2014年8月30日土曜日

なぜ日本人のグローバル化は外にしか向かわないのか

日本に在住歴5年近くなる外国人が、「そろそろ日本のクレジットカードを作りたい」と言い出しました。銀行の取引履歴があって信用がないとクレジットカードを作れないというのはどこの国でもある程度同じなんでしょうが、日本って僕が思ってたよりもはるかに外国人がクレジットカードを作るのが大変みたいです。
ともあれ、カード会社によって審査の通りやすさというのはいろいろ違っていて、日本在住外国人の間でもどこの会社が審査がユルいとかそういう情報交換はされているようなのですが。どうもそういうサイトからの情報によると、ユルめのカードの一つに「楽天カード」があるようなのです。
ところが英語公用語化とかいってイキってる割には、楽天のカード申し込みは日本語のフォームでしかできないのです。だから、英語で書かれた楽天カード申し込み攻略サイトみたいなのが存在するようなのです。

別に楽天カードだけじゃなくて、楽天の日本国内向けのサービスのほとんどはどうやら日本語でしか利用できないようなのです。これ、かなりおかしいと思いませんか?だって、社内の会話を英語にするとか言えるくらい英語ができる人ばっかりの会社なんだったら、日本在住の外国人や外国人旅行客向けに英語でも自社のビジネスを展開すればもっと利益が得られそうじゃないですか。
もっと言うと、これって別に楽天だけに限った問題じゃないと思うのです。日本人の考える"グローバル化"はなぜか「海外に留学する」とか「海外の現地法人に赴任する」といった"外向き"な方向にしか向かわないのですよ。例えば日本にもっと外国人の労働者や留学生を受け入れるとか、日本在住の外国人のためのビジネスを充実させるとか、"内向き"なグローバル化っていうのも十分立派なグローバル化なんですけど、どうも日本人はそこにはほとんど関心が無いようなのです。

じゃぁ、日本を外国人に対してもった開かれた国にしていけばいいじゃないか?と思うのですが。いきなり否定から入りますが、とりあえず昨今の状況だとまず無理でしょう。だって、大多数の語学ができない日本人に痛みを強いる度胸なんて政治家にも企業経営者にも無いでしょうから。もし日本国内にもっと外国人を招いてグローバル化するとか、日本人全員がある程度英語を喋れるようになれとか言うと、ネトウヨとかヘイトスピーチなんていうことが今よりもっと増えるでしょう。
つまり、安倍晋三は日本のグローバル化とか言ってる一方で、安倍晋三を支持しているであろう、右寄りの日本人の大半はグローバル化なんていうのは他人事なわけです。やや脱線しますが、こういう安倍晋三と彼の支持者の不思議にねじれた関係って別にこの問題だけじゃないと思うのです。例えばアベノミクスで貧富の差が拡大する方向に誘導した結果、貧しい人たちは右傾化して安倍をむしろ積極的に支持しているのもその一例だと思います。

そして、楽天やユニクロなどのグローバル企業が目指しているのは、海外のグローバル企業が20世紀に通ったコースを周回遅れで追いかける事だと思うのです。外国に工場を作ったり、外国を市場として開拓したり…こう考えると、彼等グローバル企業が日本国内のサービスを外国人に利用しやすくすることに意識が向かないのも納得がいくかと思います。彼等の関心は最初から日本の外にしか向いていないのです。
みんながみんな外国語ができたりする必要は全く無いのですが、例えばコピー機のボタンに簡単な英語の説明をつけてあげるとか、そんな小さなことでも外国人には随分快適になったりするのですよ。ここまで述べたように、グローバル企業という彼等はどうやら日本で外国人が快適に過ごせるように自社の国内ビジネスを多言語に拡張する気はたぶん無いっぽいですが。外国人が日本で快適に暮らせるようにするためにクレジットカードとか銀行とか自動車保険とか、そういうサービスを外国語で行う会社が出てきても良いと思いますし、たぶん遅かれ早かれそうなっていくと期待したいです。

