2013年7月29日月曜日

小手先の「新しさ」による資本主義の延命

田舎のメーカーでサラリーマンを10年くらいやっていますが。我が社(に限らず日本の会社ってどこでもそうだと思いますが)はある一定周期で必ず組織変更があります。「今後の方針についてエラい人から話があるからいついつどこどこ集合」というメールがくると、「あー、またか」となるわけです。なんだかんだいって終身雇用前提の田舎のメーカーのエンジニア職場なんて普段あんまり人の出入りが少なくてイベントにも乏しいので、組織変更って言われると中高生の席替えの1/1000くらいのわずかなワクワク感はあります。これで嫌なアイツがどこか違う部署に行ってくれないかと少しだけ期待したりするのです。まぁでも、そんな都合の良いことは滅多に起きないんですけどね。そして、僕が経験した限りでは直近でやることはいつも何一つ変わりません(まぁ、ドラスティックにやることが変わらないというのはそれなりに平和で良いことだと思いますが)。

多くの場合、「組織変更」の実態は「あっちのグループをこっちに動かす」とか「あっちのチームとこっちのチームをまとめて一つのグループにしてシナジーを…」とか「管理職の交代」であることが多いのです。だから直近でやることはいつもだいたい変わりません。下々の立場から見ると、わざわざ名刺を刷りなおしたり、人の出入りに伴う雑務が発生したり、新しい上司にこれまでやってきた仕事の中身を説明したり、と、ただめんどくさいだけで意味があるのかよく分からないんですが。それでも会社の上の方から見ると何かしら価値はあるのかもしれません。いや、そうだと信じたいな。。
よくある「効率的なアウトプットの促進」「グローバル環境での生き残りに向けた体制強化」なんかを標榜して行われる組織変更は、組織変更によってもたらされるであろう利益もさることながら、「とにかく色々頑張ってるんですよ」という事を社会や株主に向けてアピールするという狙いが大なり小なり含まれているんだと思います。場合によっては、それだけが狙いだったりするのかもしれませんが。。

で。ここで本題なのですが。最早オワコンの香りがしつつある資本主義という制度そのものが生来的に抱えている「新しくし続けなくてはいけない」「(会社も、社会全体の経済も)成長し続けなければいけない」という病が、日本では上述した組織変更などの「小手先の新しさ」の連発として奇形的な症状を呈しているんじゃないかと思うのです。
この「小手先の新しさ」に対して最初に違和感を感じたのは、約一年前に日本に帰ってきたときでした。二年ぶりに帰って来た日本を車で旅行してたら、高速のインターで「しいたけマドレーヌ」とか「静岡おでんラスク」などの無理矢理感のあるお菓子が売られているのに衝撃を受けたのです。このとき、「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という日本人の情熱は最早病の域に達してると思いました。あれだけ経済危機で若者の失業率が50%とか言ってたスペイン人でさえ、新しい食べ物を無理矢理に発明してまで仕事を増やそうとはまず考えつかないだろうと思いました。

今でも僕には日本のスーパーは「無理矢理作り出された新商品」の見本市のように見えるのです。たとえば、冬場は「キムチ鍋専用シーチキン」というものが売られていました。今のシーズンでは、そうめんのバリエーションとして「イタリアンつゆ」などが店頭に並んでいます。先日スーパーに行ったら日清製粉の「チキンラーメン お好み焼き」という商品が並んでいました。
こういった商品にも、日本人の「無理矢理にでも新しい物を生み出さなければいけない」という病を感じるのですが。これってつまるところ会社の「組織変更」と同じで、商品そのものがヒットするかはさておき、小手先の「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続けることが主たる目的なんじゃないかと思えるのです。
直観的な印象として、この国はこういう「小手先の新しさ」によって資本主義というシステムを維持延命しようとしているように思えるのです。でもこうやって、無理矢理新商品をひねり出す(とりあえず株主に何か新しいものを出したという既成事実を作る)→たくさん広告費を使う→誰かがとりあえず買ってみる…っていうサイクルもそろそろ維持できる限界なんじゃないのかな?

