然災害によって秩序が崩壊すると、日本のように被災者が整然と避難所に集合して助け合うようなことにはならない国の方が多いようです。
これに対して日本という国は、ムラ的な相互監視システムによってそれなりに自律的に社会を維持できるんじゃないかと思うのです。このムラ社会では基本的に全員横並びであることが重要で、そこから逸脱しようとすると、出る杭は打たれるようなことになるわけです。そして日本では「誰かの文句を一緒に言う」などの形で「負の感情を共有する」ことによってムラの結束をより強めるという習慣があります。この辺りが外国人から見て一番理解されにくい日本の奇習の一つなんだと思いますが、日本人の「飲みニケーション」みたいな文化ってたぶん昔からあったんだろうと思います。なので、無理難題を押し付ける役人(上司)が上にいたとしても、致命的に限度を超えてない範囲ならば、かえって文句の言い甲斐があるので結果的にムラのチームワークがよくなってしまうようなことが起きたりさえするわけです。

話を会社に戻して、ここでいつもどおり海外では…という話を、例によって僕が嫌いな「欧米」という言葉を便宜上使ってしますが。人望が無かったり人の使い方がヘタな人が上に立つと、会社に対する帰属意識が弱い欧米では日本以上に組織のパフォーマンスが劣化して、それが結果に割と分かりやすく出てしまうんじゃないでしょうか。あと、何よりも日本と違って「嫌なら会社を辞めて違う仕事を探す」ということが割と当たり前なので、あんまり人望の無い人が上に立って部下に無理難題を押し付けてたりしてると、人が逃げていって組織自体が維持できなくなって死活問題に発展してしまいます。
だから、あんまり人を使うのがヘタな人や、人望が無い人が上に立ち続けることが難しいシステムになっているんじゃないかと思います。少なくとも、割と簡単に人に逃げられる欧米では人を使うということに関して日本の比ではないくらいの労力が要求され、管理職は個人の能力として単に優秀なだけではなく、それなりに人望が無いと務まらないんじゃないかと思います。

以上まとめると、日本の会社というのは、こういう風にできてるんじゃないかと思うのです。
「人の上に立つ資質を欠いた人」でも人の上に立ててしまう
                  ↓
人望の無い上司の無理難題に振り回されても部下は簡単には会社を辞めずに我慢する
                  ↓
部下達は上司の文句を言い合うことで連帯を深める結果、チームワークがよくなったりもする
これには一長一短あって、悪いことばかりでも無いと思うのです。能力の高い人が上に立つという弱肉強食的な競争社会って、それはそれで相当なストレスだと思いますよ。実際アメリカやイギリスなどの露骨な競争社会って精神的に病んでいく人が多いイメージがあります(という話を聞くだけで、本当にそうなのかは実体験を伴っていないので分からないですが)。
それに比べたら、資質が無くてもそれなりに上のポジションにいけるようにできてる(伝統的な)日本の会社システムってまだ平和だと思うのですよ。だいたい、儒教的な家父長制度をそのまま援用したような伝統的な日本の会社組織では一般的に年長者ほど上の立場に立つという仕組みになっていますが、こんなの完全な競争社会だったらまず実現しないですからね。
しかしこの、「儒教的な家父長制度」の上下関係だと、上司と部下は「親から子」のような関係になっちゃうんですよね。これが冒頭に挙げたように、「情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない」とか「人の前向きさを引き出そうという気がそもそも無い」という、態度にもつながってるようにも思えるのです。

一長一短ありながらも、それにしてもこれはさすがにどうかなー?と思うのは、人望も無い上に部下を子供扱いする態度に出るおじさん達が、一方では「イノベーション」とかいう言葉を振り回しながら社員に対して何かしら自発性や創造性を求めていることなのです。社員にそこを求めるんだったら、さすがにまずは自発性や創造性を喚起するような人の扱い方をすることから始めるしかないと思うのですが。そんなおじさん達が上に立って「イノベーション」とか言ってられるうちは、まだまだ会社も安泰なのかもしれません。
こういう事を言ってると、日本人サラリーマン諸氏には「まぁまぁ、腹立つ事とか納得できないことなんてサラリーマンやってればあって当たり前だよ。いちいち怒ってたらキリが無いだろ?大人になれよ。」とか言われるんですが。彼らは「子供扱いされるのを受け入れること」を「大人になる」と言ってるわけで、このパラドクスを咀嚼できる器用さが残念ながら僕には無いのですよ。


