2020年6月30日火曜日

東京オリンピックは戦艦大和と重なって見える

これを書いている現在、東京都知事選の真っただ中なのですが。田舎に住んでる僕でさえ、東京ではほとんど何も盛り上がっていない様子が伝わってきています。一応政策の争点としてはコロナ対策やオリンピックなどのトピックがあるにはあるのですが。ただでさえ小池百合子が有利そうなところに、山本太郎が立候補したことによって宇都宮健児と票が割れてしまい、結局小池百合子が当選するであろうことは事実上確定になってしまったのも盛り上がらない理由の一つなのだろうと思います。

オリンピックについては宇都宮健児は「専門家が無理と判断したらやめる」、山本太郎は「とにかくやめる」と言っています。都知事選は東京オリンピックを見直す上で最後のタイミングであったはずなのに、オリンピックの是非は都知事選のしらけムードの中でウヤムヤになろうとしています。オリンピックも都知事選も、日本国民にとっては「お上(テレビ)に誘導されるまま受動的に消費するイベント」という意味では、同じような物なのかもしれないですね。

さて、だいぶタイミングを逸してしまっているのですが、オリンピックの2021年への延期の際に森喜朗が言った「(安倍首相は)2021年に賭けたと感じた」という言葉がどうしてもずっと気になっているのです。まず、「と感じた」という言い方からして、これは安倍晋三の言葉ではなく森喜朗が勝手にそう感じたという話です。それが的を射た忖度なのか都合の良い曲解なのかはさておき、これで賭けに負けても森喜朗も安倍晋三もどちらも責任を取る気がないことだけは明らかです。

そもそも、「賭けた」というのは合理的な根拠がないまま「えいやあ」で決めたということです。本当に自分たちの決定について責任を引き受ける気があったら、「うまくいかなかったときのプランB、プランC」を考えておくべきなのですが。「賭けた」という言葉を使う人は「事態の複雑さに耐えきれないから『えいやあ』で決めてしまって、後は都合の悪いことについては考えない」という人なんだと思います。

このオリンピックの一年延期の話は、戦艦大和の出撃に至るプロセスとも重なって見えます。勝算はほとんどないし、無駄な損害が出るだけなのは分かっているのに、戦艦大和を出撃させたのは空気だったと山本七平は指摘しています。一年後にコロナが収束している見通しもなければ、ワクチンの開発が間に合う見通しも無いので、今この段階で「東京オリンピックは中止」と決定するのが合理的な判断であることは誰の目にも明らかだと思います。でも最後には合理的な説明もなければ責任を引き受ける個人もいない「決定」だけが我々日本人には降ってくるのです。

10年以上前に同じような文脈で「賭けた」という言葉を上司が使ったのを僕は覚えています。上から言われた事を言われた通りにそのままやろうとするだけの、まぁ率直に申し上げると無能なおじさんでした。たしかその時は、この上司の更に上の立場の人に取り入って気に入られていた若手が好き放題やってるのがあまりに酷いので、耐えかねて僕が苦言を呈したのですが、その時上司から帰ってきた言葉が「私は***さんに賭けたんだ!」でした。

ちなみに、好き放題やってた若手はこれといった成果を上げることもなく、その後は行く先々の部署でトラブルメーカーとして盤石のポジションを確立した末に「この会社を入社数年で辞める覚悟を決められなかったのが最大の失敗だった」と言い放って数年前に会社を辞めました。そして、残念な元上司は賭けに負けた代償なんて当然払うわけもなく、近々円満に定年退職を迎える予定です。