2021年6月29日火曜日

今更ながら改めて考えてみる「おもてなし」

これを書いている現在、オリンピックの開催予定日の一か月くらい前です。来日した海外の選手団から陽性者が発見されたり、スタジアムでの酒類の販売の是非が議論になったり、そして先週末には天皇陛下からオリンピック開催に伴う感染拡大を憂慮する声明が出たり…という状況です。普段ほとんどテレビを見なくなっている僕でさえ、たまにテレビをつけてオリンピックについて何か言ってるのを見るだけでうんざりしてほぼ反射的にテレビを消してしまいます。始まる前にここまでうんざりしてしまっているオリンピックというのはこれが最初で最後になるかもしれません。もし仮にオリンピックがこのまま開催されたとしても僕はたぶんテレビで見ようとは思わないと思います。



さて。最近book offで岸田秀の「古希の雑考」という本が100円で売られていたので買ってきて読みはじめました。この本は岸田秀が提唱してきた「内的自己・外的自己」などの観点で2000年前後の時事問題を扱った本です。まだ全部読んでいないのですが、この冒頭に収録されている『「総理」と「草履」は使い捨て』という1998年くらいに書かれたエッセイが非常に秀逸でした。ここに書いてある話は「おもてなし」から今に至る日本の有り方をうまく説明できるように思えたのです
岸田秀曰く、日本の総理大臣は就任当初は期待されるけど、やがては国民の人気を失って別の人に交代していくことを数年周期で繰り返す。岸田秀はこの理由を、「国民は内的自己の充足を期待しているのに、アメリカの属国である日本の総理大臣は外的自己への配慮を優先せざるを得ないため」と説明しています。確かに。2000年くらいまではそうでした。総理大臣は長くても2年くらい経ったら交代していたのです。やや脱線しますが、岸田秀がこの文章を書いた後に、小泉純一郎というトリックスターが現れてこのサイクルを壊してみせたところから今に至る日本の迷走は始まったと僕は思っています


話を元に戻します。この岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルを「おもてなし」に適用すると、次のように言えるのではないかと思います。今まで分裂して相反する関係にあった「内的自己=日本人固有のアイデンティティに傾倒した自己愛」と「外的自己=外国人に対していい顔をしてうまく付き合いたい」が同じ方向を向いてしまったのが「おもてなし」だった…と。それも、両者の分裂状態が快癒したのではなく「分裂したまま同じ方向を向いている」ということが「おもてなし」から今に至る日本の状況なのではないかと思います。
もう少し丁寧に説明すると、「おもてなし」という日本固有の文化(=内的自己)をもって外国人に接することで、外国人は自分達の「おもてなし」に好感を持ってくれる(=外的自己)、というファンタジーを日本人は信じてしまったわけです。「おもてなし」の当時の僕はスペインから帰国した直後でしたが、「おもてなし」やオリンピック招致に対して日本人がはしゃいでる姿に「なんとも説明できないけどすごく嫌な感じ」を持っていました。それがなぜなのか、10年近く経った今になってようやくわかったような気がします。


オリンピック招致以後の日本人の「ワールドカップでのごみ拾い」や「クールジャパン」なども、全部この「内的自己と外的自己が分裂したまま同じ方向を向いている」という文脈で回収できてしまいます。「ゴミを拾うのが美徳だという日本人の感覚は、海外でも称揚される」とか、「日本固有のアニメや歌舞伎などの文化は外国人にも大人気」…どれも同型のファンタジーですよね。
このままいくと、どんなに感染が広がろうともオリンピックは開催されるだろうと思います。それは避けがたいとして。その後には何が待っているでしょうか?
・「内的自己と外的自己が同じ方向を向いてはしゃぐ」ためのネタが無くなる
・コロナはワクチンがいきわたっても簡単には収束しない
・お粗末なコロナ対応で負担を強いられてきた国民の不満がくすぶる
こうやって列挙してみると、なにかしら一波乱くらいは起きそうな気がします。せめて今より少しでもマシになってくれると期待したいです。とりあえず、内的自己と外的自己が同じ方向を向いてはしゃいでいるのが終わってくれるだけでも御の字です。