2018年8月20日月曜日

本田のカンボジア代表監督就任と医学部受験ブーム

夏休み。だったのに気が付けば最終日を迎えました。このblogに書こうと思って色々思ってたことのうち、書き上げられたのはたった1件だけになってしまいました。毎度のことながら日本の長期休暇のシステムとは致命的にかみ合わないのですが、今年はとうとう「本当にどこにも行かない夏休み」になってしまいました。夏休み最大のイベントは家族と一緒に海に行ったことですが、それも家の近所にある、海って言っていいのかよく分からないような海でした。
そんなこんなで夏休みが終わっていきます。しかも、もう23時なので普段会社に行っているのであれば寝なきゃいけない時間帯なのです。が、夏休みの間に自堕落の限りを尽くしたところ、普通の人より2-3時間早かった僕の体内時計は3時間くらいズレてすっかり普通の日本人にシンクロしていまい、ここ数日は1時すぎまで起きていて、8時くらいまで寝ている生活をつづけてきました。つまり、ちっともねむくないのです。
というわけで、この状況でせめて夏休み最後のアクティビティとして、残された時間でこのblogにどのくらいのクオリティの文章を残せるのかチャレンジしてみることにしました。キッカケは単純な話で、同年代の有名ブロガーであるフミコ・フミオ氏の文章にちょっと影響されてしまったのです。氏のblogはほぼ推敲なしでよどみなく書き綴られているにもかかわらず非常に理路整然としていて、それでいて「所要時間23分」とか書いてあるのです。これを見て、自分で同じことをやったらどれくらいのものになるのか試してみたくなったからです。

さて。そんな夏休みをのんべんだらりと過ごしていたら、本田圭祐、カンボジア代表の監督に就任、選手との二足の草鞋に挑戦という記事が目につきました。本田という選手は何かと僕には気になる存在でした。というのも、ACミラン入団以降の彼は「キャリアの後退局面のセルフプロデュースがうまくいっていない」という点において、日本という国の在り方とものすごくシンクロしているように見えたからです。
当然のことながら僕は素人なので、この本田の挑戦がどの程度無謀でどの程度現実的なのか、その判断さえもできません。しかしながら、本田が後退局面のキャリアをそれなりに自己造形でき始めているような雰囲気には好意的な印象を持ちました。上述したように彼の在り方は日本という国の問題とそのままリンクしているように見えたので、このまま本田とともに日本という国も出口を見つけてくれることを願わずにはいられません。

話が大きく変わりますが、ここ最近のトレンドとして大学受験界では医学部受験ブームなんだそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、特に国立大学の医学部は、東大か京大に行けるくらいの学力を要する狭き門です。そして、こういった国公立の医学部を目指す人の多くは中高一貫の受験シフトの学校でずっと勉強してきた人達です。この現象をどう見るか、なのですが。医学部受験ブームは一見すると学歴社会の行きついた先のように見えるのですが、僕には学歴社会の緩慢な自殺のように僕には見えるのです。
これまでの学歴社会は「高学歴=幸せな人生」という物語への信憑によって成立してきたのではないでしょうか。しかし、日本という国が斜陽化し、グローバル化の趨勢に取り残されようとしている中で、この物語の信憑性に対して日本人は疑問を持ち始めたように見えるのです。で、その結果として「社会がどうなろうとも高い地位と収入が約束されそうな医師という資格」に人気が集まり始めたのではないかと思います。
改めて言いますが、これは学歴社会の緩慢な自殺だと思います。最早学歴だけでは輝かしい将来が保証されなくなったので、より確実そうな「資格」の方が人気になってきたわけです。この根底にある発想は「寄らば大樹の陰」であり、だいぶ飛躍しますが日本が斜陽化する中で安倍政権を支持したがる人達と重なって見えます。

一方でこれまで東大や京大に人を送り込んできた中高一貫の名門高校では医学部とは全く逆のトレンドとして「海外の大学に行く」という進路を選ぶ学生も増えているそうです。僕としては「寄らば大樹の陰」で医学部を目指すよりはこっちのほうが好ましく思えます。森毅教授の名言botの中に以下のようなフレーズがありましたが、全くその通りだと思います。せっかく「エリート教育」を受けたのなら、学歴なしでやっていけるぐらいでなくちゃ、エリートと言えない。
斜陽化していくこの国の未来は不安だらけではあり、一般市民の間には「不安だからとりあえず周りの人と同じように行動したい」という群れの中の草食動物のような行動規範が広がっているように思います。しかし、海外を目指す本物のエリートや本田のような人がいることには、まだ救いがあるように思えます。もっとも、日本から一度出た人達のうち何人かは、「日本」という国に対して執着する気が最早無くなってしまうんじゃないかという気がするのですが。。かく言う僕自身がそうだったように。

2018年8月14日火曜日

よりによってアメフトとチアリーディングというのが…

今僕が住んでいる街の公立学校の教育システムにはヨソ者である僕から見ると謎な点がいくつかありまして。その中でもダントツに謎なのが中学・高校で何かしらの部活動への参加が義務であるということです。このシステムについて、地元の公立学校で育ったうちの奥様は「当時は日本全国でそうなってると思ってた」みたいです。しかし、僕が育った関西の街では部活動は義務でもなんでもありませんでした。たぶんこちらの方が日本全体でみると普通なんだろうと思います。
僕が行ってた関西の公立中学校なんてニュータウンのマンモス学校だったので男女合わせて400人以上の同級生がいました。学年に200人程度いる男子のうち、バスケ部やテニス部に40人ずつくらいが入部して、その大半は数ヶ月でやめていきます。日本のどこの学校も大なり小なりこんなもんなんじゃないかと思います。もしも部活動が義務だったら、一学年だけで40人もいるテニス部が練習できる環境を提供するなんてまず無理ですからね。
話を今住んでる街に戻します。しかしながら、この街の公立学校も数年後にはとうとう部活動への参加が義務ではなくなるそうです。昨今の「教師と生徒の双方ともに、部活動の負担を適正化すべき」という風潮からすると当然の流れだと思います。まだうちの子供は幼稚園児ですが、子供が中学に上がる前に公教育システムが一つでもまともになってくれたのは歓迎したいです。

そもそも部活動という概念自体が日本という国のガラパゴス的奇習なのではないでしょうか。経験上、"部活"というのは、"同期"などと並んで外国人に説明するのが非常に難しい概念なのです。日本以外の国では学校は基本的に授業を受けるためだけに行く場所なので、生徒が課外活動に多大なエネルギーを費やす文化がありません。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。

さて、ようやく本題です。アメフトのタックル問題についてはもう散々騒がれたので皆さんご存知のことかと思いますが、ここにきて同じ日大のチアリーディングからもパワハラ不祥事が騒がれてきました。これらの一連の日大の運動部の不祥事に登場する「ワルモノ」達は、いずれも上述した「部活」的な世界のヒエラルキーの頂点に君臨して、絶大な権力を振ってきたんだろうなということはなんとなくイメージがつきます。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。

そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。

蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。

こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。