何でもすぐ動画に撮りたがる奴はたぶんモテないと思う

たぶんここ10年くらいの話だと思うのですが。ちょっとしたイベントとかセミナー等に行くとどこかにカメラが最低一台は置いてあったりするのがすっかり当たり前になってきましたよね?たぶんSDカードやメモリースティックの大容量化や、そこそこの画質で簡単に動画撮影できるカメラが安価になったことなどが理由の一つだとは思うのですが。こんなことが当たり前になった昨今では、外部講師を呼んで講演依頼をする際に必ず録画や録音の可否について事前に確認画必要になっていて、中には録音や録画を拒否する人も結構いるようです。
録画拒否する人が言うには、例えば悪意のある人が前後の文脈から切り離して発言の一部だけを切り取ってYouTubeにアップロードするようなことって十分に起こり得るので、撮影されている状態で何かを喋るという事自体が今の世の中では相当にリスクが高いんだそうです。
最近では、後でわざわざ見る奴いないだろ?と言いたくなるような社員ばっかりの内輪の発表会からプライベートでのちょっとしたパーティーまで、「とにかく何でも動画に撮りたがる人」というのが結構目につくようになってきたのですが。今回は「こういう人達って困るよね」から始まって「なんでそうなるのか」についてちょっと考察して、最後は「でも彼等ってたぶんモテないよね」と着地する話をします。

まず最初に申し上げますが、何でも動画に撮る奴って、たぶん後で見ていないです。彼等にとっては「録画する=後で再生可能にする」ことが重要なのであって、後で見ることにはおそらく彼等は価値を感じていないです。彼等をそこまで駆り立てるのは、録画して後で再生可能にすることで時間や空間を超克したいという幼児的かつ「脳」的な欲だと思うのです(例によって養老孟司の「脳化」の話の受け売りです)。ご存知の通り、YouTubeやクラウドの登場はこういった脳的な欲を爆発的に亢進しました。
この、「あらゆる出来事をYouTubeやクラウドにアップロードして世界中の人とシェアする(=脳が喜ぶような)ことは人類の幸福に貢献する」という信仰に加わるために、彼等はライブをその場で見る事と後でYouTubeで見る事の差異に鈍感になるように自身の身体的な感受性を自ら捨てようとしているように見えるのです。だって、ライブの「一回性」とか「その場」に対する敬意が本当に感じれたら、とにかく何でも動画で撮ってYouTubeにアップロードしようなんて思わなくなるでしょうからね。

かくして、動画を撮って何でもネットにアップロードすることで功徳を積めると信じる彼等は、TPOとかあんまり気にせずにとにかくあらゆる場所でカメラを回すようになるわけですが。これ、本当にデリカシーがないですよね?人によっては今日は化粧のノリが悪いとか、最近太ってるから映りたくないとか、思ってるかもしれないけど彼等はたぶんそんなこと意に介していないのです。
動画を撮影することで彼等は、おそらく本人も自覚が無いまま「オマエ達はこの動画の登場人物になれ。オマエの一挙手一投足、全部そのまま未来永劫残してやる。」と一方的に宣言しているわけですが。これって、動かない真実の中に人間を未来永劫縛り付けて呪いをかけているのと一緒です。
例えば飲んで散々カラんだ翌日に「あー、そんな事言ったかもしれない。えー、でも覚えてないや、ははは。」とか言ってごまかしたり、都合よく記憶を作り変えたり、それなりにいい加減だから人間って生きてると思うのですが。もしその場面を動画に撮ってしまう(飲み屋で動画録る奴がいるとは思えないけど)とそういうことを一切許さずに、事実だけを何度でも残酷に再生してしまうのです。
「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった」という映画の攻殻機動隊のセリフがどうしても思い出されます。

以上より、簡潔な一言で結論を述べると「何でもすぐ動画に取りたがる奴ってたぶんモテない」と思います。だって、身体的な感受性が低くてデリカシーが無いって、どう考えてもモテないでしょ?
自分が村上龍にでもなったつもりで最大限にイキった言い方をすると、「何でも動画に撮る奴とセックスできるような女子はこちらからお断り申し上げたい。」くらい言いたいんだけど。でも僕はすごく小心者で自分がマイノリティだという自覚があるので、「何でも動画に撮る奴とセックスできるような女子は全員ブサイクであって欲しいと願っている。」くらいの言い方にしておきます。

