2019年7月20日土曜日

吉本興業と新自由主義

これを書いている現在、吉本芸人の闇営業事件について宮迫とロンブーの亮が記者会見を行いました。ちょっと予想してなかった展開になりましたが、所属芸人の反社会勢力とのつながりを云々する以前に、当の吉本そのものが反社会勢力のような組織であることが明らかになりました。
ここ数年でテレビがすっかりお笑い芸人だらけになったのは、制作費が昔より安くなってきたためにコストが安いお笑いが重用されるようになったからだそうです。つまり、彼らはテレビに出てはいるけど、我々庶民が思っているほどは給料もらえてないのかもしれません。実際に、闇営業の背景については岡村隆史が言及するように「そうしないと食べていけない芸人も多い」という事情もあるようです。

そもそも、今回の一連の闇営業問題についての吉本の対応があまりにスクエア過ぎて、ちょっとどうなんだろうと思うことが多かったです。「何も変えない」契約なし、ギャラも上げない、移籍の自由もなしという社長のコメントには現場の芸人からも反論が出てました。この会社のコンセプトは非常に単純明快で、自分たちに都合のいいことにだけコンプライアンスなどの倫理規範を持ち出しますが、自分たちの都合の悪いこと(契約書で給与を明示するなど)については一般社会の概念には一切つきあわない。ということのようです。
吉本の社長はこのような姿勢を「吉本は家族的な会社」という言葉で自己肯定しにかかっています。なるほど、「家族」だと言えば「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という理屈が通る…と言いたいんでしょうね。でも、家族なんだったら食べていける程度に給料を払うような扶助はするべきなんじゃないでしょうか?これは家族というアナロジーの文脈でいうとDVそのものです。

このような「DV=劣悪な雇用環境下での激しい生存競争の中でも文句言わずに勝ち抜き続けることを要求される」ということは、お笑いだけでなくタクシーやアイドルなど、なり手がいくらでもいる業界ではどんどん常態化していっています。そしてこの風潮は高橋源一郎が以前指摘していたように政治も含めて日本全体を覆いつくしています。
吉本と自民党は、この新自由主義的な世界観を共有していると思います。例えば松本人志なども弱肉強食の競争には非常に肯定的なコメントをしていますよね?(ネットカフェに寝泊まりする人について、「だんだん部屋小さくしていったら?」とか言ってました)。松本人志は安倍晋三とごはんたべてましたし、先日吉本の芸人が安倍晋三と戯れてましたよね?

例えばアメリカは徹底した新自由主義の国ですが、貧富の差があってもお金持ちが貧者に対して寄付することで支えることである程度社会全体が破綻を免れるようにできています。芸人の世界も売れっ子が若手に飲み食いをさせたりすることで扶助するなど、日本における新自由主義の特殊事例として割とうまくいってそうな印象はありました。少なくとも、これまでは。
先日のジャニーズ事務所への指導とセットで考えると、テレビ地上波というメディアで栄華を極めた二大勢力(ジャニーズと吉本)が相次いでその綻びを見せ始めているように見えます。吉本の幹部は「キー局は吉本の株主」と言っていたそうですが、この幹部の発言はテレビ地上波がオワコンに向かっているという可能性を全く考慮できていません。そろそろこの一連のシステムが限界に達して、新しい時代を迎えているのではないでしょうか?

そしてちょうど明日は選挙です。このあたりから世の中が変わってくれないかなぁ。

ビジネス英語ってどんな英語なんだろう?

奥様経由で、奥様のママ友から「ダンナが会社で英語をやれと言われているんだけど、どうやって勉強すればいいと思う?」と聞かれました。そのダンナ様ご本人にちゃんと確認したわけじゃないからどの程度本気で聞いているのかもわからないけど、本気で聞かれたとしてもあまり相手にとって有用なアドバイスができる気が全くしないのです。というのも、自分の場合こんないきさつで、周りの環境がキッカケになって紆余曲折の末今に至ってます。なので、「どうやって勉強したらいいと思う」と言われても「こうやればいいよ」という方法は具体的には思いつかないのです。

そもそも「英語=勉強するもの」という問題の前提自体が間違っている気もします。ある程度文法や語彙を勉強することは必要なんだけど、それだけを勉強し続けてもペーパーテストである程度の点は取れるようになっても、会話ができるようにはまずならないと思います。しかし、TOEICで点を取るのがとりあえずの目標なのであれば、それに向けた「勉強」はご当人にとっては意味があるのかもしれません。
と、ここまできて設問の前提の新たな問題にたどり着くのですが。「英語をやる」って何のためなんでしょうか?TOEICの点数を取りたいのか、外国人となんとなく雑談できるような汎用的なコミュニケーション力を求めているのか、自分の仕事の専門分野について外国人と会話できるようになることなのか…たいていの上司が言う「英語をやれ」という指示はこのあたりの目的が全く不明瞭です。ここがクリアになるともう少し具体的な提案ができそうな気がします。

目的によらず汎用的に有効だと思う方法を一つ提案すると、「シャドウイングはやる価値がある」と僕は思います。シャドウイングというのは、ネイティブの発話をひたすら真似して喋るというものです。地味な作業の反復になるのであまり面白みはないですが、ある程度ちゃんとやれば誰でも必ず効果は出ると思います。
なぜシャドウイングか?というと、語学に関しては「聞けたかったら話しなさい」だからです。口頭での言語コミュニケーションは、情報のやり取りという観点からいうと、情報を音にエンコード(符号化)して送ったものを受け手側でデコード(解読)していることになります。
言いたいこと → 発話運動 → 音 → 耳で聞く → 意味を理解する
もうこの段階でだいたいわかると思いますが、どのようにエンコード(発話運動)しているのかが分からないとデコード(リスニング)できるようになるわけないのです。以上がシャドウイングをおすすめする理由です。

最後にようやく「ビジネス英語」の話になるのですが。この機会にちょっと世の中の英会話教室や英語教材をネットで探してみました。すると、世の中には「ビジネス英語」なるものが存在するようです。ネット情報によると「とりあえずビジネスで使えればいいという想定で、敬語を使ったり使用頻度の高い定型フレーズの使い方を覚える」ということなんだそうですが。そんなカチコチした定型フレーズしか喋れないような人がビジネスの現場で通用するんでしょうかね?
この「ビジネス英語」を極めて、仕事でバリバリ英語を使っている人は実在するなら会ってみたいです。どうも僕には「ビジネス英語」というのは、「プロになれる人なんてほんの一握りしかいない音楽専門学校」のような物なんじゃないかと思えてくるのです。それとも、世の中の「ビジネスマン」は「ビジネス」って頭につけられると「自分にもできそう」と思うんでしょうかね?僕は「ビジネス」っていう言葉を見た瞬間に、おじさんが履いてるような紺色のナイロン靴下が頭の中でイメージされて「ああ、これは自分とは関係ない」と思ってしまうんですが。

京都アニメーション放火事件とオウム

7月も下旬だというのに、いつまでも梅雨が終わりません。天気はずっと悪いままな上に、会社でも色々とあって、常にイライラ、悶々とした日々を過ごしております。こういう時に気分転換をするのがヘタな方だという自覚はあるのですが、そんなときに京都アニメーションの放火事件が起きました。ニュースで伝えられている話からすると、犯人はほぼ僕と同年代です。

このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。

「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。

件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。

そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。