2020年10月31日土曜日

日曜の午前中にいいとも増刊号を再放送して欲しい

前回の続きです。

鬼滅の刃の人気が高じて、とうとう関西で鬼滅の刃をゴールデンタイムに再放送というニュースが入ってきました。鬼滅の刃のブームについては色々思うところもあるのですが、ここ最近の鬼滅ブームは過去のエヴァンゲリオンのときともだいぶ様子が違うように思います。鬼滅は老若男女問わずみんな好きなんです。我が家の幼稚園児も鬼滅のキャラは大好きで、毎日のように絵に描いています(アニメはグロ過ぎてみせられないのですが)。エヴァンゲリオンや進撃の巨人のときに、ここまで子供まで巻き込んだムーブメントはなかったと思います。

こういうこと言うと不敬だと怒られるかもしれませんが、現在の鬼滅は何に一番近いかというと憲法が規定する天皇制の役割なのではないかと思います。これだけ多くの国民が「鬼滅大好き」に染まっている様を見ると、鬼滅は「国民統合の象徴」なのではないかと思えてくるのです。しかし、一方では前回も触れたようにこの国では「みんなで同じ地上波のテレビを見ている」ことが終わり始めて、Netflixなどの動画サービスによって各々が好きな物を見るようにマルチカルチャー化が急速に進んでいます。以上をまとめると、かつて「国民統合の象徴」であったテレビがその機能を果たさなくなりつつある中で、鬼滅という一つのコンテンツがその「国民統合の象徴」の役割を果たしていると考えることもできます。そう考えれば、テレビがゴールデンタイムに鬼滅を再放送するのは自然な流れだと思います。

日本人とテレビについて多くの的確な批評を残したナンシー関が存命だった当時、テレビは国民統合の象徴であり、テレビから流れてくる国民的合意事項(というファンタジー)を我々国民は「なんかちょっとヘンな気がするけど、みんな見てるんだからきっとこれでいいんだと思う」と内心疑問に思いつつも納得して享受していました。ナンシー関の功績はそのギャップを的確にとらえてみせたことだと思います。話がナンシー関に少し飛びましたが戻しますと、かつてテレビは国民統合の象徴でありました。そのようにテレビが隆盛を極めた時代の中心に「笑っていいとも!」という番組がありました。僕は今でもときどき「いいとも増刊号をぼんやり見る日曜日の午前中」を過ごしたいと思うことがあります。実際にリアルタイムで放送されていた当時には積極的に見ていたわけでもなかったのですが、あの何もやることもない日曜の午前にぼんやり「いいとも増刊号」を見ている時間が時々懐かしく思えてくるのです。

話を鬼滅に戻しますが、ゴールデンタイムに鬼滅を再放送するというのは「テレビは無理に新しい番組をつくらなくても、国民的な合意形成ができている過去の良質なコンテンツだけ放送すればよい」という時代の始まりのようにも見えます。このような流れが、資本主義が生来的に抱えている「新しい物を無理矢理に作り出さなくてはいけない」「経済成長しなくてはいけない」という病からの解放へと繋がってくれると願いたいです。

以上より、これをキッカケにテレビは中途半端に新しい番組を作るのをやめて、昔の優良コンテンツを再放送する方向に舵を切るべきだと思います。というよりも、そうなっていくと思います。この先のテレビは、緩やかにではありますが「紙メディアでしかエロを摂取できない世代に特化して細々生き残っているエロ本」と同じような道を歩むことになると思います。エロ本は対象世代の嗜好をそのまま反映してか、人妻モノとか熟女モノだけが残っているようです。テレビも今後は老人しか見ないものにだんだんなっていくので、老人が喜ぶような昔のテレビ番組を再放送する形にだんだん近づいていくことになるのは必然だと思います。

2020年10月25日日曜日

斜陽国日本の最後のキラーコンテンツ:池の水を全部抜く

またしてもテレビの話をします。およそ5年ほど前に、日本という国ではネットはテレビに勝てなかったという投稿をしました。この投稿の当時には「多数派でいたい」という人が多数派のこの国において、テレビは最大多数の最大幸福のための娯楽としてインターネットが登場した後も揺るぎない地位な保持していました。しかしここ最近はNetflixなどの動画配信サービスに押されてか、日本という国の国力の衰退を反映しているのか、かつてあれほど栄華を極めたテレビが目に見えて凋落の一途を辿っているように見えます。「悪化乱造」を得にしたかのように、番組の質は下がっていくのに各局とも判で押したように同じような番組ばっかりだし、CMなのか番組なのかわからない通販が増えてきたりと、5年前だったらちょっと想像できないくらいの劣化ぶりですね。

僕自身、Amazon Fire Stick TVを買って以来、家のテレビはほぼNetflixやYouTubeなどのネット動画サービス専用機となっていて、地上波のテレビ番組を見る機会がほとんどなくなりました。かつてはテレビのハードディスクレコーダーの残容量を常に気にしていて、録ったくせに見てもいないデータのせいで残容量が逼迫したときにはそれが原因で奥様とケンカにさえなっていたものでしたが。とうとう、ハードディスクレコーダーの残容量を気にしなくなり始めました。多分もう容量オーバーして溢れてるんだと思いますが、そのまま放置しています。例えとして妥当なのかは分かりませんが、育児放棄してホストクラブなどで好き放題遊んでる母親のような気分をちょっと味わっています。

さて、そんな中でこの前地上波のテレビを見ていたら、池の水を全部抜くという番組をやっていました。これ、最近のテレビ番組では割と当たりの企画のようなのですが、生物の生態系について素人の僕でさえ「こんなことやる必要があるのか?」と思うわけですから、当然その道のプロからは色々と批判されることにはなるわけです。でも、この企画がヒットする理由もすごく分かる気がするのです。この番組では「外来種は駆除、在来種は保護」という極端で単純な二分法によって水棲生物を扱っていますが、このようなシンプルなロジックはネトウヨに代表される排外主義的なマインドに通底しているのです。外来種が捕獲→駆除される様子にカタルシスを感じる人達は、関東大震災の時に朝鮮人を探し出して虐殺することに加担した人達と同じマインドを共有しているのではないかと思います。

「池の水を全部抜く」のもう一方の側面として、日常生活のすぐそばにありながら普段接する機会の無い池に潜んでいる在来種というお宝を「保護」しています。これは、古い蔵や開かずの金庫を開けるテレビ番組と同じで「普段の生活では気にもしていなかったところに隠れているお宝を見つける」というカタルシスを提供していると思います。このフォーマットは「なんでも鑑定団」のような形で四半世紀近く前から存在するのですが、今思えば「なんでも鑑定団」がブレイクしたのはちょうどバブルが弾けたことの具体的な影響を国民が感じ始めた時期でした。伸びしろのなくなったこの国では「向上心を持って努力する」ことよりも「日常生活の中で見落としていた棚ぼた的ラッキー」の方がリアルであることが四半世紀に渡って続いているからこそ、このフォーマットの番組は廃れずに今も残っているんだと思います。

以上まとめると、「池の水を全部抜く」は排外主義と「日常生活の中で見落としている棚ぼた的ラッキー」のコンボでできているので、斜陽国日本の庶民には抜群の訴求力を持ったアタリの企画なんだろうと思います。でも、こんなことしてまで新しいコンテンツを無理矢理作らなくても、テレビは過去に作った優良なコンテンツを再放送してた方がよっぽどマシなのではないか?ということを次回は書いてみたいと思います。