2021年12月17日金曜日

オミクロン株と真鍋淑郎さんと眞子様

気が付いたら年の瀬になりました。12月に入ったくらいから「ああもう年末か。こうやってまた一つ歳をとるのか。」という侘しい感慨のようなものが時々頭に浮かんでくるようになりました。こんなことを思うようになったのは人生で初めてです。本当は誕生日にそういうことを考えるべきなのでしょうが。おじさんになると自分の誕生日なんて奥様と子供がケーキを食べる口実になるくらいでこれと言ったイベント感もないので、年末→新年というイベントの方がこういうサイクルを意識しやすいのでしょうかね。

僕はTwitterで海外在住日本人を沢山フォローしているので、オミクロン株への日本政府の水際対策の影響で、海外から入国に関して不自由を強いられている人達の話が毎日のようにTLに流れてきます。介護のために帰国しようとしていたのに、外国人の配偶者の入国が認められずに家族が離れ離れになってしまう問題に直面している人。あるいは入国はできても、その後の退屈で窮屈な隔離生活で辛い思いをしている人。親の死に目に会えるかという瀬戸際にいる人。色々な人の人生がTwitter越しに伝わってきます。海外在住の日本人にとってみれば、たとえ直近で帰国の予定は無かったとしても大きな問題なので、関心が高いのはとてもよくわかります。

僕は企業からの派遣という形で2年間スペインにいましたが、在住者の日本人には色々な人がいました。僕と同じように会社から派遣されてきたサラリーマンもいれば、留学してそのまま居ついてしまった人、言葉もわからないままスペイン人と結婚してスペインにやってきて、離婚後もそのまま日本に帰らずにスペイン居続ける人…事情はそれぞれですが、どのような立場の人にとっても日本は祖国であることに変わりはなく、また、「本当にどうしようもなくなったら、最後の最後は日本に帰ればいいや」と思えることは、海外で暮らす日本人にとって最後の拠り所のようなものだと思います。それはたとえ何十年海外に暮らしている人であっても大なり小なり同じようなものだろうと思います。

一方で、Twiitterを見ていると海外からの帰国者に対して、「今日本に帰ってくるなんて非常識」「それなりの覚悟を持って日本から勝手に出て行ったんだろう?」といった攻撃的な言葉を浴びせる人達がTwitterの世界にはいるようです。コロナ感染が騒がれた初期の頃の「自粛警察」を思い出させるような話ですね。そこを問題にするんだったら、オリンピックのためにデルタ株を感染拡大させて多くの被害を招いた日本政府、隔離措置なしで入国したバッハ会長、今も隔離もなく日本に入国できる米軍関係者など、もっと問題にすべきことが沢山あると思うのですけどね。おそらくこういう人は、不満があってもお上を批判しようとは思わない代わりに、自分が攻撃できそうな標的を見つけたら容赦なく叩いて快哉の声を叫びたいタイプの人なのだろうと思います。

海外から帰国しようとする日本人に対して「それなりの覚悟を持って勝手に出て行ったんだろう?」と言うのであれば、それなりの覚悟を持って日本から出て行った著名人に対しても同じ姿勢で扱うのがフェアな態度だと思います。日本国籍を離脱した真鍋淑郎さんや中村修二さんのノーベル賞を「日本人枠」としてはしゃいでいることに苦言を呈するべきでしょう。そしてなにより、「それなりの覚悟を持って」アメリカへ渡った眞子様を追いかけ回すマスコミにも物申すのが筋だと思います。


2021年10月24日日曜日

僕は日本語の文章に!と(笑)は使いたくない

社内広報誌の片隅に、顔写真とともに自分が書いた短い文章が載ることになりました。とりあえず「だいたいこんな感じかな?」という文面を作文して広報誌の編集担当者へ送ってみたのですが。そしたら、想像していた以上に修正されてかえってきました。念のため申し上げておくと、編集担当者のメールの文面はすごく丁寧で、メールの文面を読んでる限りではご本人の人柄については何も問題を感じるような点はありませんでした。

修正箇所全部がダメというわけではないのです。話が分かりにくいところが分かりやすくなるように説明を補ったりとか、納得できるところもあるのですよ。しかし。僕がフォーマルな文章ではまず使わない「体言止め」に勝手に書き換えられている箇所があったり、そして、なにより致命的だったのは最後が読点(。)で終わっている文章を勝手に「!」に書き換えられたことです。
 