2014年8月29日金曜日

Apple信者と本を読まない映画ファン

あのー。色々溜まってきたのでApple信者の文句を書きまーす。
といっても先にお断りしておきますが、デザイナーとかミュージシャンとかプログラマーとか学者とか、そういう何かしら創造的な仕事をなさっている方々はコンピューターを商売道具として使っているので、Apple信者でも全然いいんじゃないかと僕は思います。
僕がどうかと思っているApple信者というのは、
・Apple製品にただ使われてるだけの人(=創造的な仕事にコンピュータを使ってない人)
・ガジェット好きの延長でApple信者をやってる人(=昔はSONY信者だった人)
こういう人達です。ほら、身近に一人くらいいません?ジョブズの思想がどうとかいう理屈をやたら語って、新しいApple製品が出るとすぐに買う(でもそれを何に使っているのかよく分かんない)人。

こういうApple信者という方々と話してて感じる違和感について考えてみたのですが。彼らが「ジョブズの思想」「Apple製品の素晴らしさ」なんかの話を得意げに語っているときに感じる、どうしようもないくらい僕と根本的にねじれているような感覚というのは、「本を読まない映画ファン」が映画について語っているときに受ける印象とすごく似ているのです。
もうちょと別の言い方をすると、あらゆる物事に対する度量衡が人それぞれ異なるかもしれないという可能性に対する配慮、まぁ、平たく言うとデリカシーが無いように感じるのです。この「躊躇の無さ」というか、自分は世の中の中心に立っているという根拠のよく分からない確信みたいなのが大前提になっているのって、Apple信者と「本を読まない映画ファン」に共通しているのですね。
単に彼らをKYだとかバカだとかって言ってるわけではなく、純粋にそういう可能性について考えるという習慣を彼らは最初から持ち合わせていないだけのように見えるのです。

みんながみんなそうってことは無いと思いますが、Apple信者の人って仕事と一切関係の無い本を純粋に娯楽として読むような習慣がなさそうな人が多いように思えるのですね(彼らのバイブルであるジョブズの自伝とかAppleを褒めちぎるだけの本は除外して)。まぁ、本っていっても色々あるので何でも読めばいいってもんでも無いんでしょうけど、本を読むことの効用であり楽しさの一つに「他人の思考に一時的にでも同調する」ということがあると思うのです。こういうことを繰り返していると、例えば武道や芸能の達人と稽古を一緒に続けるとだんだん動きが達人に近づいてくるのと同じように、頭のいい人の思考フォームを獲得できるようになるわけです。
読書を娯楽として楽しめる人って、たぶん一度くらいは本を通して今まで自分になかった他人の思考フォームに同調して感銘を受けたことがあるんじゃないかと思うのです。そして、様々な先賢の思考フォームに同調する経験を通して、他人の思考フォームが自分とどのくらい違っているか慮る習慣や、特定の人の言ってる事だけを過度に狂信しないバランス感覚を涵養するのではないかと思うのです。
「本を読むことでしかそれができない」わけでもなければ、「なんでも本を読みさえすればそうなる」というわけでも勿論無いとは思いますが、おしなべてそのような傾向はあるんじゃないかと思いますよ。

森毅先生の名言botにこういうのがありました。
美学がなくなっている。学生が本を読まなくなったというのも美学の問題だと思う。大学生になったからと難しい本を読みだしてもどうせわからんに決まっている。わからん本なんか読んでもむだというのでは美学にならぬ。むだを承知で読むところに美学があるのだ。効率優先合理主義では美学は生まれない。
この森先生の発言がいつ頃の物かはわかりませんが、この「本を読まない学生」が後にApple信者になったんじゃないかと思うのです。信者になれば、美学も含めて全部Apple様からコピペできますから、それは最も効率的で楽な方法なのです。

2014年8月24日日曜日

今更ですが進撃の巨人の話を


今回はかなり今更ですが進撃の巨人の話をします。と言っても、僕は原作の漫画は読んだことがなくて、去年アニメを見ただけの関わり方しかしていません。漫画はアニメよりだいぶ先に進んでいるらしいので、もしも最新の漫画の展開からすると見当違いなことを書いちゃう可能性はありますが、その際は平にご容赦を。というのも、あの作品は世の中に数少ない「漫画よりアニメで見たほうが面白い」作品なので、アニメでしか見る気が起きないのです(この逆のパターンは佃煮にして売れるくらいたくさんあるんですけどね)。
さて。進撃の巨人ですが。去年は社会現象と言われるまでに大ヒットして、主題歌は紅白にまで出ちゃいましたね。すっかりクールジャパンのキラーコンテンツの一つに仲間入りした感があります。確かにバルセロナの漫画フェスティバルでも進撃の巨人のコスプレは大人気だったらしいですし、半年くらい前に出張でバルセロナに行った時には中心街の大きな書店の一区画に特設コーナーがあって、そこで進撃の巨人のDVDをずっと垂れ流していました。

