2013年7月6日土曜日

自由と権利と嫌煙ファシズム

もう話題に出したり考えたりするだけでもゲンナリする橋本徹ですが。大阪市の職員相手に苛烈な煙草狩りをしているそうです。煙草一本で100万円ですか。この人はこれまでも自分の部下にあたる大阪市の職員や教育委員会などを相手に子供じみたケンカをふっかけたり苛烈な扱いをすることで自分を「正義の改革者」に見せるという手法をずっと続けてきたのですが。こんな「きたかぜとたいよう」のきたかぜみたいなことやって、市民サービスの質は改善されたんでしょうかね?職員を上手く使って働かせるのが市長の仕事なんじゃないかと思うんですが。部下とうまく付き合おうという気がそもそもこの人には無いですよね。人を使うのがヘタすぎるというか、自分が人をうまく使って仕事をさせるべき立場だという意識が本人に最初から無いんじゃないかと思うのです。子供じみたケンカを続けて自分を「正義の改革者」に見せるという「手段」の自転車操業的な継続が彼の目的になってしまってるように見えるのです。

しかし日本は嫌煙ファシズムがかなり市民権を得ている社会なので、刺青とかアンケートとかの過去の問題に比べると煙草狩りは職員側から強い反対が出にくいのんじゃないかと想像します。例えば市の労働組合にも嫌煙ファシストはある一定量いるでしょうから、喫煙者の権利を保全せよと足並みを揃えるようなことにはたぶんならないんでしょうね。
ここでまぁ、いつも通りスペインとの比較になっちゃうのですが。まず、スペインの方が日本より圧倒的に喫煙率が高いです。そしてスペインの方が圧倒的に喫煙者に寛容な社会です。僕が渡西した直後は飲食店内での喫煙が合法でしたが、2011年から飲食店も含めて公共空間での喫煙は違法になりました。この法律が施行されてから、さすがに飲食店の店内での喫煙は見かけなくなりましたが。その代わり屋外での喫煙には誰も特に文句を言いません。歩き煙草も普通にしてますし、吸殻のポイ捨ても当たり前のようにします(ただし、スペインには「街を掃除する仕事」をする人達がいて、吸殻や落ち葉をまとめて掃除してくれるようになっています。ある意味ポイ捨ては合理的なのです。)。

2011年の法律施行前に非喫煙者とバルやレストランでの喫煙について話していたときに、あるスペイン人が「確かに煙草は迷惑だとは思う。だけど、彼らの煙草を吸う自由を奪うことはしたくない。」と言ってました。たぶんもう説明する必要もないくらいだと思いますが、こういう物の考え方は日本の嫌煙ファシズムに致命的に欠けています。嫌煙ファシズムは副流煙の害などの科学的根拠を旗印として「吸わない人の権利」だけを主張するんですが。「吸う人の権利」に配慮する気がまるで無いように思います。
日本人に他人を許したり愛したりする習慣が全く無いことがこの違いを生む原因の一つだと思いますが。それだけでなく、欧州人(今回はアメリカを含めていい気がしないので除外)は自由や権利を行使することが大なり小なり他人の自由や権利を犠牲にすることだということをよく理解しているんだと思います。別の言い方をすると、世の中は譲り合い無しには成り立たないという合意形成があるのだと思うのです。「あなたの言うことには一つも賛成できないけれど、 それを言う権利は命にかえて守る」という教科書にも載ってるヴォルテールの言葉は、自由や権利の本質をとてもよく表現しているんじゃないかと思います。
欧州人には「自由」とか「権利」という概念の発生から、それを獲得するまでの歴史、そしてそれが自分達に先人から遺産として引き継がれていることが一つながりのコンテクストとして認識されているように思うのです。一方、日本人にとって民主主義とか自由とか権利とかっていうのは、ある日突然よそからもらってきた借り物の制度なんだなと思います。

煙草に話を戻すと。実際のところ日本では日常生活からはだいぶ煙草が隔離されている印象はあるんですが。でも、僕にとって煙草が迷惑だと感じる機会は実は日本の方が多いのです。というのも日本の居酒屋、飲み屋で煙草を吸う人がいるからです。せっかくそれなりにお高いお金出して美味しい食べ物を食べるときに隣で煙草吸われるとちょっとイラっときたりします。少なくともスペインだと屋内の席は禁煙で、煙草を吸いたい人は屋外のテラス席を利用します。だから屋内で食事中に煙草の煙に煩わされることがスペインでは無いのです。まぁこれはさすがに2年間スペインに住んでたおかげでだいぶスペインかぶれになってるせいもあるとは思いますけどね(歩き煙草くらい迷惑とも何とも思わなくなりました)。
さておき、スペイン人みたいにもっと他人に寛容になって譲り合って生きればもっと暮らしやすくなるのになといつも思います。これは煙草に限った話ではなく、いろんなことについて思うのですが。
嫌煙ファシズムって、日本人の「正義」を背にすればいくらでも苛烈で残酷な仕打ちができる恐ろしさとか、相手を愛したり許したりする能力の乏しさとか、「自由」とか「権利」に対する意識の低さなどなど、日本の嫌な側面ばかりを見るようで本当に悲しくなるのです。
副流煙に含まれる化学物質による健康被害よりも、僕には日本人の「他人を許さない態度」「結論から話さない、話が長くて分かってもらいたがりすぎ」なんていう性質も健康に良くないと思えるのですよ。こういう物って副流煙と違って影響が計量できないんでしょうけど、だからって野放しにしないでなんとかして欲しいと常々思ってるんですけどね。
最後に。昔煙草を吸ってた立場から言わせていただくと。嫌煙ファシストっていうのは往々にしてちょっと頭のよろしくない人であることが多いので。そういう人達を小バカにしなが吸う煙草がすごくうまいこと、そして、それが煙草部屋コミュニティの連帯をより強固にするということをここに書き残しておきたいと思います。

1 件のコメント:

  1. 嫌煙ファシスト、なんていう人が現実にいるなら
    それが例えば市の職員の中にいるなら、
    ファシズム、という言葉に見合った結果は
    もっと早く、とっくに出ていただろうと思いますよ。

    まず先に不満といった感情があって、
    それをぶつける対象への需要が
    「嫌煙ファシスト」または「嫌煙ファシズム」
    という言葉と、それが指し示すであろう人種や
    状況を、喫煙者の頭の中に生みだしたのか
    なんてことを思ってしまいますね。

    もしいまの現実の状況、受動喫煙の被害者の
    自衛行動などを指してファシズム、ファシスト
    と呼び、その言葉が適当なら
    ファシズムって随分手ぬるい、穏やかなものなのかな
    なんてことも、思います。

    少なくとも公然と職場を離れて社外の喫煙所で
    たまってると、ほかの趣味嗜好じゃこうは
    いかないなあ、なんてつくづく思いますね。






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