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ついでにこの文脈で我が国の政治家について言及しておきますと。ここ20-30年の日本の首相というのは、とても人望があるようには思え無いけど、ほどほどに文句の言い甲斐のある人達が大半だったと思うのです。
僕の知る限りの例外は小泉純一郎です。彼は「愛させる能力」だけで首相をやってたと思います。「小泉改革」が何を改革しようとしているのか国民のほとんどが実際は理解していないにもかかわらず、とりあえず国民に支持され続けたのって、ひとえに彼の「愛させる能力」の成せる業だと思うのです。
そしてこれを書いてる現在の安倍首相なのですが。彼は旧来の自民党首相とは違って、たぶん欧米の大統領みたいなキャラを目指しているんだろうと思うのです。が、残念ながら彼の発する全てのメッセージは「裏でジャイアンみたいな怖い奴に脅されて、お金持ちのお坊ちゃんが無理矢理言わされてる」かのように僕には見えます。まぁ、日本以外の国で大統領が務まったりする器だとは正直なところ思えません。何より彼が不思議なのは、憲法をいじったりして国家の株式会社化を進めることによって、日本という国を「安倍晋三では首相が務まらない国」に変えることに熱意を傾けていることです。

2014年3月2日日曜日

エロ本世代のおじさんが日本のポルノを語ってみる

先日、出張先でドイツ人に「どうして日本のポルノはモザイクがかかってるんだ?」と突然尋ねられました。そんなこと言われても「法律でそう決まってるから」としか答えられないのですが。そう説明しても当のドイツ人は「局部だけにモザイクかけることに意味あんの?」と、まるで納得してる様子が無くてちょっと困りました。我々日本人だってモザイクが必要だということについて納得感のある説明なんて多分できないですよね。
結局は「今はネットでモザイクかかってないのとかもいくらでも見れるけど、僕らの思春期にはインターネットなんてなかったのでモザイクかかってないのを見る機会がほとんど無かった。だから、なんだか今でもモザイクかかってる方が見てて落ち着く。」とか、「局部だけでなく、ニュース映像等では死体にモザイクをかけることが慣例になっているし、逮捕・拘束された容疑者の手にかかってる手錠にもモザイクはかかってる。」とか、そんな話でごまかしておきましたが。まぁでも確かに、日本のポルノ事情ってかなり特殊なんじゃないかと思うので、今回はその話について書こうかと思います。

そもそも歴史を紐解くと、江戸時代の春画なんて局部だけが過剰に強調されて描かれていたりするので。局部を見せてはいけないというルールが昔から日本にあったわけでは無いんだろうと思います。むしろそこだけ強調するために春画の大半は顔と性器以外は服で覆われていたそうです。まぁ、江戸時代は性に関してかなり奔放な時代だった(同性愛とかもごくごく普通だった)らしいですけどね。
そこからどういう変遷で現在のモザイク文化に至ったのかはよく分かりませんが、どうも明治時代くらいにできた法律における「わいせつ物」の解釈として「モロはNG」ということになってるみたいです。とまぁ、そこだけ見ると日本ってポルノに厳しい国のように思えるのですが。外国人に言わせると、日本のポルノ事情はビックリすることもあるそうなのです。
一番外国人が驚くのは、コンビニや書店などの普通のお店でポルノが買えることです。これ、日本人としては割と普通のことなのですが、外国人からするとかなり衝撃的なのだそうです。例えばヨーロッパの大半の国ではポルノというのは"sex shop"などといった名前のポルノ専門店でしか扱っておらず、子供がポルノに接することができないように割と徹底的に管理されているのです。
だから何って、思春期にインターネットなんてなかった僕と同じ世代のヨーロッパ人は、少年時代に日本ほどそう簡単にはエロ本は手に入れられない物だったらしいのです。日本だと、一応表向きにはダメということにはなっていたけど、多少恥ずかしい思いをすれば本屋でエロ本を買うことは中高生でもできたのですけどね。

だいぶ脱線して「最近の若い奴は…」というおじさんの口ぶりの話をしますが。僕と同世代の人って、男子ならほぼ全員が恥ずかしい思いをしながらも中高生くらいの頃にエロ本を買った経験があると思うのです。どんなに勉強できる人でも、どんなにスポーツができる人でも、世代共通の通過儀礼としてみんな経験してることなのですね。地元の本屋だと恥ずかしいから隣町の本屋にエロ本買うためだけに遠征に行ったり、布団の下に隠してたエロ本を母親が布団を干したときに見つかったり(だいたい母親は何も言わない)、処分に困った飽きたエロ本を草むらに捨てたりとか、なんだか書いてて懐かしい気分になるのですが。
そんな恥ずかしい思いをする必要もなく、ネットでなんでも見放題で育ったら、そりゃ「最近の若者は失敗を極度に恐れる」とか言われるようになるのもなんだか納得できる気がするのですよ。でもそういうこと言ってると、当の「最近の若者」には陰で「あのオッサン達、中高生の頃にエロ本買ってたんだぜ、ダッセー。」ってたぶん言われてそうな気がするんですよね。

