2020年9月6日日曜日

スポンジボブをラカン風に読み解く

前回の投稿でお伝えしたように、動画サービス入会+引っ越しの忙しさによってこのblogを更新するのが2カ月くらい後手に回り続けてきたのですが。引っ越しの疲れによってちょっと病気になり、おかげで酒をやめているために時間も増えたので今まで書こうと思っていて書いてなかった話を一つしてみようと思います。といっても、結局動画サービスとは切っても切れない話で、我が家の幼稚園児がNetflixで狂ったように見続けているスポンジボブについてです。スポンジボブをそれなりに長い時間子供の隣で見ていると、時々「あー、これってラカンのアレだよ!」という描写が度々登場するのです。そこで今回は、スポンジボブとラカンが繋がって見えるポイントについて語ってみることにします。


■「秘密のレシピ」は対象aである

スポンジボブの物語を駆動する一つの要素として、スポンジボブが働いてるカニカーニの看板メニューである「カー二バーガー」の「秘密のレシピ」があります。スポンジボブの話のうちたぶん5回に1回くらいはこの「秘密のレシピ」ネタで構成されているのではないでしょうか。この「秘密のレシピ」ネタの話は、秘密のレシピを奪おうと常に狙っているプランクトンという悪者(カニカーニのオーナーであるカーニさんとは長年敵対しつつも腐れ縁)があの手この手で「秘密のレシピ」を手に入れようとします。

もちろん、何回もネタとして出てくるということは、結局は毎回入手できないのですが。この秘密のレシピの存在自体がラカンの言うところの「対象a」そのものだと思います。対象aについてはウェブで検索すればいくらでも解説が出てきて、それぞれ言ってることが微妙に違ってたりすると思いますが。僕の理解だと、「あらゆる人の欲の中心にあるけど、誰もそれを手に入れることができない。しかし、手に入れることができないことが世界を駆動している。」というものです。わかりやすい例を挙げると、

  • 「火の鳥」の火の鳥
  • 「桐島部活やめるってよ」の桐島

なんかはその最たる例だと思います。 

 

■「スポンジボブの運転免許」も対象aである

スポンジボブの免許ネタというのもこの作品の中で頻繁に現れるテーマです。スポンジボブは常軌を逸して運転がヘタで、そのために教習所に通っているけどいつまで経っても免許証を手に入れることができないのです。スポンジボブにとっての運転免許というのも、対象aとしてこの物語を駆動していると思います。


■ビキニタウンはラカンの三界における想像界である

三界というのもラカンを語る上で欠かせないキーワードです。今まで聞いた中では、この概念を説明する上ではマトリックスという映画が一番妥当な気がします。スポンジボブの世界もこのラカンの三界と同じような構造を持っていることが時々垣間見えるのです。スポンジボブの世界(ビキニタウン)の大半の登場人物は魚などの海の生物です。これらの海の生き物は魚であっても通常は二足歩行して口を開いて会話する半魚人のような擬人化された形で描写されています。ただし、ビキニタウンという舞台の外に出てしまうと、時々彼らはリアルな魚として描かれる時があるのです。これをラカン風に言うなら、「海の生物はビキニタウンという想像界の中にいる限りは二足歩行して会話する半魚人のように描かれている。しかし、一度ビキニタウンという想像界から出て現実界に入ってしまうと、途端にリアルな魚として描写される」と言えるかと思います。

極まれにですが、スポンジボブは実写の世界と交わったりします。たいていの場合には海賊パッチ―という実写のキャラクターが登場するのですが、こういうシーンもビキニタウン=想像界の外側の存在を知らしめているように見えます。結果的にスポンジボブは「単なる海の生物の擬人化」ではなく、ラカンの三界における象徴界と現実界が折り重なった世界として描かれています。


■スポンジボブとサンディーは三界の結び目に位置する存在

ラカンの三界を持ち出したついでに言うと、海の生物でないスポンジボブ(スポンジ)とサンディー(リス)について言及しておきます。この両名は時々カップルのように描かれることもあるのですが、海の生物ではない故に三界の結び目に位置しているという点が彼らには共通しているのです。この両者でもスポンジボブはまだ「水が無いと干からびてしまう」という点で海の生物と同じ生息圏を共有しています。一方、サンディーは普段は空気のある場所に住んでいて、海の生き物と同じ場所(海中)に出る際には空気を供給できる宇宙服のようなものを装備して海の生物と完全に一線を画しています。


■ラカンと関係ないオマケ:ビキニタウンはバイストン・ウェル

子供がスポンジボブを昼間散々見たあとに、僕は夜な夜な動画サービスでダンバインをみています。ダンバインは「海と大地の間の世界バイストン・ウェル」の物語で、時々「空の上まで行ったら海に出てしまう」という台詞が出てきたりするのですが。これって、海の底の世界であるビキニタウンと同じなのではないかと思えてくるのです。たぶん、ダンバインとスポンジボブを同時に見てる僕じゃないと思いつかないことだろうと思うので、ここについでに書き残しておきます。


