2019年12月19日木曜日

東大王と大学入試問題

大学入試問題がいっこうに収束する気配がありません。英語民間試験の導入見送りが決まったところで話が収束するかと思いきや、今度は新共通テストにおける国語と数学の記述式問題の導入が見送りになったそうです。マスコミは安倍政権の不祥事についてかなり及び腰な報道しかしない印象があるのですが、それに比べるとこれら一連の大学入試関連の問題についてはマスコミも割と積極的に切り込んでいるように見える気がするのは、たぶん気のせいではないんだと思います。

さっきテレビ見てて、なぜそうなるのか少しだけ分かった気がしました。「東大王」などの学歴クイズ番組はある時期を境にテレビで頻繁に見るようになり、いい加減みんな飽きてもよさそうなのに結局今に至るまで結構長く続いています。たかだが18歳くらいのときのテストの点数だけで人の価値は決定づけられ、その格付けが生涯に渡って有効であるという信仰がこの国には広く共有されているわけです。だからこそ、その格付けの基準が迷走することは日本人にとっては看過できないことなのではないでしょうか。

学歴に限らず、日本人はとにかく点数をつけられて序列されるのが好きというか、そうでないと安心できないのというところがあるのではないでしょうか。例えば東大王と同じくらい、早く世の中から無くなってほしいと僕が思っている物の一つに「点数の出るカラオケの点数を競う番組」というのがあります。この手のテレビ番組も、なんだかんだでここ数年に渡って廃れずに盤石のポジションを築いていますよね?「ヘタウマ」なんて言葉もあるように、歌の上手い下手なんて機械で判断できることには限界があるのくらいみんな分かりそうなものなんですけどね。

日本の大学システムの話に戻りますが。日本の大学システムについて「今すぐこうすればよい」という分かりやすい提言はできないですが、せめてその対極にあると思われるスペインの大学の事情について少しだけ紹介しようと思います。まず。スペインでは大学というものの数が日本で言うところの国立大学くらいの頻度でしか存在しないため、大学に行くということ自体がそこそこエリートだけになります。そして何より、スペインでは大学の間に明確な序列がありません。スペインでは成績のよい人ほど学部・学科の選択の自由度が高いので、成績の良い人が特定の学部・学科に集中しやすい傾向はあるそうですが、大学単位での序列という概念がほとんどありません。

率直な感想として、日本の大学もスペインみたいな感じでいいんじゃないのかな?と思います。スペインでは大学自体がそのように学力レベルの異なる人が一緒に学ぶ場になっているわけですが、日本だって会社に入ったら学歴の観点では一流大学から三流大学まで色々な人がいるでしょう?だったら、大学そのものにも序列を作らないスペイン方式でいいんじゃないでしょうか?

2019年11月24日日曜日

大学入試にスピーキングを取り入れたくらいでは問題は解決しない

大学入試への民間試験導入問題について、大臣による「身の丈」発言の後もどんどんお粗末な利権構造だけが明るみに出てくる…という状況でこれを書いています。この件について、だいぶ今更感はありますが、思ったことをいくつかしたためてみようと思います。

 テストで点を取るための「お勉強」として取り組むから、日本人は英語ができない
「勉強=やらされるもの」という枠組みの中のアイテムの一つだからこそ日本人は「英語ができる」ようにならないのではないでしょうか。大学入試を変えれば「英語ができる人」が増えるというのは、あまりにナイーブで牧歌的だと言わざるを得ないです。問題への対策をしているようで、問題の原因を反復生産しているだけ、という日本型エリートがやりがちな話のような気がどうしてもするのです。

大学は就職予備校ではないので、大学入試では大学で必要な資質だけ問えばよい
「英語ができる人」を増やしたいのはわかった。では、なぜその解決を大学入試に求める必要があるのでしょうか?例えば数学でも物理でもそうなんですが、大学入試で問われているのは大学での研究を行う上で必要な基礎的な知識です。英語だって大学での研究を行う上で必要な基礎的な技能だけを入試で評価すればよいだけなのです。大学での研究においては、まず文献を「読む」ことが必要なわけで、スピーキングの能力なんて学部レベルでは後回しでよいのです。スピーキングの能力が要求されるのはせいぜい修士以降ではないでしょうか。本当に「英語ができる」必要があるなら、ダブルスクールなり留学なり、手段はいくらでもあります。全部大学入試に求めようとするのがそもそもおかしいです。

そもそも外国語でのコミュニケーション能力をテストで計量するには限界がある
じゃぁ逆に、スピーキングさえできれば日本人は「英語ができる」ようになるのでしょうか?「四技能」という言葉遣いの背景には「英語ができる=技能」というマインドが裏書されているように思うのですが、ここで問われている技能は例えていうならPCのタイピングソフトと一緒です。PCを道具として使いこなせる人ならタイピングソフトである程度のスコアは取れるのでしょうが、逆にタイピングソフトをだけ極めてハイスコアを出せるようになったところで、PCを創造的、生産的に使えるようにはなりません。コミュニケーションにおいては表面的な言語の運用能力よりも「何を話すかの方がはるかに重要」だと思います。
誤解の無いように言っておきますが、僕は「四技能=汎用的な能力」が不要だと言ってるのではなく、「それらの技能をどう活用できるか、そして苦手なところを他の技能でどう補えるか」に本当の価値があると思います。そしてそれはテストの点数のような数値基準に落とし込むのはそもそも無理があるのではないでしょうか。

みんなが英語ができる必要は全くない
英語について「全員が同じように努力すべき」であり、「全員を同じような基準で評価すべき」だと考えるからおかしな話になるのではないでしょうか。もし本当に「英語ができる」人を増やしたいなら、英語を大学受験から一切廃止した方がたぶん効果があると思います。日本人全体の英語の平均レベルは今より落ちるかもしれませんが、一部の語学に意欲のある人のレベルは今より上がるので、「英語ができる人」の絶対数は増えるはずです。
言語学者の鈴木孝男は「皆が英語を勉強するのはやめて、ごく少数の「防人」に英語学習と対外交渉はまかせて、あとは鎖国してしまう。国民を挙げた英語習得はうまくいったとして二流、三流のアメリカ人となるだけで、日本固有の美点長所が無くなってしまう。」という鎖国・防人モデルを提案していました。これはかなりの極論ですが、おおむね僕もこれに賛成です。村上春樹も同じようなこと言ってたような気がしますが、外国語なんてやりたい人が勝手に学べばよいのです。みんなが「英語ができる」必要なんてありません。

2019年11月23日土曜日

沢尻エリカと香港

「桜を見る会」騒動が盛り上がりを見せていた中での沢尻エリカの逮捕について、「政治スキャンダルが起きるとそれを誤魔化すために芸能人が薬物で逮捕される」という陰謀論派と、それを嘲笑しようとする安倍支持派との争いもひと段落しはじめた…という状況でこの文章を書いています。
昨日は「沢尻容疑者の尿検査『陰性』で毛髪検査の可能性に…」というウェブ上の記事をぱっと見たときに、「沢尻容疑者、尿検査、陰毛、可能性」と勝手に読んでしまいました。「陰性で毛」のところを勝手に作り替えてました。すいません。。あやうく陰謀論を勝手に話を陰毛論にすり替えてしまうところでした。

さておき、僕は陰謀論的な物の見方全般に対してはあまり与したくない方ではあるのですが、今回のマスコミの「桜を見る会」と「沢尻エリカ逮捕」の扱い方を見ていると、陰謀論にもさもありなんと言わざるを得ないと思います。禁止薬物を所持・使用してたらダメなのはそりゃ勿論わかりますよ。でも、芸能人が薬物を所持・使用していたことと、「桜を見る会」に見られるような安倍政権による政治の私物化とどっちが社会的に重要な問題であるかは誰の目にも明らかです。しかし、日本のメディアの取り扱いは完全に逆転しています。

「桜を見る会」は政治資金規正法などのいくつかの法律の観点から問題があるのは明らかで、検察がその気になれば安倍晋三に逮捕状を出すことだって十分可能なはずですが、検察はもちろんメディアからも結局ちゃんとは追及されていません。一方で沢尻エリカの薬物は法的な観点だけでなくメディアによって社会的にも攻撃されることになったわけです。同じように法に反しているにも関わらず両者の取り扱いがアンフェアすぎるのを見ると、陰謀論者の言うことにも一部の理を認めざるを得ない気分になります。

と、ここまでは誰でも言えそうなことなのですが。ここからが本題です。せっかくなので、心の師匠内田樹先生がいつもおっしゃっているように「自分くらいしか言わなさそうなこと」の話をここからしたいと思います。「桜を見る会」「沢尻エリカ」に香港情勢を加えて、「中国化」という補助線を引くとこれらがひとつながりの事象になるのではないか?というのが本稿の趣旨です。とはいっても、基本的なコンセプトは中国化する日本などの與那覇潤氏の著作からの借り物です。

