2013年8月28日水曜日

あだち充の漫画の"間"は外国人に理解できるか?

とりマリの「当事者対談」 マンガ家にもクールジャパンにひとこと言わせろという記事を読みました。クールジャパンって簡単に言うと「ガイジンにウケそうな日本の文化っぽい物をセットにしてクールジャパンって名前にして、外国に売り出そうぜ」と言っているのだと思うのですが。この一番の問題は”市場原理”を国家の文化政策にそのまま導入しちゃったことなんじゃないでしょうか。「ガイジンにウケそう、カネになりそうな物だけをプッシュする」という国策は、自国の文化の有り様や価値を自己評価することができないと公言することで、日本という国を自己毀損しているようにしか僕には見えないのです。
内田樹風に言えば、そうやって外国の顔色を伺うことでしか自分達の有り様を判断できないということそのものが辺境人たる”日本人の民族的奇習”であり、クールジャパンはうっかりそんな日本人の民族的奇習まで世界に輸出しようとしているように僕には思えるのです。

さておき、上記の対談記事ではラテン国家間でも国によってアニメの受容が異なるという、非常に面白いことに言及されていました。確かにクレヨンしんちゃんはスペイン人には大人気です。スペインに住んでた当時、スペインのテレビで唯一見れる日本語コンテンツがクレヨンしんちゃんでした。他のアニメは全部吹き替えされてるのに、しんちゃんだけはなぜか吹き替えと字幕だけの物が半々だったのです。そして、スペイン以外の国ではどうやらクレヨンしんちゃんは人気がありません。
たぶん、クールジャパンとか言ってる人達はこういう細かい国民性の違いみたいなのにちゃんと配慮する気は無いんじゃないかと思います。だって「ガイジンにウケそう、カネになりそう」というのは都合のいい”ガイジン”像を想定できるくらいデリカシーが欠如してないと考えつかないですから。

上記の対談記事で最も気になったのは「イタリアでアタックNo.1のスポ根は許容されるか?」「萌えが輸出できるか?」というところです。僕の直感的な印象として、スポ根と萌えは儒教国家ならまだ理解される余地があるかもしれないけど、それ以外は無理なんじゃないかな?と思うのです。
だからアタックNo.1がイタリアで人気だったとしても、それはバレーボールがイタリアで人気だからというだけなんじゃないかな?とか、インドでは巨人の星をクリケットに置き換えたオリジナル作品(ちゃんとギプスまではめてるらしい)が作られてるのも、スポ根に対する需要というよりはクリケットに対する需要なんじゃないだろうか?とか色々思うわけですよ。
他にも、日本の漫画で外国人に理解されなさそうな物って結構あるように思うのです。
・アンパンマン:アンパンマンの「顔を食べさせる」という仏教っぽい雰囲気がたぶん理解されない。
・あだち充:あの独特の"間"というか全体的に白くて余白のある空気感が外国人には理解され辛い気がする。
・吉田戦車:たぶん彼の作品の面白さを理解できる人の方が世界的にはマイノリティだろうと思う。

”文化”の定義の一つに、「ある人には当たり前だけど、他の人にとっては当たり前で無いこと」というのがありますが。この先には「当たり前じゃないけど、受容される物」と「理解不能で全く受容されない物」があります。前者はそのまま「文化」として扱われるでしょうが、後者は「奇習」としてキモい扱いされる可能性を十分に孕んでいます。クールジャパンは”文化”を発信するつもりなのでしょうが、うっかり一緒に”奇習”も発信しようとしています。そしてこのクールジャパンの放つトホホ感というかマヌケさもわが国の”奇習”の一つですよね?天国のナンシー関先生?

とりあえず”萌え”だけは本当にキモい扱いされて終わるだけだと思うから引っ込めて欲しいんだけどな。。

2013年8月25日日曜日

「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」から「世界はこんなにたくさん日本人を必要としていない」へ

派遣社員の規制緩和が検討されているようです。趣旨としては「派遣社員の雇用の安定化」とか言ってはいるんですが。もう少し掘り下げて言うと、「もう日本は派遣社員なしでは立ち行かない」「みんなが正社員という世の中を維持するのはもう無理だから、せめて非正規雇用をパートやアルバイトではなくなるだけ派遣社員にしよう」と言ってるようなのです。でもこれって小泉以降の規制緩和路線そのものであり、結局のところ雇う側にとって都合の良い方向に向かうんでしょうね。
終身雇用モデルで雇用される人はこの先益々減っていく方向に向かうでしょうし、この終身雇用モデルによってある程度支えられてた均一な社会も崩れて格差が拡大する方向に向かうことでしょう。

