2014年1月2日木曜日

「英語=グローバル」というのは周回遅れの発想ではないのか?

あけましておめでとうございます。年越し蕎麦を食べながら紅白を見て、おせち料理とお雑煮と初詣の新年を過ごしています。つまり、ものすごく普通のお正月なのですが。花見の時期とお正月は日本に住んでてよかったとつくづく思います(梅雨と真夏は本気でこの国が嫌になりますが)。その昔バルセロナに住んでた頃はバルセロナの昼の2時くらいの時間に紅白やってて、twitterとかでみんな楽しそうに盛り上がってるのがすごくうらやましかったのを覚えてます。で、なんだかさびしいのでネットに転がってたその前年のゆく年くる年の動画を見たりしてました。日本に住んでると毎年当たり前のようにやってくるお正月の風景ですが、一度それが全く無いところに住んでみると、日本のお正月は本当にいいものだとつくづく思ったのでした。

で、新年明けての今年第一回ですが。もうひとしきり話題にするのも飽きちゃった感のある楽天やユニクロなどのグローバル企業様の話をしようと思います。ただし、「企業が英語を公用化することの是非」ということよりは、彼らが英語を公用語化するに至った背景になんとなく伏流している「英語=グローバル」という物の考え方の方が僕には気になるので、そっちの話です。
英語が国際共通語として磐石のステータスを確立したことについては最早異論の余地はありません。例えば国際学会なんて全部英語ですしね。だけど、この先の世の中で英語だけでビジネスが成り立つかというと、それはさすがに無理なんじゃないかな?と思うのです。ご存知の通り、アメリカがだんだん落ち目になってきて以前ほどの勢いが無くなり、代わりにBRICsと呼ばれる国々が勢いを増しています。これらのBRICs国のうち、英語がまともに通用する国はインドくらい(って言ってもすごい訛ってるけど)で、後の国では英語はロクに通用しません。
我が社でも営業系の人のための語学研修は中国語、ロシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、英語は「自分でやっといてください」という扱いになっています。市場として意識されているのはBRICsをはじめとする成長途上の国なのでまぁ必然的にそうなっちゃうんでしょうね。
「グローバル企業」を標榜している楽天やユニクロの人々がそんなこと知らないはずなんて無いし、彼らが今後展開していこうとしている先も同様に英語が通じる可能性は極めて低いことくらい彼らだって分かってると思うのですが。どうして彼らは「英語=グローバル」という旧世紀のパラダイムにこだわるんでしょうか?これが僕には不思議なのです。
たとえば、英語を公用語化することよりも中国語なりタイ語なりポルトガル語なりができる人を集めてきた方がいいんじゃないかと思うのですが。こういうこと言うと、英語偏重主義者は「いや、だったら英語が喋れる中国人なりタイ人なりブラジル人を雇って彼らと英語でコミュニケーションすればいいんだ。だから英語だけできればいいんだ。」とか言うんでしょうが。それこそ外資の「グローバル企業」が20世紀に走ってきた後を周回遅れで追いかけるだけになってしまうんじゃないかと思うんだけどな。。

ここからは僕の想像と偏見が多分に含まれるのですが。これって「信仰」の問題なんじゃないかなと思うのですよ。「英語=国際共通語によって世界中の人達を相手にビジネスすることができるようになった自分」という物語への信仰が背景にあって、これは英米人が英語という言語を布教するときに刷り込んだ物なんじゃないかと思うのです。やや脱線しますが、英米人はこうやって自分達の言語を文化や習慣とは切り離して単体で布教したことで、自らの言語を単なる「道具」に貶めてしまったように僕には見えるんですけどね。
さておき、僕の経験からも「英語=グローバル」という物語に拘泥する人や英語がすごく上手な人はたいてい英語以外の外国語ができないか、そもそも英語以外の言語に興味をあまり示さない印象がありまして。これはアメリカ人の大半が英語以外の言語を喋れないし、あまり外国語に関心を示さないこととそのまま繋がっているのではないかと思うのです(アメリカでもっともポピュラーな外国語といえばスペイン語なのですが、アメリカ人のスペイン語もこれまたすんごい無茶苦茶な人が多いのです。)。
これとは逆に、英語以外の言葉が上手な人はたいてい英語が苦手な人が多くて、また、そういう人はたいていアメリカ嫌いが多い印象があります。まぁ、これは僕の知ってる事例の大半が日本人なので若干日本特有のバイアスがかかってる可能性はあると思いますけどね。

これから先の「グローバル化」は、英語と欧米的(こういうまとめ方を便宜上使います)価値観による世界の支配ではなく、多様な民族・文化・言語が混在する世界へと向かうのは間違い無いでしょう。「英語だけでなく、英語以外の言語が何かできないと強みにならない」というのは僕が新入社員として会社に入った10年以上前から世の中的には言われてますし、慶応SFCなんかは第二外国語に力を入れる教育をかなり昔からやってたりします。「英語=グローバル」という旧世紀の物語に篤い信仰を寄せ続ける人達が本当に時代の最先端なんでしょうかね?
「英語公用語化」は、英語はできるけど英語以外の外国語に関心を示さない人達ばっかりを集めてしまうことになったりしないかと思うのですよ。で、ここから先は本当に100%僕の偏見ですが。それは単に口先の語学力の問題だけでなく、平田オリザなどが提唱しているような「異文化コミュニケーション能力」があまり高くない反面、「英語のできる自分は国際感覚が豊富である」という自意識だけ過剰な「アメリカ人の出来損ない」みたいな人ばっかりの会社を作ってしまうんじゃないかと思うのですね。
もしも柳井や三木谷という人達が英語よりも英語以外の外国語能力を重視するような会社を目指すのであれば、それはなかなかの器なんじゃないかと思います。それは単に、ここまでに何度も述べたような時代の趨勢の問題だけでなく。それって、自分ができないことができる部下や、自分と価値観の異なる部下を使いこなせる度量が無いとできないことだろうと思うからです。しかし、そういう度量や資質こそ”グローバル時代”に本当に必要なことなんじゃないかと僕は思うのですが。

-----アップした翌日の追記-----
三木谷は中国語をやってるそうです。まぁ、そりゃさすがにそうなりますよね。でも、英語が半分ネイティブとかいう彼が中国語を習得する労力と、普通の日本人が英語を習得する労力が等価だとは思わないけどな。。