進撃の巨人についてはいろんな人がいろんなところで言及しているのですが、なんであそこまであの作品が世界中の人をひきつけるのかについては、街場の漫画論の文庫版に収録されている内田先生と高橋源一郎の指摘が一番妥当だと僕は思います。
「生まれたときから不条理なルールを一方的に押し付けられてきて、どうすればこんな世界を変えられるのかよくわからないけど、とりあえずその場その場をしのいで生きていくしかない」という状況は日本だけでなく世界中のあらゆる国で同じような状況なんじゃないのかなと思います。少なくともスペインやギリシャはリーマンショック以降そういう状況だと思います。

僕が付け加えるとすると、進撃の巨人は我々人類の遺伝子に刻まれていている「大型動物に捕食される恐怖」に訴える物があるのではないかと思うのです。人類の祖先であった小型哺乳類は大型動物に捕食される危険に常にさらされてきたわけですから、その記憶は我々に引き継がれていていも不思議ではないでしょう。
フロイドは、乱暴に言えば「なんでもかんでもとにかく人間の心的活動は性欲に起因している」という彼の主張の根拠として、性=生物として種の存続は人類の祖先にとって最優先事項であったため、人類にもそのまま遺伝して引き継がれているからだと言ってます。僕はこの説明はあまりに強引過ぎて賛同できないですが、このロジックだけを援用すると、同じように生き残るために必要な「エサを探して食べる」「エサとして食べられることを避ける」ということもたぶん大なり小なり我々の遺伝子には刻まれていると思います。まぁ、そのくらいは言ってもいいんじゃないですかね。
上記のうち、性欲と食欲については"欲"と名のつく通り今日ではAVやグルメなどのエンターテイメントとして昇華されていたり、一方ではカウンターとして宗教などの"禁欲"の対象ともなっています。しかし、「エサとして食べられることへの恐怖」をエンターテイメントとして見せた物ってあんまり無いですよね?いやまぁ、"ジョーズ"とか言い出したら前例はあるにはあるでしょうけど。

さらにもう1個、付け加えると。進撃の巨人はストーリーが緻密に練られていて、見事なまでにここまで張った伏線をちゃんと全部回収していますよね?今まで浦沢直樹(MONSTER, 20世紀少年)やエヴァンゲリオンなど、謎や伏線を散々張り巡らした挙句に「えー、で、結局終わり方それなの?」というのを散々僕らは眼にしてきたわけですが。進撃の巨人はもう連載が終了した漫画で言うとナウシカ、からくりサーカスぐらい、ちゃんときれいに伏線を回収して納得させてくれそうな気がするのです。
この、「スッキリ終わらせてくれそうな期待感」に関しては、進撃の巨人はONE PIECEに匹敵すると思います。だから我々はどこか前向きに安心してドキドキできるのです。逆の言い方をすると、これらの作者には「辻褄があっててスッキリちゃんと終わらせなければいけない」という現代的な空気を感じ取れてしまうのです。だから、珍遊記みたいに途中で連載を投げ出して終わったり、ドラゴンボールみたいに強さのインフレを続けた挙句に「絶体絶命になったところでスーパーサイヤ人として目覚める」なんていう子供だましみたいな展開にはまずならないという安心感があるのです。
ちなみに、張り散らかした伏線が全く回収されないまま終わってしまう漫画を読みたければ、車田正美先生の「男坂」をお勧めします。伏線を張るだけ張り散らかしたところで何一つ回収しないまま見事に打ち切りになっています。しかし、30年のブランクを経て最近続編の執筆が始まったそうです。読みたいような、読みたくないような。。

