2020年5月5日火曜日

コロナとsocial distance

これを書いている現在は、「緊急事態宣言の延長を受けて皆さんもうだいぶうんざりしながら、ぼんやりGWを過ごしている…」という局面です。かくいう僕も4月下旬からテレワーク(原則オフィスに出勤不可)になったのですが、この措置が5月の中旬まで伸びました。おそらく、このままの勢いだと5月いっぱいテレワークなんてことになりそうな雰囲気です。

今回のコロナの件についてはいろんな人がいろんなところでいろんなことを言ってて、もう皆さん食傷気味なんだろうと思います。結構な期間このblogをやってるおかげで、安倍政権のコロナ対応について言いたい事のいくつかはすでに過去に自分が書いていたりします。たとえば、


こうやって、「今言いたい事は前にココとココに書いといたことと同じだから…」といった形で、時事ネタに対応する投稿は過去の投稿のリンクだけになっていきそうな気もするのですが。ようやくコロナについて「昔の自分も含めてあんまり誰も言ってなさそうなこと」を思いついたので、それについて書いてみようと思います。

先日、アメリカ在住の日系人が現地の様子について「屋外では6フィート以上人と離れるように言われている」とテレビでコメントしているのを見ました。海外と日本を比較して、コロナに対する対策で決定的に違うのは、この「他人との距離の取り方」なのではないでしょうか。最近スーパーに買い物に行くたびに思うのですが、みんなマスクはちゃんとしているのに、お互いに距離を取ることが全然できていないのです。レジにはいつも通りの密度で列を作っています。そもそも、他人と距離を取らなきゃいけないという意識が無いように見えるのです。以前このblogでも触れたとおり、日本人のマスク好きは世界的に見ても突出していると思いますが。日本人はマスクをつけることで「自分と外界」の境界、より厳密には「自分と自分を取り巻く空気との境界」を作ることには熱意を傾ける一方で、「他人との距離」については意識が薄いように思うのです。

例えば、「アメリカ人は対人距離を非常に気にするので、日本人は不用意に近づきすぎないように注意するべき」というのはよく聞く話ではあります。僕は重度のアメリカ音痴なのであまり経験値は高くないですが、国土が広くて人がまばらなアメリカではそういう傾向があるのはなんとなくイメージできます。このアメリカのイメージを念頭に置くと、"social distance"という言葉はとてもしっくりくるのですが。日本人がカタカナで”ソーシャル ディスタンス”と言ってても、どこか実体があやふやな感じがするのです。これは、自分たちの身体感覚に馴染まないものは「カタカナ」としてそのまま扱うという、日本人特有の言語感覚の好例だと思います。誰も「social distance」を「社会的距離」みたいな日本語にして扱おうとはしないですよね?

一方で、スペインやイタリアなどのラテン国家ですが。こちらの方が僕ははるかに経験値が高いのですが、ラテン国家はとにかく人と人の距離がすごく近いです。なんせ、男性と女性の間での挨拶は基本的にベッソ(頬ずり)ですからね。それを考えると、イタリアやスペインでコロナが流行ったのも何となく納得はできるのです。しかし、「ではラテン国家も日本と変わらないのか?」と言われるとそこもまたちょっと違うと思うのです。ラテン国家は対人距離という意識はあった上で、普段はそれを意図的に詰めているような気がするのです。よって、ひとたびコロナが問題になるとちゃんと距離を取るということが日本人に比べるとまだ彼らはできそうな気がするのです。まぁ、これは「気がする」というだけであって、実際に見て確認したわけじゃないんですけどね。