2017年11月11日土曜日

なぜグルメ番組はタレントの食レポを必要とするか?

小さい子供がいるということは、親の行動にも色々な制約がついてまわるものでして。たとえば、我が家では昔は冬場に週2回くらいの頻度で夕食のメニューが鍋でした。しかし、子供が生まれて以来、危ないので鍋をやる機会がめっきりなくなってしまいました。また、食べ物つながりで言うと、外食でカウンターしかないラーメン屋とかに行くのはまず無理ですし、子供が食べれないエスニック料理とかも行く機会がありません。
そんなこんなで、たまに出張先で自分ひとりでラーメン屋に入ったりすると、もうそれだけでもちょっと楽しかったりするものでして。先日も出張に行った先でGoogleで適当に検索してラーメン屋に入ってみたのですが。そこの店はよくある「壁一面に芸能人のサインや写真が並んでいる店」でした。そして、店の一番目立つところに地元のテレビ局がやっているグルメ情報番組が取材に来たときの写真が飾られていました。

たぶん全国どこいっても同じなんだと思いますが、ローカルのテレビ局ってグルメ番組に力を入れてますよね。理由は自明で、東京のキー局が垂れ流してくる東京のグルメ情報よりも、身近に行ける地元のグルメ情報の方が地元の人にとっては価値があるからなんでしょう。そういった地域情報こそがローカル局の存在意義であるとさえ言えるかもしれません。
で、このローカル局のグルメ番組の食レポ担当のタレントなんですが。売り出し中の若手だったり、昔そこそこ売れたけど落ち目になったベテランだったりと、まぁ色々なんですが。さすがにローカルのテレビ局なので売れっ子の芸能人は出てきません。そして、だいたいがお笑い芸人です。想像するに、お笑い芸人は食レポの合間にネタを盛り込んだりして尺を持たせてくれるのでテレビ局としても都合が良いのかもしれないですね。
ただし、食レポ担当のお笑い芸人も毎回目新しいことをやるのは難しいので、たいていテンプレート化された定番ネタを再利用するスタイルが多いのです。見てるこっちも正直なところそんなに面白くも無いし何度も見飽きたテンプレを繰り返されると見ててイラっときたりもするのですが。でもこのお笑い芸人による食レポというのは、何年かおきに芸人が変わるものの、ここ10年くらいは磐石のフォーマットとして定着した感があります。

で、ようやく本題なのですが。なぜテレビのグルメ番組は食レポ担当のタレントが必要なんでしょうかね?考えようによっては美味しそうな食べ物だけ映しておけば十分のような気がするのですが。やっぱり食レポのタレントが実際に食べる絵を流さないとグルメ番組というのは成立しない。たとえ合間に見飽きたテンプレのネタを挟まれることになっても、それでもなお、グルメ番組はやはり食レポを必要とする。これってよくよく考えれば不思議なことですよね。
僕が知る限りでこれに対して一番妥当な説明はラカンの「欲望は、他者の欲望である。」なんじゃないかと思うのです。ここでラカンの言ってることのうちのひとつは、「我々は自分にオリジナルな欲望というものを持つことができない」ということで。ベタな具体例を出すと、他人の持ってるものが欲しくなったり、他人の食べてるものが美味しそうにみえる…といったことをこの言葉は指摘しています。グルメ番組は美味しそうな物を食べてみせる食レポ担当の芸能人無しに成立しないのは、たぶんラカンのこの説明が適用される事例のひとつなんでしょう。

しかし、上記のラカンの言葉は単純に「他人のものが欲しくなる」ということだけを言っているわけではなくて、さらに深いところで「人間は自分だけにオリジナルな欲望の理由を持つことができない」ということに言及しています。これについてはちょっと複雑なので上記の斎藤環のテキストを引用してみます。「なぜ自分はこれが好きなのかをどうやって説明するか?」という文脈で、このようなことが書かれています
説明を放棄するか、他人の欲望をもってくるか、そのものの特徴を語るか。でも実は、特徴を語る人も、つまるところは他人の欲望を持ってきているわけで。スペックの比較って、そういうことでしょう? こういう価値判断の評価って、つまりは欲望のモノサシとして、みんなに共有されているわけです。その典型が「価格」、すなわち貨幣価値ね。こっちはこっちで、ややこしい議論がいっぱいあるわけだけれど。つまり、どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。ということは、要するに、誰にも自分の欲望について、「自分だけの理由」を説明することは不可能、ってこと

この説明が適用されるべき具体例として「クイズ番組はなぜ回答者が必要なのか」について考えてみることにします。地デジ以降のテレビは双方向化されているので、クイズ番組は回答者の芸能人を排除して、テレビの前の視聴者の参加だけで番組を成立させられそうな気もするのですが。それだけで一時間の尺を持たせられるようなテレビ番組が現実には存在しないですよね。
故ナンシー関はクイズ番組が成立する原則を「正解の絶対快楽性」と言ってましたが、その快楽はテレビの画面内の回答者との相対的な比較に裏打ちされて成立しているんだと思います。つまり、「あの人が正解できなかった問題を正解した」とか「あの人でも正解できる問題を正解できなかった」といったことを繰り返して、「テレビの中の回答者」という他者との相対的な関係があるからこそ、視聴者は自分が正解したときに快楽を得られるのではないでしょうか。
だから全問正解するクイズ王みたいな人ばっかり画面に並べてもクイズ番組としてはたぶん何一つ面白くないんだろうと思います。そしてこれは、スベったりほとんど正解しない回答者(野々村真とか井森美幸のポジション)がなぜクイズ番組に不可欠であるかという理由でもあると思います。