海外(スペイン)在住時に、在住暦の長い日本人の男性から「引越しのために部屋を掃除してたら、昔日本から持ってきたAVが出てきたんだけど、いる?」と聞かれたことがありました。曰く、彼がスペインに住み始めた当時は今ほどネットは発達していなかったので日本に帰国した際には日本食材や薬等と一緒に日本のAVも持ち帰っていたそうです。そりゃぁ、その当時はさぞかし貴重品だったんだろうと思います。おかげで彼にとっては「捨てるのはなんかもったいないから、欲しい日本人がいるなら譲りたい」となって、わざわざ僕に聞いてきたんだと思います。
スペインにだって勿論ポルノはあるし、そういうお店に行けば大人なんだからいくらでも買えたんでしょうが。やっぱりそこは日本の方がいいんでしょうね。そんなに何度も見たことないですけど、洋モノのポルノって女優さんが目を開けてニコニコ笑ってたりするので、なんだか見ててゲンナリするので僕もちょっと苦手です。なんていうかな、「恥」の概念が欠けているのですよ。やっぱり日本は恥の文化だからでしょうか。

2014年2月22日土曜日

浅田真央や長嶋茂雄と「日本的=天皇的」情緒

年明け以降だいぶ間が空いてしまいましたが、細々と更新していきます。1月末から2月頭にかけて長い海外出張とかアレとかコレがあって、ようやく落ち着いてきたのです。

これを書いている現在、ソチオリンピックは終盤にさしかかっておりまして。ちょうど浅田真央の「ショートプログラムの失敗が響いてメダルには届かなかったけど、フリーでは納得の演技ができて、演技が終わった後感極まって涙ぐんでいた。」という結末に日本中が大騒ぎしたのがひと段落したところです。ご存知の通りこの結果に対する日本人および日本のマスコミの反応は「一緒にもらい泣きしてしまった」「メダルよりも大事な物を見せてもらった。」といった具合でして(あと、なんとなくの雰囲気として「金メダルがキム・ヨナじゃなくてよかった」というのはあります。)。誰も浅田真央を非難する人なんていなくて、ナンシー関が生前指摘していた「オリンピック=感動をありがとう」という、いつもの物語に回収することに国民的合意が成された感はあります。唯一浅田真央に対して「あの子は大事な時には必ず転ぶ」とネガティブなコメントを漏らした森喜朗は見事に炎上して方々から袋叩きに遭いました。

もうずっと前から思ってることなのですが、浅田真央という人に対する日本人の思い入れって常軌を逸して特別だと思うのですよ。彼女に対して否定的な事を言う日本人は誰もいないし、もしも悪口の一つでも言おうものなら森善朗のように大炎上してしまうのって、極めて異質で特別なポジションだと思うのです。安藤美姫が出産騒動のときにあれだけ叩かれたのも、浅田真央という「特別な存在」に対するカウンターという側面もあるんじゃないかと思ったりするのです。
この先どうなるかは分からないですが、少なくとも今現在の浅田真央の「この人の悪口は誰も言えない」という国民的コンセンサスは長嶋茂雄に匹敵するんじゃないかと僕は思うのです。実際のところ、直感的にこの二人から受ける印象はなんだかすごく近いものがあるのです。で、例によって僕が言いたいことは内田樹先生の受け売りなので、ここの真ん中の方にある「日本人の美意識と長嶋茂雄」というところを読んでみてください。もう僕が言いたいことはほとんどここで説明し尽くされています。内田先生のblogでも同様のことについて言及していますね。
かいつまんで言うと、長嶋茂雄という人はある種の「巫女」であり、我々日本人はこういう人達がどうしても大好きだと。長嶋茂雄のように、見てる人に野球というスポーツの楽しさだけがダイレクトに伝わってくるような「巫女」的な人はその中心に何かしらの非常に虚ろなものを抱え込んでいる人達で。この「巫女」性というのはすべてを受け入れる女性原理である「天皇」につながっている…というようなことを内田先生はおっしゃってます。これは、僕が浅田真央という人から受ける印象とほとんど同じなのです。

