2014年6月24日火曜日

ワールドカップでのゴミ拾いとクールジャパン

これを書いている現在、ワールドカップはグループリーグの途中です。日本はまだ敗退が決まってはいませんが、コートジボアールに負けてギリシャに引き分けたので決勝トーナメントへの進出が厳しい状況になってきたというところです。ちなみにもうスペインは敗退が決まりました。ここ数年のスペイン代表のパフォーマンスからすると、信じられないくらいまるでいい所がありませんでしたね。。
さて、コートジボアール戦の後で会場のゴミを拾っていた日本サポーターが世界中で賞賛されているという報道がありました。ええっと、勿論ゴミを拾うのは良い悪いで言えば良い事なのは間違いないのですよ。でも、判で押したように「世界で大絶賛の日本の美徳」みたいに大喜びしているのを見てるとなんだか息苦しいやらもどかしいやら、という気分になってきたのですよ。まぁ、負けちゃったから他に喜べるところが無いので、ナンシー関言うところのオリンピックやワールドカップに対する日本人の「感動させてくれ」欲が行き場を無くしてそこに集中してしまったというのもあるんじゃないかと思います。
このゴミ拾いの件から受ける息苦しさやもどかしさについて考えた結論を言うと「ワールドカップでのゴミ拾いが放つ違和感はクールジャパンと同質の物だ」ということになっちゃっいまして。残念ながらやっぱりまたしてもクールジャパンの悪口とかそういう話です。いや、本当はあんまり日本の悪口ばっかり言ってたくないんですけどね。

自分が知る限りの海外、特に欧州と比較してみますが。「ゴミを拾う」とか「掃除をする」ということは日本以外の国ではより単純に労働であり職業だと思われていて、それを率先して行う事が美徳と考える習慣はたぶん無いんじゃないかと思います。
例えばスペインでは「掃除する人」という職業が日本以上にポピュラーな存在で、街路樹から落ちた葉や煙草の吸い殻(基本ポイ捨て。こうやって回収されるからある意味ポイ捨ては合理的なんです。)まで、色んな物を清掃車や人間が掃除します。また、ルームシェアで複数人が同居しているアパート等で週に一回くらい掃除のプロにお金を払って掃除してもらったりするのは割と普通だったりします。このように掃除は労働であり職業である傾向が強いのです。
そして、日本の学校では掃除を道徳と絡めた教育の一部として位置づけていますが、生徒が学校を掃除をするのは世界的に見ると日本を含めた一部の少数派だけです。だから、教育とか道徳とかそういうものと掃除が結びつく以前に、そもそも外国の生徒のほとんどは学校で掃除をすることがありません。
よって、日本のサポーターがゴミを拾ってたこと自体は海外から賞賛されたのでしょうが、日本人がこのニュースから感じ取るような”崇高な美徳意識”と同じ感覚をもって外国人が賞賛しているわけではたぶんないんじゃないかと思うのです。想像ですが、「日本人ってなんかよくわかんないけどキレイ好きでびっくりするぐらい丁寧でマナーのいい人達だなー。」くらいに思われてるんじゃないでしょうか?

クールジャパンについては散々悪口を書いているのでこのblogを検索してもらえればいくらでもみつかるとは思いますが。改めて僕の見解を申し上げると、外国の人々がどのような文化的背景を持っていて日本文化のどういうところを面白がって受容していて、どの程度誤解されているのかもあんまりよく分からないまま、「とりあえずガイジンにウケるっぽいアニメや日本食や伝統芸能などをまとめて売り出そう」というのが「クールジャパン」なんだと僕は思うのです。
この「クールジャパン」に伏流している「海外から評価されたい欲」に対してはある程度国民的合意が得られていて、特にここ数年はあらゆる事に「世界で大絶賛の日本のナントカ」という国威高揚エピソードに熱狂するようになったと思うのですが。
こういう人達って、例えばロボットアニメは海外ではウケないとか、マジンガーZとクレヨンしんちゃんだけなぜかスペインでは異常に人気があるとか、そういう細々した受容のされ方に対してはあまり関心が無いままとりあえず「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語にだけ固執しているようで、僕にはなんだかねじれているというかズレているように思えるのです。
この違和感をやや細かいたとえ話で説明すると。狩野英孝が天然すぎて笑わせようと思ってもないところで「笑われてしまった」ときに、何を笑われているのかよく分からな(くて少しムッとした顔をすることもある)いけど、ウケてる事自体にはある程度満足しているのを見ているのと同じような感覚なのですね。

以上まとめると。
掃除に対する日本人の文化背景がいかに特異であるかについて自覚が無いながらも、とりあえずゴミ拾いは外国人から評価されるだろうというブリっ子的な打算も多少はあった上で日本人サポーターはゴミ拾いをしていて、それは案の定「世界が絶賛する日本人の美徳」という話形に日本では回収されました。しかし、これが放っている空気は外国人の文化的背景やその受容態度に対して意識があまり無いまま、クールジャパンという名前の下に「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語に大喜びしている日本人と全く同じようなねじれやズレを感じるのです。
さらに厄介なのは、ワールドカップの会場でゴミを拾うという美徳は「ゴミ出しのルールにいちいち細かい正義の主婦」や「オレ様の基準に合わせて掃除することを強要するきれい好きの上司」といった負の側面と表裏一体で不可分だということです。こういう「正義を背にして(いると本人が思っていると)、どこまでも他人を許す能力の低い人達」は僕にとって日本という国が住みにくく感じる大きな原因の一つなのです。
また、教育や道徳と掃除を関連付ける習慣は、大人になった今でも「ホワイトカラーも含めて全従業員に『クリーン作戦』という名目で敷地内の草むしりをさせる」という形で名残を残しています。わが社ではせいぜい半年に一回程度とはいえ、こういうのって日本人以外にはまず理解不能でして。外国人は「俺は草むしりのプロとしてここで働いているわけじゃない」と当然文句を言いますし、また彼の言ってることはまったくもって正しいのです。こういうことをいつまでもやってると日本の企業はいつまで経っても外国人にとって働きやすい場所にならないんじゃないかなと思うのです。

2014年6月1日日曜日

日本における「信者」とヤンキー度

たぶん高校生くらいの頃からずっとなんですが、村上春樹や坂本龍一やAppleなどの「信者」の方と話すのが僕はすごく苦手なのです。単純な好き嫌いで言うと上記のどれも割と好きな方ではあるのですが、これらの「信者」の方と話しているとなんだかすごく疲れるのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。

さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。

「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。