僕は日本語の文章に「!」とか「(笑)」は絶対使いたくないのです。その昔、上司に「酸味げる君、報告書に『~が原因?』みたいに文末に『?』を使うのはやめようよ」と言われたときに、「あなたは日本語のメールに『!』をやたら使いますよね?僕から見たらそっちのほうがはるかに問題です。」と口答えしたことがありました(若かったなぁ)。さておき、僕から見ると世の中には「『!』を使える人」と「使えない人」の二種類の人がいて、ここには大きな断裂があるように思えるのです。

修正された草稿を見た瞬間、怒りとも落胆とも何とも言えない気分になりました。社内の広報誌とはいえ、まがりなりにもコミュニケーション媒体に携わっている人間の日本語に対するリテラシーやデリカシーがこんなにひどいとは思ってもいなかったのです。
しばらくたって冷静になった後でこんな解決方法を考えました。「勝手に文体を書き換えないでください!私は日本語の文章に「!」を使うことなんて絶対にしません!」というギャグなのかよく分からないメールを書いて送り付ける。うん、これは我ながらアイデアとして最高だ。少しユーモアを交えて抗議する方が、ストレートに怒るより断然エレガントだ。
 
でも、そうもいかないのですよ。だいたい、勝手に他人の書いた文章の「。」を「!」に書き換えるようなデリカシーのない奴がこれをギャグとして理解できるとは期待できない。むしろそういう奴に限って、「ふざけないでください!」とか言ってきやがる可能性が高い。。結局、「文体というのは人格の一部ですから、度を越した文体の改変は人格の侵害になります。私にとっては『。』を『!』に書き換えるのは、そのレベルでNGです。」と、わざわざ正攻法で抗議してやることになりました。大人ってつまんないなぁ。。
 
日本人は部署内などの顔見知りばかりの「内」の社会では「阿吽の呼吸」のようなハイコンテクストなコミュニケーションを好むのに、部署や会社が違う「外」に向けては極端にローコンテクストになります。このような外向きの姿勢は「問題が起きないようにするのが最適解だ=事なかれ主義」によって正当化されているのでしょうが。この弊害として「ローコンテクスト」と「相手のコミュニケーションに関するリテラシーを0査定してかかる」ことを混同してしまっている人がいるような気がします。件の担当者の「表面的には穏当で丁寧なメール文面」と、「残念なまでに改変された原稿」を見比べていると、そんなことを考えてしまいました。

2021年9月11日土曜日

白鵬にだけ品格を求めるのはどうなんだろ?

オリンピックも終わり、スガ首相が政権を投げだしたので自民党の総裁選挙に世間の注目が集まっている…という状況でこれを書いています。オリンピック期間中はプロ野球や相撲などの日本のプロスポーツはすっかり世間から忘れられていましたが、明日から大相撲の9月場所が始まります。

7月の名古屋場所は白鵬の全勝優勝で終わりましたが。特に千秋楽付近での白鵬の「土俵際ギリギリくらいまで後ろに下がって正代の立ち合いの勢いを無力化する」や「照ノ富士に対しての立ち合いのかち上げ」といった立ち振る舞いについて「横綱の品格にもとる」「かち上げは危険なので禁止にすべきだ」といった批判の声が方々から上がりました。以前から「白鵬は自分に有利なタイミングで立ち合っている」と言われてきましたが、名古屋場所終盤での白鵬の立ち振る舞いはこれまで自身に課してきたリミッターを解除して、「ルール上禁止されてないことは何やってもいいじゃん」とでも言っているように見えました。

「かち上げ禁止」のルール化などはスポーツとして相撲を捉えるならおかしな話ではないと思いますが、実際にそういうルールを作ると大相撲はまた一歩「神事」としての側面が減って、「ただのスポーツ」に近づいてしまいます。時津風部屋の暴行死事件以降、大相撲の運営はどんどん「スポーツ=近代化」されていますが、土俵上のルールにまで近代を持ち込むのは、大相撲のアイデンティティを考えると安易にやるべきではないと思います。大相撲のスポーツ化を進めていくと、アマチュア相撲に漸近してしまいます。だって、プロレスにルールを増やしちゃうと、ただのアマレスになっちゃうでしょ?

