2017年5月5日金曜日

挨拶ができないとダメかな?(その2)

どこの会社にでもある話なのですが、4月に人事異動がありまして。結果として人生で初めて女性の課長の下で働くことになりました。他にも組織変更やら何やらで人の出入りがあったために大規模な席替えが行われまして。結果的にヒラ社員最年長の僕は今回の席替えで右が女性の課長、向かいの席も別の課長、斜め前が部長という席に置かれてしまいました。
これまでの社歴を振り返ると、エラい人の近くの席だったことはありました。最高記録は入社して最初に与えられた席で、そのときはいきなり常務の斜め前の席でした。後から考えると、あれはたぶん誰も常務の周りに座りたがらないので空いていた席を僕にあてがわれたのでしょうが、当時の僕はそんなことさえ考える気もなくて、全くビビッてませんでした。今考えても若いって素晴らしいですね。
しかしこの歳になるとビビり方もそれなりに分かってきますし、何よりも周りの席のエラい人があんまり接したことが無かったり、ちょっと苦手だったりする人なので今回の席替え以降は自分の席にいてもホーム感がまるで無いのです。

そんなこんなで、この席になってから常に「なんとなくやりづらい」のはまぁしょうがないとして。毎日どうしても引っかかって気になってしまう事に「挨拶」があるのです。以前、このblogを始めた頃に「挨拶ができないとダメかな?」というテーマで投稿したことがあったのですが、あの頃気になっていた事と同じような違和感を再び毎日感じるようになったのです。
というのも、件の女性上司がわりとパリッとシャキッと毎朝挨拶をしてくる人なのです。考えすぎかもしれませんが、その立ち振る舞いからは「あなた達との関係を作っていく上で、まず最初は挨拶からはじめようと思っています。人間関係はまず挨拶からしか始まらないでしょう?」という空気を読み取ってしまうのです。まぁ、それはそうといえばそうなんですけども。でも、どうしてもこれが引っかかるのです。
勿論口に出して真正面から議論するなんて事はしようとは思わないですし、毎朝パリッとシャキッと挨拶する彼女の姿勢は職場の大半の人にはどちらかといえば好印象を持って迎えられているんだろうと思います。でも、僕は毎朝挨拶される度に何だか違和感を感じてしまうのです。それがなぜかというと、挨拶ができないとダメかな?で問題にしたように、「自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいと信じて疑っていない」「挨拶のできる自分は社交的な人間であると当人は信じて疑っていないが、実際は挨拶の仕方という一側面だけで世の中を敵と味方に分けたがっている事に自覚がない」という事なんだと思います。

日本人の挨拶のあり方について考える上で非常に有用な示唆を与える話なので、河合雅雄というサル学の学者さんの本に書いてあった話の受け売りをご紹介してみます。河合氏曰く、挨拶という行動様式は高等猿類の中でも人類やチンパンジーなど一部にしか存在しないんだそうです。その一方で、高等猿類の中にはサルのように挨拶という行動様式が存在しない種族もいるそうです。これがなぜかというと、挨拶というのは「互いの不在の時間を埋めるための行動様式」であるからで、逆に言うと「互いの不在の時間が存在しない社会」には挨拶という行動様式は発生しないんだそうです。
サルの社会は常に群単位で行動するので、もしも2-3日以上に渡って群から外れていると、戻ってきても最早群のメンバーとしては扱ってもらえなくなるんだそうです。だから、そんな超群社会では挨拶なんてそもそも必要が無いのだそうです。一方、チンパンジーには新婚旅行のような習慣もあって、カップルが群から何日も離れて二人だけで生活することが普通にあるそうです。だからこそチンパンジーの社会には人類と同様に挨拶が存在するんだそうです。

つまり僕が言いたいことはこういうことです。毎日同じように会社で顔を合わせるような、いわばサルの群のような職場で本当に毎日挨拶する必要があるんでしょうかね?勿論僕だって、久しぶりに会った人や、初めて会う人、他部門や他社の人とは何の違和感もなく挨拶しますよ。だって、時間だけじゃなく、社会的立場や利害関係など、埋めるべきものがお互いの間にありますから。しかし、毎日代わり映えしない面子が顔を合わせる職場で毎日挨拶する必要は本当にあるのでしょうかね?
むしろ、擬似サル山社会である職場で毎日挨拶する事は実態として「毛繕い」や「マウンティング(上下関係を示すために強い方が上になる)」のように、挨拶という行動様式の本義からかけ離れて、会社組織のサル社会的な側面を強調してしまっているのではないか?とさえ僕は思うのです。職場の課長や部長レベルの人たちの中に、毎朝不特定多数に向けて「おはようございます」と繰り返しながら自分の席まで歩いてくる人がいます。ああいう人は挨拶しているようで、実はマウンティングをやってるだけのように僕には見えるのです。彼らの挨拶は「一対多」の「一」のポジションから常に発信されています。言い換えると、全校生徒に向けて壇上から話をする校長先生と同じ立場にいるのと同じなのですが。彼らは毎朝挨拶をすることを通してこの立場を再確認をしているだけのように見えるのです。

おそらくここに書いたようなことは誰に話しても「そんな細かいこと気にせずに、挨拶されたらほどほどに返しておけばいいじゃん。いい大人なんだしさ。」って言われるでしょうし、実際本当にその通りだとは思うのですが。でもどうしても僕には気になるのですよ。。かといって文句ばっかり書いて終わるのも嫌なので、せめてあのマウンティング挨拶をなんとかするにはどうしたら良いか?という提案くらいはここに書き残しておきたいと思います。簡単なことなのですが、「挨拶の後にもう一言何かを話しかける」ということをやりさえすれば良いと思うのです。
まず、これによって自分の席に向かって歩きながら周囲の社員に向かって「おはようございます」と切って捨てながら歩く典型的な「一対多」のマウンティング挨拶は自動的に不可能になります。そして、何でもいいから挨拶の後に何か会話することで、目線の合ったコミュニケーションの糸口が作り出せると思うのです。この、「目線の合ったコミュニケーション」という資質が致命的に欠けていることが、僕が日本人の挨拶に違和感を感じる原因なんだと思います。欧米人、とりあえず自分の身近だったスペイン人を例にとって考えてみたときに、必ず彼らは目を合わせてクラッチが噛み合った挨拶をするのです。
なぜ彼らがクラッチの噛み合った挨拶をするのかというと、「相手と自分はいろいろな事が違っていて当たり前で、お互いに深い断裂があるので、分かり合えることに限界がある」ということが欧米人にとってはコミュニケーションの大前提として共有されているからなんだと思います。といった具合に、例によって今回も最後は「キリスト教文化 vs 儒教文化」という文化的背景の違いに帰結してしまいました。はい。
ともあれ、「挨拶の後に会話を繋げられる」というのは、国際コミュニケーションの場で非常に重要なセンスだと思います。日本人の残念な英会話にありがちな話なのですが、"How are you?"と聞かれたら、体調が良かろうが悪かろうが"fine thank you."と、とりあえず答えてそこから後は何も喋れない人って結構いますよね。例えば調子が悪ければ"not so good."みたいな返し方をすべきですし、そこから「昨日からちょっと風邪気味で…」といった具合に会話の糸口を作るべきなんですけどね。こうなってしまうのは、もちろん単純にボキャブラリが不足しているのもあるんでしょうが。より本質的な原因として、日本人が挨拶を「目線の合った会話の糸口」というよりは「テンプレの交換儀式」としか思っていないからなんじゃないかと思うのです。