2013年11月17日日曜日

林檎をかじった人類はコンピュータを進歩史観で語り続けるのか

仕事柄、僕はコンピュータを単に普通の文房具(メールとかネットとかwordとかexcelとか…)として使うだけでなく、コンピュータの上で動く何かをプログラム書いたりして作る立場なので。僕のコンピュータ観というのは「使う側」よりは「作る側」の観点にバイアスされているのはある程度自覚があるのですが。それにしても、ちょっとここ数年のAppleはどうなのかなー?と思ったりするので今回はその辺のことを書いてみようと思います。

ここ数年のAppleのやってることって、新しいOSを出してはそのサポート対象から古いデバイスを切り捨てていくことでユーザーに暗黙のうちにハードの定期的な買い替えという形で年貢を納めることを要求したり。また、その新しいOSを出す度に結構OSの仕様が変わる上に下位互換を割とアッサリ切り捨てるので、以前のOSで動いていたソフトがそのまま動かなくなりまして。ソフトを作る側はOSが新しく出るたびに昔動いてたものが動かないとか、対策しようとしたらまず新しいOS向けにはビルドが通らないとか、そんな状況に遭遇するわけです。
しかしですね。そもそもコンピュータの何が便利かって考えたら、ぱっと思いつく範囲でこういうことだと思うのですよ。
・人間と違って計算を間違えない
・答えを出す方法が自明な問題を解くのは人間とは比べ物にならないくらい早い
・データは媒体が壊れない限りいつまでも保存される
・データは他のコンピュータでも利用できる:互換性、再現性
この最後の項目は人と人が結びつく上で非常に重要です。僕のPCで作ったデータが他の人のPCでも同じように再現されて編集できるから、PCは単に個人の生産性を向上させただけでなく複数人でのコラボレーションの生産性をも向上させるわけです。この"コラーボレーション"という概念を同時代だけでなく時系列に拡張すると、例えば「10年前の自分が使っていたソフトが今使ってるコンピュータでも動く」とか、「10年前に作ったデータが最新のコンピュータでも何らかの方法で閲覧・編集可能である」とか、「10年前のパソコンでも最新のOSが動く」とかいうことになるわけです。

例えば「64bitに対応する」とか正当な理由があるなら昔のハード、ソフト、データ等との互換性を捨てるのもやむなしという気がします。実際のところ、コンピュータってこれまでそうやって古いものを捨てながら発展してきたんだと思いますしね。でも、過去のソフト・データなどの資産との互換性を大した理由も無く損ってまで、「新しさ」を自転車操業的に繰り出し続ける必要があるのかな?と思うのですよ。当のAppleにしてみればユーザーエクスペリエンスがどうとか色々言い分はあって、Apple信者という人々の大半はそれを好意的に支持しているように見えるのですが。「互換性」「再現性」というコンピュータの恩恵をちょっと軽視しすぎなんじゃないでしょうか?
そういう意味ではMicrosoftの方がまだ過去の資産との互換性や再現性に対して丁寧だと僕は思います。まぁ、VistaがコケたせいでXPが10年近く生きてしまったので、過去の資産に対する互換性が7や8においては重要視せざるを得なくなったのもあるかもしれませんけどね。実際のところ、例えば予算が限られていて頻繁な買い替えやアップデートが難しい教育の現場や、支出を少しでもケチりたい企業などでは、2-3年でサポート対象から外れてしまうApple製品を選ぶのは余程の理由が無い限り難しいんじゃないかと思います。