「中国化する日本」という本は3.11の大震災から数カ月の頃に世に出た本ですが、この本は後の安倍政権の跳梁などの現象を「中国化」という観点からほぼ的確に予言しています。この本の後に書かれた「日本史の終わり」という著作で與那覇氏は「橋下(徹)さんは政治というものを徹底して『勝つか、負けるか』のモデルで捉えている」と評したうえで、彼を典型的に「中国的」だとして扱っています。その一方で橋下徹が攻撃するリベラル派を「西洋的」として扱っています。

「桜を見る会」の件に関する安倍応援団の反応の中でも、橋下徹はまさに中国的なコメントをしていました。「問題点を政治資金パーティー化してますねというところを追及すりゃいいけども、そこを越えて政権を倒すとかそういうレベルじゃないのは、今の世論調査見ても、このぐらいのことで政権が倒れる話じゃないってみんな国民も分かってますよ」
だそうです。この発言はどうしても「SEALDsとかあんなことやってたって世の中は何も変わらないよ。」と言っていた僕の大学の同期を思い出してしまいます。やっぱり日本という国の気質は西洋化よりも中国化がマジョリティで、3.11はその傾向を決定的に加速させる引き金になったんでしょうね。。

與那覇氏は中国ではむしろ「正しい思想」をひとつに絞ることによって、国土を統一し人々を糾合する統治術が編み出された 。これが、中華文明を多元性ではなく、単一性に基づく秩序であったと私が呼ぶことの意味であります。と言っていますが、今まさに香港で起きていることはこの中華文明の特徴を如実に物語っているのではないでしょうか?中華文明は西洋文明=多様性を許したくないのです。だから、あれだけ徹底的に人権を無視した暴力的な態度でつぶしにかかっているのだと思います。

こうやって考えると、香港市民も沢尻エリカも中華文明の犠牲者であるという点では繋がっているように思います。沢尻エリカがMDMAをキメながら香港の雨傘運動をジャンヌ・ダルクのように先導している姿をどうしても想像せずにはいられないです。

2019年10月26日土曜日

海民という視点

久しぶりに内田先生の書いたテキストを読んでてグッときました。本稿はたったそれだけの話なので、あんまり構成やカミシモも考えずにその感想を書いておこうと思います。

我々日本人は判で押したように自分達のことを「農耕民族」と位置付けていると思います。例えば漠然と「昔の日本」と言われたときに、たいていの人は「日本昔ばなし」にでてくるような山村集落をイメージすると思います。しかし、よくよく考えてみたら日本は四方を海に囲まれた島国です。これだけ日常的に海産物を食べるということは、漁村だって結構な規模で存在してきたはずです。もっと遡れば、農耕の概念が入ってくる以前の石器時代の遺跡は必ず海の近くに見つかります。
このように日本人には「海民」的な素地があるにもかかわらず、現代の日本人にはこの「海民」としてのアイデンティティが徹底的に抑圧されている。これは考えてみたらすごく不思議な話です。内田先生の海民についてのテキストは、網野善彦の「海民と日本社会」の引用を通して、「海民」としての日本人の歴史の紐解いています。

「海民」とは?について、内田先生のテキストから引用してみますが、
海洋であれ、河川であれ、湖沼であれ、もともとは無主の場である。水は分割することも所有することもできないし、境界線を引くこともできない。海民たちはこの無主の空間を棲家とした。だから、海民を服属させた時に権力者が手に入れたのは、海民たちの「どこへでも立ち去ることができる能力」そのものだったということになる。
 ヘーゲルによれば、権力を持つ者が何より願うのは、他者が自発的に自分に服属することである。その他者が自由であればあるほど、その者が自分に服属しているという事実がもたらす全能感は深まる。
 天皇は多くの部民たちを抱え込んでいたけれど、その中にあって、「ここから自由に立ち去る能力を以て天皇に仕える」部民は海民だけであった。それゆえ海民は両義的な存在たらざるを得ない。というのは、海民は自由であり、かつ権力に服さないがゆえに権力者の支配欲望を喚起するわけだが、完全に支配された海民は自由でも独立的でもなくなり、それを彼らを支配していることは権力者にもう全能感や愉悦をもたらさないからである。だから、海民は自由でありかつ服属しているという両義的なありようを求められる。その両義性こそ日本社会における海民性の際立った特徴ではないかと私は考えている。

この「海民」という視点によって僕が以前から感じている違和感がいくつか説明できるような気がするのです。永らく僕は日本社会で感じる違和感を「日本人」の問題だと思っていたのですが、問題の本質は「日本vs海外」という対立構造ではなく、自分が日本社会の「陸vs海」という対立構造の中で「海民」の系譜に連なっていることのような気がするのです。
例えば、最近家を買うことについて考え始めました。子供がこの先小中学校に通うなら途中で引っ越しにくくなるし、自分がもし死んでも家だけは家族に残せる、老後も住む場所はとりあえず心配しなくていい…と、安全保障としてのメリットを考えると家は買った方がよいのですが。でも、家を買ってそこに定住するということに対してどこか違和感があるのです。もしお金さえ問題にならなければ、本音としては一生賃貸でいいからその代わりに海外も含めていろんなところに住みたいと僕は思っています。これは「海民」の気質なのだと思います。

また、サラリーマンという職業に対する違和感も、「海民」という視点で考えると納得できるような気がするのです。干支一回り以上日本のサラリーマンをやってきてつくづく思うのですが、僕はあんまりサラリーマンには向いていません。日本のサラリーマン社会は基本的に中央集権的(=陸的)な権力を志向するタイプの人が出世しやすい傾向にあると思うのですが、これまでのサラリーマン人生を振り返って、こういうタイプの上司とうまく付き合えた思い出がありません。こういうタイプの人は「所有」や「管理」にこだわるので、自分が所有・管理できない物を怖れて嫌がります。よって、自分の知らないことやできないことの価値を0査定して、「自分の分かる範囲の事」に閉じこもりたがる傾向があるのです。
逆に僕がサラリーマン生活で仲良くできたタイプの人は、「立場の上下を問わず、知らないことに興味を持ったり敬意を払ったりすることができる人」でした。別の言い方をすると、「知的に外に向かって開けている人」と言ってもよいかもしれません。こういう人とは「海民」としての僕とも程々にいい距離感で楽しく付き合えたと思います。こういう人の下で仕事ができた期間はサラリーマン人生でも2割にも満たないですが、こういう時間があったからこそ僕はまだ一縷の希望をもってサラリーマンを続けていられるのかもしれません。内田先生によると、「海民」は日本の歴史の中で平氏や坂本龍馬などのように断片的に顔をのぞかせてはすぐに消えてしまうようです。思い返しても、「海民」としての僕がサラリーマン社会で気分よく過ごせた時間もだいたいそれくらいの短いものだったと思います。。

2019年10月22日火曜日

「お客様は神様です」についての論考

Twitterでこういうtweetが流れてきたので思わず何も考えずにリツイートしました。
『お客様は神様だろ?』という変な客がいたんだが隣の席に座ってたガチムチな黒人のお兄さんが立ち上がり『神はアラーだけだ!お前はふざけてんのか!?』とバリバリの日本語でキレだしその客をビビらせて帰らせた。お礼を言うと『実は僕仏教なんだけどね』と笑って帰ってった。
どうやらこれ、所謂”パクツイ”で誰がオリジナルなのかよくわからない話のようです。本当の話かどうかもよくわかりません。でもよくできていて面白いですよね。

まず、この「お客様」と「店員」の関係の非対称性については、その昔スペインから帰ってきたときに僕も不思議に思ったものでした。ちょっとお金を払ったくらいのことで優越した立場に立てるという考え方の根拠がよく分からない上に、そこに「神」という言葉を持ち出すこと自体が一神教の世界観では考えられないですよね。
一昔前にネットで「神」とか「ネ申」とかいう言葉が流行りましたが、当時日常生活であの言葉遣いをする人が僕はたいてい大嫌いでした。「日本人は八百万の神が住まうアミニズムの国で一神教とは異なる宗教観を有しており…」みたいな話を差し引いても、「神」という母国語の既存言の意味を一過性のブームに乗って上書きできてしまうセンスが許容できなかったのです。