2013年7月21日日曜日

選挙の日に思うこと

以下、選挙について思ったことをつらつらと書いているだけです。模範的な駄文です。

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本日、参議院選挙の投票に行ってきました。その昔、20歳になって選挙権を得たときは面白半分で投票に行ってみたのですが。その後はぱったりと行く気が起きないので10年以上ずっと投票には行かなかったのです。理由はまぁ、よくある話です。特に入れたいと思える人がいるわけでもない上に、どの党が政権を取っても自分の生活は大して変わらないと思ってたからです。
そもそも、「選挙」という映画が描いているように、日本の選挙活動のクオリティがあまりに残念すぎるので選挙という物に関わること自体が嫌だったのです。典型的なドブ板選挙はとにかく候補者の名前を大音量で連呼したり、握手したり、手を振ったり。僕にとっては大音量で連呼されている名前にはますます票を入れたくなくなるんですけど、それでも一定の効果があるから彼らはきっとやってるんでしょうね。こういう、有権者をバカ扱いしてるとしか思えない選挙活動をする候補者ばっかりの選挙にわざわざ投票しに行く気にまるでなれなかったのです。そういう意味では一切選挙運動をせずに都知事になった青島幸男の選挙運動スタイルもっと評価されて欲しかったのですが、残念ながら彼の選挙運動スタイルを踏襲する政治家を僕は知りません。

そこから選挙に行くという習慣を定着させたのは民主党が政権を奪取した2009年の選挙からです。このときばかりはさすがに自民党は有り得ないと思って民主党に入れました。そして、僕がスペインに行ってる間に震災・原発事故が発生して、帰ってきたら2012年年末の衆議院選挙でした。僕としてはとにかく原発をさっさとやめて欲しいので原発に対して否定的な党に投票しました。けど、残念ながら自民党が大勝しました。
自民党があそこまで大勝したのは僕だけじゃなくて、たぶん当の自民党も含めてほとんどの日本人にとって意外だったんじゃないかと思います。もちろん民主党政権に国民が落胆したというのはあったとは思いますが、原発があれだけの事故を起こしたのにも関わらず原発を推進する政党にあそこまで票が集まった背景には、以前書いたように震災や原発事故について自己批判を伴う反省に疲れた日本人が「震災や原発事故を『無かったこと』にして、とにかく日本を昔あった状態に戻したい」という意識が働いたんじゃないかというのが僕の解釈です。

ともあれ、自民党が政権を握ってからTPPはどんどん本格化していくし、アジア諸国との関係は悪化するし、原発はどんどん再稼動させようとする、しかも何のために必要なのかよく分からないけど国民の自由や権利を制限する方向に憲法改悪を推進し始める(で、賛同を得るのが難しいと思ったらあっさり引っ込める。)。これらは僕から見ると、ほんとに「いらんことだけわざわざ選んでやってる」ように見えるんですけど。日本人のマジョリティにはそうは見えて無いのか、もしくはどうかと思うけどアベノミクスで経済がよくなり始めてるしまぁいいかと思ってるのか…どうなんでしょうかね?
「国破れて山河あり」って言いますけど、山河があれば国が破れてもまた別の国は興せます。ヘタすると日本の国土に人が住めなくなるような事態を招きかねない原発を、デカい地震が起こる可能性が極めて高いこの国でこの先も稼動していくというのはどう考えても損得勘定が合わないと思うのですが。そんなに目先の経済って大事なんでしょうかね?