白鵬の名古屋場所での立ち振る舞いは、おそらく一代年寄の問題とも関連しているのだと思います。方々で言われていることですが、これまでの白鵬の立ち振る舞いや帰化問題など、諸々あって白鵬は引退後のキャリアが不明瞭なのです。相撲協会は「そもそも一代年寄という制度は明文化されたものではない」と白を切っていますが、どうやら相撲協会には白鵬には引退後に親方になる道を提供する気がなさそうです。名古屋場所での白鵬の立ち振る舞いは大相撲の世界に存在する「明文化されていないしきたり」に対するアンチテーゼでもあるのではないかと思います。

さて。ここからやっと本題なのですが。白鵬の立ち振る舞いは「横綱の立場でありながら国技大相撲の品位を貶めている」ように見えるかもしれませんが、一周回って白鵬は「この国の社会・政治の劣化」をそのまま体現しているとも言えるのではないでしょうか?白鵬の品格を非難するなら、その1/10でいいからこの国の政治家を非難してもよいのではないでしょうか?と僕は思うわけです。ご存知の通り、安倍政権以降の政治の劣化ぶりは目に余るものがあります。昔の自民党の政治家は、悪い事はするけど問題になったらとりあえず辞任してみせる程度の最低限の責任は取ってきました。このような「最低限の品格」というものは、第二次安倍政権以降の日本からはすっかり失われてしまいました。昭和の自民党だったらモリカケ問題が出てきたあたりで安倍晋三は辞任していたはずですですが、安倍晋三はいつまでも居直りつづけてますよね?そして現在のスガ政権も野党が求めている国会の開催を拒否しています。これは、明らかな憲法違反なのですが、日本の社会はこれを放置したままになっています。改めて申し上げますが、これを許しておいて白鵬にだけ品格を求めるのはおかしくないですか?

最後に、白鵬の今後について僕なりの提案ですが。アマチュア相撲の監督になるか、モンゴルなど海外に力士を育成する道場(あえて部屋と呼ばない)を作って、大相撲の力士に勝てるような力士を育ててはどうでしょうか?白鵬は大相撲にこだわるよりも「スポーツとしての相撲」の可能性を開拓した方がよいと思います。貴乃花親方もこっちの方が合ってると思います。ブラジルに渡った前田光世のグレイシー柔術が日本のプロレスに殴り込みをかけてきた時代のように、白鵬が育てた弟子が大相撲の力士を圧倒する…もしもこんなことが起きたとしたら、これは2000年前後の「プロレス vs 格闘技」と同じ構造が「スポーツ相撲 vs 大相撲」として再現することになると思います。あ、なんだか書いててわくわくしてきたぞ。

2021年9月4日土曜日

角川文庫とオリンピック

これを書いている現在、 
  • 誰が見てもオリンピックと関係があるとしか思えない感染爆発が日本中に広がっている
  • 関東を中心に自宅療養という名目で医療崩壊が起きていて、とうとう感染者の妊婦が自宅で自力出産の末に赤ちゃんが亡くなるという事件まで起きた 
  • それでもパラリンピックは予定どおり開幕した
  • 一方で、フジロック開催の是非については賛否両論の議論になっている 
  • 自公政権への国民の不満が募る中、スガ首相のお膝元の横浜市長選で自民党惨敗→とうとうスガ首相が退陣を表明 

という状況です。 日本のテレビはコロナの被害を伝える一方で、オリンピック&パラリンピック関連のトピックについては依然として今まで通りはしゃいでいます。日本のテレビを見ていると、オリンピックを開催している日本という国は、今自分が生きている日本とはどこか別の場所にあるような気がしてしまいます。このように、日本全体が統合失調症のような状態に陥ってるのを見ていると、結局日本人の内的自己と外的自己の分裂という症状はオリンピックでは快癒することなどなかったのだということを思い知らされます。「オリンピックの開催=外的自己の満足」と「メダルラッシュ=内的自己の満足」で支持率が維持できるとスガ政権は考えていたようですが、これらはどちらも岸田秀が言うように「幻想」でしかないのです。「幻想」はコロナによる生命の危機や、生きる糧を奪われた飲食業の人々の問題を何も解決できません。結果としてスガ政権は散々強気で通した挙句にとうとう崩壊しました。

 「科学的に取り組むことを忌避する」、「人間の生存に関わる基本欲求を無視する」、そして何より「都合のよいストーリーだけしか考えていなくて、プランBが存在しない」という点で、今回の東京オリンピックは第二次世界大戦における大日本帝国と同じ問題を焼き直した形になりました。オリンピック開催前から、開催反対派はコロナが収束していない状況でのオリンピックを「インパール作戦」になぞらえて批判していましたが。オリンピック招致~コロナという一連の物語がスガ政権崩壊で終わろうとしている状況は、日本にとって何度目かの「敗戦」の状況にあると思います。この「敗戦」を受けて、政権に都合の良い姿勢を取り続けてきた日本のテレビも、さすがに一段空気が変わりはじめたように見えます。 