ところが、「お客様は神様です」のオリジナルである三波春夫の見解を引いてみたら、とてもまともな話でした。「神前での祈りのように雑念を払い、聴衆(お客様)を神と見ることで、自分の最高のパフォーマンスが出来る、という想いから出て来た、人前で何かを披露する際の芸の本質を表す言葉」なのだそうです。これは、「すべての芸事は神様に奉納する神事にその起源がある」ということからすると妥当な見解だと思います。少なくとも三波春夫の「お客様は神様です」は「芸事を行う者の心構えや矜持」としての話であって、客の側が優位に立った非対称な関係を肯定する話ではないようです。

さて、ここで僕からの提案なのですが。ここまでの議論で一切出てこない別の可能性も考えてみました。「お客様は神様です」という言葉は、「お客様は神様のように聖人君子として振る舞うことを求められている」と解釈することもできるのではないでしょうか?これは別の言い方をすると、「お客様は神様のような立ち振る舞いを理想として自己陶冶する責任があります」ということになります。とりあえずこれはクレーマーに対する有効な対策には成り得るような気がします。クレーマーに対しては「お客様は神様のはずですよね?であれば、お客様=神様は貴方のように攻撃的に無理難題を突き付けてきたりしません。つまり、あなたは神様でもないし、お客様でもありません。よって、我々はあなたの話に付き合う必要はありません。」これで済ませられそうな気がします。

ただし、上記の対応がロジックとして成立しそうなのも世界的に見ると日本くらいなんだろうと思います。というのも、一神教の世界では神というのは聖人君子でもなんでもなくて「人間の論理や理解を超越した存在である故に、人間から見ると不条理で怖い存在」であり、だからこそ「神が災いをもたらさないように、神と契約とする。その契約に従って戒律を守る。」というのが基本的なスタンスなんだそうです。このあたりの話は昔読んだ「ふしぎなキリスト教」という本の受け売りですが、ウェブで探しても同様の言及が見られるのでたぶん正しいんだと思います。ついでに言うと、だからこそ一神教に対して「神の愛」という大発明をイエスが持ち込んだことで、キリスト教は大ブレイクしたんだそうです。

2019年10月14日月曜日

区民しか入れないような避難所を作る国でオリンピックができるのか?

「今回の台風は本当にヤバい」というのが一週間くらい前から言われていた台風19号ですが、当初の想定ルートだとまぁまぁ我が家は直撃コースでした。そんなこともあってか、今回の台風ではブルーシートや水などが台風が来る数日前に全く売り切れてしまうという事態を初めて経験しました。結果としては予想よりはやや台風が逸れて進んだ結果、我が家は浸水はおろか停電さえもなく無事で済みました。しかし、もしも直撃していたらテレビに映っている街のように堤防が決壊して水没していたかもしれません。

さて、こんな台風のさなかに台東区の避難所がホームレスを門前払いしたということが結構な話題になっております。なんでも、台東区では12日、自宅での避難が不安な区民のための避難所を4カ所、外国人旅行者などを念頭に置いた帰宅困難者向けの緊急滞在施設を2カ所に開設した。ということだそうです。この避難所の件は
・人権や人道という概念が理解できない
非常時と向き合うことができない
といった、日本人の抱えている病のようなものが端的に現れていると思うのですが。こんな国でオリンピックやるのは無理なんじゃないでしょうかね?オリンピックやってる時期に台風が来る可能性は十分にあるし、その時に区民向けの避難所に外国人やホームレスが命からがら避難して来ても「ここは区民用だからダメ」と言って門前払いになっちゃうわけですよね?


僕のtwitterのTLはいわゆるリベラル派の人のツイートで埋め尽くされているのですが、その中で唯一ネトウヨ気味のツイートを流してくる某氏(なぜか僕のツイートに対しては政治以外のトピックであれば頻繁にコメントしてくるので一応僕もフォローしている。)が本件についてこのようなコメントをしていました。村八分でも葬儀と災害(火事)の二分は対応すると言うのに。こういうのを迎え入れるのが日本人のはずなのに。すごく残念。

いや、残念ながらこれはたぶん事実誤認です。wikipediaによると、村八分というのは葬儀と火事だけは一般の村人に迷惑がかかる可能性があるので支援するけどそれ以外は関わらない、という徹底的な非人情な制度なのです。そして、wikipediaによると「なお、残り八分は成人式結婚式出産病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。」だそうです。つまり水害時の世話は村八分に対してはしないんだそうです。

「ホームレス=村八分」と考えると、現代の台東区という大都会の災害対応でさえ、そのコンセプトは「村」の災害対応と何も変わっていないことがわかります。しかし、件のtwitterに登場したネトウヨ氏のように考えている日本人は多いんだろうなと思います。こういう人は「優しさ」とか「思いやり」とか、そういうものが日本人特有の美点だと思っている節があるのですが。日本ではそれらは村落共同体の中だけに対して限定的に適用されるものでしかなかったのではないでしょうか。それが基本にあるからこそ、そのカウンターとして「ヨソ者にわざわざ親切にしてあげる」ことが美徳として賞賛されるようなお国柄になったのではないかと思います。これは、「お・も・て・な・し」ワールドカップ会場でのごみ拾いのような、ブリっ子的な打算の匂いが鼻につく日本人特有の立ち振る舞いにつながっているように思えてならないのです。

なぜ僕は安心してラグビーを応援できるのかというと

ラグビーや
ああラグビーや
ラグビーや

これを書いている現在、スコットランドとの激戦を制して日本がワールドカップの決勝トーナメントに進出した。という状況です。なんで僕がラグビーにここまで入れ込んでいるかと言うと、ラグビーはサッカーや野球の日本代表と違って、何も躊躇することなく応援できるからなのです。他の日本人はどう思ってるのか分からないですが、サッカーや野球の試合に国民全員が「日本ガンバレ!」と言ってるのを見てると、僕はどうしても「これ、いいのかな?なんか戦前の日本ってこんな感じだったんじゃないのかな?」と、どうしても思ってしまうのです。でもラグビーに関しては、この「躊躇」をしなくて済むので安心して熱中できるのです。

なぜ僕はラグビーについてだけは躊躇せずに済むのか。一つの理由は大昔にこのblogで紹介した国際化、多様性にあるような気がします。元々ラグビーはフォワードとバックス(プロレス的な語法を当てはめると、ヘビー級とジュニアヘビー級)が混在していて、それぞれに役割があります。さらに日本代表ではこの多様性が国籍や人種といった方向にも拡張されているので、サッカーや野球と違ってethnocentric (自民族中心主義)な傾向を緩和していると思います。

そしてもう一つの理由は、例によって内的自己/外的自己の話になるのですが。ラグビーは「試合が終わればノーサイド」や「紳士のスポーツ」という日本人には非常に咀嚼が難しい概念をセントラルドグマに据えています。これは言わば「外的自己」として日本人の「内的自己」的な側面を抑制して程よくバランスを取っているように思うのです。ちょっと脱線しますが、この「外的自己」は統治システムの文脈で言うと「民主主義」や「憲法」や「人権」など日本の外側から持ち込まれた物に相当しており、いずれも「内的自己」のネトウヨや自民党からは目の敵にされています。

だいたい以上で僕が言いたかったことは終わりなのですが、最後にこの文脈でどうしても思い出してしまう中学時代の同級生のF君の話をします。硬式のリトルリーグで本格的に野球をやっていたF君は、体も大きくてスポーツ万能で女の子からも人気がありました。3年生の時に彼と同じクラスだったのですが、みんな受験勉強をやっている中で彼だけは早々と野球の強豪校(甲子園常連校)のスポーツ推薦入学が内定していたように思います。誰しもが甲子園で大活躍すると思っていたF君ですが、高校1年生の途中で野球をやめてしまいました。どうも、能力が高すぎて先輩の嫉妬やイジメに遭ってトラブルになり、結果的に野球部を追われてしまったんだそうです。とはいえ彼はスポーツ推薦で学校に入ったわけで…その後、彼は同じ高校でラグビーを始めました。そして持ち前の体格と運動神経を発揮して最終的には大学を経て社会人ラグビーの選手になりました。

もし彼があのまま野球を続けていたら、たぶんプロ野球選手になっていただろうと思います。でも、高校野球=純度の高い内的自己によってスポイルされかけた彼が、内的自己と外的自己が調和したラグビーによって人生を救われた…なんていう話だったらちょっとうれしいですね。まぁ、当のご本人がどう思っているかまでは僕にはわかりませんが。
なんかこうやって書いていると、ラグビーを相撲と並ぶ国技にしてはどうか?と、思い始めました。こうすれば日本人は外的自己と内的自己のバランスを取ることができるのではないだろうか?