浅田真央という国民的ヒロインをメディアもあの手この手で持ち上げようとするのですが。もうこの国のメディアはナンシー関が健在だった時代から、アスリートを「努力」「家族や周囲の人との絆」(よく考えてみると「努力、友情、勝利」という週刊少年ジャンプの三大原則とかなりカブってます)などの「イイ話」「感動」の文脈に無理矢理乗せてしか取り上げなくなっているので、当然彼女についてもそういう文脈で煽ろうとするのですね。だから、彼女が更なる飛躍のために日々懸命に努力してきたことや、色々な苦悩や葛藤があることをメディアは事ある毎に刷り込もうとしてくるのですが。
彼女の演技をテレビで見ている僕(や、おそらく多くの国民)にはそんな「イイ話」と彼女がどこかで結びついていないのです。彼女からはフィギュアスケートというスポーツそのもの(美しさとか、華やかさとか、楽しさ)だけが直接的に伝わってきて、彼女自身のパーソナリティがどこかに消えているように感じるのです。この巫女性というのは、繰り返しになりますが長嶋茂雄から日本人が受けた感覚と全く同じなんじゃないかと思うのです。

ちなみに、上記の長嶋茂雄論の中で内田先生も言及していましたが、ロラン・バルトも表徴の帝国という有名な日本文化論の中で「中心に空虚がある」という日本文化の特徴を指摘しています。たしか、ヨーロッパの都市の中心には中心にたどり着いたことを実感できるようなシンボリックな建造物や広場などがあるのに対して、東京の中心には広大な森に囲まれた皇居という「空虚」だけが存在するとか、そんな話だったはずです。これは内田先生の言う「天皇的 = 巫女的 = 中心に何か虚ろな物を抱えている」ということが東京という街の構造そのものにリンクしているということを示しており、たいへん鋭い指摘だと思います。

もしも今、皇室に適齢期の男性がいて、その人が浅田真央と結婚したとしたら。多分誰も全く違和感を感じないし、国民は諸手を挙げて喜ぶんじゃないかと思うのです。
逆に。ヤワラさん(byナンシー関)みたいに浅田真央が選挙に出たりすることはたぶん無いだろうし、もしもそんなことにでもなったら当の本人は誰も非難せずに、「真央ちゃんを担ぎ出して利用しようとしている奴は誰だ!」と怒り出す人が沢山出てくるんじゃないかと思います。これは、「具体的な政治に関わらない」ということこそが「天皇という政治的意味」を担保しているというパラドクスを破ることになるので、この国では重度のご法度とされています。彼女を選挙に担ぎ出すことはほぼ「天皇の政治利用」と同じ扱いを受け、担ぎ出そうとした人たちは少なくとも山本太郎ぐらいのバッシングを受けることは避けられないでしょう。

2014年1月2日木曜日

「英語=グローバル」というのは周回遅れの発想ではないのか?

あけましておめでとうございます。年越し蕎麦を食べながら紅白を見て、おせち料理とお雑煮と初詣の新年を過ごしています。つまり、ものすごく普通のお正月なのですが。花見の時期とお正月は日本に住んでてよかったとつくづく思います(梅雨と真夏は本気でこの国が嫌になりますが)。その昔バルセロナに住んでた頃はバルセロナの昼の2時くらいの時間に紅白やってて、twitterとかでみんな楽しそうに盛り上がってるのがすごくうらやましかったのを覚えてます。で、なんだかさびしいのでネットに転がってたその前年のゆく年くる年の動画を見たりしてました。日本に住んでると毎年当たり前のようにやってくるお正月の風景ですが、一度それが全く無いところに住んでみると、日本のお正月は本当にいいものだとつくづく思ったのでした。