 先日、角川文庫の本を読み終わったら、巻末に昔からある角川源義の「角川文庫発刊に際して」を見つけたので、改めて読んでみました。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」から始まる文章を読んでいると、戦後70年経っても未だに日本人は何も本質的に変わっていないのではないかと思えてしまいました。特にコロナで浮彫になったのは、西欧や台湾のように科学を自分達の国の運営に活かしていけるほど成熟した文化レベルに日本が達していないということです。欧米ではコロナの感染拡大を防ぐためにロックダウンのような強権的な措置もとられましたが、その根拠やロックダウン終了のための数値目標などが政治家から示されていました。一方で、科学に対する社会的合意形成ができていない日本では、緊急事態宣言にともなって国民に対して政治からの「お願い」は出るものの、その根拠や解除のための数値目標は何も示されませんでした。

 あんまり救いの無いことを言っても仕方ないのでせめて前向きな話で終わっておきたいと思いますが、「角川文庫発刊に際して」を書いたときの角川源義のような人が少しずつでもいいからこの国をマトモにしてくれることを僕は願っています。

2021年7月11日日曜日

「騎士団長殺し」と佐野元春

村上春樹の「騎士団長殺し」を読了いたしました。この本は1巻だけ古本で100円で売ってたので買ってそのまま家に置いておいたのを奥様がそれを読み始めて最後まで買ってしまったので、僕も後を追うように全部読んでしまったのです。相変わらずの村上ワールド…ではありつつも、この作品ではこれまでの村上作品にはなかった要素がいくつか新しく加わりました。特に新しいと感じたのは「和」です。これは単に「今まで出てこなかったものが新しく加わった」というだけでなく、これまで村上春樹が忌避してきたものに向き合い始めたという意味で非常に新しいと思いました。 

 ここで急に話が飛ぶのですが、佐野元春の話をしたいと思います。僕が知る限り、20世紀に欧米のロックンロールという文化を日本人が受容するときに、どうしても「内的自己vs外的自己」という葛藤が発生しました。例えば日本語でのロックの元祖と言われる「はっぴいえんど」でさえ、その当時は内田裕也に代表される「日本語ロック反対派」に目の敵にされていました。当時の日本語でロックンロールは成立するのか?という当時の論争そのものが「外的自己vs内的自己」のわかりやすい対立構造であったと言えるでしょう。さておき、ロックンロールを日本語の世界に取り込むにあたり、「はっぴいえんど」は松本隆の「ですます調」のフォークみたいな歌詞によって「習合=なじませる」ということを行いました。「はっぴいえんど」以降の多くの日本のロックミュージシャンの営みも、その多くはロックンロールという外的自己に対して「ヤンキー」という内的自己をまぶす形での習合を試みる過程だったと言えるでしょう。しかしそんな中で、80年代前後に一人だけヤンキー要素がゼロの特異点が現れました。それが佐野元春です。彼の音楽はヤンキー要素がほとんど無くて、彼が憧れてきた欧米の世界を日本語で歌っていました。 

 なぜ村上春樹の話だったのに急に佐野元春の話をしたか?というと。「ヤンキー=内的自己要素がほぼ0に近い」という点で両者は共通しているからです。村上春樹の小説にはビール、ウイスキー、ワイン、スパゲッティ、サンドイッチ、クラシック、ジャズなどは出てきますが、日本酒や和食はほぼ出てきません。また、小説の舞台は日本でありながらも、その中に登場するポピュラー音楽は必ずと言っていいくらい洋楽です。これは村上春樹の作品ではかなり徹底されていて、「内的自己=和」を連想させるような要素は徹底的に排除されてきたのです。しかし、「騎士団長殺し」では上田秋成の作品や飛鳥時代のような風貌のキャラクターなど、これまでの村上春樹の作品では徹底して忌避されていいた「和」というテイストが入っています。

だいたい本稿で書きたかったことは以上で終わりなのですが。せっかくなので「騎士団長殺し」のラストから僕が勝手に受け取ったメッセージはこういうことでした。
  • この世界の問題はそう簡単には解決しないのが、未来に希望を託そう
  • 震災と原発事故によって、日本という国は何か重たいものを抱えてしまった
前者については、序盤に免色の子供の話が出てきた段階で「ああこれは最後に子供が生まれて終わるんだろうな」と思いました。そして、主人公は、秋川まりえ、スバルフォレスターの男、顔の無い男などの絵を描きかけで解決しないまま物語を終えます。あえて回収しきらずに終わります。そこにも村上春樹のメッセージが込められているように思いました。
そして、後者については1個前の中編小説である「多崎つくる」から一貫している村上春樹の提言だと思います。最後にとってつけたように現れる震災の話は、原発事故の後処理という日本人が抱えてしまった負債についても踏み込もうとしているように見えました。そのための布石として、「騎士団長殺し」では今まで忌避してきた「和」のテイストを取り入れたのではないかと思います。