その昔僕が「投票に行かなくても自分の生活はそんなに変わらないだろう」と思えたのは、もちろん若かったというのもありますが、それだけじゃないように思うのです。あの頃は「ほっといてもまぁこのまま可もなく不可もないままなんだろう」という空気があったのですが。ここ数年はこの国はどんどんひどい方向に向かってて、これはさすがにマズいという危機感を感じるのです。それに少しでも抗いたいというのが僕が投票に行くようになった動機なんだと思います。

最後に。ネット選挙が解禁になりましたが。これが今後”ネット政党”みたいな物を形成して、ドブ板選挙とは根本的に異なる選挙の有り方を示したり、多様な意見の受け皿になったりする可能性にはちょっと期待したい気がするのです。今、政治とネットの関係というとネトウヨくらいしか思いつかないけど、もうちょっと多様な可能性が出てきてもいいんじゃないかな。とか言ってると、「ホリエモンがネット政党をつくりました」とか、そんなオチになりそうな気もしてきた。

2013年7月13日土曜日

うっかり外国語を使うことで発生する不条理の連鎖

以前のエントリで、会社のイベントの実行委員でテーマ名のジャパニーズ英語でひどいという話を書いたのですが。その後我慢できずに散々大立ち回りをしてみたのですが、結局最後は力及ばず元の案のままになりました。一応守秘義務もあるのであんまり書きすぎるとマズいのですが。結局のところ最後何に負けたかというと、我が社の「ダサさ」という伝統を守りたいという集合的無意識に負けたように思います。ともあれ決まったことはしょうがないので、僕がやるべきことは納得しなくても結果には従うことですね。

上記のジャパニーズ英語バッシングの際には「できもしない英語をやたら使いたがる日本人ってヘン」という話形を散々使わせていただいたのですが。知りもしない外国語や外国文化に対して失礼千万な態度を取るのは別に日本人だけじゃありません。例えば日本に行くスペイン人に「女体盛りはどこで食べれる?」と聞かれたことがありました。なんでも、スペイン人の作った映画で女体盛りが出てきて、それ以来スペイン人の間では女体盛りがすっかり有名になってしまったのです。まぁそこまではしょうがないとしても、体寿司っていう店の名前はいくらなんでもひどいと思いました。まぁ、翻訳エンジンの直訳なんでしょうけどね。
他にも、海外のアジア系のスーパーの日本食コーナーにはたいてい怪しげな日本語が書かれた商品が一杯並んでます。また、海外にはヘンな日本語名の日本食レストラン(たいていは中国人がやってて、寿司と中華とかインドとかがごちゃ混ぜになった物=wokを出している)も沢山有ります。

一方、芸術分野で「わざわざ外国語を使う」ということをやると、それが他国語に翻訳されるときに大変面倒なとこになり、結果として不条理の連鎖が起きるという事例をスペインにいる間に沢山目にしてきたのでいくつかご紹介しようと思います。
まずわが国が誇るクールジャパンの代表ともいえる宮崎アニメの「天空の城ラピュタ」。ラピュタという名前はガリバー旅行記から取ったらしいのですが、この言葉は"la puta"(スペイン語で娼婦という意味)が語源になっていて、それを「ガリバー旅行記」を書いたスイフトは知っててやっていたのに宮崎駿はそんなこと知らなかったんだそうです。ここにひとしきり書いてあります。在西当時、スペイン人のアニメオタクと映画の話をしてて、「当然"ラピュタ"見たことあるよね?」と言っても話がちっともかみ合わなかったときに初めて僕もこの事実に気付きました(スペイン語では"el castillo en el cielo"、英語だと"castle in the sky"と呼ばれています)。でもまぁこれはちゃんと気付いて代えた名前がそれなりにマトモなのでまだよかった方だと思うのですが。
次に"ターミネーター2"。これ、日本語で「地獄で会おうぜベイビー」と言ってるところはオリジナルの英語版では「hasta la vista(スペイン語で"また会いましょう")」と言ってるんだそうです。で、スペイン語に翻訳する際にこれをどう対処したかとうと、なんとこのセリフを「sayonara!」という日本語に変えてしまったのだそうです。だからスペイン人はsayonaraという日本語だけは割とみんな知ってます。