2019年9月26日木曜日

ラグビーワールドカップに対する日本人の微温的な対応について

ラグビーのワールドカップが始まりました。これまでラグビーをちゃんとみたことなかったのですが、ちゃんと見てみたらこれがすごく面白いのです。ラグビーの魅力はプロレスのパワーとサッカーの戦略が同時に融合していることなのではないかと思います。にわかラグビーファンがこういうことを言ってるのはダサいなぁとは思いつつ、にわかついでに失礼なことを言わせていただくと、この面白さはこれまで日本人だけでやってるラグビーをテレビで見てる限りではどうしても感じられなかったのです。

この理由は日本人の選手のプレーの質や体格だけの問題ではなく、見てる僕の問題だと思います。昭和育ちにはラグビーといえばスクールウォーズなどに代表される70-80年代のスポ根のイメージがどうしてもついて回ってしまうのです。日本人がたくさん集まってラグビーをやってるのを見ていると、どうしてもこのイメージから脱却するのが難しいのです。念のため改めて申し上げておくと、これは日本人のラグビー選手の問題ではなく、ほとんど見てる側の僕の問題だと思います。

とはいえ、一方でラグビー日本代表に対して日本人の大半はどこか冷たいですよね。いまだにラグビーといえば五郎丸以外の選手は知らない人が大半なんじゃないでしょうか(今回の代表チームに五郎丸はいないんですけどね)。以前もこのblogに書きましたが、その原因は「外国人が多い」からだと思います。テレビのCMにキャプテンのマイケル・リーチが出てたりはしますが、五郎丸ほどの国民的認知度には達していないと思います。

この是非はさておき、このあたりのラグビー日本代表に対する日本人のどこか冷たい感じは、そのままラグビーのワールドカップというイベントそのものに対する日本人の微温的な反応にもつながっていると思います。これに一番近いのは、日本で開催するサッカーのクラブワールドカップなのではないかと思います。

クラブワールドカップは海外のビッグクラブから有名選手が来るのですが、彼らに対する日本のテレビの対応は大昔の言葉でいうと「外タレ」、もうちょっと最近の言い方で言うと「海外セレブ来日」に近いです。一方で、日本で開催するクラブワールドカップにアジア代表として日本のどこかのクラブチームが出場していても、そのチームのサポーター以外の一般の日本人は「頼むから勝ってくれ」なんて言ってませんし、もしも勝ったところで渋谷の交差点で暴れる人は誰もいないでしょう。

運営面からみると、ラグビーのワールドカップは東京オリンピックのダメなところをことごとくクリアしている点でも好感が持てます。ちゃんと気候のいい時期を選んで開催していること、無駄にハコモノを増やさずに既存のスタジアムをそのまま利用していること、などなど、ことごとく来年の東京オリンピックに対するカウンターになっていると思います。

何よりも素晴らしいのは、日本人が「おもてなし」とかいってはしゃいでないことです。上述したようなラグビーワールドカップに対する微温的な日本人の態度は、「はしゃげばはしゃぐほど、明後日の方向にズレていく」という我が国の国民病の発症を見事に抑制しています。東京オリンピックにもこれくらいの姿勢で臨むのがたぶん丁度よいのではないでしょうか。

2019年9月1日日曜日

子供向け番組を通して見える日本のジェンダー

うちの娘も幼稚園に入るまではスーパー戦隊やウルトラマンをわりと喜んで見ていました。現役でテレビでやってる特撮だけでなく、ウルトラマンタロウとかジャッカー電撃隊とか、妙にシブいものをツタヤで借りてきて見てた時期もありました。が、幼稚園に入ったあたりからはジェンダーに対する意識が割と明確になってきたのか、特撮を一緒に見ようと言うと「えー、それって男が見るやつじゃん」とか言うようになりました。
しかし、テレビの放映はプリキュアが終わったらその後に仮面ライダーとスーパー戦隊が続く「スーパーヒーロータイム」になっておりまして。プリキュアの後の惰性でぼんやりとではありますが僕は一応ストーリーを追える程度にはスーパーヒーロータイムを見ています。この8月末をもって仮面ライダージオウが終了したのですが、この最終回を見ながら考えたことを少し書いてみようと思います。

仮面ライダージオウでは、仮面ライダー側にツクヨミという女の子キャラが出てきます。当初はこれと言って特殊な能力を持つキャラではなかったのですが、だんだん最終回に近づくにつれて、実は悪者のボスの妹であったことが明らかになってきます。そして、最終回の一話前になって、このツクヨミは仮面ライダーに変身しました。仮面ライダーの歴史上かなり画期的な女性の仮面ライダーが誕生したわけです。
仮面ライダーについてはこの一作前のビルドでも同じような立ち位置の女性キャラクターがいました。さすがに仮面ライダーに変身まではしないのですが、物語の終盤までは特に普通の人だったのに、終盤になって実は火星の王妃の魂が乗り移っていたことになって、あんなことやこんなことをする…という展開でした。

最近の男の子向けの特撮って、特殊能力を持たない普通の女の人があんまり出てこないんですよね。もちろん、スーパー戦隊シリーズでは必ず戦隊の中に一人は女性がいるのですが、あれは変身して戦うという特殊能力をしっかり持っています。僕が言いたいのは、
・大昔の仮面ライダーなどに出てきた、子供やヒロイン的立場の女性
・戦隊モノの特撮に出てくる、司令官の補佐役の女の人
みたいな、これと言って特殊能力を持たない人が最近の特撮には出てこないように思うのです。
ここに、今の世の中の世相が反映されているような気がするのです。例えば安倍政権の「女性の活用」なんかは典型的だと思うもむのですが、「女性の活用」と言いいながらも、例えば稲田朋美とか片山さつきみたいな、ああいう男社会の中で価値を認められる女性にしか社会的な立場を認めていないですよね?最近の男の子向けの特撮を見てると、どうもあの「女性の活用」と同じ匂いがするように思うのです。

ゲストキャラとはいえ、女性の仮面ライダーである「仮面ライダーツクヨミ」が誕生したことは、一期前のプリキュアで男性のプリキュアが誕生したことと相似形の出来事で、ジェンダーの垣根が解体されつつあることを象徴しているようにも見えます。しかしその一方で、結局は男社会の都合に合わせられる女性にしか活躍の場が与えらえてないという日本の有り様もそのまま男の子向けの特撮には反映されているように思います。
ちなみに、ここから上の世代に上がって少年漫画になると、女性キャラには「萌え」や「無駄に巨乳」などの性的な愛玩要素が加わってきて、話がややこしくなります。しかも、その性的愛玩要素を持った女の子が戦ったりする(「艦これ」とか「ガルパン」なんかをイメージしてください)となる…とまぁ、こうやって書いてて思いますが、冷静に考えたら結構な変態ですよね。日本人って。。

登場人物が全員ゲイの仮面ライダーとか、男だけのプリキュアとか、そんなものが出てくるような時代になれば相当面白いと思うんですけどね。。

2019年8月4日日曜日

自由というのはある程度他人に迷惑をかけて成立しているんだけどな

僕のTwitterのTLが「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」一色になっています。この件についてまず最初に僕の見解を述べておくと、経緯はどうあれ、津田大介も中止にするなら「この国の『表現の不自由』を白日の下に晒したという点では大成功だった」くらい言えばよかったのに、と思っています。
Twitterは人を所属クラスタごとに遠心分離する装置なので、僕のTwitterは所謂リベラル寄りの方で埋め尽くされています。その多くの内容は、ネトウヨ論客が少女像を「不愉快にさせる」などと攻撃しているのに対してリベラル側が「表現の自由を守れ」と反論している構図で埋め尽くされています。僕は断然リベラル派寄りなのですが、リベラル側も単に「表現の自由」と言うだけではなくて、表現の自由が成立する社会を維持するためには何が必要か?ということについて言及すべきだと思うのです。

そこで表題の「自由というのは、ある程度他人に迷惑をかけて成立するもの」という話になるのですが。これはもうすでに僕がこのblogで何度も言及しているような話です。改めて例を挙げると、スペインで屋内の公共空間での喫煙を禁じる法律の是非について議論していたときに、あるスペイン人は「確かに屋内での煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言いました。「自由」が憲法に記された「理念=きれいごと」ではなく、実生活において本当に自由が保証される社会を実現するためには「お互いに迷惑をかけ合うことができる」レベルの市民的成熟が不可欠なのです。

一方で、我が国のネトウヨ論客は少女像を攻撃する理由を「国民を不愉快にさせる」と言っていますが、これをもう少し分解すると
・自分は世の中の多数派であるという根拠のない確信に満ちている
・日本国民の最上位の行動規範は憲法や法律よりも「迷惑をかけない教」だと思っている
・だから多数派の自分が不愉快で迷惑だと思うものは国民の敵と見做して攻撃してよい
・以上のような思想的な偏りについておそらく自覚がない
といったところでしょうか?政治的見解が異なる人も社会の成員として受け入れるような市民的成熟などという概念自体がおそらく彼らの頭に無いと思います。

