2021年9月11日土曜日

白鵬にだけ品格を求めるのはどうなんだろ?

オリンピックも終わり、スガ首相が政権を投げだしたので自民党の総裁選挙に世間の注目が集まっている…という状況でこれを書いています。オリンピック期間中はプロ野球や相撲などの日本のプロスポーツはすっかり世間から忘れられていましたが、明日から大相撲の9月場所が始まります。

7月の名古屋場所は白鵬の全勝優勝で終わりましたが。特に千秋楽付近での白鵬の「土俵際ギリギリくらいまで後ろに下がって正代の立ち合いの勢いを無力化する」や「照ノ富士に対しての立ち合いのかち上げ」といった立ち振る舞いについて「横綱の品格にもとる」「かち上げは危険なので禁止にすべきだ」といった批判の声が方々から上がりました。以前から「白鵬は自分に有利なタイミングで立ち合っている」と言われてきましたが、名古屋場所終盤での白鵬の立ち振る舞いはこれまで自身に課してきたリミッターを解除して、「ルール上禁止されてないことは何やってもいいじゃん」とでも言っているように見えました。

「かち上げ禁止」のルール化などはスポーツとして相撲を捉えるならおかしな話ではないと思いますが、実際にそういうルールを作ると大相撲はまた一歩「神事」としての側面が減って、「ただのスポーツ」に近づいてしまいます。時津風部屋の暴行死事件以降、大相撲の運営はどんどん「スポーツ=近代化」されていますが、土俵上のルールにまで近代を持ち込むのは、大相撲のアイデンティティを考えると安易にやるべきではないと思います。大相撲のスポーツ化を進めていくと、アマチュア相撲に漸近してしまいます。だって、プロレスにルールを増やしちゃうと、ただのアマレスになっちゃうでしょ?

白鵬の名古屋場所での立ち振る舞いは、おそらく一代年寄の問題とも関連しているのだと思います。方々で言われていることですが、これまでの白鵬の立ち振る舞いや帰化問題など、諸々あって白鵬は引退後のキャリアが不明瞭なのです。相撲協会は「そもそも一代年寄という制度は明文化されたものではない」と白を切っていますが、どうやら相撲協会には白鵬には引退後に親方になる道を提供する気がなさそうです。名古屋場所での白鵬の立ち振る舞いは大相撲の世界に存在する「明文化されていないしきたり」に対するアンチテーゼでもあるのではないかと思います。

さて。ここからやっと本題なのですが。白鵬の立ち振る舞いは「横綱の立場でありながら国技大相撲の品位を貶めている」ように見えるかもしれませんが、一周回って白鵬は「この国の社会・政治の劣化」をそのまま体現しているとも言えるのではないでしょうか?白鵬の品格を非難するなら、その1/10でいいからこの国の政治家を非難してもよいのではないでしょうか?と僕は思うわけです。ご存知の通り、安倍政権以降の政治の劣化ぶりは目に余るものがあります。昔の自民党の政治家は、悪い事はするけど問題になったらとりあえず辞任してみせる程度の最低限の責任は取ってきました。このような「最低限の品格」というものは、第二次安倍政権以降の日本からはすっかり失われてしまいました。昭和の自民党だったらモリカケ問題が出てきたあたりで安倍晋三は辞任していたはずですですが、安倍晋三はいつまでも居直りつづけてますよね?そして現在のスガ政権も野党が求めている国会の開催を拒否しています。これは、明らかな憲法違反なのですが、日本の社会はこれを放置したままになっています。改めて申し上げますが、これを許しておいて白鵬にだけ品格を求めるのはおかしくないですか?