何よりも残念極まりないのは大島渚の「愛のコリーダ」でして。"コリーダ"はcorrida de toros(闘牛)というスペイン語から持ってきたのに、スペイン語でのタイトルは"El imperio de los sentidos"という名前になっていて、corridaがどっかに行っちゃってるのです。なんでも、フランス語のタイトルをつけたときにロラン・バルトの日本文化論"表徴の帝国"(ちなみに。これ自体はすごく面白い本です。)をもじって"官能の帝国"という名前をつけちゃったのを、そのままスペイン語にしちゃったんだそうです。だから、スペイン語でも"官能の帝国"というタイトルになっています。例によってwikipedia様にその辺のいきさつが書いてあります。
その昔、語学学校で日本の映画の話になったときに先生が、「私が昔"El imperio de los sentidos"という日本の映画を見たことがあって…」という話を始めたのですが。最初は何の映画の話をしているのか全く理解できませんでした。でもそのクラスに日本人なんて僕しかいないから、しょうがないので頑張って話を聞いてみると。先生が「男のチンコを女が切り取ってしまう」という説明をしたときにようやく愛のコリーダのことを話しているんだと理解しました。そして"コリーダ"がスペイン語のタイトルには使われてないことに愕然としました。

というわけで。優れた芸術作品を作る人は外国語をよくよく考えて使いましょう。場合によっては本人も予想してなかったような残念な訳し方をされてしまいます。しかしなんでスペイン人は女体盛りとか阿部定とか、そんな偏った日本だけを映画で知ってるんでしょうかね。

2013年7月6日土曜日

自由と権利と嫌煙ファシズム

もう話題に出したり考えたりするだけでもゲンナリする橋本徹ですが。大阪市の職員相手に苛烈な煙草狩りをしているそうです。煙草一本で100万円ですか。この人はこれまでも自分の部下にあたる大阪市の職員や教育委員会などを相手に子供じみたケンカをふっかけたり苛烈な扱いをすることで自分を「正義の改革者」に見せるという手法をずっと続けてきたのですが。こんな「きたかぜとたいよう」のきたかぜみたいなことやって、市民サービスの質は改善されたんでしょうかね?職員を上手く使って働かせるのが市長の仕事なんじゃないかと思うんですが。部下とうまく付き合おうという気がそもそもこの人には無いですよね。人を使うのがヘタすぎるというか、自分が人をうまく使って仕事をさせるべき立場だという意識が本人に最初から無いんじゃないかと思うのです。子供じみたケンカを続けて自分を「正義の改革者」に見せるという「手段」の自転車操業的な継続が彼の目的になってしまってるように見えるのです。

しかし日本は嫌煙ファシズムがかなり市民権を得ている社会なので、刺青とかアンケートとかの過去の問題に比べると煙草狩りは職員側から強い反対が出にくいのんじゃないかと想像します。例えば市の労働組合にも嫌煙ファシストはある一定量いるでしょうから、喫煙者の権利を保全せよと足並みを揃えるようなことにはたぶんならないんでしょうね。
ここでまぁ、いつも通りスペインとの比較になっちゃうのですが。まず、スペインの方が日本より圧倒的に喫煙率が高いです。そしてスペインの方が圧倒的に喫煙者に寛容な社会です。僕が渡西した直後は飲食店内での喫煙が合法でしたが、2011年から飲食店も含めて公共空間での喫煙は違法になりました。この法律が施行されてから、さすがに飲食店の店内での喫煙は見かけなくなりましたが。その代わり屋外での喫煙には誰も特に文句を言いません。歩き煙草も普通にしてますし、吸殻のポイ捨ても当たり前のようにします(ただし、スペインには「街を掃除する仕事」をする人達がいて、吸殻や落ち葉をまとめて掃除してくれるようになっています。ある意味ポイ捨ては合理的なのです。)。