「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」というのは、10年ほど前に田舎の製造業のわが社に就職したときに直感的な印象でした。当時、製造は海外シフト可能な物はひとしきり海外シフトが完了していて、プログラムなどの開発業務もインドに外注できるか?とか言い出してたところでした。社会の授業で習った「産業の空洞化」が生産だけでなく開発にまで及び始めた気配を感じたのでした。当時社会問題になりはじめていたニートや引きこもりという人達は、たぶんこういう空気に敏感な人たちなんじゃないのかな?なんて思ったのを覚えています。
あれから10年。経済成長の伸びしろがいよいよなくなってしまった中で利益を確保するために、企業はどんどんなりふり構わなくなりました。たとえば追い出し部屋を構えて陰湿なリストラを始めたり、妊娠した女性社員を退職に追い込んだり(マタハラっていうらしいですね)、低賃金で自殺に追い込まれるくらいの激務を強いるブラック企業が問題になったり…こういった現象は日本式の終身雇用モデルの終焉とかっていうレベルの話じゃなくて、単純に「社会がこんなに日本人を必要としていない」ということがより顕在化してきたんじゃないかと僕には見えるのです。ここでいう「日本人」というのは、より厳密には「これまでの日本人の生活水準を維持して暮らす日本人」のことです。

一方で、日本という国そのものに対する帰属意識の希薄な”グローバル企業”が台頭しめはじめました。ユニクロの会長は世界同一賃金を導入することで、仕事に付加価値がつけられない人は年収100万円になるのも致し方無いと言ってるのですが。これってつまり、「替えがきく=誰でも出来る仕事は年収100万円の奴にやらせればいい」とあからさまに言ってるわけですよね。これから途上国にどんどん展開していこうとする”グローバル企業”としては、誰でも替えがきくような日本人に対して日本人としての給料払うよりは、今後成長が見込める途上国の優秀な若者を日本人並みの高給で釣る方がメリットはあるのでしょうね。
英語を公用語化しているところからも分かるように、最早ユニクロは彼ら自身を”日本の企業”だと思って無いんでしょうね。良い悪いはさておき、”グローバル企業”というのはそういう物なんでしょう。彼らが言ってるのは「日本はこんなにたくさん日本人を必要としていない」ではなく、「世界はこんなにたくさん日本人を必要としていない」ということなんだと思います。
さらに日本はTPPに加盟しようとしてるんですよね?EUが"ヨーロッパ"という共同体幻想を背景に共有しているのと違って、TPPは文化的な背景が全然違う国同士が参加しているので、コケるか或いは自由貿易協定に毛の生えたもので終わるような気がしているのですが。ともあれ日本に移民が沢山入ってくるのはおそらく避けられないだろうと思います。


この先の日本という国の姿をちょっと予想してみると。

A. 欧州の先進国のようになる:日本国民の間でも格差が拡大する上に、貧しい日本人はより貧しい国から来た移民に仕事を奪われる。貧しい日本人は移民排斥を訴えて右傾化する。

B. そこまで変わらない:日本語という難易度の高い言語や、日本人のムラ的な閉鎖性が障壁になって、貧しい日本人にも一定量の需要が発生する。格差はありながらも今とそこまで変わらない。

どっちにしても排外的な傾向が加速する気がする。今のところ日本では、自民党の規制緩和路線によって発生した社会的弱者が右傾化して安倍政権を支持していることで奇形的な安定を得ていますが、いずれ血盟団みたいなのができて安倍や柳井や三木谷みたいな”グローバル企業推進派”を襲うような事になったりするんじゃないだろうか?

