2014年11月3日月曜日

妖怪ウォッチと能

先日、姉が甥っ子達を連れて実家に帰省(別に込み入った話ではなく、単純に子供が小学校に上がって気楽に帰省できなくなる前に子連れで帰省したかったそうです。念のため。)してきたので、そのタイミングにあわせて久々に実家に帰ってみました。4歳と6歳になる甥っ子達は妖怪ウォッチ(と昆虫)に夢中らしく、聞いてもいない妖怪ウォッチのキャラ(コマさんが一番人気だとか)の話を散々聞かされたり、ようかい体操第一の振り付けを無理やり一緒にやらされたり、"肉球百烈拳"(ジバニャンの必殺技だそうです)と叫びながらポカポカ殴られたりしてきました。
甥っ子達の話を聞いていると、ジバニャンは交通事故で亡くなった猫の自縛霊だとか、大人目線で考えて「子供相手のアニメにそんな設定を盛り込むのか?」と思うような事が沢山盛り込まれていたので、とりあえず妖怪ウォッチを一度見てみることにしたのですが。いやはやこれが結構面白いんですよ。そして、妖怪ウォッチは「妖怪=この世ならざるもの」のもたらす災厄を呪鎮するという意味で、能に極めて近い存在なんじゃないのかという事を考えたのですね。というわけで、今回は久しぶりに文句ではなく割と楽しい話です。

まず。最初に申し上げますが、僕が言いたい事は例によって内田先生の受け売りです。これを読んでもらえれば、妖怪ウォッチが能と同じ機能を果たしているという事はご理解いただけるんじゃないかと思います。
一回しか生で能を見に行った事の無い僕が言うのもどうかと思うくらいおこがましい事ですが、能の多くの作品は妖怪や怨霊などこの世に災厄をもたらす存在を鎮めるという物語にになっています。このような「この世ならざるもの」のもたらす災厄を軽減するために能は上演されてきたわけです。
妖怪ウォッチのアニメも基本的にはこういう話になっているように見えました。ただし、妖怪のもたらす災厄を鎮めるための方法として、ポケモンのように友達になった別の妖怪をぶつけて解決するのが基本なのです。この辺はさすがに妖怪ウォッチは元々はゲームから始まってるので能とは違っていて、ポケモンや女神転生、古くはゴジラvsモスラのような「この世ならざるもの同士の戦い」の形式をとっています。

たぶん京極夏彦とかいろんな人に言い古されているだろうと思うのですが、妖怪というのは日本人のアミニズム的な霊的感受性が生み出した伝統文化なんだと思います。中世には妖怪画というジャンルが存在して多くの妖怪画が描かれていますし、そこからゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチに到るまでいつの時代にも妖怪は大衆文化のモチーフとして身近な存在でした。
wikipediaによると、妖怪はこのように説明されています。
自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。
この感性って科学が発達した現代になっても日本人には「血」のように受け継がれていると思うのです。

「表面的に器用だけど内面的に不器用」な日本人の「内面的な不器用さ」の源流の一つであるアニミズム的な感性を前面に打ち出した妖怪ウォッチのようなアニメが子供の間で流行っていることを深読みしてみると、世界のグローバル化という趨勢に対するカウンターとして日本人独自の感性への回帰という志向が見て取れるような気がするのです。
ポケモンも十分アミニズム的といえばアミニズム的(あれって言ってみれば精霊とかそういう類の、架空の動物ですよね?)なのですが。ポケモンって外国人にもまだ咀嚼可能なレベルだったんじゃないかと思うのです(本当にポケモンが海外で大人気だったのか、僕はやや疑わしいと思っていますが)。しかし、妖怪ウォッチはアミニズム的な感性を持つ国々(たとえばインドネシアなど東南アジアの国々)でさえ咀嚼できるか怪しいんじゃないかな?と思うのですよ。