2011年の法律施行前に非喫煙者とバルやレストランでの喫煙について話していたときに、あるスペイン人が「確かに煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言ってました。たぶんもう説明する必要もないくらいだと思いますが、こういう物の考え方は日本の嫌煙ファシズムに致命的に欠けています。嫌煙ファシズムは副流煙の害などの科学的根拠を旗印として「吸わない人の権利」だけを主張するんですが。「吸う人の権利」に配慮する気がまるで無いように思います。
日本人に他人を許したり愛したりする習慣が全く無いことがこの違いを生む原因の一つだと思いますが。それだけでなく、欧州人(今回はアメリカを含めていい気がしないので除外)は自由や権利を行使することが大なり小なり他人の自由や権利を犠牲にすることだということをよく理解しているんだと思います。別の言い方をすると、世の中は譲り合い無しには成り立たないという合意形成があるのだと思うのです。「あなたの言うことには一つも賛成できないけれど、 それを言う権利は命にかえて守る」という教科書にも載ってるヴォルテールの言葉は、自由や権利の本質をとてもよく表現しているんじゃないかと思います。
欧州人には「自由」とか「権利」という概念の発生から、それを獲得するまでの歴史、そしてそれが自分達に先人から遺産として引き継がれていることが一つながりのコンテクストとして認識されているように思うのです。一方、日本人にとって民主主義とか自由とか権利とかっていうのは、ある日突然よそからもらってきた借り物の制度なんだなと思います。

煙草に話を戻すと。実際のところ日本では日常生活からはだいぶ煙草が隔離されている印象はあるんですが。でも、僕にとって煙草が迷惑だと感じる機会は実は日本の方が多いのです。というのも日本の居酒屋、飲み屋で煙草を吸う人がいるからです。せっかくそれなりにお高いお金出して美味しい食べ物を食べるときに隣で煙草吸われるとちょっとイラっときたりします。少なくともスペインだと屋内の席は禁煙で、煙草を吸いたい人は屋外のテラス席を利用します。だから屋内で食事中に煙草の煙に煩わされることがスペインでは無いのです。まぁこれはさすがに2年間スペインに住んでたおかげでだいぶスペインかぶれになってるせいもあるとは思いますけどね(歩き煙草くらい迷惑とも何とも思わなくなりました)。
さておき、スペイン人みたいにもっと他人に寛容になって譲り合って生きればもっと暮らしやすくなるのになといつも思います。これは煙草に限った話ではなく、いろんなことについて思うのですが。
嫌煙ファシズムって、日本人の「正義」を背にすればいくらでも苛烈で残酷な仕打ちができる恐ろしさとか、相手を愛したり許したりする能力の乏しさとか、「自由」とか「権利」に対する意識の低さなどなど、日本の嫌な側面ばかりを見るようで本当に悲しくなるのです。
副流煙に含まれる化学物質による健康被害よりも、僕には日本人の「他人を許さない態度」「結論から話さない、話が長くて分かってもらいたがりすぎ」なんていう性質も健康に良くないと思えるのですよ。こういう物って副流煙と違って影響が計量できないんでしょうけど、だからって野放しにしないでなんとかして欲しいと常々思ってるんですけどね。
最後に。昔煙草を吸ってた立場から言わせていただくと。嫌煙ファシストっていうのは往々にしてちょっと頭のよろしくない人であることが多いので。そういう人達を小バカにしなが吸う煙草がすごくうまいこと、そして、それが煙草部屋コミュニティの連帯をより強固にするということをここに書き残しておきたいと思います。

2013年7月1日月曜日

多崎つくるとアルジェリア人質拘束事件

今更ながら村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読了いたしました。ヨメが友達に借りたのをついでだから読ませてもらったというとても消極的な動機で読み始めたんですけどね。程よい長さで楽しくさっくり読めてしまいました。感想を書くとネタバレになる気がするので、どうしても気になる方は本稿の最後の方の不自然な余白を気にしてみてください。で、本稿において大事な事は、この本が前煽りでアナウンスされていたように、震災~原発事故と日本人の関係を意図的に描写しているように僕には見えたということで。そこから少し飛躍しますが、2013年1月のアルジェリア人質拘束事件の犠牲になった日揮の従業員に対する日本と日本人の反応について思い出したので今日はそれについて書きます。

