2018年11月10日土曜日

プロ野球選手の茶髪の是非については高校野球の丸坊主とセットで議論すべきでは?

日本シリーズが終わって、日本のプロ野球はオフシーズンに入ってしまいました。「入ってしまいました」という言い回しには、「もうちょっと長引いて面白くなって欲しかった」という思いが裏書されています。今年の日本シリーズはホークスが福岡で流れをつかんで、そのままの勢いで一気に押し切ってしまった感がありました。新井が有終の美を飾るために広島に勝たせてあげたかったとか、そこまでは言わないにしても、カープが広島でもう一勝くらいして粘って欲しかった気持ちはります。
一方、優勝したホークスですが、工藤監督のインタビューにはどうしても気になる一言がありました
就任時に「茶髪、ヒゲ、ガムなど禁止」と厳しい姿勢を打ち出したが、今年8月にはガムを解禁。茶髪、ヒゲも黙認している。だが工藤監督は「よくなかったかな。今は認めているけど、来年は締める。キャンプも厳しいものにする」と言った。
これを現役のプロ野球選手に求める理由が「ユニホームを脱いだ後の3年間で学んだ大事なことだからなんだそうです。つまり、現役の頃の自分が理解できなかったことを、現役のプロ野球選手に押し付けることに対して、彼は特に葛藤のようなものを感じてはいないんだろうということもこのコメントから読み取れます。

茶髪やヒゲがNGというのはスーツ着て働く人達の世界観で会って、僕みたいなエンジニアの職場ではそこまでは問題になりません。そして、そのしきたりの是非はともあれ、このルールは日本という国にローカルなものでしかありません。ヤクルトのバレンティンなんて腕にすごい刺青入ってるけど、あれはどうなんでしょうか?茶髪やヒゲよりも刺青の方がはるかに問題になりそうですが、おそらく「外国人は日本のローカルルールの適用外」というダブルスタンダードによって黙認されているんじゃないかという気がします。
海外のサッカー選手や野球選手は全身に刺青が入っているような人がたくさんいますが、海外でも一般市民であそこまで刺青が入っている人はあまり目にする機会がありません。彼らプロスポーツ選手の刺青は一般市民とはかけ離れた自由業の象徴のようなものなんだと思います。かといって彼らの刺青に対して一般市民が反感を持っているというわけでは…たぶんないんだと思います。プロスポーツ選手が「夢を与える職業=非日常の世界」なんだったら、刺青でも茶髪でもなんでもいいから好きにやっていいんじゃないかと僕も思います。

そもそも、茶髪ってひと昔前に比べて最近あまり流行らないですよね。茶髪が流行らなくなったことと日本の右傾向化は水面下で繋がっているような気がするのですが、それはさておき。なんで野球選手が茶髪にしたがるのかという理由を考えると
  • Jリーグなど他のプロスポーツへの対抗意識
  • 単純にヤンキー文化だから茶髪が好き
  • 高校でずっと丸坊主を強制されてきたことへの反動
こんなところでしょうか?特に最後の丸坊主の恨みというのは結構根深い問題なんじゃないかと思うのです。高校野球を見ると、未だに大半の球児は丸坊主です。高校球児の丸坊主も僕から見れば高校野球は旧日本軍を慰霊するために上演される能であるという文脈に連なっているように見えるのですが。ともあれ、思春期にずっと丸坊主を強制されて野球をやってきた彼らは、それに耐えて高校卒業後にプロ野球選手になって「ようやく頭髪の自由」を手に入れたのではないでしょうか。だから彼らはその自由を最大限行使するために茶髪にしたがるように思えるのです(あんまり長すぎると邪魔になるので、長さ方向に限界があるので色に向かってしまうという理由もあるのかもしれません)。

中島らものエッセイに、中学生くらいまで丸坊主を強制されていたことの反動で、高校生くらいになって服装や頭髪が自由化されたら途端に長髪で奇抜な服装になった…という話が時々出てきます。もしも野球選手の茶髪が問題だというのであれば、高校野球の丸坊主を見直すこととセットで議論すべきなんじゃないでしょうか?