2021年6月29日火曜日

今更ながら改めて考えてみる「おもてなし」

これを書いている現在、オリンピックの開催予定日の一か月くらい前です。来日した海外の選手団から陽性者が発見されたり、スタジアムでの酒類の販売の是非が議論になったり、そして先週末には天皇陛下からオリンピック開催に伴う感染拡大を憂慮する声明が出たり…という状況です。普段ほとんどテレビを見なくなっている僕でさえ、たまにテレビをつけてオリンピックについて何か言ってるのを見るだけでうんざりしてほぼ反射的にテレビを消してしまいます。始まる前にここまでうんざりしてしまっているオリンピックというのはこれが最初で最後になるかもしれません。もし仮にオリンピックがこのまま開催されたとしても僕はたぶんテレビで見ようとは思わないと思います。



さて。最近book offで岸田秀の「古希の雑考」という本が100円で売られていたので買ってきて読みはじめました。この本は岸田秀が提唱してきた「内的自己・外的自己」などの観点で2000年前後の時事問題を扱った本です。まだ全部読んでいないのですが、この冒頭に収録されている『「総理」と「草履」は使い捨て』という1998年くらいに書かれたエッセイが非常に秀逸でした。ここに書いてある話は「おもてなし」から今に至る日本の有り方をうまく説明できるように思えたのです
岸田秀曰く、日本の総理大臣は就任当初は期待されるけど、やがては国民の人気を失って別の人に交代していくことを数年周期で繰り返す。岸田秀はこの理由を、「国民は内的自己の充足を期待しているのに、アメリカの属国である日本の総理大臣は外的自己への配慮を優先せざるを得ないため」と説明しています。確かに。2000年くらいまではそうでした。総理大臣は長くても2年くらい経ったら交代していたのです。やや脱線しますが、岸田秀がこの文章を書いた後に、小泉純一郎というトリックスターが現れてこのサイクルを壊してみせたところから今に至る日本の迷走は始まったと僕は思っています


話を元に戻します。この岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルを「おもてなし」に適用すると、次のように言えるのではないかと思います。今まで分裂して相反する関係にあった「内的自己=日本人固有のアイデンティティに傾倒した自己愛」と「外的自己=外国人に対していい顔をしてうまく付き合いたい」が同じ方向を向いてしまったのが「おもてなし」だった…と。それも、両者の分裂状態が快癒したのではなく「分裂したまま同じ方向を向いている」ということが「おもてなし」から今に至る日本の状況なのではないかと思います。
もう少し丁寧に説明すると、「おもてなし」という日本固有の文化(=内的自己)をもって外国人に接することで、外国人は自分達の「おもてなし」に好感を持ってくれる(=外的自己)、というファンタジーを日本人は信じてしまったわけです。「おもてなし」の当時の僕はスペインから帰国した直後でしたが、「おもてなし」やオリンピック招致に対して日本人がはしゃいでる姿に「なんとも説明できないけどすごく嫌な感じ」を持っていました。それがなぜなのか、10年近く経った今になってようやくわかったような気がします。


オリンピック招致以後の日本人の「ワールドカップでのごみ拾い」や「クールジャパン」なども、全部この「内的自己と外的自己が分裂したまま同じ方向を向いている」という文脈で回収できてしまいます。「ゴミを拾うのが美徳だという日本人の感覚は、海外でも称揚される」とか、「日本固有のアニメや歌舞伎などの文化は外国人にも大人気」…どれも同型のファンタジーですよね。
このままいくと、どんなに感染が広がろうともオリンピックは開催されるだろうと思います。それは避けがたいとして。その後には何が待っているでしょうか?
・「内的自己と外的自己が同じ方向を向いてはしゃぐ」ためのネタが無くなる
・コロナはワクチンがいきわたっても簡単には収束しない
・お粗末なコロナ対応で負担を強いられてきた国民の不満がくすぶる
こうやって列挙してみると、なにかしら一波乱くらいは起きそうな気がします。せめて今より少しでもマシになってくれると期待したいです。とりあえず、内的自己と外的自己が同じ方向を向いてはしゃいでいるのが終わってくれるだけでも御の字です。

2021年5月1日土曜日

オリンピックと国体

GWに入りました。とはいえ朝は前日同様に4時台に目が覚めてしまいました。優秀な社畜たる自分を褒め称えるために「僕の休日に乾杯!」といいながら一人で朝からビールを2本飲んじゃった勢いで本稿を書き始めたもののきれいにまとまらず、夜になって再度体裁を整えています。さて。これを書いている現在は、