ご存知の通り、90年代半ばのWindows3.1とインターネットの登場辺りからコンピュータは爆発的な勢いで一般に普及して身近な存在となり、それに伴い、ソフト・ハードともに爆発的な勢いで発展してきました。この辺りまでの経緯を所謂「進歩史観」(歴史は良い方向へと自然と向かって進んで行ってるという物の見方)で説明するのは皆さんほとんど異論は無いんだろうと思うのですが。最近のAppleを見てると、コンピュータの歴史はこのままずっと進歩史観的に語られ続けるのかちょっと怪しくなってきた気がするのです。
もうスマホやタブレットでさえ、ハードのスペックとしてはネットとメール等とちょっとした文房具程度ならば十分になってしまったので、それでもお客さんの購買意欲を喚起するためには手を替え品を替えOSを替え…でハードを買えという風に持っていかざるを得ないのかもしれませんが。なんだか新しさの自転車操業というスパイラルに入り始めている上に、そのためにコンピュータの恩恵の一つである互換性や再現性をわざわざ壊してるんじゃないかなという気がするのですよ。
コンピュータがこれだけ身近になって、この先もどんどん生活の中に入り込んでくるのはもうどう考えても避けられないでしょう。だからこそ、20年とか30年経った後も今あるデータがちゃんと閲覧・編集できることを願いますし、10年前の古いハードでも動くようなものが優秀なOSであるという価値観になってほしいと思います。

2013年11月4日月曜日

ヘタにアメリカ人のモノマネするよりも武道の方が国際社会を生きていく上で有用なんじゃないだろうか?

仕事なんで、まぁしょうがないといえばしょうがないことなのですが。海外と共同で進行しているプロジェクトで、こちら側とあちら側との間で意見が対立してちょっとした揉め事になりそうな状況になりました。離れている人と正面からケンカになることはプロジェクト全体の生産性を落とす上に、こちらは語学力に明らかにハンデがあるし、さらにこちら側は少しだけ前言撤回をしなければならない後ろめたさもある状況なので。とりあえず軽く謝って譲歩しつつも落としどころを探していくようなやり方にしてはどうかと僕は提案してみたのですが。こちら側(全員日本人。僕以外は海外に住んだ経験ナシ。純粋な語学力は僕とさほど変わらないけど、英語で喋るとだいたいこんな感じになる。)の日本人達が言ってることは、まぁこんな感じです。
・口頭の議論ではこちらが言いたいことを十分に言えなくて不利なのでメールの往復にしよう
・あちら側に空気読まずに言いたいこと言ってくるメンドクサい奴がいるから、リーダーの奴とだけ話をしよう
・譲ったり謝ったりしたら負けだ、とにかくまずはこちら側に都合の良い事を一方的に主張しよう

言い換えると、「語学力のハンデによる不利益を最小限に抑えつつもこちらの意図している方向に少しでも向かうようにしようよ。相手はガイジンだろ?アイツら流のグローバルスタンダードに習って都合のいいこと主張しておけばいいんだよ。どうせ向こうは向こうで言いたいこと言って削ってくるんだからさ。ペコペコ謝るなんて日本人だけらしいぜ。そんなことしたって損するだけだろう?」といったところでしょうか。
ここまできて、さすがにちょっと違うんじゃないのかなぁ?と思ったわけです。まず彼らの発想にぼんやり伏流している「ガイジン=たぶんだいたいアメリカ人みたいな感じ」という国際感覚はいくらなんでも雑すぎるんじゃないでしょうか(ちなみに今回のあちら側は欧州人です)?アメリカ人はどうか知らないけど、少なくとも欧州人(より厳密に言えば僕が知ってるのは主にスペイン人)は日本人に比べたら確かに自己主張はするけど、譲り合う能力は日本人より高いと思います。だから日本人みたいに「議論=斬り合い」にならないのです。
逆に言うと、日本人同士なら分かり合えると彼らは思ってるみたいなんですが。彼らと日々仕事をしていると僕がいつも感じるのはこういうことで。現にこの案件に関して「我々は語学力にハンデがある=弱者」という点以外では僕と彼らの見解は全く相反しているのです。