2018年10月28日日曜日

ハガレンの実写はコスプレ大会に見えた

我が家はWOWOWと契約しております。シングルインカムのサラリーマン家庭では、月々2500円だってバカにはできないのですが、それでも僕がリーガ・エスパニョーラを見たいので契約しているのです。そのついでと言ってはなんですが、WOWOWは映画プログラムが充実しているので、ときどき映画も録画してみています。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。

まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。

つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。

以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。

2018年10月16日火曜日

レンタル店に未来はあるのか?

「お父さん、休みの日だからってゴロゴロしないで!」と言われながら、掃除機をかけている奥様に邪見に扱われる…そんな漫画みたいなおじさんになる日が自分に訪れるとは全く思ってませんでした。少なくとも、子供が生まれるまでは全くそんなこと考えていなかったと思います。しかし、子供が生まれてひと段落して気が付いてみたら、僕は休日をほぼ「漫画みたいなお父さん」のように過ごしています。
なんでそうなるか?という問いに一言で答えると、「日本の育児においてお父さんは実質的には大して役に立たない」からです。もうちょっとちゃんと説明すると、役に立たないからといって、家族を放ったらかしで遊んでていいかというとそんなこともない。つまり、日本のお父さんというのは「育児において役に立たないけど、その役に立たなさにじっと耐える」ことが要求されているのです。
これを具体的に実践すると、休日は「ただ家でゴロゴロしている」しかないのです。奥様と子供の間の関係は平日も含めた日々の生活の中でしっかり構築されていて、そこに僕が休みの日だからといって張り切って混ざりに行ってもウザがられて終わるだけなのです。だからといって、自分ひとりで好き勝手に遊びにも行けない…となると、家でゴロゴロしている以外にできることか無いのです。

さて、こんな冴えない休日ではありますが、たまに子供と僕の二人だけで外出できるチャンスがあるなら、そういう時はなるだけ二人で外出するようにしています。理由は単純で、普段子供の相手をほとんど押し付けっぱなしになっている奥様に一人きりになれる時間を作ったり、普段なかなか無い母親不在での子供と二人だけの時間を作ったりできるわけです。それは、基本的に「役に立たないお父さん」としてゴロゴロしてるだけの休日の中では、ちょっとだけお父さんも張り切っちゃう時間なのです。
そんなわけで先日、子供が行きたいというので某大手のレンタル店にやってきました。ここは奥様が会員になっているので僕は奥様の会員カードを持っていきました。子供がプリキュアなどなどのDVDを選んできたのでいざセルフレジで会員カードで精算…とやろうとしたら「このカードはご利用になれません。カウンターまで来てください。」というメッセージが画面に表示されました。言われるがままカウンターに行くと、店員のお兄ちゃんが「これカードの名義が****様ですよね?ご本人様以外はご利用になれません」と言われてしまいました。かくして、結局一旦家に帰って奥様本人が後でお店まで行って借りることになりました。

この店員の言ってることは規約上は何もおかしくないんだろうとは思うのです。しかし。例えば「身分証明書見せて苗字が一緒だったら家族だろうと推測されるから使っていいことにする」とか、その程度の融通の利く対応はできないんでしょうか?あらゆるサービスが「個人」にしか紐づいていなくて、「家族」という単位には結びついてくれないのはなんとも不便な気がするのです。例えばスペインだと銀行口座を奥様と共有するということができました。この場合、口座番号は一つだけで、そのカードを奥様と僕のそれぞれのために個別に発行してくれるのです。このサービスは今思い出しても非常に合理的でした。
同じようにレンタル店の会員資格を家族全員で共有しちゃダメなんですかね?だって、同時に借りられるソフトの上限は1個の会員資格につき決まった上限があるわけですから、会員資格を「口数」単位で購入して家族で共有するのは理にかなっているように思います。実際、我が家のように子供のためにDVD借りに行くだけの利用方法の場合、家族の誰かが都度子供を連れていくことになるので、家族間で会員資格を共有できてくれるとすごく助かるのです。