2020年9月1日火曜日

今更ですが鬼滅の刃の話を

 約2か月に渡って、このblogの更新をサボっていました。理由は新居(中古住宅)のリフォームや引っ越しで忙しかったからです。未だに家の中に段ボールは沢山残ってますし、家のリフォームもまだ続きをやらなきゃいけなかったりで、やらなきゃいけないことだらけなのですが。一方でとりあえず日常生活に問題ない程度には片付いています。「いやいや、ここで気を抜いてはいけない、ちゃんとやらなきゃ」という気持ちと「とりあえず暮らせるようになったし、いいや」という気持ちとのせめぎ合いの中を日々暮らしています。

もう一つblogの更新をサボってしまっていた理由は、とうとう動画サービスに入ってしまったからです。引っ越しで忙しくなるので子供の相手をせずに済むように動画サービスに入ってみたたものの、子供が寝た後は僕自身が酒飲みながらぼんやり動画サービスでアニメを見るのがすっかり定着してしまったのです。いやー、あんなのあったらいくらでも廃人になれますよ。しかも引っ越しの諸々で疲れてると、自分が楽をできる方向についつい流れてしまうのです。おかげで、ここ数か月はblogは更新してないし本もロクに読んでいません。

そんな矢先に、なんと病気になってしましました。おそらく引っ越しを含めて夏の疲れが溜まっていたのでしょうが、現在投薬治療中です。ちゃんと治せばちゃんと治る病気なんだそうですが、これまで経験したことないレベルで日常生活に支障をきたす(飲食が難しい)レベルの病気なので、さすがに投薬治療中は酒は飲めなくなりました。これによって、今まで夕食後に酒とアニメで埋めていた時間がなくなったので、いい加減サボっていたblogを更新しようかということになったのです。

前置きがだいぶ長くなりましたが、そう、鬼滅の刃の話でした。結局、世のブームに乗ってアニメは動画サービスで全話見ちゃいました。いやー、これ、みんなが騒ぐのも分かるくらい面白かったです。四半世紀くらいジャンプはまともに読んでないですが、ジャンプの漫画として新たな可能性を開拓したんじゃないかとさえ思いました。以下はTV放送されたアニメだけを見ただけのコメントです。ちょっと前に漫画は完結しているらしいので漫画で一気に読んじゃいたいけど、一過性のブームで消費するのは勿体ない気がするので続きをアニメでじわじわ見ていきたいです。というわけで、漫画をちゃんと読んだ人から見ると的外れな事も言ってるかもしれませんが、そこはご容赦ください。



■主人公がしっかり者

これまでのジャンプ漫画の主人公の王道はドラゴンボールの悟空やHUNTER X HUNTERのゴンなど、「ちょっと抜けてて、どこかおバカ」なのです。これは長嶋茂雄や浅田真央にも通じる日本人がどうしても好きなキャラクターであり、ONE PIECEのルフィに至ってはこの路線の最終形だと思います。一方で鬼滅の刃の主人公の炭次郎は思慮深くて明るく前向きな、リーダータイプの優等生なのです。もう四半世紀以上ジャンプはまともに読んでないですが、「こんなに非の打ちどころのない完璧な人間が主人公の漫画がジャンプで連載されている」ということに、隔世の感を覚えずにはいられませんでした。


■波紋法=呼吸法による肉体への回帰

鬼滅の刃の作者本人も言及しているそうですが、鬼滅の刃はJOJOから多大な影響を受けているようです。たとえば、「JOJO」の吸血鬼と「鬼滅の刃」の鬼は、「太陽の光に弱い」という設定が類似しています。そしてこのJOJOとのつながりの中で最も重要なのはJOJO第二部までの「波紋法」と鬼滅の刃の「呼吸法」の類似性です。ここからちょっと脱線してJOJOの話になりますが、JOJOは第二部までは「波紋法」という肉体技によるバトル漫画でした。そこから第三部になって「スタンド」という異能力で戦うことが中心のバトル漫画に大きく様変わりします。現在では「スタンド」はこの後に少年漫画の主流となる「異能力バトル漫画」の元祖という位置づけにされているようなのですが、当時小学校高学年だった僕は「スタンド」が登場したときに「あれ?肉体で戦わなくていいの?あ、でもみんな受け入れちゃってるんだ。そうなんだ。。」と違和感を感じたのを覚えています。