あと、他に有り得る可能性は

C. 貧しいけど共産的な農耕社会になる:”グローバル企業”が当たり前になった結果、日本人のエリート層は日本に縛られる意味を見失って海外流出。元から資源が無い上に産業まで無くなった日本に残された日本人は、貧しいながらも牧歌的な農耕社会をつくる。

どっちにしても、日本人の表面的な器用さと内面的な不器用さがどんな結果をもたらすのか、予測は困難を極めます。

2013年8月18日日曜日

「風立ちぬ」を見てきました

夏休み最後の思い出にと、「風立ちぬ」を見てきました。
一言で感想を申し上げると、前評判どおりこの映画は宮崎駿の「遺作」だと思いました。だってもう、好き放題やってるもん。新作を出す度に家族みんなで見に行くことが国民的行事になってしまった宮崎駿の映画は「家族で見に行ける」、「子供が見て楽しめる」といった制約の下にこれまで作られていたんだと思いますが。「風立ちぬ」はあからさまに子供が見ることが想定されていません。前評判で、子供が途中で飽きて映画館で走り回るという話を聞きましたが、そりゃそうなるよなと見て納得しました。
この映画は「コテコテの映画」なので、見るなら絶対に映画館で見るべきだと思います。映画が終わって席を立つときには宮崎アニメ特有の浄化作用みたいなのを感じたと同時に、飛行機に乗って空を飛びたくなりました。

--------- ここから先は映画見た人向けに書いてあります ----------

「風立ちぬ」の画面には、大正~昭和の日本の風景、乗り物(特に飛行機)、キレイ事だけでできたラブストーリーなど、宮崎駿の好きな物だけが出てきて、宮崎駿の好きなように展開します。「もう最後なんだから好きにやらせてくれ」と言わんばかりの好き放題ぶりです。そりゃこんだけ好き放題やって、自分が一番感動するような映画を作ったんだから完成したのを見て泣いたりもするでしょう。

特に、「女」の描き方の都合良さは男の僕が見てもどうかと思うくらいでした。普通に考えたら「アタシとヒコーキどっちが大事なの?」となると思うのですが(そういや「私の彼はパイロット」っていう、そのままの歌詞の歌があったな)。「文句一つ言わずにけなげに尽くす、弱くて、まもってあげたい」という、男目線で都合のいい女だけが描かれているのですよ。もちろん宮崎駿だって本当はこんな都合のいい女なんていないことくらい分かってると思いますが。「そんなことわかってるよ、でもこうしたいんだよ!」と宮崎駿は言ってるような気がします。
そして、ジブリ映画でたぶん最初で最後の濡れ場「来て…」ですが。僕もここは顔が思わずニヤけてしまいました。隣で見てたヨメも顔が半笑いでした。あとでヨメに聞いてみたら、「あそこは『キモっ』て思った」とすっかりドン引きしたそうです。これまで「性」なんていう物とは無縁のキレイ事の世界を何十年描いてきた宮崎駿が最後の最後で繰り出した濡れ場シーン。しかも100%男目線の都合だけから出てきたとしか思えない「来て…」というセリフ。のこのこやってきた親子連れをさぞかし凍りつかせたことでしょう。
だいたい、男女の間で恋が芽生えて成就するまでのネチネチしたプロセス(女子目線で見るとこっちの方がたぶん重要で、少女マンガってそこだけを基本的に描いてるのだと思うのですが。)に宮崎駿は全然関心が無いように見えるのです(宮崎駿の言い分としては「風が二人を結びつけた」なんでしょうが)。再会して数日でもう「結婚しましょう」にしちゃって、その後の「仲睦まじく愛し合う二人」っていうところだけただ描きたかったんだろうなという風に見えました。

「風立ちぬ」は宮崎アニメでは珍しく、主人公が男です。僕が思いつく限り主人公が男の宮崎アニメは「紅の豚」くらいですが。ポルコ・ロッソの比ではないくらい、「風立ちぬ」の二郎にはあからさまに宮崎駿自身が投影されています。禁煙ファシストに槍玉にあげられるくらいやたら煙草吸うのも、またそれがチェリーなのも宮崎駿そのままです。どういう経緯で庵野秀明が二郎の声をあてることになったのかよく分かりませんが、彼を後継者として意識していること(「ナウシカは庵野がやればいい」と宮崎駿は言ったそうな)と全く無関係ではないだろうと思いました。