何よりもこういう融通の利き方ができないと、リアル店舗のレンタル屋とネットの動画配信サービスの差がどんどん広がる一方だと思うのです。ネットの動画配信サービスの場合、アカウントとパスワードさえ共有してしまえば誰が実際に使っているかは不問になります。つまり、サービスを家族全体で共有することができちゃうわけです。ただでさえ、お店までわざわざ行くのが手間だったり、ほかの人が借りてると借りれなかったり、店舗に在庫を抱える以上マイナーな作品までラインナップするのが難しかったり…と、実店舗のレンタル店は動画配信サービスに比べると色々不利な点があります。件のレンタル店の対応は、規則には順じているのですが結果的にレンタル店という業態そのものの「緩慢な自殺」のように僕には見えるのです。
とまぁ、ここまで色々文句言いながらもなんで我が家が動画配信サービスではなくリアル店舗にこだわっているかというと、
・多少たりとも子供と家の外に出るキッカケにしたい
・定額見放題の配信サービスは子供のテレビっ子ぶりに拍車がかかる
と、リアル店舗のデメリットが程々に我が家にとって都合がよいからなのです。子育て世代にはこんな理由でリアル店舗を利用する人がまだそこそこいるんじゃないかと思うのですが。そんな層に対しての利便性を向上させる努力をしないと、リアル店舗に明るい未来が見える気はやっぱりしないのであります。

2018年9月15日土曜日

ネトウヨが北方領土に示す微温的な反応について

台風ニモマケズ、地震ニモマケズ、安倍晋三がロシアに行ってきた結果、北方領土問題について取り合う気の無いプーチンから「年内に平和条約締結を」と言われてしまいました。この件に対する安倍晋三の中途半端な対応については、安倍政権に対して追従的な発言が多い産経でさえ「ロシアにナメられている、断固拒否せよ」と言い出しました。産経や読売などの親ネトウヨのメディアが安倍政権を批判するというのはここ数年あまり見たことがありません。
共産党の志位議長は首相、「条件なしで平和条約」とのプーチン発言について、「プーチン氏の平和条約締結への意欲の表れだと捉えている」と。 違うでしょう。「領土返還をしない」という「決意の表れ」であり、首相、あなたを舐め切っているという「態度の表れ」ですよ。という、ごもっともな発言をしていたので、これをリツイートしたのですが。そしたら、僕のフォロワーのうち数少ないネトウヨ気味の人から「リアリスティックに言って、ロシアに北方領土を返せる訳がない。その中でどの将来を目指すのか? 批判は簡単だけど、政治家にはそこを提案してほしい。」というコメントが帰ってきました。

かつて、ネトウヨが登場する以前の右翼は、街宣車に「北方領土返還」というスローガンが書かれた横断幕を必ずと言っていいくらい掲げていました。しかし現代のネトウヨは中韓に対しては病的なまでに攻撃性を剥き出しにしてきますが、その一方でロシアや北方領土に対しては微温的な反応しか示しません。これはネトウヨとネトウヨ以前のauthenticな右翼との違いなんじゃないかと思います。
ネトウヨ以前の右翼が北方領土を目の敵にしていた理由の一つは「ソ連=赤=左翼」との敵対構造にあったのではないでしょうか。「右翼」という概念は対極にある「左翼」なくしては成り立たない、つまり、左と右という対立構造の中に当時の右翼のアイデンティティがあったのではないかと思うのです。この説明はある程度の説得力があるように思います。そして、この観点からするとネトウヨは「左翼亡き後の右翼」と言えるでしょう。

この「左翼亡き後の右翼」という観点は、ネトウヨとそれ以前の右翼とを分かつポイントなのではないかと思います。やや乱暴な言い方になりますが、
カネがあった時代のauthenticな右翼:攻撃対象はソ連=ロシア→北方領土
カネが無くなって斜陽化していく日本に生まれたネトウヨ:攻撃対象は中韓→尖閣、竹島
というイデオロギーの違いが両者にはあります。だからこそネトウヨは北方領土について「自分が反応すべき案件だと思っていない」のではないでしょうか。
かつて日本とロシアは歯舞と色丹の二島返還が実現する寸前までこぎつけていました。当時、日本とロシアの経済力の差は一番開いていて、日本もまだまだカネがあった時代だと思います。でも、結局二島返還は実現しませんでした。後から考えてみるとこの事件は、上述した「日本の斜陽化」と並んでネトウヨが日本に台頭しはじめる一つのキッカケだったのではないかと思います。