最後に岸田秀を引用していくつか付け加えてみますが、まずネトウヨvsリベラルの戦いというのは日本人全体を一つの人格と見立てて精神分析を適用すると、日本人は内的自己vs外的自己に分裂しており、ネトウヨとリベラルの戦いはその代理戦争だと言えるでしょう。そして、この分裂の起源を岸田秀はアメリカという父の問題だと言っています。
また、岸田秀に言わせれば人類というのは「本能の壊れた猿」であり、その壊れた本能を代替するために、人類は「文化」を必要としているのだと説いています。以前、「ろくでなし子」という芸術家の作品が物議を醸したことがありましたが、芸術家というのは基本的に「わざわざいらんことをする人=ろくでなし」だと僕は思います。そもそも、木の上で暮らしてたらいいのに、わざわざ地上に降りて二足歩行を行うという「いらんことをした猿」の子孫が我々人類なのですから、芸術は人類に不可欠だと僕は思います。

チャーシューメンに挑戦するラストチャンスかもしれない

# 例によって、なるだけ構えずに思いついたことをサラサラと書いてみるシリーズです。

長かった梅雨もすっかり明けて、本格的に暑くなってきました。あと一週間で夏休みに入ろうというところです。これだけ暑くなったというのに、ここ数日僕の頭の中ではこの天気とは真逆のラーメンについてずっと考えているのです。というのも、「人生経験としてチャーシューメンを食べてみるならそろそろラストチャンスなんじゃないか?」ということについてずっと考えてしまうのです。

そもそもラーメンという食べ物自体、お世辞にも体にいいとは思えません。つまりラーメンのおいしさの何割かは背徳の味だと言ってもよいでしょう。僕はそんな部分も含めてラーメン大好き人間なんですが、ラーメン屋では基本的に普通のラーメンを注文します。ワンタンメンは好きなのでメニューにあればたまに頼むことはあります。でも、チャーシューメンは頼んだことが一度もありません。

ラーメン屋でわざわざチャーシューメンを注文するには相応のポテンシャルが要求されるような気がするのです。チャーシューメンはなんだが、「お母さんに怒られそう」というか、ラーメン屋のメニューの中でも突出して背徳感が高いのです。ラーメンの食べ歩きblogを見ると「基本的にチャーシューメンを注文します」とか書いてあったりするのですが、こういう人は背徳への耐性が強いのか、若しくは自分の欲望に正直なのか、どっちにしても僕にはない資質を持っているように見えます。

しかし、40歳を超えたあたりからだんだんと胃腸や食欲が衰えていくのを感じる今日この頃、時々考えるのです。死ぬ前に人生を振り返った時にチャーシューメンを食べた経験がある人生とない人生のどっちがいいか?そう言われたら、そりゃチャーシューメンを食べた経験があった人生のほうがいいような気はします。

一方で、来るべきチャーシューメンを食べる機会があったとしても、それをおいしく食べれる能力を自分の体は失いつつあるんじゃないか?という危惧があります。これは正直に言うと単なる危惧です。本当にそうなのかわかりません。なにせ僕はチャーシューメンを食べたこと無いですから。。しかし、もしこの危惧が正しい、つまり、自分の消化能力とチャーシューメンの乖離は今後どんどん開いていく一方に向かうのであるとするならば、「もうチャーシューメンを食べるなら今しかない」というシンプルな結論になるのです。

チャーシューメンの問題は「お金持ちになったらおいしいステーキを食べてみたい」とか「一生に一度テレビに出てくるような銀座の寿司屋で寿司を食べてみたい」などとは近いようでちょっと違います。ラーメン屋はどこにでもあるし、チャーシューメンはラーメンより数百円払いさえすれば食べられるはずなんです。でも、問題は僕にとってはチャーシューメンを注文するという行為にはその数百円以上に高いハードルが横たわっているのです。

この「40歳を超えての遅咲きのチャーシューメンデビュー」についてここ数日真剣に考えています。問題はどこで食べるか、なのです。ラーメン屋はどこにでもあると言いつつも、最初で最後になるかもしれないチャーシューメンともなると、せっかく食べるならチャーシューがおいしいところで食べたいな。。

2019年7月20日土曜日

吉本興業と新自由主義

これを書いている現在、吉本芸人の闇営業事件について宮迫とロンブーの亮が記者会見を行いました。ちょっと予想してなかった展開になりましたが、所属芸人の反社会勢力とのつながりを云々する以前に、当の吉本そのものが反社会勢力のような組織であることが明らかになりました。
ここ数年でテレビがすっかりお笑い芸人だらけになったのは、制作費が昔より安くなってきたためにコストが安いお笑いが重用されるようになったからだそうです。つまり、彼らはテレビに出てはいるけど、我々庶民が思っているほどは給料もらえてないのかもしれません。実際に、闇営業の背景については岡村隆史が言及するように「そうしないと食べていけない芸人も多い」という事情もあるようです。

そもそも、今回の一連の闇営業問題についての吉本の対応があまりにスクエア過ぎて、ちょっとどうなんだろうと思うことが多かったです。「何も変えない」契約なし、ギャラも上げない、移籍の自由もなしという社長のコメントには現場の芸人からも反論が出てました。この会社のコンセプトは非常に単純明快で、自分たちに都合のいいことにだけコンプライアンスなどの倫理規範を持ち出しますが、自分たちの都合の悪いこと(契約書で給与を明示するなど)については一般社会の概念には一切つきあわない。ということのようです。
吉本の社長はこのような姿勢を「吉本は家族的な会社」という言葉で自己肯定しにかかっています。なるほど、「家族」だと言えば「ウチはウチ、ヨソはヨソ」という理屈が通る…と言いたいんでしょうね。でも、家族なんだったら食べていける程度に給料を払うような扶助はするべきなんじゃないでしょうか?これは家族というアナロジーの文脈でいうとDVそのものです。

このような「DV=劣悪な雇用環境下での激しい生存競争の中でも文句言わずに勝ち抜き続けることを要求される」ということは、お笑いだけでなくタクシーやアイドルなど、なり手がいくらでもいる業界ではどんどん常態化していっています。そしてこの風潮は高橋源一郎が以前指摘していたように政治も含めて日本全体を覆いつくしています。
吉本と自民党は、この新自由主義的な世界観を共有していると思います。例えば松本人志なども弱肉強食の競争には非常に肯定的なコメントをしていますよね?(ネットカフェに寝泊まりする人について、「だんだん部屋小さくしていったら?」とか言ってました)。松本人志は安倍晋三とごはんたべてましたし、先日吉本の芸人が安倍晋三と戯れてましたよね?

例えばアメリカは徹底した新自由主義の国ですが、貧富の差があってもお金持ちが貧者に対して寄付することで支えることである程度社会全体が破綻を免れるようにできています。芸人の世界も売れっ子が若手に飲み食いをさせたりすることで扶助するなど、日本における新自由主義の特殊事例として割とうまくいってそうな印象はありました。少なくとも、これまでは。
先日のジャニーズ事務所への指導とセットで考えると、テレビ地上波というメディアで栄華を極めた二大勢力(ジャニーズと吉本)が相次いでその綻びを見せ始めているように見えます。吉本の幹部は「キー局は吉本の株主」と言っていたそうですが、この幹部の発言はテレビ地上波がオワコンに向かっているという可能性を全く考慮できていません。そろそろこの一連のシステムが限界に達して、新しい時代を迎えているのではないでしょうか?

そしてちょうど明日は選挙です。このあたりから世の中が変わってくれないかなぁ。

ビジネス英語ってどんな英語なんだろう?