2014年8月23日土曜日

野球と美学

夏休みが開けて一週間が経ち、渋々サラリーマンとしての日常にようやく戻りました。と言っても夏休みだからって特別どこに行くわけでもなく、ぼんやり本読んだり高校野球見たりしてる間に過ぎていったんですけどね。
さて、今年の高校野球で健大高崎というチームが大差が開いた後もひたすら盗塁を繰り返していたのが色々物議を醸している(これとかこれをご参照ください)ようなのですが。高校野球っていつもこういう議論がありますよね?去年の「カット打法禁止」とか、その前の「クロスプレーでのタックル禁止」とか。
高校野球に限らずプロ野球にしてもそうなんですけど、「勝ち負け」にこだわると、やる事がどうしてもチマチマしてたり陰湿な方向に向かってしまうのって日本人の「民族的奇習」の問題なんじゃないかと思うんです。そういう意味では高校球児達は「勝つためにチマチマと陰湿な事も厭わない」という軍人的側面と、「高校球児らしいハツラツとした爽やかさ」という見ている側の幻想の二つを同時に要求されるダブルバインドの状況に置かれてるように見えるのです。

そして、プロ野球も同じように「お客さんにお金払って見てもらうエンターテイメントとしてのプロスポーツ」という側面と、「チマチマとしてて陰湿で細かいインサイドワークの積み重ねで勝つことにこだわる」という二つの矛盾した要求にさらされています。特にここ数年のプロ野球って後者の比重が強くなった末に総力戦の傾向が強くなっているように見えるのです。例えば
・主力選手でも状況(ピッチャーが左から右に変わったとか)によっては割と簡単に替える
・代打、代走などは使える限りとにかく使う
・セ・リーグの場合、試合終盤の選手交代の際にピッチャーを9番以外の打順に置く
こういうことやり始めると、余程のことが無い限り選手層の厚い巨人みたいなチームが有利になるでしょう。でも僕には逆に「そうやって潤沢な資金で獲得した選手をありったけつぎ込まないと勝てない、若しくは、それだけ金で買った戦力をありったけつぎ込んでまで勝つことに執着する」という風に見えてしまって、ちょっと引いてしまうのです。90年代に江藤や清原など他チームの4番バッターをFAで取ってきて並べてみたものの鳴かず飛ばずだった頃の巨人の方がまだほほえましかったとさえ思えます。ええっと。だいたいもうなんとなく察しがつくと思いますけど、僕はアンチ巨人なのですけどね。

上述したような矛盾した二つの要求にさらされるのは今に始まった事じゃなくて、ずっと昔からプロ野球が抱えてる問題だったんだろうと思うのですが。単に僕の好き嫌いの問題だけじゃなく、ここ数年の「勝つ」ということに重きを置いた総力戦の野球と、プロ野球ファンが思い描く理想のプロ野球像が乖離してきているんじゃないかと思えるのです。
森毅先生は「効率優先合理主義では美学は生まれない。」とおっしゃってますが、まさにそういうことなんだと思うのですね。勝つことを最優先してそのために効率を重視したために今のプロ野球が失ってしまったものは一言で言うと美学なんじゃないかと思うのです。
もっと言うと、「美学とかは度外視で、手持ちのカードを使えるだけ使って『自分が起こしたアクションによって世界を動している』という満足を最大化したい」という幼児性は安倍晋三と原監督に通じているように思えるのですが、その話をすると長くなるのでそれはまたいずれかの機会に。

2014年8月6日水曜日

STAP細胞と技術立国ニッポンの落日

約一ヶ月ぶりの更新です。今回はSTAP細胞や小保方氏の話を書きます。
この件については何度かこのblogに書こうかと思った事はあったのですが。捏造疑惑以降の世の中のバッシングぶりが余りに酷かったので、否定にせよ肯定にせよ、とにかくこの件について触れることに気が進まなかったのですが。昨日とうとう笹井氏が自殺しちゃったのを見てなんだか気分が変わって、僕もようやくこの件に触れる気分になりました。
この心境の変化をもうちょっとちゃんと説明すると、長い間日本人が異常ともとれる熱意を傾けてきたこの件を、笹井氏が自ら人柱となって"供養"したことでようやく「過去の事件」となったように思えたのです。僕の想像ですが、これでSTAP細胞や小保方氏についての一連の騒動は収束すると思います。この「供養された感」は佐村河内氏(の記者会見)にはあったけど小保方氏とSTAP細胞には今まで全くありませんでした。だからこそこれだけ長々とバッシングされ続けたんじゃないかと思うんですけどね。