「北方領土問題」の問題を掘り下げていくと、その先は必ず「南方領土問題=沖縄の米軍」と繋がっています。これについては内田先生が折に触れて言及している通りだと思います。ロシアにしてみれば、北方領土の返還はアメリカ軍が沖縄から撤退することとセットじゃないと受け入れられないのです。つまり、「北方領土返還」の背後には「南方領土=アメリカという父」というトラウマが付きまとっていて、「父=アメリカ」に対して出ていけと面と向かって言えないので昔の右翼は「北方領土返還」だけを叫んでいたのではないでしょうか。
この「アメリカという父」に対するトラウマというのは現代のネトウヨとそれ以前の右翼の両方に共通しているテーマだと思います。旧日本軍の「英霊」の魂を慰めるためにせっせと靖国神社を参拝する割には、その「英霊」を殺傷したアメリカに対して「アメリカ憎し」と言っている右翼を僕は見たことがありません(いるのかもしれないですけど)。こうやって考えると、ネトウヨとそれ以前の右翼では表面的な攻撃対象がソ連=ロシアであるか中韓であるかという違いはあれど、一方で「アメリカという父」という共通項を認めることができます。

ちなみに件の僕のTwitterのフォロワー氏は今日見てみたら「勝てる見込み無いのになんで石破さんは選挙に立候補したのかな?玉砕?」というTweetをしていました。たぶんこの人は民主主義というシステムとか自分の信条なんかよりも、とにかく「多数派が正義」「勝てる見込みのない勝負はしない」という人なんでしょう。こうやって自分の意見を持つことを放棄して現実を容認している方が、この国では楽しく生きていきやすいんだろうとは思います。そして、そうやって知的負荷を減らしている自分は賢いとご本人はきっと思ってるんでしょうね。
なんで彼は僕をフォローしてるのかな?というのがずっと謎なのですよ。僕はtwitterではこのblogと大差ないことを言ってるつもりなんですが。

2018年9月8日土曜日

犠牲の物語としての高校野球

9月に入りました。まだ頭は夏休みボケの尾を引いたままなのですが、そうこういってる間にもだんだん涼しくなってきたので、これ以上話題の鮮度が落ちないうちに夏の高校野球の話をしたいと思います。今年の夏休みは奥様の妊娠中以来くらいで「泊りでのお出かけが無い夏休み」になってしまいました。どこかに泊りで行こうかと検討はするものの、どうしても「高い、暑い、混んでそう」なのはどこも一緒なので。だったら9月くらいの普通の土日にどこかに旅行に行った方がまだマシだろうと思うと、結局どこにも行く気になれませんでした。
そんなこんなで、どこにも行かない夏休みの間はほぼ毎日高校野球をぼんやり見ていました。僕は高校野球及びその頂点である甲子園については「どうかと思うことの方が多いけど、結局見ちゃう」のです。あんなに高校生を朝から晩まで毎日野球漬けにしたり、後の選手生命を台無しにするほどまで連戦で体を酷使するののが本当に「教育」なのか?とか、色々と思うのですが。でも、結局毎年見ちゃうのですね。

