2018年10月28日日曜日

ハガレンの実写はコスプレ大会に見えた

我が家はWOWOWと契約しております。シングルインカムのサラリーマン家庭では、月々2500円だってバカにはできないのですが、それでも僕がリーガ・エスパニョーラを見たいので契約しているのです。そのついでと言ってはなんですが、WOWOWは映画プログラムが充実しているので、ときどき映画も録画してみています。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。

まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。

つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。

以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。

2018年10月16日火曜日

レンタル店に未来はあるのか?

「お父さん、休みの日だからってゴロゴロしないで!」と言われながら、掃除機をかけている奥様に邪見に扱われる…そんな漫画みたいなおじさんになる日が自分に訪れるとは全く思ってませんでした。少なくとも、子供が生まれるまでは全くそんなこと考えていなかったと思います。しかし、子供が生まれてひと段落して気が付いてみたら、僕は休日をほぼ「漫画みたいなお父さん」のように過ごしています。
なんでそうなるか?という問いに一言で答えると、「日本の育児においてお父さんは実質的には大して役に立たない」からです。もうちょっとちゃんと説明すると、役に立たないからといって、家族を放ったらかしで遊んでていいかというとそんなこともない。つまり、日本のお父さんというのは「育児において役に立たないけど、その役に立たなさにじっと耐える」ことが要求されているのです。
これを具体的に実践すると、休日は「ただ家でゴロゴロしている」しかないのです。奥様と子供の間の関係は平日も含めた日々の生活の中でしっかり構築されていて、そこに僕が休みの日だからといって張り切って混ざりに行ってもウザがられて終わるだけなのです。だからといって、自分ひとりで好き勝手に遊びにも行けない…となると、家でゴロゴロしている以外にできることか無いのです。

さて、こんな冴えない休日ではありますが、たまに子供と僕の二人だけで外出できるチャンスがあるなら、そういう時はなるだけ二人で外出するようにしています。理由は単純で、普段子供の相手をほとんど押し付けっぱなしになっている奥様に一人きりになれる時間を作ったり、普段なかなか無い母親不在での子供と二人だけの時間を作ったりできるわけです。それは、基本的に「役に立たないお父さん」としてゴロゴロしてるだけの休日の中では、ちょっとだけお父さんも張り切っちゃう時間なのです。
そんなわけで先日、子供が行きたいというので某大手のレンタル店にやってきました。ここは奥様が会員になっているので僕は奥様の会員カードを持っていきました。子供がプリキュアなどなどのDVDを選んできたのでいざセルフレジで会員カードで精算…とやろうとしたら「このカードはご利用になれません。カウンターまで来てください。」というメッセージが画面に表示されました。言われるがままカウンターに行くと、店員のお兄ちゃんが「これカードの名義が****様ですよね?ご本人様以外はご利用になれません」と言われてしまいました。かくして、結局一旦家に帰って奥様本人が後でお店まで行って借りることになりました。

この店員の言ってることは規約上は何もおかしくないんだろうとは思うのです。しかし。例えば「身分証明書見せて苗字が一緒だったら家族だろうと推測されるから使っていいことにする」とか、その程度の融通の利く対応はできないんでしょうか?あらゆるサービスが「個人」にしか紐づいていなくて、「家族」という単位には結びついてくれないのはなんとも不便な気がするのです。例えばスペインだと銀行口座を奥様と共有するということができました。この場合、口座番号は一つだけで、そのカードを奥様と僕のそれぞれのために個別に発行してくれるのです。このサービスは今思い出しても非常に合理的でした。
同じようにレンタル店の会員資格を家族全員で共有しちゃダメなんですかね?だって、同時に借りられるソフトの上限は1個の会員資格につき決まった上限があるわけですから、会員資格を「口数」単位で購入して家族で共有するのは理にかなっているように思います。実際、我が家のように子供のためにDVD借りに行くだけの利用方法の場合、家族の誰かが都度子供を連れていくことになるので、家族間で会員資格を共有できてくれるとすごく助かるのです。

何よりもこういう融通の利き方ができないと、リアル店舗のレンタル屋とネットの動画配信サービスの差がどんどん広がる一方だと思うのです。ネットの動画配信サービスの場合、アカウントとパスワードさえ共有してしまえば誰が実際に使っているかは不問になります。つまり、サービスを家族全体で共有することができちゃうわけです。ただでさえ、お店までわざわざ行くのが手間だったり、ほかの人が借りてると借りれなかったり、店舗に在庫を抱える以上マイナーな作品までラインナップするのが難しかったり…と、実店舗のレンタル店は動画配信サービスに比べると色々不利な点があります。件のレンタル店の対応は、規則には順じているのですが結果的にレンタル店という業態そのものの「緩慢な自殺」のように僕には見えるのです。
とまぁ、ここまで色々文句言いながらもなんで我が家が動画配信サービスではなくリアル店舗にこだわっているかというと、
・多少たりとも子供と家の外に出るキッカケにしたい
・定額見放題の配信サービスは子供のテレビっ子ぶりに拍車がかかる
と、リアル店舗のデメリットが程々に我が家にとって都合がよいからなのです。子育て世代にはこんな理由でリアル店舗を利用する人がまだそこそこいるんじゃないかと思うのですが。そんな層に対しての利便性を向上させる努力をしないと、リアル店舗に明るい未来が見える気はやっぱりしないのであります。