「風立ちぬ」という映画の中で、風は帽子やパラソルや紙飛行機を飛ばしたりして出会いを作ったかと思ったら、風と一緒に空を飛んだり、風の中で機体がバラバラになったりします。もっと言うと、結核菌や米軍の爆撃機も風に乗ってやってきます。この映画での「風」というのは言うなれば「運命」とか「天命」とか、宗教的な言い方をすると「神」という言い方もできるでしょう。「風が吹いている限り生きねばならぬ」というのは、「天命がある限り、生きてる素晴らしさを味わって精一杯生きていきなさい」ということなんじゃないかと思いました。
これって漫画版ナウシカの結論と同じ事を全然別の映画を通して言ってるように僕には見えたのですが。だったら「庵野がやればいい」とか言わずに、自分の手でナウシカを最後まで全部映画にすればよかったんじゃないかなー。と、宮崎アニメとの出会いがナウシカだった世代としては思ったりもするのですが。まぁでも、漫画版ナウシカの残り全部を映画にするには普通の映画二本分くらいの長さにはなるのでそれを今自分がやるのはやっぱり無理って思ったんでしょうかね。

ともあれ長年お疲れ様でした。

って言ってて、もののけ姫の後みたいにまた引退撤回して結局復帰してくるなんていうこともあるかもしれないけど。。

2013年8月15日木曜日

終戦の日です

終戦の日です。
昨年の今日、僕はスペインで観光客の韓国人(日本に留学経験があるらしくて、日本語ペラペラだった。)とたまたま知り合いになって一緒にバルでごはん食べてました。「韓国では光復節っていうんだっけ?不思議だよねー。こんな日にスペインで見ず知らずの日本人と韓国人がメシ食ってるのも。」と一応話題にしてみたけど、彼は日本にも留学経験があるのでさすがにかなり柔軟な人のようでした(不慣れなスペインでご飯の面倒見てもらってるので遠慮してたのかもしれませんが)。李明博の竹島上陸についてかなり冷ややかなコメントをしていたのを覚えています。
その一年後の今日。安倍晋三は結局靖国に参拝しないようですね。一時期勢いのいい事言って右寄りの日本人を煽ってたけど、アメリカにすごまれるとあっと言う間に聞き分けのいい子になっちゃいましたね。判断としては正解ですが、彼の「中身が空っぽのおぼっちゃん」ぶりが改めて露呈してしまった感は否めません。安倍晋三って、背中にでっかい電池が入ってて、岸信介の亡霊がリモコンで操作してるんじゃないかと思うくらい彼自身が空っぽに見えるのです。だから、彼が右寄りの威勢の良いこと言ってても、「この人本当にそんなこと思ってるのかな?」といつも首をかしげてしまうのです。

さて。そんなこんなでどんどんこじれていく一方の中韓との歴史認識問題ですが。例えば従軍慰安婦や南京大虐殺に関して日本と中韓との間で相互に「事実はこうだった」という共通見解にたどり着くことはもう無理なんじゃないかと思うのです。この手の話題になると、例えば橋本徹などは「旧日本軍が従軍慰安婦に組織的に関与していた証拠は無い」と言ってたり、一方韓国では先日「旧日本軍が組織的に関与していた証拠が見つかった」と報道があったりするわけです。このどちら側も「事実は一つだけ」という前提で「何らかの根拠を提示した上」で「自分が正しい=相手が間違ってる」と言っている、つまり、両者は主張自体が対立してるだけで問題に接する態度は完全に相似形を成しているわけです。
ではこの両者が時間をかけてお互いの根拠を付き合わせたら何かしら同じ歴史認識にたどり着くかと言うと…それはたぶん有り得ない思うのです。もう、この文脈で言いたい事は内田樹の受け売りになので、ここから先はちょうどその部分だけwebに貼り付けてあったのを読んでください。こういうことです。 

芥川龍之介の「藪の中」という小説もこういうことを描いている一例だと思います。男と女が藪の中で盗賊に襲われ、結果的に男は殺される。だけどその結果に至るまでの説明が当事者の男、女、盗賊それぞれに三者三様で、結局何が本当に起きたのか分からない。「事実」っていうのはこういう物なんじゃないでしょうか。
「事実は一つ」を頑なに信じていると、相手の言ってることが一つでも「事実」でないと判断するとすぐにウソつきよばわりして全否定に向かってしまうと思うのです。例えば、よくある「南京大虐殺はウソだった」説の論拠の一つに「南京の当時の人口は10万人程度だったのにどうやって30万人も殺せたのか?」というのが挙げられるのですが。仮に30万人という数字が事実ではなかったとしても、「南京大虐殺」があったかなかったかというのはまた別の問題だと思うのですが。ネットでよく見かける嫌中とか嫌韓の人ってこういう矛盾を一個でも見つけるとすぐに「あいつらはウソつきだ」と全否定しにかかるように思うのです。