さて。決勝戦の金足農業と大阪桐蔭の試合は何から何まで好対照な両者の対決となりました。少年ジャンプのような金足農業の快進撃を期待しながらちょっとみんなワクワクしていたのに、蓋を開けてみたら大阪桐蔭の圧勝で終わって何か空虚な感じが残ってしまいましたね。あの決勝戦を見てて思い出したのは、小田嶋さんが昔言っていたように、高校野球は犠牲の物語であるという話です。まず見た目に「犠牲」が分かりやすいのは金足農業です。ピッチャーの吉田君はずっと連投で疲れ果てていたせいもあって、大阪桐蔭の打線を抑えることはできませんでした。これは「連投で体を酷使する」という犠牲の物語です。
一方の大阪桐蔭ですが。こちらは選手層も厚くてピッチャーも複数人いるようなチームです。はたから見ると金足農業に比べて余裕たっぷりに見えますが、大阪桐蔭、強さの秘密は過酷な寮生活 外出禁止、楽しみは月1の“コンビニ旅行”というウェブ上の記事を読んで納得しました。彼らも普通の高校生としての生活を犠牲にしているのです。コンビニさえ自由にいけないということは恋愛なんて尚の事無理なんでしょう。そんな生活を3年間も続けることで、彼らだって多大な犠牲を払っているのです。

大阪桐蔭(ワルモノ側)に金足農業が挑戦するという少年ジャンプ的な展開に対して日本人があそこまで盛り上がらずにはいられなかったことも、色々な示唆に富んでいると思います。昔から「判官びいき」という言葉に見られるように日本人が劣勢にある側を応援したがる心的傾向を持っていることはもちろん背景の一つとしてはあると思います。
しかし、どうもそれだけではないような気がするのです。以前から提唱している、「高校野球は旧日本軍を慰霊するために奉納される能である」という観点からすると、金足農業と大阪桐蔭の圧倒的な戦力差は第二次世界大戦における日本とアメリカの関係を再現しているように見えてならないのです。だからこそ「大阪桐蔭=ワルモノ=アメリカ」に「金足農業=日本」が挑む物語をどうしても日本人は応援したくなってしまったということなのではないでしょうか?

しかし話は「大阪桐蔭=アメリカ」という短絡的な話でもないんだと思います。大阪桐蔭はアメリカの代理表象というよりは「日本式メソッドで強力なアメリカみたいな軍事大国にのし上がった、架空の日本」なのではないでしょうか?こう考えると、あの決勝戦は「大阪桐蔭=あの時になりたかったけどなれなかった架空の日本」と「金足農業=あの時の日本」の戦いだったことになります。このように、あの決勝戦は精神分析的には非常に興味深い試合だったと思います。
以上、今回のblogは「こんな感じの事を誰かが書いてくれないかなと思って毎日twitterとかで検索してみたけど誰も言及しないから自分で書いてみた」というよくあるパターンです。そろそろこういうハッシュタグ作ろうかな。。

2018年8月20日月曜日

本田のカンボジア代表監督就任と医学部受験ブーム

夏休み。だったのに気が付けば最終日を迎えました。このblogに書こうと思って色々思ってたことのうち、書き上げられたのはたった1件だけになってしまいました。毎度のことながら日本の長期休暇のシステムとは致命的にかみ合わないのですが、今年はとうとう「本当にどこにも行かない夏休み」になってしまいました。夏休み最大のイベントは家族と一緒に海に行ったことですが、それも家の近所にある、海って言っていいのかよく分からないような海でした。
そんなこんなで夏休みが終わっていきます。しかも、もう23時なので普段会社に行っているのであれば寝なきゃいけない時間帯なのです。が、夏休みの間に自堕落の限りを尽くしたところ、普通の人より2-3時間早かった僕の体内時計は3時間くらいズレてすっかり普通の日本人にシンクロしていまい、ここ数日は1時すぎまで起きていて、8時くらいまで寝ている生活をつづけてきました。つまり、ちっともねむくないのです。
というわけで、この状況でせめて夏休み最後のアクティビティとして、残された時間でこのblogにどのくらいのクオリティの文章を残せるのかチャレンジしてみることにしました。キッカケは単純な話で、同年代の有名ブロガーであるフミコ・フミオ氏の文章にちょっと影響されてしまったのです。氏のblogはほぼ推敲なしでよどみなく書き綴られているにもかかわらず非常に理路整然としていて、それでいて「所要時間23分」とか書いてあるのです。これを見て、自分で同じことをやったらどれくらいのものになるのか試してみたくなったからです。