奥様経由で、奥様のママ友から「ダンナが会社で英語をやれと言われているんだけど、どうやって勉強すればいいと思う?」と聞かれました。そのダンナ様ご本人にちゃんと確認したわけじゃないからどの程度本気で聞いているのかもわからないけど、本気で聞かれたとしてもあまり相手にとって有用なアドバイスができる気が全くしないのです。というのも、自分の場合こんないきさつで、周りの環境がキッカケになって紆余曲折の末今に至ってます。なので、「どうやって勉強したらいいと思う」と言われても「こうやればいいよ」という方法は具体的には思いつかないのです。

そもそも「英語=勉強するもの」という問題の前提自体が間違っている気もします。ある程度文法や語彙を勉強することは必要なんだけど、それだけを勉強し続けてもペーパーテストである程度の点は取れるようになっても、会話ができるようにはまずならないと思います。しかし、TOEICで点を取るのがとりあえずの目標なのであれば、それに向けた「勉強」はご当人にとっては意味があるのかもしれません。
と、ここまできて設問の前提の新たな問題にたどり着くのですが。「英語をやる」って何のためなんでしょうか?TOEICの点数を取りたいのか、外国人となんとなく雑談できるような汎用的なコミュニケーション力を求めているのか、自分の仕事の専門分野について外国人と会話できるようになることなのか…たいていの上司が言う「英語をやれ」という指示はこのあたりの目的が全く不明瞭です。ここがクリアになるともう少し具体的な提案ができそうな気がします。

目的によらず汎用的に有効だと思う方法を一つ提案すると、「シャドウイングはやる価値がある」と僕は思います。シャドウイングというのは、ネイティブの発話をひたすら真似して喋るというものです。地味な作業の反復になるのであまり面白みはないですが、ある程度ちゃんとやれば誰でも必ず効果は出ると思います。
なぜシャドウイングか?というと、語学に関しては「聞けたかったら話しなさい」だからです。口頭での言語コミュニケーションは、情報のやり取りという観点からいうと、情報を音にエンコード(符号化)して送ったものを受け手側でデコード(解読)していることになります。
言いたいこと → 発話運動 → 音 → 耳で聞く → 意味を理解する
もうこの段階でだいたいわかると思いますが、どのようにエンコード(発話運動)しているのかが分からないとデコード(リスニング)できるようになるわけないのです。以上がシャドウイングをおすすめする理由です。

最後にようやく「ビジネス英語」の話になるのですが。この機会にちょっと世の中の英会話教室や英語教材をネットで探してみました。すると、世の中には「ビジネス英語」なるものが存在するようです。ネット情報によると「とりあえずビジネスで使えればいいという想定で、敬語を使ったり使用頻度の高い定型フレーズの使い方を覚える」ということなんだそうですが。そんなカチコチした定型フレーズしか喋れないような人がビジネスの現場で通用するんでしょうかね?
この「ビジネス英語」を極めて、仕事でバリバリ英語を使っている人は実在するなら会ってみたいです。どうも僕には「ビジネス英語」というのは、「プロになれる人なんてほんの一握りしかいない音楽専門学校」のような物なんじゃないかと思えてくるのです。それとも、世の中の「ビジネスマン」は「ビジネス」って頭につけられると「自分にもできそう」と思うんでしょうかね?僕は「ビジネス」っていう言葉を見た瞬間に、おじさんが履いてるような紺色のナイロン靴下が頭の中でイメージされて「ああ、これは自分とは関係ない」と思ってしまうんですが。

京都アニメーション放火事件とオウム

7月も下旬だというのに、いつまでも梅雨が終わりません。天気はずっと悪いままな上に、会社でも色々とあって、常にイライラ、悶々とした日々を過ごしております。こういう時に気分転換をするのがヘタな方だという自覚はあるのですが、そんなときに京都アニメーションの放火事件が起きました。ニュースで伝えられている話からすると、犯人はほぼ僕と同年代です。

このニュースを見たとき、不思議と疚しさ、罪悪感のようなものを感じました。自分の鬱々とした感情が放火と繋がっているような気がしたのです。そしてその次に思い出したのは、村上春樹の「アンダーグラウンド」という本についてでした。あの本は大昔に人から借りたものの、長すぎて途中で読むのをやめてしまったのですが。村上春樹があんな長い本を執筆するに至った経緯には「オウム事件についての共犯意識」があったのは間違いないと思います。

「アンダーグラウンド」以後の村上春樹の著作には、「直接自分が手を下していない殺人に対する共犯意識」が度々描かれています。例えば、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では「シロ=ユズ」を殺したのは自分ではないのか?という罪悪感に登場人物は苦悩します。「海辺のカフカ」でも、縁もゆかりもないはずの遠く離れた老人と少年の繋がりを描く中で、「老人が人を殺すと、遠く離れた少年は自分の手が血まみれになって目覚める…」という描写があります。

件の放火のニュースを見て、なんかこれはいかんぞ。という気分になったので、鬱々として気分を少しでも昇華するために最近思っていることをblogにしたためようという気分になりました。この投稿も普段に比べたら分量少な目だし、もうちょっと広げたり練ったりすると面白くなる可能性もいくらかあるのですが、そんなことよりもどんどん書いて吐き出したい。というわけで、今からどんどん連投します。

そうでもしないと、自分が次の放火犯になってしまうような気がしてならないのです。

2019年6月17日月曜日

プレゼンの時間を大幅に超過する彼らは何が問題かというと

ここ最近は、日曜のお昼ご飯を「NHKのど自慢」を見ながら食べるのが我が家の定番になってきました。年齢も社会階層も違う色々な人が「歌」で繋がっているのが面白いのです。この番組は全体としては日本社会の均質性を体現している一方で、その中で出演者が無自覚のうちに放っている日本社会の微細な多様性が垣間見えるのです。毎回必ず最低一人は「この人普段何してるんだろ?」と考えてしまうような不思議な人が出てくるんですよ。
しかし、のど自慢を見ていて時々「あーあ。。」と思うことがあるのです。歌い終わった後のアナウンサーのインタビューに対して、どうでもいいことを延々喋って尺を食ってしまう人が必ず一人はいるのです。たいてい年配のおじさんで、しかも、合格じゃなかった人。アナウンサーも「さっさと会話を切り上げたい」という空気を相槌の端々に匂わせているのに、空気を読まず(読めず)そのまま尺を食ってしゃべり続けるので、見てるこっちもハラハラ、イライラすることになるのです。

これと同じような気分になるのが、会社で限られた時間枠内で複数人がプレゼンを行う機会です。月に最低1回はこういう機会があるのですが、想定されている時間配分を守ってオンタイムで進行することなんてほとんどありません。最初からできるわけないと分かっているのに「質疑応答込みで一人10分で、終わりが近づいてくるとベルを鳴らしますから、時間厳守でお願いします」とか言うだけは言うんですよ。でも、場を主催している側も言うだけは言うけど本気で守らせるつもりが無いんですよね。
特に前に立って喋るのがエラいオジさんたちばかりなのにことごとく時間超過していると、「この会社は自分の喋る尺も管理できないようなオジさんでも管理職になれる会社です。しかも、場を主催する立場の人もそこそこのポジションのくせに、オジさんたちが尺を超過することを分かっていながらなんのリスクヘッジできません。というより、しようという気がありません。」ということをわざわざ下々を集めてプレゼンしてるだけにしか見えなかったりするときもあります。

先日、まさにそんな場で自分が最後に発表する立場だったのですが。最初の人がいきなり所定の時間の1.5倍も使ってしまったために、そのフォローのために自分の発表の内容をいくつか削ったり、巻きで話すために色々とせわしなかったり…というような目に遭いました。終わった後さすがに本人から「反省しました」というメールは届いたのですが、彼がこうやって時間超過した皺寄せを受けるのは今回に限ったことではありません。
この文脈で言いたいことはこのblogの初期の投稿「遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人」にも通じるところがあります。日本だと始まる時間には意味不明なまでに厳格ですが、尺を管理できずに時間を超過することにはなぜか寛容です。僕から見ると、仮に遅刻したとしても残り時間に応じてプレゼンの内容を適切に再構成して時間内に終わらせられる方が、終わった後の時間は予定通り進むのでマシだと思うのですが、なぜか日本人はそうは思わないみたいです。

この話を展開した先に到達する結論を一言で言うと「プレゼンの時間が守れない人は日本型マザコンの特徴である」になるのですが、この話を始めると長くなるのでそこは置いとくとして。プレゼン時間の尺を守れない人に共通しているのは、だいたい話を聞いててもつまらないということです。いつまでも聞いてたくなるような面白い話だったら、時間超過してもらってもまだ許せなくもないのですが。残念ながらプレゼン時間を過剰に超過する人の話が面白かったという事例はほとんど記憶にありません。
なぜこうなるかというと、彼らの本質的な問題点は「自分が分かっていほしいことを話している」からなんだと思います。わざわざこうやって書くのも躊躇するくらい凡庸でつまらない一般論ですが、プレゼンの基本としては「相手が聞きたいことを話す」だと思います。ところが、時間を超過して喋り続ける彼らはこのような受け手の視点から自分の話の内容を検討することができてないように思います。だから彼らは受け手から見ると「どうでもいい話」に時間を割いてしまうのではないでしょうか?僕にはそんな彼らは「自分をそのまま受け入れてくれるママ」に向かって喋っているように見えます。