以前、慰安婦発言を「恥の文化」「罪の文化」という観点で考えてみるという投稿で、右寄りの人が戦時中の日本を擁護する際のロジックは「日本も悪いことはしたけど他国に比べればマシだった」とか「他国も同じようなことをやっていたのに日本だけが非難されるのはおかしい」という相対的な比較の話になりがちだということについて書いてみました。また、内田樹は「日本辺境論」で、右寄りの人達が採用する大東亜戦争肯定ロジックはだいたい「ABCD包囲網によって資源封鎖されて戦争をせざるを得ないところまで追い込まれた」といった被害者意識(ここにその箇所の抜粋がありました)に論拠していると指摘しています。
彼ら、右寄りの人達の言う事のいくつかはなるほどと思うことも無くは無いのですが。だからといって当時のアジアの国々の人が日本に侵略されることを諸手をあげて歓迎してたなんてことは絶対に無いでしょう。そして、程度の大小はあれど南京大虐殺や従軍慰安婦への軍の関与はあったことは間違いないでしょう。日本が侵略しなければ起きるはずもなかったこれらの問題に対して、ある程度は非を認めて謝るくらいのことは日本はするべきだと僕は思うんですけどね。

2013年8月13日火曜日

夏休みの憂鬱

開設当初に比べると更新頻度がだいぶ落ちてきましたが。細々ながら続けていくつもりです。

サラリーマンの僕はお盆休みです。帰国したのが昨年の8月末だったので、日本で夏休みというのを取るのは実は3年ぶりだったりします。で、3年ぶりの日本の夏休みですが…無いよりは勿論あったほうがうれしいんですよ。一週間も仕事がお休みなんて有り難い話だと思います。でもね。なんかあんまりうれしくないのです。。というのも、
・暑い : 北海道、東北、避暑地以外はわざわざ出かけたいという気になれないくらい暑い
・人が多い、混雑 : 一斉にお盆休みに入るのでどこ行っても人が一杯で交通機関はどこも混雑する
・高い : まぁ、そんな状況だから当然お盆時期の旅行は高いですよね。しかもマトモなところは予約がすぐ埋まるし。
・行きたいところが近場に無い : 旅行で行きたいのはヨーロッパかスペイン語の通じる国なんですが、どっちも遠いし高いのでわざわざ夏休みに行く気にならない
以上の理由により、日本の夏休みってあんまり楽しい気分になれないのです。かといって、丸一週間休みをもらっておきながらどこにも行かないというのもなんだか気が咎めるので、昨日まで2泊3日で近場の長野に行ってきました。これで今年の夏休みのお出かけは終了です。もう少し達観して「どこにも行かないけどそれでいいじゃん」くらい言えるといいんですけど、その境地にはまだ達することができません。

また例によってスペイン…の話なのですが。バカンス(夏休み)を2週間とか3週間とか取るのは本当の話です。不況で仕事が無いとか失業率50%とか言いつつも、バカンスはしっかり取ってる印象があります。夏休み明けに日焼けしていない白い肌だと「かわいそうに、仕事が忙しくてバカンスにいけなかったのね」と普通に言われるそうです。僕は言われたこと無いけど、在住日本人でも美白派(美白をやめて、スペイン人のようにガンガン焼く方向に向かう人もいます)の女性は夏休み明けにこの攻撃にさらされることがあると聞いたことがあります。
そして、たぶんスペインだけでなく、ヨーロッパ全体が同じような仕組みになっています。例えば、夏休みにフィンランドの人とスペインの人が互いの家を何週間か交換してバカンスを過ごす…なんていうことも普通にあるそうです。日本人の感覚からするとそんなに長い時間家の外にいるとお金がかかってしょうがないと思うかもしれませんが、長期滞在向けの別荘を借りたり、上述した家の交換なんかをして自炊して過ごせば、そんなにお金をかけなくてもバカンスは楽しめるそうです。

