2023年2月26日日曜日

事細かな決まり事を一方的に人に押し付けたがる人、責任を回避したがる人

職場の外国人が社内のイベントでプレゼンする案件が同時期に二つ発生しました。このときのイベント主催者側の対応がタイトルにもあるようにあまりに両極端だったので、まずはその話から。有名ブロガーのフミコ・フミヲ氏をちょっとだけ意識して、会話のやり取りまで含めて書いてみます。

 

■プレゼン案件1

事細かにルールが記入された、いかにも「日本のモテない理系」テイスト全開のスライドのテンプレートがイベント主催者から送られてきた。しかも、全部日本語で。。「さすがに外国人にこれだけ送り付けても読めないですよね?このテンプレを全部英語に訳すのも大変でしょうから、最低限必要なエッセンスだけ英語で説明して、『後は程々にやってください』くらいに留めるのがよいのではないでしょうか?」と伝えたのですが。

すると次に、日本語のテンプレを全部そのまま英語に訳したものが送られてきました。フォントサイズのルールなんかも含めて、日本語のテンプレがそのまま機械的に直訳されていました。そもそもアルファベットは漢字みたいに画数多くないから日本語よりフォントを小さくしても視認性は落ちない一方で、英語は日本語ほど圧縮効率がよくないので。日本語と同じフォントサイズのルールを英語に無分別に適用するのは、ちょっと思慮がなさすぎると言わざるを得ないです。

英語/日本語といった言語の違い以前のもっと本質的な問題として、「なぜそれが必要なのか?」をちゃんと説明しないまま、事細かに決まり事を作って他人に押し付けることに対して日本人はデリカシーが無さすぎるのです。欧米人の感覚からすると、ルールというものは必要最低限かつ合理的な理由を伴うべきであり、合理的な説明もないまま意味不明のルールを押し付けるのは暴力とも捉えられかねないと思います。

 

■プレゼン案件2

 このプレゼン案件2は、主催者からの「社内でのイベント告知に使うサムネイルを作ってください」という連絡からはじまりました。そもそも発表者は僕じゃなくて職場の外国人なんだから、本人に直接連絡すればいいのに…と思いつつも。ここで僕に日本語で連絡してくるあたりから考えて、外国人とまともにコミュニケーションできるとは期待できないです。プレゼン案件1の反省を生かしてサムネイルについては僕が全部対応することにしました。

さて。サムネイル。と一口に言っても、実際にどのような媒体にどのような文脈で、どのようなサイズで載るのか…こういうことが分からないとどう構成するかは決められないのです。が、主催者からそういう情報は一切送られて来ません。文句言っても始まらないから、とりあえずテキトーにこんな感じかな?みたいなのを作って送ってみました。すると「まず、全体的に小さすぎます。なるだけ大きな絵一枚程度のシンプルな構成にした方がよいのではないかと思います。サムネイルには説明的な文章は入れても読まれない可能性が高いので、字は入れるとしても字数は極力減らして大きなフォントにした方がよいかと思います。」とのことでした。

じゃぁ最初からそれを説明しようよ…と思いつつも、言われた通りに絵だけのサムネイルを作って送ったら、今度は「この発表は他の案件と違ってタイトルや説明文が全部英語なので、ぱっと見た時の視認性が悪い可能性があります。日本語のタイトルをサムネイルの中に追記してはいかがでしょうか?」という返事が返ってきました。さっき文字入れるのに否定的だったじゃん…と思いつつも、日本語のタイトルを可能な限りデカいフォントで追加した版を作って、「日本語タイトルを追加した版を作成しました。どちらのサムネイルを使うかは主催者側でご判断ください」と送った。ら。「我々は主催者なので特にレギュレーション等は設定していません。発表者側でご判断ください。」と返ってきました。まぁ。要するに。散々あれこれ言って振り回してくるけど、徹底して「こちらでは責任は負いません」というスタンスでいたいんだろうな。

 

■エピローグ

二つのプレゼン案件の対応は両極端だったのですが、こういった社会の末端だけでなく、もっと大きな政治まで含めて、この国全体が「事細かに決まり事を作って一方的に人に押し付けたがる人」と、「責任を回避したがる人」の双極に解離しているように思えてならないのです。

政治の世界での実例を挙げてみると…自民党政権はアメリカから無駄なミサイルを買う金を国民に負担させたり、同性婚や夫婦別姓などの問題では「明治以降に作られたフェイクの伝統への服従」を国民に押し付けようとしています。その一方で、マイナンバーカードについては税金を投じて何が何でも国民に持たせようと必死ですが、どこまでも「国民個々人の自主判断」という形に固執していて、徹底して責任取りたがらないですよね。

こんなことやってると、日本の社会全体の生産性が下がる上に、外国人に相手にされないために国際競争力もどんどん落ちてしまうのではないかと思います。外国人の同僚に対して「日本いい国でしょ?ずっといなよ。」と言う気には僕もちょっとなれないです。ここ数年僕は「この国は衰退期に入っている」という事を気にしてきましたが、ここ最近に至っては、この国は「急激に没落」しはじめているのではないか?という危機感を持ちはじめました。

2023年2月12日日曜日

文化政策とフェイクの伝統

今年(2023年)に入ってすぐに、東京国立博物館が予算不足でこのままでは文化財を保護できないという問題が持ち上がりました。そして今度は、東京藝大が予算削減のためにピアノを撤去というニュースが流れてきました。直接の原因はウクライナ戦争以降のエネルギーコストの高騰なのでしょう。ご存じの通り庶民の生活も大きな打撃を受けています。しかし、こんなときこそ文化インフラは世間の浮き沈みとは離れたところで国によって手厚く保護されて然るべきではないかと思います。

 10年もblogをやってると、自分が言いたいことはだいたい昔の自分が言ってるので、今回も言いたいことは昔ここに書いた通りです。クールジャパンに代表されるこの国の文化政策は、「市場原理=お客様にウケるか」が基準になっています。つまるところ、自国の文化についてのポリシーを自分たちでは決められない、市場=お客様にゆだねるということです。だから東博や東京藝大のように市場原理から離れたものにはこの国は冷たいのだろうと思います。

本当は市場原理から離れたところにあるものほど、国が予算を出して保護したりするべきものであるはずなのですけどね。特に、東博なんて日本の国宝級の文化財を多数収蔵しているのですから。日本という国の歴史と伝統を重んじる人であれば、このような状況には異議を唱えて然るべきだと思うのですが。僕の知る限り日本の右翼層がこの件について声を上げているところを見たことがないのです。

斎藤環が指摘していたように、日本のネトウヨ層にとっては客観的な史実としての伝統ではなく「伝統ぽく見えるもの=フェイクの伝統」の方がリアリティをもって受け入れられるのだと思います。例えば夫婦別姓なんてその典型例でしょう。元々日本人の大半は明治維新まで苗字がなかったわけですから、「伝統」の観点から言えば結婚後の姓がどうなろうが構わないはずですよね?

ちょうど最近、岸田首相が同性婚の是非について「社会が変わってしまう」と言って否定的な見解を示したことが問題になっていましたが。そもそも日本は古来より性についてはかなりラディカルな国だったはずです。これも明治以降に作られた「フェイクの伝統」への固執だと思います。