最後に、白鵬の今後について僕なりの提案ですが。アマチュア相撲の監督になるか、モンゴルなど海外に力士を育成する道場(あえて部屋と呼ばない)を作って、大相撲の力士に勝てるような力士を育ててはどうでしょうか?白鵬は大相撲にこだわるよりも「スポーツとしての相撲」の可能性を開拓した方がよいと思います。貴乃花親方もこっちの方が合ってると思います。ブラジルに渡った前田光世のグレイシー柔術が日本のプロレスに殴り込みをかけてきた時代のように、白鵬が育てた弟子が大相撲の力士を圧倒する…もしもこんなことが起きたとしたら、これは2000年前後の「プロレス vs 格闘技」と同じ構造が「スポーツ相撲 vs 大相撲」として再現することになると思います。あ、なんだか書いててわくわくしてきたぞ。

2021年9月4日土曜日

角川文庫とオリンピック

これを書いている現在、 
  • 誰が見てもオリンピックと関係があるとしか思えない感染爆発が日本中に広がっている
  • 関東を中心に自宅療養という名目で医療崩壊が起きていて、とうとう感染者の妊婦が自宅で自力出産の末に赤ちゃんが亡くなるという事件まで起きた 
  • それでもパラリンピックは予定どおり開幕した
  • 一方で、フジロック開催の是非については賛否両論の議論になっている 
  • 自公政権への国民の不満が募る中、スガ首相のお膝元の横浜市長選で自民党惨敗→とうとうスガ首相が退陣を表明 

という状況です。 日本のテレビはコロナの被害を伝える一方で、オリンピック&パラリンピック関連のトピックについては依然として今まで通りはしゃいでいます。日本のテレビを見ていると、オリンピックを開催している日本という国は、今自分が生きている日本とはどこか別の場所にあるような気がしてしまいます。このように、日本全体が統合失調症のような状態に陥ってるのを見ていると、結局日本人の内的自己と外的自己の分裂という症状はオリンピックでは快癒することなどなかったのだということを思い知らされます。「オリンピックの開催=外的自己の満足」と「メダルラッシュ=内的自己の満足」で支持率が維持できるとスガ政権は考えていたようですが、これらはどちらも岸田秀が言うように「幻想」でしかないのです。「幻想」はコロナによる生命の危機や、生きる糧を奪われた飲食業の人々の問題を何も解決できません。結果としてスガ政権は散々強気で通した挙句にとうとう崩壊しました。

 「科学的に取り組むことを忌避する」、「人間の生存に関わる基本欲求を無視する」、そして何より「都合のよいストーリーだけしか考えていなくて、プランBが存在しない」という点で、今回の東京オリンピックは第二次世界大戦における大日本帝国と同じ問題を焼き直した形になりました。オリンピック開催前から、開催反対派はコロナが収束していない状況でのオリンピックを「インパール作戦」になぞらえて批判していましたが。オリンピック招致~コロナという一連の物語がスガ政権崩壊で終わろうとしている状況は、日本にとって何度目かの「敗戦」の状況にあると思います。この「敗戦」を受けて、政権に都合の良い姿勢を取り続けてきた日本のテレビも、さすがに一段空気が変わりはじめたように見えます。 

 先日、角川文庫の本を読み終わったら、巻末に昔からある角川源義の「角川文庫発刊に際して」を見つけたので、改めて読んでみました。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」から始まる文章を読んでいると、戦後70年経っても未だに日本人は何も本質的に変わっていないのではないかと思えてしまいました。特にコロナで浮彫になったのは、西欧や台湾のように科学を自分達の国の運営に活かしていけるほど成熟した文化レベルに日本が達していないということです。欧米ではコロナの感染拡大を防ぐためにロックダウンのような強権的な措置もとられましたが、その根拠やロックダウン終了のための数値目標などが政治家から示されていました。一方で、科学に対する社会的合意形成ができていない日本では、緊急事態宣言にともなって国民に対して政治からの「お願い」は出るものの、その根拠や解除のための数値目標は何も示されませんでした。

 あんまり救いの無いことを言っても仕方ないのでせめて前向きな話で終わっておきたいと思いますが、「角川文庫発刊に際して」を書いたときの角川源義のような人が少しずつでもいいからこの国をマトモにしてくれることを僕は願っています。