さて。そんな夏休みをのんべんだらりと過ごしていたら、本田圭祐、カンボジア代表の監督に就任、選手との二足の草鞋に挑戦という記事が目につきました。本田という選手は何かと僕には気になる存在でした。というのも、ACミラン入団以降の彼は「キャリアの後退局面のセルフプロデュースがうまくいっていない」という点において、日本という国の在り方とものすごくシンクロしているように見えたからです。
当然のことながら僕は素人なので、この本田の挑戦がどの程度無謀でどの程度現実的なのか、その判断さえもできません。しかしながら、本田が後退局面のキャリアをそれなりに自己造形でき始めているような雰囲気には好意的な印象を持ちました。上述したように彼の在り方は日本という国の問題とそのままリンクしているように見えたので、このまま本田とともに日本という国も出口を見つけてくれることを願わずにはいられません。

話が大きく変わりますが、ここ最近のトレンドとして大学受験界では医学部受験ブームなんだそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、特に国立大学の医学部は、東大か京大に行けるくらいの学力を要する狭き門です。そして、こういった国公立の医学部を目指す人の多くは中高一貫の受験シフトの学校でずっと勉強してきた人達です。この現象をどう見るか、なのですが。医学部受験ブームは一見すると学歴社会の行きついた先のように見えるのですが、僕には学歴社会の緩慢な自殺のように僕には見えるのです。
これまでの学歴社会は「高学歴=幸せな人生」という物語への信憑によって成立してきたのではないでしょうか。しかし、日本という国が斜陽化し、グローバル化の趨勢に取り残されようとしている中で、この物語の信憑性に対して日本人は疑問を持ち始めたように見えるのです。で、その結果として「社会がどうなろうとも高い地位と収入が約束されそうな医師という資格」に人気が集まり始めたのではないかと思います。
改めて言いますが、これは学歴社会の緩慢な自殺だと思います。最早学歴だけでは輝かしい将来が保証されなくなったので、より確実そうな「資格」の方が人気になってきたわけです。この根底にある発想は「寄らば大樹の陰」であり、だいぶ飛躍しますが日本が斜陽化する中で安倍政権を支持したがる人達と重なって見えます。

一方でこれまで東大や京大に人を送り込んできた中高一貫の名門高校では医学部とは全く逆のトレンドとして「海外の大学に行く」という進路を選ぶ学生も増えているそうです。僕としては「寄らば大樹の陰」で医学部を目指すよりはこっちのほうが好ましく思えます。森毅教授の名言botの中に以下のようなフレーズがありましたが、全くその通りだと思います。せっかく「エリート教育」を受けたのなら、学歴なしでやっていけるぐらいでなくちゃ、エリートと言えない。
斜陽化していくこの国の未来は不安だらけではあり、一般市民の間には「不安だからとりあえず周りの人と同じように行動したい」という群れの中の草食動物のような行動規範が広がっているように思います。しかし、海外を目指す本物のエリートや本田のような人がいることには、まだ救いがあるように思えます。もっとも、日本から一度出た人達のうち何人かは、「日本」という国に対して執着する気が最早無くなってしまうんじゃないかという気がするのですが。。かく言う僕自身がそうだったように。

2018年8月14日火曜日

よりによってアメフトとチアリーディングというのが…

今僕が住んでいる街の公立学校の教育システムにはヨソ者である僕から見ると謎な点がいくつかありまして。その中でもダントツに謎なのが中学・高校で何かしらの部活動への参加が義務であるということです。このシステムについて、地元の公立学校で育ったうちの奥様は「当時は日本全国でそうなってると思ってた」みたいです。しかし、僕が育った関西の街では部活動は義務でもなんでもありませんでした。たぶんこちらの方が日本全体でみると普通なんだろうと思います。
僕が行ってた関西の公立中学校なんてニュータウンのマンモス学校だったので男女合わせて400人以上の同級生がいました。学年に200人程度いる男子のうち、バスケ部やテニス部に40人ずつくらいが入部して、その大半は数ヶ月でやめていきます。日本のどこの学校も大なり小なりこんなもんなんじゃないかと思います。もしも部活動が義務だったら、一学年だけで40人もいるテニス部が練習できる環境を提供するなんてまず無理ですからね。
話を今住んでる街に戻します。しかしながら、この街の公立学校も数年後にはとうとう部活動への参加が義務ではなくなるそうです。昨今の「教師と生徒の双方ともに、部活動の負担を適正化すべき」という風潮からすると当然の流れだと思います。まだうちの子供は幼稚園児ですが、子供が中学に上がる前に公教育システムが一つでもまともになってくれたのは歓迎したいです。

