2024年1月8日月曜日

ラカンの視点から再考する「君たちはどう生きるか」

 冬休みも気が付いたら今日で最終日です。いきなり元日から能登地方で大地震が発生、その後も羽田の事故や北九州の市場の火災など、2024年は波乱の幕開けとなりました。被災地の状況を伝えるニュースを見ていると、自分は家でゴロゴロしているだけでいいんだろうか?という疚しい気持ちにどうしてもなってしまいます。その一方で、自分ができる事ってせいぜい募金することくらいなのですよね。。

 そんなわけでお正月は結局家でゴロゴロしていただけなのですが、唯一やったことと言えば「ゼロから始めるジャック・ラカン」という本を読んだことでした。この本はラカンの入門書としては大変評判になった「疾風怒濤精神分析入門」という本に増補改訂を加えた文庫本です。単行本で読みたかったけど金額と保管スペースを考えて、文庫になるまでひたすら待つ…というのは、進撃の巨人や鬼滅の刃の原作漫画を読むのを我慢してアニメでだけ見る…というのと同じスタンスですね。  

さておき、この本は入門書と言いながらも一般人の僕には十分難解でした。もちろん、ラカンの原著の訳分からなさに比べたら一般人に読めるレベルには十分噛み砕いて書いてあるのは分かるのですが。それでも一般人にはなかなか読み進めるのが難しかったです。二周読んでみたけど、いまだに細部までは理解しきれていないと思います。しかしながら、やっぱり読んでると「なるほど」と思える箇所が多々あるのです。フロイドの本は「なんでも性欲」と自信満々に言い切ろうとしているオラオラ感があるのですが、ラカンの本はもう少し離れた場所から「僕はこう思うんだけどね。まぁ、君が理解できるかは君次第だし、理解できたとしても同意するかも君次第だよ。」と言ってるように思えるのです。

ここからようやく本題なのですが。ここから先はラカンの入門書である「ゼロから始めるジャック・ラカン」を読んだ程度の知識で書いていきます。僕自身ハンパな知識しかないので、ラカンの用語について説明できるほどの技量はないのでそこは一切省略します。そして、もしラカンについて専門的な知識を持った人からこの内容についてコメントをいただけるとうれしいです。

改めてラカンの本を読んだ後に2023年に公開された「君たちはどう生きるか」について考えてみたところ、この映画は全体としてラカンの言うところのエディプス・コンプレックスの過程を描いているように思えました。主人公の少年は亡くなった実母(=「万能の母」)への執着をいつまでも捨てられないままでいます。この作品は他にも何人か女性が登場しますが、(実母と姿形は似ているけど何かが決定的に違う)継母、ヒミ、キリコなどの女性はすべて「欠如を持った母」として主人公の前に現れます。

一方の大叔父ですが、彼は突然降ってきた隕石によってもたらされた力によって、あちら側の世界(象徴界と言ってよいと思います)の王として君臨しています。なのですが、その力はあちら側の世界の中だけに閉じていて、大叔父はそこでの「隕石の力=万能の母」との閉じた関係の中をずっと生きてきました。しかし、その世界もインコなどの「父の名」の浸食によって脅かされています。

物語の終盤で、主人公は「元の世界に戻って、アオサギやヒミやキリコのような友達を作る」と宣言します。これは大叔父の後継者となって「万能の母」と繋がり続けるのを諦める、つまりエディプス期の終焉を意味しているのではないでしょうか?一方で、その直後に大叔父の力の源であった積木はインコの大ボスという「父の名」によって破壊されてしまいます。以上の下りでの主人公と大叔父をまとめて見ると、「父の名」を受け入れることでエディプス期を終了する…というラカンの理論を描いた物語であると言えるのではないでしょうか?

だいたい書きたかったことは以上なのですが、最後にNHKが放送していた「君たちはどう生きるか」のメイキングのドキュメンタリーについて一言触れさせてください。宮崎駿は亡くなった高畑勲をずっと追いかけてきて、映画の制作中も話に出てくるのはずっと高畑のことばかりでした。これはラカン風に言うならば、宮崎にとって高畑は「対象a」だったということなのではないかと思います。