2022年1月10日月曜日

千と千尋の神隠しは日本社会そのものを描いているように見えた

 あけましでおめでとうございます。今年も読んでる人がいるのかもよくわからないblogを時々は更新していこうと思います。年明け早々にテレビで「千と千尋の神隠し」を放送していたので録画しておいたところ、子供がハマったようで何度も一緒に繰り返し見てしまいました。何度も見てるうちに、「千と千尋」は日本社会の問題点をそのまま描いているように思えて仕方なくなってきました。ネットで検索すると油屋はホワイト企業という記事もあったりもするのですが、たとえネタではあってもそれはこの映画の趣旨からすると違うんじゃないか?と思ったので、そのあたりを順番に書いてみようと思います。

「千と千尋」の舞台となる油屋で働く人々は湯婆婆に本当の名前を奪われて、代わりに源氏名のような名前を与えられて支配されています。そして、従業員はたとえカオナシやクサレ神であっても基本的に「お客様」として丁寧に接することを要求されています。これは、個人としてのアイデンティティを殺して「お客様」に対してマニュアル化されたサービスを提供することを要求される日本の社会をそのまま描いているように見えました。 

 そして、お客様として理不尽な立ち振る舞いをするカオナシもまた従業員と同様に「自分がない」のです。「自分がない」から金を食べ物やサービスと交換する経済活動を通してしか他人と接することができないわけです。これって、日本そのものだと思いませんか?

設定やビジュアル面でも油屋は「八百万の神」「お風呂」「老松」「平安風の装束」など、これでもかというくらいに「和=日本」が強調されています。そして、物語の中盤で名前を取り戻した千尋は油屋から外に出るときに洋服に着替えます。これは、「油屋=日本社会=自分が千である世界」から脱出する道を歩み始めたことを象徴しているように見えました。

では「湯屋=日本社会」から自由になるにはどうするか?「名前=自分」を取り戻しただけでは湯屋からは自由にはなれません。更に、自分を縛り付ける「契約=ルール」を解除することが必要になります。映画の最後で湯婆婆は「豚の中から自分の親を見つけられれば元の世界に戻してやる」と千尋に言い渡します。このゲームのルールは、暗黙のうちに「この中に千尋の親がいるはずだ」という思い込みを与えるようにできています。しかし、これに惑わされない千尋は「この中には自分の親はいない」と、何の躊躇もなく言い当てます。このシーンは、「押し付けられたルール(社会規範)の外に出ない限りはルールから自由になることはできない」ということを示唆しているように思いました。

以上で「千と千尋」について書きたかったことはだいたい終わりなのですが。長らくblogをやっていると、何か書こうと思ってキーボードに向かってみたものの、書いてるうちに自分が昔似たようなことをblogに書いたことを思い出すことがあります。今回も、書いてる途中で「昔似たようなこと書いたよな」と思って検索してみたら、このblogを始めた直後に同じようなことを書いていたじゃないですか。そう、スペインのように「お互いに許し合う社会」では日本人のような病み方はしないですよね。同じラテン系くくりになりますが、ちょうど この前読んだイタリア人の精神科医が日本について書いた記事にも同じような記述がありました。

「会社や学校など世の中の建前に合わせようとするあまり、自分が思ってもいないのに、無理してうわべだけ取り繕おうとする。そうした“感情労働”が心をむしばむのです。