で、新年明けての今年第一回ですが。もうひとしきり話題にするのも飽きちゃった感のある楽天やユニクロなどのグローバル企業様の話をしようと思います。ただし、「企業が英語を公用化することの是非」ということよりは、彼らが英語を公用語化するに至った背景になんとなく伏流している「英語=グローバル」という物の考え方の方が僕には気になるので、そっちの話です。
英語が国際共通語として磐石のステータスを確立したことについては最早異論の余地はありません。例えば国際学会なんて全部英語ですしね。だけど、この先の世の中で英語だけでビジネスが成り立つかというと、それはさすがに無理なんじゃないかな?と思うのです。ご存知の通り、アメリカがだんだん落ち目になってきて以前ほどの勢いが無くなり、代わりにBRICsと呼ばれる国々が勢いを増しています。これらのBRICs国のうち、英語がまともに通用する国はインドくらい(って言ってもすごい訛ってるけど)で、後の国では英語はロクに通用しません。
我が社でも営業系の人のための語学研修は中国語、ロシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、英語は「自分でやっといてください」という扱いになっています。市場として意識されているのはBRICsをはじめとする成長途上の国なのでまぁ必然的にそうなっちゃうんでしょうね。
「グローバル企業」を標榜している楽天やユニクロの人々がそんなこと知らないはずなんて無いし、彼らが今後展開していこうとしている先も同様に英語が通じる可能性は極めて低いことくらい彼らだって分かってると思うのですが。どうして彼らは「英語=グローバル」という旧世紀のパラダイムにこだわるんでしょうか?これが僕には不思議なのです。
たとえば、英語を公用語化することよりも中国語なりタイ語なりポルトガル語なりができる人を集めてきた方がいいんじゃないかと思うのですが。こういうこと言うと、英語偏重主義者は「いや、だったら英語が喋れる中国人なりタイ人なりブラジル人を雇って彼らと英語でコミュニケーションすればいいんだ。だから英語だけできればいいんだ。」とか言うんでしょうが。それこそ外資の「グローバル企業」が20世紀に走ってきた後を周回遅れで追いかけるだけになってしまうんじゃないかと思うんだけどな。。

ここからは僕の想像と偏見が多分に含まれるのですが。これって「信仰」の問題なんじゃないかなと思うのですよ。「英語=国際共通語によって世界中の人達を相手にビジネスすることができるようになった自分」という物語への信仰が背景にあって、これは英米人が英語という言語を布教するときに刷り込んだ物なんじゃないかと思うのです。やや脱線しますが、英米人はこうやって自分達の言語を文化や習慣とは切り離して単体で布教したことで、自らの言語を単なる「道具」に貶めてしまったように僕には見えるんですけどね。
さておき、僕の経験からも「英語=グローバル」という物語に拘泥する人や英語がすごく上手な人はたいてい英語以外の外国語ができないか、そもそも英語以外の言語に興味をあまり示さない印象がありまして。これはアメリカ人の大半が英語以外の言語を喋れないし、あまり外国語に関心を示さないこととそのまま繋がっているのではないかと思うのです(アメリカでもっともポピュラーな外国語といえばスペイン語なのですが、アメリカ人のスペイン語もこれまたすんごい無茶苦茶な人が多いのです。)。
これとは逆に、英語以外の言葉が上手な人はたいてい英語が苦手な人が多くて、また、そういう人はたいていアメリカ嫌いが多い印象があります。まぁ、これは僕の知ってる事例の大半が日本人なので若干日本特有のバイアスがかかってる可能性はあると思いますけどね。

これから先の「グローバル化」は、英語と欧米的(こういうまとめ方を便宜上使います)価値観による世界の支配ではなく、多様な民族・文化・言語が混在する世界へと向かうのは間違い無いでしょう。「英語だけでなく、英語以外の言語が何かできないと強みにならない」というのは僕が新入社員として会社に入った10年以上前から世の中的には言われてますし、慶応SFCなんかは第二外国語に力を入れる教育をかなり昔からやってたりします。「英語=グローバル」という旧世紀の物語に篤い信仰を寄せ続ける人達が本当に時代の最先端なんでしょうかね?
「英語公用語化」は、英語はできるけど英語以外の外国語に関心を示さない人達ばっかりを集めてしまうことになったりしないかと思うのですよ。で、ここから先は本当に100%僕の偏見ですが。それは単に口先の語学力の問題だけでなく、平田オリザなどが提唱しているような「異文化コミュニケーション能力」があまり高くない反面、「英語のできる自分は国際感覚が豊富である」という自意識だけ過剰な「アメリカ人の出来損ない」みたいな人ばっかりの会社を作ってしまうんじゃないかと思うのですね。
もしも柳井や三木谷という人達が英語よりも英語以外の外国語能力を重視するような会社を目指すのであれば、それはなかなかの器なんじゃないかと思います。それは単に、ここまでに何度も述べたような時代の趨勢の問題だけでなく。それって、自分ができないことができる部下や、自分と価値観の異なる部下を使いこなせる度量が無いとできないことだろうと思うからです。しかし、そういう度量や資質こそ”グローバル時代”に本当に必要なことなんじゃないかと僕は思うのですが。

-----アップした翌日の追記-----
三木谷は中国語をやってるそうです。まぁ、そりゃさすがにそうなりますよね。でも、英語が半分ネイティブとかいう彼が中国語を習得する労力と、普通の日本人が英語を習得する労力が等価だとは思わないけどな。。