  • 大阪の医療崩壊に直面して、ちょっと前に解除したばかりの緊急事態宣言を再度発令
  • オリンピック組織委員会がオリンピックのために看護師500人の派遣を要請
  • インドで変異株が猛威をふるっていて、医療が完全に崩壊
という状況です。


今回の緊急事態宣言発令はオリンピックを返上するチャンスだったんじゃないかと思います。それも、もしかしたら最後のチャンスくらいだったのかもしれません。オリンピックに関する日本の対応については、あらゆる点で戦前の日本との共通点が指摘されていますが。この期に及んでも国民の生命よりもオリンピックの方が重要であると言わんばかりに頑なに開催の一点張りの現政権を見ていると、オリンピックは戦前における「国体護持」と同じような位置付けなのではないかと思えてきました。


世界各地で感染拡大が止まらない状況を鑑みると、選手の派遣を見送る国も出てくるだろうと思います。たとえオリンピックを開催できたとしても、日本以外の参加国が少い国体みたいなオリンピックになってしまうのではないでしょうか。つまり、オリンピックという「国体」は護持できたとしても、それは日本以外の参加選手が少ない国体みたいなオリンピックになってしまう可能性があります。そして、そんなオリンピックで日本のメダルラッシュに日本人だけがはしゃいでる…という結果になってしまうのではないかと危惧しています。


そんなオリンピックは世界に誇れるのでしょうかね?このコロナの状況下で無理矢理オリンピックを強行開催しても、結果的にオリンピックの権威を辱める行為として世界中から非難を浴びることになるのではないでしょうか?最初は「おもてなし」とか言ってはしゃいでたはずなのに、自公政権はコロナの失政をオリンピックを盾に「欲しがりません勝つまでは」という精神論にすり替えらて国民に我慢を強いてきたわけですが。国民にとって、これ以上我慢をした末に無理矢理オリンピックを開催しても結局何もいい事なんて無いんじゃないでしょうか。

2021年4月13日火曜日

「多様性」って簡単に口にする日本人について思うこと

 春になりました。とはいえ、しがないサラリーマンの僕には、これといって大した変化の無いまま桜が咲くだけの春が今年もやってきました。でも人生半分終わってしまった身としては、また桜が咲いているのを見れたという、ちょっと若い頃にはなかった感慨のようなものもあります。そんな春先なのですが、わが社の将来について考えるプロジェクトの報告を見る機会が最近ありました。その中で「多様性」と言う言葉が錦の御旗のように振り回されているのを見て、色々考えてしまったので、その話を今回は書きます。


SDGsの中に「多様性」というキーワードがあるせいか、昨今なにかと「とりあえず多様性って言う人」が増えてるように思うのですが。「多様性」って言うのは簡単なんですけど、「多様性」という言葉で何をイメージするかは個々人のそれまでの人生経験の振れ幅がそのまま反映されてしまうので、「多様性って大事だよねー」と違口同音に唱えている人の間でも実はかなり大きな乖離があるのではないかと思うのです。つまり、「多様性」という言葉でイメージすることが多様であるという再帰関係が存在するのですが、そのことが意識できてない人が多いように思うのです。


こういうこと言うと「海外経験マウンティングを取りにいってる」と言われるのであんまり会社では人前で言えないのですが、件の「多様性って大事ですよね」という報告を聞いたときの率直な印象としては「それって、ケンミンshowレベルの日本人の間でのチマチマした差異を多様性って言ってるだけなんじゃないのか?」と思ってしまうのです。確かにどこの国に行ってもケチな人、よくしゃべる人、怖そうな人…いろんな人がいるのは事実なんですが。でも一方で「多様性」という文脈で扱われるべき差異とは民族、宗教、性的指向など、差別や社会的分断をもたらすようなもっと大きな枠組みの話だと思います。


ちょっと話がそれますが、日本には武田鉄矢を筆頭に「坂本龍馬が好き」っていう人が結構いらっしゃるのですが。確かに、会社の設立や新婚旅行など、今の規範からしてみれば当たり前のことを最初にやった点では先駆者なのですよ。でも、脱藩などの行動にも見られるように、当時の常識からしたらほぼ変人と言ってもいいでしょう。「坂本龍馬が好き」と何の躊躇もなく公言できるような人って、こういうことを勘定に入れて考えられない人のように思うのです。つまり、もし今の時代に坂本龍馬みたいに規格外の行動を取る人がいたら真っ先に排斥しにかかるようなタイプの人が多いのではないかと思います。