2019年5月6日月曜日

おじさんがプリキュアにハマる気持ちがわかるようになってきた

10連休。だったはずなのに今日が最終日です。GW前に引いた風邪がだいたい治ったかとおもったら、ぶり返して2日寝込んだり、車のミラーを壊してしまったり…そうこうしているうちに終わろうとしています。せめて最後になんかやった気になれるようなことの一つでもしようと思い、久しぶりにこのblogを更新しようと思い立ちました。以前も長期休暇の最終日に同じことをしたのですが、これはここから本稿で述べる「面倒くさい」病へのカウンターだと考えるのが妥当な気がします。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。

この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。

さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。

もしも10年以上前の「余計なことがしたい」盛りだった頃の僕がプリキュアを見たら、諸々の設定のディテールの幼稚さがいちいち気になって見ていられなかっただろうと思います。当時の僕はプリキュアよりも攻殻機動隊みたいに世界観やストーリーが大人向けに緻密に練られた作品の方にまだ関心を持てたと思います。しかし、今となっては逆に攻殻機動隊は観るのが「面倒くさい」部類に入りつつあります。細かすぎて疲れるんです。それよりは娘と一緒にプリキュア見てた方がいいかなと思います。
以上を踏まえた上での話ですが、エンターテイメントの中でプリキュアに一番近いのはたぶんプロレスなのではないかと僕は思います。ドロップキックを受けるプロレスラーを見て「あんのはやらせのショーだ」と切り捨てるのは誰でもできるのですが、そんなことよりリング上で展開される戦いに熱狂したり魅了されたりするには相応のリテラシーが要求されます。この「理屈を一旦放棄する」というリテラシーにおいて、大人になってプリキュアにハマれる人とプロレスファンはつながっているような気がします。

でも、僕はせいぜい子供と一緒に見る程度で十分なのですけどね。。

2019年3月3日日曜日

「便利」のコスト

コンビニ業界 転換点 セブン「脱24時間」実験へというニュースを見て、「とうとうこういう日が来たのか」という安堵のような気持ちと、「いずれこうなるってわかってたでしょ?」という暗澹たる気持ちが混ざったなんとも言えない気分になりました。コンビニ業界は外国人の技能実習生を店頭に立たせてまでコンビニという業態を死守しようとしていますが、そんな悪あがきをしたところでとうとう逆らいきれなくなったのでしょうね。
何度もこのblogに書いている話ですが、その昔スペインから日本に帰ってきたときの話をまたします。2年間スペインで生活して日本に帰ってきたときには、あまりにアレもコレも違い過ぎて日本人の世界に強烈な違和感を感じました。僕は6年以上経った今でもそれをずっと引きずり続けているのですが、そのうちの一つに、「夜が無駄に明るすぎる」というのがありました。都会ならまだしも、僕の住んでいるような地方都市でさえ深夜に開いてるお店がたくさんあるのです。その煌々とした光を放っているものの一つがコンビニです。

コンビニという業態はその名の通り、日本人に「便利は正義」という価値観を植えつけながら成長してきました。スーパーに比べたら値段が割高でもコンビニが成立するのは、コンビニが啓蒙してきた「便利」に対して我々日本人が合意の上で「便利税」として割高な料金を払ってきたからだと思います。その果てには「コンビニで手に入る物で生活はだいたい事足りる」というような人も結構な数いると思います。ここに至っては、日本人はコンビニの啓蒙する「便利は正義」という価値観に都合のいいように自己造形してきたとさえ言えるでしょう。
この「便利は正義」の自転車操業的な展開によって、コンビニは公共料金の払い込みやATM,コーヒーマシンに至るまであらゆるサービスを取り込んでいき、社会インフラの一翼を担うまでに至ったわけです。こうやってサービスを増やしていけばそれだけ店舗運営の労力は増えていくわけですが、それをフランチャイズ制という形で店のオーナーやその下のバイトに一方的に押し付けつづけるのにもとうとう限界がきたのでしょう。上記の東京新聞の記事にあるように、牛丼やファミレスなどの外食チェーンはもう数年前から不必要な24時間営業を見直す方向に舵を切っています。おそらく外食チェーンはフランチャイズ制ではないために不利益を押し付ける相手もいないのでコンビニより先にこうならざるを得なかったのでしょう。

日本のどこかしこも「人手不足」とは言ってるのですが、この「人手不足」には「都合よく安い給料で働いてくれる人材」という暗黙の但し書きがついているように思います。コンビニだってもっと給料払えば働きたいという人はいるはずですが、フランチャイズのオーナーにとって採算が合うような範囲では「人手不足」なのです。その窮余の策として外国人の技能実習生を店頭に立たせてなんとか凌ごうということになってしまうのだと思います。
じゃぁ今まではどうやって凌いでいたのか?と考えると、かつてそこを埋めていたのは「フリーター」だったのではないかと思います。今から20年くらい前に僕が学生だった頃は「フリーター」という業種の人が結構な数いましたが、最近はフリーターという言葉は最早死語の響きさえ帯びています。「なぜそうなったか?」の話をすると長くなるのでそこはさておき、かつてコンビニの24h営業を可能にしていたのは彼ら「フリーター」の存在に依るところが大きかったのではないでしょうか?

以上をまとめると。「便利の追及」の自転車操業によってコンビニは現在の地位を築き上げました。しかし、「便利」にするためのコストは膨らむ一方で、それを店舗オーナーやバイト(特にフリーター層)に押し付けながらここまで来ました。それがいつか破綻する日がくることはなんとなくわかっていたのですが、とうとう「便利」のコストを押し付ける先がなくなってしまったために24h営業が成立しなくなった…ということではないでしょうか。本当は「便利の追及」以上に本質的な問題として「日本の衰退」が背景にはあると思うのですが、それについて書いてたらまとまらないので、またいつかの機会にしようと思います。
これを書きながら、学生時代に毎日のように発泡酒を買いに行ってたコンビニのフリーターの店員の事を思い出しました。神田さん(仮名)という30手前くらいのフリーターの店員は、研究室からの帰り(深夜4時くらい)に行くとほぼ必ず店にいて、あんまり毎日通ってるうちに少しだけ挨拶を交わす間柄になりました。そのコンビニで昼間バイトしている大学の後輩に神田さん(仮名)について聞いたら「あの人フリーターなんですけど、あの人がいないとあの店は回らないんですよ。週6とかでシフト入ってますから。」と言っていた。神田さん(仮名)は今どこで何をやってるんだろう?たぶん年齢的には50歳に近いはずなんだけどな。。

2019年1月14日月曜日

RIZAP的な詰め込みは”学び”と言えるんだろうか?

年明け以降、上司命令で東京のビジネススクールの講座に出張で通う羽目になりました。3月末までの間に数回の講座の度に新幹線に乗って出張しなければいけない上に事前に宿題が出たりと色々面倒この上ないのですが。どうしてもイヤというわけでもないので、今回は逆らわずに受けてみることにしました。新卒で入社して以来、大半の時間は社外の人とも接することなく過ごしてきたので。たまにはそういう場に出てみるのも悪くないと思ったわけです。
がしかし。1回目の講義を受けた段階で、もう既に次に行くのが正直なところ面倒になってきているのです。講義が始まる前は、隣の席におネイルがバッチリのお姉さん(仕事は超文系の総合職)が座ってたりしたので、ちょっとウキウキしていたのですが。講義が始まるなり講師の人が「皆さんで楽しく学びましょう!」と元気一杯に言い出して、そこからは乗せられた受講生が小学生のように手を挙げる…という展開が3時間続いたのです。

さすがに講師もプロですから、このあたりは手馴れたものだなと思いました。集団としての我々日本人は「互いに空気読みあって消極的になる」か、「幼稚園児みたいに従順になってはしゃぐ」の、どちらかしかできないということをつくづく思い知らされました。例えば、思春期くらいになると学校の音楽の授業ではお互いに空気を読みあってまともに誰もちゃんと唄おうとしないですよね?かたや、テレビで中高生の合唱の全国大会を見ていると、ヤバいクスリでもやってるんじゃないかと思うくらい目を見開いて恍惚の表情で歌ってる人がいますよね。我々日本人が集団として取りうる行動はこのどっちかしかないのではないかと思います。
「楽しく学ぶ」のは結構。でも、我々日本人にそれを言いっても、「うわついたりはしゃいだりせずに落ち着いて学ぶ」ということはどうしてもできないのです。このような「ハイ」な状態というのは短期的に情報を詰め込んで洗脳するに一番効率がいいのは認めるのですが、それは中長期的な「学び」を喚起するとは僕にはどうしても思えないのです。中長期的に学びを維持するためには「落ち着いて考える」ことを地道に繰り返すしかない。