僕自身はなんちゃって研究職という職業上、一応世の中の区分としては理系に該当します。確かに記者会見の小保方氏の受け答えを見た限りでは、まともな科学者には見えなかったのは事実です。しかしながら、僕はなんちゃって理系だけど実験ノートをつくるような分野ではなかったしそんな経験も無いので、彼女の実験ノートがマトモなのかどうなのか判断できません。だから、自分が分からない事や知らない事には判断を保留するのが妥当だと思いますし、硬い言い方をするとそれこそが科学的な態度だと思うのですが。
最初に小保方氏をリケジョだの割烹着だのとメディアが持ち上げらているのをそのまま鵜呑みにしていた人達が、一旦捏造疑惑が持ち上がるや否やテレビに出てくる「専門家」が実験ノートの不備などを指摘しているのをそのまま鵜呑みにしてバッシングする側に回っているのを見て、これはさすがにヒドいと思ったのでした。
「信じる」ということは多大なリスクと責任を伴うと思うんですが、メディアの情報を鵜呑みにする人達ってたぶんそうは思ってないんでしょうね。そして彼らは捏造疑惑が持ち上がるや否や、「だまされた被害者」の位置に瞬く間に移動して、自身がバッシングに加わることを何の躊躇もなく正当化することができたんだろうと思います。これはいつも僕が言ってる事の繰り返しですが、こうやって正義を背にしているとどこまでも残酷で苛烈な仕打ちができる日本人の社会が僕は本当に怖いのです。

自然科学の分野では、後に革新的だったと評されるような研究も最初は頼りなさげな仮説の一つでしか無い場合がほとんどなのですが。もし後で問題が見つかると笹井氏や小保方氏のように検証の機会もロクに与えられないまま社会から抹殺されるようなことが横行すると、この国の科学技術の発展にとって大きな障害になるんじゃないでしょうか。
だいたい、アインシュタインでもケプラーでもそうですけど、後に名を残すような大科学者も間違った事も沢山主張してますし。現在我々が自然科学と思っているのは「みんな間違った事もいっぱい言ったけど、わずかに残った正しいっぽいもの」だけが残って体系づけられたものです。
科学そのものの定義も「今のところどうやらそうであるらしい」であって、これはつまり「絶対に正しいかどうかはどのような人間も知ることができないので、常に間違っている可能性を考量しつづける責任を負わなくてはいけない」ということを意味しています。
発表した仮説が後でどうやら間違ってるようだと判明した途端に小保方氏や笹井氏のように社会全体からバッシングされるようなことが起こり得るような国では、自然科学という分野の研究に従事することそのものがハイリスクだということになりますし、最先端を行けばいくほどよりこのリスクが増すことになってしまいます。

そして、一連の小保方バッシングでも特に気になったのは、小保方氏の高級ブランド服やホテル暮らしについての非難です。確かにそんな金がどこから出てきたのかというのは僕も不思議だとは思いますが。研究費横領などの不正があったかどうか以前に「年間何百億円もの税金を投入されている理研の職員がそんな贅沢な暮らしをしているなんておかしい」という世間の反応に対して、これはさすがに違うんじゃないかなと思ったのです。仮に研究費の横領などが一切なくて、ホテル暮らしができるほどの給与を理研から得ていたとして。優秀な研究者がその能力に応じた待遇を受けるのに何か問題があるのでしょうか?というより、そうでもしないと本当に優秀な研究者は日本から離れていきますし、実際そうなりつつあると思います。
自民党は理研や産総研の給与の上限をなくす法案の成立を検討していましたが、結局STAP細胞騒動の煽りで見送りました。かくして技術立国ニッポンは、自分が全く専門知識を持たない事象に対しても審級を下す権利が自身に備わっていると考える正義の庶民によって足を引っ張られて、諸外国に遅れをとっていくように僕には見えるのです。

青色ダイオードを発明した中村修二氏は「文系が金持ちの国は後進国」とまで言ってのけました。まぁ彼の場合、この言葉の裏にはそれまでの日亜化学の永年の仕打ちに対する積年の恨みもあったのでしょうが。それはさておき、結果として彼は日本を離れてUCLAに行っちゃったわけです。このように能力のある人を遇することのできない国からは、より良い待遇と研究環境を求めてどんどん優秀な人材が流出していきます。
もうすでに小保方さんは有名になりすぎた上にNHKのパパラッチに追いかけ回されたりで、日本ではまともな社会生活が送れない状況だろうと思います。捏造ではなくSTAP細胞が本当に存在して、それを発見できるほどの能力があったのだとしたら、小保方氏は外国に飛び出すべきだと思います。