話を多様性に戻します。「多様性」という言葉を安易に使う人にも「坂本龍馬が好き」という人と同じような感想を禁じ得ないのです。安く軽く簡単に「多様性」とか口にする人に限ってたぶん実際は多様性の芽を摘みたがるような人なのではないでしょうか。本当に多様性を大事にするなら、たとえ「多様性なんてどうでもいい」という人でさえも尊重するべきだと思います。これは、親鸞の悪人正機説にも通じる発想だと思うのですが、そこまでの覚悟を持って言うなら「多様性」という言葉も真に受けてもいいと思います。

2021年2月21日日曜日

NiziUとオリンピック組織委員会

 年明け以降、忙しさにかまけてこのblogをすっかり放置しておりました。まぁ、いつものことです。これを書いている現在、森喜朗の女性蔑視発言に端を発して、オリンピックの組織委員会の会長にすったもんだの末にようやく橋本聖子に決定した…という状況です。

話のマクラにオリンピックの話を持ち出したのですが、ここから少し昨年末の紅白歌合戦の話をします。この紅白歌合戦では、初出場のNiziUとナントカ坂の新旧アイドルがこれでもかというくらいに対照的に見えました。ナントカ坂はどのグループをとっても正直なところ同じに見えました。全員が同じ衣装で「替えのきく部品」として規格化された中で細かい個々人のキャラを楽しむ…というところはAKB商法そのままに見えるんですが、この手法そのもののオワコン感も含めてナントカ坂は総じて下り坂に見えました。

一方のNiziUですが、こちらは日本人がやってるけどイデオロギー的には韓国アイドルです。衣装もそれぞれ微妙に違ってる。ダンスもレベルが高い。BTTSの成功などを引き合いに出すまでもなく、「グローバル市場からやってきた黒船」なのです。NiziUとAKB=秋元との決定的な違いは何だろう?と考えると、NiziUは女の子に向けて訴求できることが大きいんじゃないかと思います。

思い返してみれば、男のための都合のいいアイドルvs男以外も楽しめるアイドルという構図について話を始めると、おニャン子クラブくらいから遡って長い歴史があると思うのですが。AKBは秋元康がおニャン子の成功体験を焼き直していたはずなのに、「会えるアイドル」という新規コンセプトの導入と引き換えに、おニャン子が確立した「女の子に支持される」という要素を捨ててしまったという弱点が、NiziUのブレイクのよって露見する形になりました。

男のための都合のいいアイドルと違って、NiziUは恋愛禁止なんていうことは言わなさそうだし、スキャンダルが発覚したからといって頭を丸めさせられるようなことはたぶんないでしょう。つまり、NiziUは女性が解放されている感じがするのです。他にもEXILEファミリーのアイドルとして売り出しているgirls girlsなど、ダンスに重点を置いて女の子から支持されるようなアイドルが市民権をだんだん支持を集めつつあるようです。

さて。オリンピック組織委員会の話に戻りますが。オリンピック組織委員会の数々の問題は、AKBのような「男のための都合のいいアイドル」が幅を利かせていた日本という国の在り方と同根の問題なのではないでしょうか。イデオロギー的には韓国アイドルなNiziUとの違いを見ても分かるように、AKB的なアイドルは日本のガラパゴス環境でしか成立しないわけです。そして、NiziUの台頭にも明らかなように、この国のアイドル市場にもとうとうグローバル化の波が押し寄せてきています。

こういう時代の潮目を全く読めないような、頭の中が昭和のままの老人の集団がオリンピックのような国際イベントを仕切っているということで、結果的にこの国の恥を世界に晒してしまいました。森喜朗の子分の橋本聖子を組織委員長に据えるよりも、現行の組織委員会を全員解任して代わりにNiziUのメンバー全員を組織委員会に入れるとか、それくらい思い切ったことをするべきなんじゃないかな?と思ってしまう次第です。

2021年1月3日日曜日

nikeのCMとアメリカ村の苦い思い出

あけましておめでとうございます。月に1回程度しか更新しないような開店休業状態を長年続けているこのblogに熱心な読者がいるかどうか、僕の知るところではないですが。もしいるとしたら、本年も月一くらいのペースで更新しますので、思いついた時にチェックしてください。
今年は僕の冬休みが一週間もないので、これを書いている現在は「明後日は仕事始めだ、やれやれ」という気持ちです。そんな状況なので、せめて去年からずっとここに書きたかったことを少ししたためてみようと思います。