今にして思えば、「スタンド」はその当時のバブル末期→破綻という世相とリンクしていたのではないでしょうか。つまり、もう汗水たらして肉体で戦う(稼ぐ)よりもバーチャルで戦う(稼ぐ)という時代の空気に合致していたように思います。話を鬼滅の刃に戻すと、鬼滅の刃は鬼(=異能力)と人間(=呼吸法と剣)を戦わせることによって、人間の戦い方をもう一度肉体のドメインに戻すことを試みているように見えたのです。ややこじつけな感はありますが、バブル崩壊以降もバブル期と同じ「マネーゲームとしての経済」という価値観だけをそのまま延命させてすがりついてきた日本人が、またかつての身体性を伴った経済に回帰しようとしている過程とリンクしているように思えるのです。こうやって考えると、鬼滅の刃のブームと安倍政権の崩壊は繋がっているとも言えるのではないでしょうか。


■鬼を倒すことで鬼が供養される

倒される鬼の側についてもそれぞれのドラマがちゃんとあって、特に鬼が刀で首を切られて絶命するまでの間に走馬灯のように鬼になるに至ったキッカケや鬼としての苦悩などが描写されます。「鬼を倒して供養する」というのはどこか能に通じるところがあるのではないかと思いました。




夏の甲子園に代わる敗戦の物語

# この原稿は2020年の5月21日に書いて、もう一味足りない感じがするのでそのま
放置していたものです。安倍晋三がとうとう政権を投げ出した2020年9月1日に
# なって読んでみたら、確かにもう一味足りないけどまぁまぁいい感じで書けている
# ので、やや後出しジャンケンの感はありますが、そのまま公開してしまいます。

コロナのせいで、最後に職場に出社してからもう1か月近く経とうとしています。ここまで長期間にわたって職場に出勤しないのは、就職して以来初めての事です。これまでの最長記録はバルセロナ時代の3週間(夏休みの間3週間職場のエアコンが止まるので強制的に夏休みになる)だったのですが、まさか日本にいる間にそれを超えて会社に行かない日が続くことがあるとは思ってもいませんでした。これが明示的に休みだったらまだいいのですが、残念なことに1か月に渡ってずっとテレワークという時間が続きました。
この1か月のテレワーク期間で何が辛かったかと言うと、
・オンとオフの区別がないので生活にメリハリがなく、土日も休日という気がしない
・家事や子供に邪魔されるので、会社に比べて集中して仕事に取り組めない
つまり、メリハリも無ければあまり仕事は進まないし達成感もない、という1か月でした。最初は色々辛かったのですが、最近はこれにさえもだいぶ慣れてきて、今となっては会社に行くのが当たり前だった生活に戻るのがなんだか怖いとさえ思うようになってきました。

緊急事態宣言もどんどん解除されて、だんだん社会全体が元あった状態に戻り始めたこのタイミングで、「夏の甲子園中止」というニュースが入ってきました。春も夏も含めて、今年の高校3年生は誰も甲子園の土を踏むことなく卒業することになるようです(後の追記:救済措置として交流試合は開催されました)。一応wikipediaで調べてみましたが、夏の甲子園は終戦の翌年の1946年でさえ開催されていたそうです。終戦の翌年なんてまだ食うにも困る人が沢山いただろうと思いますが、そんな時代でさえ開催されていた甲子園が中止になったわけです。

このblogでも以前から高校野球については「戦没者を慰霊するために奉納される能」であるということ、だからこそそこで毎年「犠牲の物語」が繰り返される必要があるということには折に触れて言及してきました。夏の甲子園は単に高校球児や高校野球ファンのみならず日本人全員にとって「敗戦の再現と供養」という霊的な意味を持っています。ここから先はこれと言った根拠の無い想像なのですが、日本国民は中止になった夏の高校野球の代わりに何か別の敗戦の物語を必要とするのではないかと思います。

そこにハマるピースとして、「安倍政権の崩壊」はかなりあり得るのではないでしょうか?「権力の暴走に歯止めが利かなくなった政治体制が終焉を迎える」というのは敗戦の一つの側面です。繰り返し言いますが、これと言った根拠はありません。しかし、これを書いている現在の「Twitter世論の高まりによって安倍政権が強行採決を見送るなど、強気の政治体制にもさすがに限界が見え始めた」という状況を鑑みると、この先政権が総崩れになって、夏頃には総辞職というのはあり得る話のように思えてきます。

そもそも、現在の状況は敗戦時に戦犯として岸信介を処分しなかったことに端を発している「亡霊の物語」とも言えます。この亡霊を供養することから「本当にあるべきだった戦後」を迎える契機になるのではないでしょうか?こう考えると、日本にもまだ希望があるように思えてきます。

このblogは発足以来ほぼずっと安倍政権の文句を書いていますが、書いてる僕自身がいい加減飽きてきたので、さすがにそろそろ終わってほしいです。