本当の「学び」というのは教えられることを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうかな?」「なぜそうなるんだろう?」と考えることの中にしか存在しないと思うのです。
これに対して、この手のセミナーは短期間で受講生の「何か学んだ・達成できたかのような気分」を最大化することだけが目的になっていて、結局やってることがRIZAPと変わらないと思うのです。講師の人の口ぶりを聞いてる限りでは、”ビジネス”という言葉さえ持ち出せば「洗脳による詰め込み」が正当化されると考えているような節があるのですが、「洗脳による詰め込み」って受講生の知性を見下してナメてるとしか僕には思えないのです。
一時的にハイになっている状態で学んだことの中に、後々臨終の間際に人生を振り返って「あれで人生変わった」と思えるようなことが含まれている事は絶望的に期待できないと思います。本来の意味での「学び」が起動すれば後はほっといても学び続けることになると思うのですが、ここで一時的にハイになってはしゃいでる人は講座が終わった後にそこから先を自ら学ぼうとはしないでしょう。せいぜい同じようにハイになって洗脳されることを「学び」だと思って自転車操業的に同じようなことを追いかけるんじゃないかと思います。

この講座の一番辛いところは、宿題として事前にやってきた課題(例えば「自分で企画書を作る」というようなものだと思ってください)を受講生同士で添削させられることなのです。なんとなく想像つくと思いますが、残念な人とペアにされると本当に苦痛な時間になってしまうのです。いきなり一回目でハズレをひきました。僕が作ってきた企画書は授業で教えられるような模範的な枠組みとはかなり違う構成になっていたのですが、残念なパートナー氏は僕がやってきた課題について何一つ褒めずに、授業で教えられたことを杓子定規に振り回して問題点だけを指摘してきました。
以下はそのとき僕が頭の中で考えてたことです。「あのさー、さっきから講義で言ってる話は『こういう風にした方がうまく行くことが多いよ』という経験則の話でしかなくて、その通りじゃないものはダメって言ってるわけじゃないはずなんだよ。どんなモデルやテンプレートにも適用可能な限界は必ずあるし、それだけが正解ではないんだよ。たぶんアンタ、自分の頭で考えてないことに自覚ないよね?あとさ、ダメ出しはしてもらって構わないんだけど、相手のいいところをいくつか見つけて褒めてバランス取るでしょ、普通?ダメ出しなんてアホでもできるんだけど、相手のいいところ見つけて褒めるほうがはるかに難しいんだよ。」

ちなみに「ビジネススクール」の講座は欧米のビジネススクールのものをそのまま教えているんだそうです。欧米人の思考様式や習慣という大前提が共有できていない日本人に表面的なテクニックとして欧米人の猿真似をやらせるからこんなことになるんだと思います。欧米人は例えばプレゼンなどに対して反対意見を述べるときでも、まずプレゼンした人の話のいいところを見つけて褒めるところから話を始めます。ビジネススクールは、まずこういうところでの「欧米人のフォーム」を教えることから始めてくれないかな。。

あと数回、先が思いやられる。。

2019年1月2日水曜日

「西郷どん」から大河ドラマを経て、結局最後は西田敏行

あけましておめでとうございます。「読者」が存在するのか最早分からないまま、早幾年。このblogもとうとう6年目に突入しようとしています。これを書いている現在はお正月のお休みで、例によってこういう長期休暇でちょっと時間的に余裕があるときには日頃温めていたアレやコレについて思うところをしたためてみようかと思います。
そんなこんなで、2018年の大河ドラマ「西郷どん」なのですが。四半世紀以上前ではありますが、1990年に一度大河ドラマとして取り上げた(このときの主演は西田敏行でした)ことのある「西郷隆盛」を改めて取り上げたということには、「どうしても我々日本人は西郷隆盛のような人が好きでしょう?」というメッセージを感じます。これについては、何も反論できない。確かに我々日本人は大久保よりも西郷みたいな人が大好きです。

今回の大河ドラマを見てて気になったのは、主演の鈴木亮平が今の世相とのシンクロぶりです。西郷の年齢に合わせて段階的に太っていくなど、通常あり得ないくらいのストイックさで鈴木亮平は役作りにのめり込んでいたのだと思います。役作りのために太ったりするということ自体は、いちいちロバート・デ・ニーロを引き合いに出すまでもなく、昔からやられていることなのでこれといって特別目新しいことではないのです。しかし、鈴木亮平の取り組み方はどこか過剰で病的に見えるのです。
彼の姿には「伸びしろのないこの国で、何かを犠牲にしてでも、まだ伸びしろがあるかのように見せる」という日本の有り様がそのまま投影されているように見えてしまいました。ここまでの世相と特定の役者が繋がって見えたのは、00年代後半の佐藤隆太(どこか空虚で中身のない前向きさ)と半沢直樹をやっていた頃の堺雅人(震災後の「他人を許す能力のない日本人」)くらいなのではないかと思います。

さて、その西郷どんの次の大河ドラマは東京オリンピックなんだそうです。東京オリンピックに向けての挙国一致体制やメディアスクラムについてはもう今更くどくど申しませんが。大河ドラマというのは幕末~明治くらいまでの時代が僕にとって大河ドラマと思える限界なので、東京オリンピックという時代設定が大河ドラマとしてアリなのか?ということがどうしても気になるのです。僕が覚えている大河ドラマは「独眼竜正宗」からなのですが、そこから西郷どんに至るまで大河ドラマは幕末~明治までの、つまるところ「現代と地続きではない過去」の範囲に収まっているのです。
せっかくの機会なので調べてみました。結果としては、ほとんどの大河ドラマは幕末~明治くらいまでの時代設定で、つまり、平たく言えば時代劇なのですが。丁度僕が覚えている「独眼竜正宗」の前の三作だけはこの例外にあったようです。ここから、このバブル前夜(1984-1986)の時期の3作だけが例外だった理由をちゃんと調べずに勝手に想像してみます。この時期まで20作以上大河ドラマを作って、ひとしきり時代劇に飽きてきたので別の方向に進みたいということも一つの背景だったんだろうと思います。そして、バブル前夜という時代にまで差し掛かったところで、戦争~敗戦~復興を経てバブル前夜に至る昭和という激動の時代を総括したいという機運もあったのではないかと思います。

大河ドラマの王道は、平均的な日本人のおじさんが快哉の声を上げそうな「スケールのデカい合戦モノ」か「幕末~明治サイコー」のどっちかです。ここには司馬遼太郎の影響が垣間見える気もするのですが、日本のおじさんは「敗戦国日本」を突き付けられるのを忌避する傾向にあるように思います。これは一昔の朝の連続テレビ小説では必ず太平洋戦争がやってきて女性目線を通して「被害者としての日本」だけが描かれていたのと相補的な関係を形成していると思います。
話をバブル前夜の異色の3作に戻しますが、この3作の中でも1984年の「山河燃ゆ」は、webの情報を見た限りでは今のNHKからは想像できないくらい攻めてる気がします。この「山河燃ゆ」は太平洋戦争というトラウマに対して真正面から挑んでいるようで、当時まだ御存命だった昭和天皇まで登場します(当然本人ではなく役者が演じているのですが)。そして、この作品は準主役が西田敏行だったみたいです。。

というわけで、大河ドラマの話をしてたら、なぜか西田敏行祭になってしまいました。よくよく考えてみると西田敏行ってすごく不思議なんですよね。特に顔が整ってるわけでもないし、歌が上手いわけでもない。「西田敏行がすごく好き」という人には会ったこともないけど、「西田敏行が大嫌い」という人にも会ったことが無い。冷静に考えるとなんであんなにテレビや映画に出てくるのか謎なんですよね。お笑い芸人でいうと鶴瓶のようなポジションにいる人だと思います。
最後にこの勢いで我が家の年賀状の話を一つ。我が家のここ数年の年賀状には「酉年:火の鳥」とか「戌年:獅子丸(忍者ハットリくん)」のように干支にちなんだキャラクターを使ってきたのですが。今年の猪年については、これといって思いつくキャラクターがなかなか思い浮かびませんでした。そんな中で西郷どんの総集編を年末見てた時に、「西田敏行の猪八戒でいこう!」というアイデアがで電撃的に降ってきました。かくして本年の我が家の年賀状には西田敏行の猪八戒が全面的にフィーチャーされております。

当blogも解説当初ほどの勢いでの猪突猛進とまではいかないですが、暇を見つけては時々思うところをしたためてみようと思います。とはいっても、西田敏行と大河ドラマの話は少なくとも今年中はこれ以上出てこないと思います。だって、あの東京オリンピックの大河は見る気しないもん。いくら脚本がクドカンで音楽が大友でも。