このように我々が弱者だという点では見解が一致しているのに、そこから導き出される見解が全然違うのはどうしてだろうと考えてみたのですが。どうやら僕の2年間のスペイン生活は「語学的にハンデが有る”弱者”としてスペイン人の社会の中で生きていく」という訓練の場になっていて、以後、日本語が通じない相手と接する際にはこの「弱者」の態度を基本的なフォームとして採用しているようなのです。
そしてようやく本題になるのですが、これは内田樹氏の武道論とほとんど同じことを言ってると思うのです。氏の修行論という本の紹介文では武道をこのように位置づけています。
武道の修業、なかでも著者が長年稽古をつづけている合気道の修業を通じて開発されるべき能力とは、「生き延びるための力」である。それは「あらゆる敵と戦って、これをたおす」ことを目的とするものではなく、「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系である。
もうこの文章に言いたいことはだいたい集約されているのですが。以下、webに散らばっている氏の武道論を引用しつつ、こちら側の日本人の何が問題か考えてみます。

天下無敵とは敵をつくらないこと
「無傷な、完璧な状態にある自分」が存在するとした時に、そうじゃない状態(今あるような自分のこと)を「敵による干渉の結果」として説明するような方法をとる、これが敵を生みだすロジックです。
こちら側の日本人は「英語になるから言いたいことが伝わらないんだ」といった具合に、「完璧な自分」の能力が「語学の壁」という敵の干渉によって損なわれているという語法をうらめし気に使うのですが。このような考え方は内田氏の指摘の通り、あちら側を敵とみなす物の考え方に帰着する結果になっています。そんな事言っても、有り物の語学力でやりくりするしかないんですけどね。。

居付き(ここの最初の方にだいたい書いてあります)
僕の理解した範囲で「居付き」の極端な例は、夜道でナイフを振り回して脅してくる敵のナイフに対する恐怖で体がこわばって身体運用の自由が制限されてしまうような状況です。こうなるとベストパフォーマンスを引き出すことが難しくなるので危険を回避できる可能性がより低くなってしまうわけです。こちら側の日本人の態度もこれと同じで、自分達が語学的に弱者である(=相対的に相手が強い)という恐怖が相手に対して過剰に防衛的かつ攻撃的な態度(アメリカ人のモノマネ)に出るような結果になってしまっているように見えるのです。純粋な語学力の観点からは、僕の語学力はこちら側の彼らより多少マシな程度でそんなに大差無いと思うのですが。こちら側の彼らと僕の大きな違いは、自分が語学的に弱い状況に対する経験値なんじゃないかと思いました。

キマイラ=相手と同化する(ここの2ページ目に書いてあります)
二人の人間が対峙しているとき、その事態を『頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本』のキマイラ(ギリシア神話に出てくる怪物)的な生物が一人いるととらえる…<中略>…私と相手を同時に含む複素的な身体がある。…<中略>…複素的身体はすでに成立しており、すでに動き始めている。その構成要素として、私と相手は事後的に分節されるばかりである。その枠組みで考えれば、私と相手の動きの先後や強弱勝敗巧拙の差は問題にならない。」(「修行論」より)
自分と相手を対立する物と考えるのではなく、相手と同化して一つのキマイラを作るんだと考えるということです。夜道でナイフを振り回して脅してくる相手(利害が100%相反する)と対峙するときでさえ瞬間的にキマイラを作れと言っているわけです。今回の例で言うと、あちら側とこちら側はプロジェクトの運営という共通の利害を持っているので、瞬間的どころか恒常的にキマイラを形成することを本来目指しているはずなのです。メンドクサい奴があちら側にいるからといって話から外すという態度は結果的にこのキマイラの成立を妨げるだけなのです。
実際のところあちら側のリーダーだって、メンドクサい彼に何もお伺いを立てずにこちら側と話をするなんて無理なので。当然そのメンドクサい彼にも意見を聞かざるを得ないわけです。結果として、こちら側がメンドクサい彼を邪魔だと思っているという事実だけが伝わるだけで、何も得るものは無いのです。


以上述べたように、大多数が語学的に弱者である我々一般の日本人が弱者なりに国際社会を生きていく上で、内田氏の提唱する武道論の方が「グローバルスタンダード」を標榜してアメリカ人のヘタなモノマネをするよりもはるかに有用なんじゃないだろうかと僕は思うのです。