てなわけで、スペインに滞在中に二回ほど夏休みをスペインで取るチャンスがあったのですが。三週間も休みがあるからってスペイン人みたいに長いバカンスを取ったかというと…これができないのですよ。
スペインに在住できる期間は最初から決まっていたので、その間にヨーロッパのいろんなところに可能な限り行きたいとは勿論思ってました。でもだからと言って、例えばパリ→ベルギー→オランダ→デンマークみたいに数日ずつ滞在して観光するだけの旅行を続けると、移動が多くてお金がかかる上に毎日観光してるのでなんだか疲れる旅行になっちゃうのです。
さらに、いくらスペインに在住してたとはいえ、5日くらい家の外に居続けるとだんだん疲れてくるのです。在西当時も普段の生活では最低一日一食くらいは自炊した日本食を食べてたのですが。さすがに5日くらいの間自宅を離れてると日本食がすごく食べたくなるのです(大体旅行から帰ったら茶そばとアボカドの刺身による”緑一色御膳”を食べてました)。
じゃぁ、ヨーロッパの田舎のどこかに日本食材も持ち込んで数週間ゆっくり過ごす…というのもこれまたなかなか辛いのです。だって、「何もしないでいる」という能力が求められるからです。スペイン人(や多くの欧州人)のように安息日=日曜日はお店も閉まってて徹底的に何もしない文化で育ってると「何もしないでいるバカンス」というのも出来るのかもしれませんけど、僕には無理でした。
そもそも、そんなに長い休みをもらえた経験がこれまでに無いので、二週間もの間ずっと旅行するということを積極的にやろうと思えなかったのです。結果として、夏休みというのは3,4日で帰ってくる旅行を二つ(例えばスイスに3日、ギリシャに4日など)ほどするだけで、あとの時間は何していいのやらよく分からないまま過ごしてしまいました。

そんなにみんなが長い夏休みとって社会が回るのか?と思うかもしれませんが。確かに7-9月の夏休み時期は欧州の社会全体の生産効率が明らかにに落ちてます。でもこの時期は個人経営のお店も一ヶ月閉まってたりするのが普通で、夏休み時期に社会全体の効率が落ちることが当たり前なのです。不況なのに?と思うかもしれませんが、不況だからってがむしゃらに働こうとかそういう風にはどうやらスペイン人は考えないみたいです。むしろ仕事がすくないんだったらゆっくりバカンスを楽しもうとか、そんな風に考えるようです。僕の職場だったところはスペインの中でも特に極端で、8月の間3週間エアコンが止まる=実質職場に誰も来ないようになっています。昔はそんなことしなかったらしいんですが、経済危機以降はアレもコレもコストカットになって、結果として夏休みは3週間エアコンを止めることになったそうです。
夏休みをとるタイミングは日本みたいに一斉ではなく、交代で休みを取るのが一般的なんだそうです。だから日本みたいにお盆になるや否や猛烈な勢いで大移動をしたりすることもなく、何ヶ月も前から手配しないと観光地の宿が取れないというようなことは無いようです。そして、この時期は基本的に日本より寒いヨーロッパを旅行するのに丁度よい時期です。

最後に少々恨み言を申し上げると、日本の夏休みはせめて時期を前後にずらして取れるようにしてもらえないですかね?そうすればせめて「人が多い・高い」という問題だけでも緩和できると思うのです。お盆というのが重要な先祖供養の儀礼であることは勿論分かるので、それを大事にしたい人は今までどおりのお盆に休みをとればよいと思うのですが。すっかり核家族化が進んだ昨今では、お盆時期の休みじゃないといけない理由が無い人はずらして取れるような制度にせめてしてほしいと思うのです。僕はたとえ一日休みが少なくなるとしても一週間ずらして取りたいです。
当然、一斉にお盆休みを取る現行のシステムの方が会社には都合は良いんだとは思います。でも、欧州のように「交代で休む」ということができるのは、言い換えると「互いの不在をバックアップしてやりくりする」ということが可能なシステムなわけです。一つでも歯車が欠けるとシステム全体が機能不全に陥るとでも言わんばかりの日本式だと、働く側が歯車として常に100%機能し続ける事を求められます。
やや飛躍しますが、日本で育児と仕事の両立が難しい原因の一つってこういう「歯車として100%機能することを常に求められる」という労働風土なんじゃないかなと思うのですよ。もちろん夏休みを取る時期をフレキシブルにするだけで働く女性の育児との両立が解決できるとか、そんな簡単な問題だとは思っちゃいませんが。お互いの都合に可能な限り配慮して補い合えるような労働風土の確立が、こういう状況を少しでもマシにしていく一助にはなるのではないかと思うのです。