まずは震災の話を。2011年3月。震災が起きた当時、僕はスペインにいました。あの事件から数日は、ネットのニュースから目が離せませんでした。ロクに仕事も手につかなかったのを覚えています。津波でいとも簡単に流されていく日本の街の映像に衝撃を受け、そして原発の事故で国土が全部汚染されて誰も住めなくなるんじゃないかと不安になりました。僕の家族、そして僕の帰る国が無くなってしまう不安で一杯でした。
あの時日本に居なかったという話をすると、たいていの日本人は僕に向けて「日本人の同胞としてみんなが経験すべき災厄からオマエだけ逃げた」という非難が少し混じった口調で「その後日本は変わったよ」と言うのです。具体的に何がどう変わったのかは説明してくれないんだけどね。。とにかく彼らはその場にいなかった僕に対して何かしら非難がましい口調になるのです。まるで自分達だけデスクイーン島で育ったとでも言わんばかりに。正直なところを申し上げると日本とスペインの違いがあまりに激しすぎて、帰国しても震災前後で日本が変わったとは僕にはあんまり分かりませんでした。だけど、帰国直後から僕が感じてる日本の住みにくさの一部は、もしかしたら震災以後にもたらされたのかもしれないですね。いや、そうであると願いたい。。

そして、アルジェリア人質拘束事件です。2013年の年明けに発生したこの事件のいきさつはについてはwebでいくらでも情報は入手できると思うのでそれを参照してもらうとして。僕が不思議に思ったのは犠牲になった日揮の社員に対する日本人の論調でした。当時首相(まぁこれを書いてる時点でも首相なんですが)の安倍晋三は7人の日本人が犠牲になった事に対して、企業戦士として世界で戦っていた人が命を落とし、痛恨の極みだ」と言っていました。僕は首相までがこんなこと言って大丈夫なんだろうかと思ったのですが、twitter等を見る限りでは当時大半の日本人はこの言説にほぼ「賛成、異議ナシ」状態でした。ここで「あれ?」って思ったわけです。
まず「企業戦士」という表現。これ、「企業戦士」とそれ以外では命の重さが違うと首相自らが言ってしまってるように見えるわけです。これは揚げ足取りでもなんでもなくて、日本政府としてパスポートを発給している限り、日本政府はすべての人を平等に扱うべきなのに、そんな意識がまるで無いことをあっさり宣言してしまっているわけですよ。さらに言うと、「戦士」という言葉が示しているように、この件を戦争とのアナロジーで取り扱うことを日本政府として公式に宣言しているわけです。
これはさすがにマズいだろう?と思ったのですが、twitter等では事件の犠牲者を「英霊」という言葉を使って美化するような人までいました。亡くなった方は「英霊」と呼ばれて祭り上げられるのを歓迎するのでしょうか?少なくとも残された我々にはそれを知る術さえありません。内田樹が言っているように、戦没者への供養の有り方は「我々は彼らがどのように供養されたいのか分からない」という謙虚さをまず持って臨むべきでしょう。

挙句、日本政府は政府専用機を出してまで彼らの遺体の回収に乗り出します。だけど、国外で亡くなった日本人なんてこれまでに沢山います。そのうちの何人かは不慮の事故だったりもするでしょう。今までそういった際に日本政府は亡くなった方の遺体回収のために何かをしたという前例は無いのに、なんでこのときに限って政府専用機を出したのでしょうか?
アルジェリアの事件で被害に遭った方はそれこそ「企業戦士」なので、彼らを送り込む側の日揮という会社もバカじゃないんだからそれ相応の準備は当然しているだろうし、彼らの遺体回収を実行するだけの能力が無いとは到底思えないし、日揮だってその責任があることくらいは理解しているだろうと思います。
例えばスペインという国では、学生ビザを更新する際でも「もしも死んだときには母国への移送費用をカバーする」という項目が契約に盛り込まれた保険に入ることが義務になっていました。海外への長期滞在者のための保険にはこのオプションが存在することを、海外に人を送り込んだりしている日揮という会社が知らなかったとは思えません。
かつて海外に在住していた者の率直な感想として、日本という国は僕が不慮の事故で死んだとしても絶対に政府専用機なんか出してはくれなかっただろうなと思います。そして同じ感想を「フリーランス」や「学生」、「芸術家」、「外国人と結婚した日本人妻」など、「企業戦士」ではない立場で外国に居住している日本人(僕の友達の大半がこのパターンでした)に与えただろうと思います。でも政府が本当に手を差し伸べるべき先は、遺体回収をする能力も資金も十分にある私企業の従業員ではなくて、何も頼れる物が無いまま海外で亡くなった力の無い日本人なんじゃないでしょうか?
その昔、戦時下のイラクにわざわざ出向いて行って人質になった日本人の開放のために日本政府が身代金を払った際には、人質になった日本人に対して非難の声が上がったのを覚えているのですが。人質になった人はともかくとして、少なくとも日本政府の対応としてはそれが正解だったと僕は思います。社会の論調はさておき、日本のパスポートを持っている以上、仮にどんな最低の人だったとしても助けるのが道理だと思います。