このblogの端々で時折言及しているように僕は高校卒業まで大阪で育ちました。高校生くらいにもなるとそれなりに流行りの若者文化に触れたくなったりするもので、当時の関西の若者文化のアイコンでもあったアメリカ村にビビリながらも足を踏み入れたことが何度かありました。しかしながら、アメリカ村のショップ店員もその道のプロですから、「あー、イケてないグループの子が頑張ってアメリカ村に来たんやな」ということはすぐに気取られてしまうのです。それを察知するや否や、ショップ店員達は「君、このシャツで決まりちゃうん?」とタメ口でいきなりまくし立ててくるのです。そこには、イケてない高校生を見下すようなやや侮蔑的なニュアンスも含まれていたように思います。こちらとしては、「なんでナケナシの金払ってまでオマエの言いなりにならなあかんねん!選ばせろ!」と、著しく気分を害するのですが。入る店ごとに同じことの繰り返しになるので、金もない上にイケてない自分が悪いかのような気分を引きずりながら何も買わずに逃げるようにアメリカ村を後にすることが何度かありました。

高校生の時のアメリカ村の話がだいぶ長引いてしまいましたが、そろそろ本題です。ちょっと前にnikeのCMが色々騒がれていた件についてです。あれについて「日本に差別は存在しない」などと言って攻撃するネトウヨについては、今更どうこう言う必要もないと思うのですが。でも、僕も一周回ってあのCMがあんまり好きになれませんでした。理由は、高校生の時にアメリカ村のショップ店員から感じたのと同じような上から目線の態度をあのCMから感じたからです。
つまり、スポーツの持っている力をnikeが政治利用しようとしているのがどうしても鼻についてしまったのです。「スポーツや芸術にはしばしば人種や宗教や政治の枠を超える力がある。それに人は感動することがある。」これは事実だと思います。でも、それはあくまで受け手が選択するものであって、スポーツ用品を売っている企業が「ほら、スポーツすごいでしょ?感動するでしょ?」という押し付けがましい態度を取ってしまうと一転して興醒めするようなものだと思います。

故・ナンシー関は、90年代くらいから日本のTVのオリンピック報道が「感動をありがとう」といった感動ポルノの形になっていルコとを鋭く指摘していました。30年近く経った今も、日本という国は未だにスポーツを「感動ポルノ」の文脈でしか扱えない、いや、むしろ昔よりむしろひどくなってきているのではないかとさえ思います。繰り返し申し上げますが、スポーツが感動を呼ぶことは否定しないのです。でも、「感動」するかどうかについては受け手に100%の自己決定権が与えらるべきです。スポーツ用品のメーカーやテレビ局が勝手に受け取り方を強制する権利はないと思いますし、むしろスポーツによってもたらされる感動というのは、そういう社会的な押し付けによって一瞬で興醒めするような類の物だと思います。

言いたいことはだいたい終わりなので、冒頭のアメリカ村のショップ店員の後日譚を少々。その後、社会人になってそこそこ自由になるお金も手にした後に、僕は正月に実家に帰省しました。丁度これを書いている今くらいの時期でした。とはいえ正月に実家にいてもやることが特にないので、相当久しぶりにアメリカ村へ行ってみることにしました。そこで僕は積年の恨みを晴らすためのショップ店員撃退法を編み出したのです。店に入ってしばらく経つと必ず寄ってくるショップ店員に「何探してんの〜?」と聞かれたら、「微妙にダサい服ない?」と返すのです。
彼らは「カッコいい」を上から目線で客に啓蒙することには慣れている、というか、それ以外の可能性について考えたことがそもそもなさそうなのです。なので、「微妙にダサい服ない?」と返されると、彼らはほぼ思考停止状態に陥ります。そして、「え〜っと〜‥‥‥微妙にダサい服‥‥‥」と、困惑しながらも店の中の服をあれこれ探した後で「え〜っと、これとかどう?」と半分笑いながらヤケクソで言ってきます。ここで間髪入れずに「いや、それホンマにダサいだけやん。ぜんぜん微妙じゃない。」と返すと、彼らはグウの音も出なくなります。

かくして、アメリカ村のショップ店員を撃退する必勝法を編み出した僕は、高校生時代からの積年の恨みを晴らすため、アメリカ村のアパレル店に入っては同じことを繰り返して、ショップ店員を切って捨てて歩いたのでした。これももう15年も前の話なので今のアパレルで同じことが通用するかはなんとも言えませんが、アパレル店員との付き合いに困っている人は一度お試しください。もう干支一回り以上行ってないけど、アメリカ村ってまだあるのかな?