以上の通り、アルジェリア人質事件への日本人および日本政府の反応は僕には常軌を逸しているように見えました。だけど政府の対応を非難する言説はtwitterを見た限りではほとんどありませんでした。このときの僕の率直な感想は、「今、日本人は『悼む』という作業に熱中したいんじゃないだろうか?」ということでした。そして、そこまで彼らを駆り立てた物はなんなのかというとやっぱり原発事故なんじゃないかと思えたのです。
原発事故について振り返るときに、日本人は「原発の作る電気に依存する生活を享受してきた」とか「原発を推進している自民党が政権与党である世の中を許容してきた」といった自己批判に必ず直面せざるを得ません。しかも原発事故の直接のキッカケは地震と津波という自然災害です。相手が人ではなく自然災害だと具体的にそれを「悪」として憎むことができないんじゃないかと思うのです。つまり、津波や原発事故について振り返るときに、日本人は必ず自己批判を伴い、そして怒りを向ける先の犯人もはっきりしないのです。
それに対してアルジェリア人質事件の場合は、日本人は何の自己批判や痛みも伴わずに「悼む」という作業に没入できたのだと思います。イスラム原理主義なり、外国なりを「悪」として憎んで、そんな悪によって損なわれた被害者の方を、こういっては大変失礼ですが、日本人は「安心して悼める案件」として扱っていたように僕には思えるのです。
そして。繰り返しになりますが、彼らがここまで「悼む」という作業に耽溺したがった理由というのは、津波や原発で亡くなった人について「悼む」ということを自己批判の辛さのために十分に行えないままであることや、あれだけの災厄をもたらしたにも関わらずまた原発を動かそうとしていることへの罪悪感なんじゃないかと思います。


多崎つくるについてのネタバレ的考察
これは震災とそれに対する日本人の接し方を描くことを、少なくとも一つの意図とした作品だと思います。非の打ち所の無い美人でピアノの上手な「シロ=ユズ」は現代科学の粋を凝らして作られた原発そのものの象徴として描かれています。「シロ=ユズ」は最初から「全てが完璧なんだけどいつか壊れてしまうことが約束されている物」として描かれています。
そして、彼女はやがて誰なのかもわからない巨大な悪によって損なわれて、最後は殺されてしまいます。これは津波を象徴するものです。
彼女以外の残り4人は原発事故と日本人の関わり方を示しています。彼女がいつか壊れていく存在であることを薄々理解していたはずなのに5人組のグループを謳歌していた彼らが持つ罪悪感、壊れて行く彼女をなんとかしようと頑張ったけどどうにもならなかった無力感、などなど。特につくるとクロは罪悪感を募らせた先に自分がシロを殺したのではないか?という強い意識を持っています。彼らは原発という物がいずれ問題を起こすことをなんとなく分かりつつも原発に依存した生活を謳歌していた日本人であり、原発事故が起きた後に罪悪感や共犯意識を募らせながらもそれぞれなりに折り合いをつけて生きていこうとする日本人でもあります。