そもそも部活動という概念自体が日本という国のガラパゴス的奇習なのではないでしょうか。経験上、"部活"というのは、"同期"などと並んで外国人に説明するのが非常に難しい概念なのです。日本以外の国では学校は基本的に授業を受けるためだけに行く場所なので、生徒が課外活動に多大なエネルギーを費やす文化がありません。
更に謎なのは、部活動をやってる当人達が本気で楽しんでやっているかというと必ずしもそうでもないということです。もちろん中には楽しんでやってる人もいるんでしょうが、練習でシゴかれたり顧問や上級生に小突き回されるのを積極的に楽しめる人はほとんど少数派でしょう。でもなんでそれを続けられるかと言うと、「みんなと一緒だから」なんじゃないでしょうか。つまり、日本の部活動は「理不尽なシステムにみんなで一緒に抑圧されること」に慣れるためにあるのではないかと思います。

さて、ようやく本題です。アメフトのタックル問題についてはもう散々騒がれたので皆さんご存知のことかと思いますが、ここにきて同じ日大のチアリーディングからもパワハラ不祥事が騒がれてきました。これらの一連の日大の運動部の不祥事に登場する「ワルモノ」達は、いずれも上述した「部活」的な世界のヒエラルキーの頂点に君臨して、絶大な権力を振ってきたんだろうなということはなんとなくイメージがつきます。
これを書いている2018年の夏休みの段階では、アメフトについてはもう散々騒がれた後で世の中はひとしきり飽きちゃった感さえあります。なので今更この件について言及するにあたって、他の人があんまり言ってなさそうなことを言ってみることにします。このような日本の「部活」システムの不調が「アメフト」と「チアリーディング」というアメリカ由来の競技において顕在化したのは相応の必然性があったのではないでしょうか?つまり、アメリカ由来の競技に対して、アメリカ人の世界観の対極にある日本人の「部活」システムを適用したけど、うまくいかずにシステムクラッシュした…というように見えるのです。

そして、一連の不祥事が起きた場が日大という学校だったことにも必然性があったのではないかと思うのです。wikipediaをひいてみたところ、日大の建学の起源についてこのような記述がありました。当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる
言ってることが分かるような分からないような話ですが。つまり、「欧米列強にまともな近代国家として認められるために法治国家としての体裁を作る必要があった」「一方で欧米の『法』の概念そのままでは日本人には馴染みにくいので馴染ませる方法を模索したかった」ということなんじゃないでしょうか。このblogで何度も言ってることですが、これは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルが指摘している日本人の有り様そのものです。

蛇足ですが、タックル問題が起きたときの試合の相手がキリスト教系の関学であったことも偶然ではないような気がします。「部活」とその背景にある日本人の内的自己は、アメフトというアメリカ人の発明した競技を通じて、アメリカ人のキリスト教徒が作った関学に復讐しようとしたとも取れるのです。
たまたまなのかもしれませんが、関学のようなキリスト教の大学では日大のように悪質な事件を起こす人が長年トップに居座り続けて絶大な権力をふるうようなことは起きにくいんじゃないかと思います。ガバナンスの根底に「神の愛」という宗教的な規範があることは日大のような「やりすぎ」に対する抑止力に成り得るのではないでしょうか。

こうやって書いてると、子供をこの先私立の学校に入れることがあるとしても、できればキリスト教系のところの方がいいんじゃないかという気がしてきました。僕としてはお金のかからない公立の学校でうまいことやっていけてくれるのが一番有難いんですけどね。。

2018年5月6日日曜日

アニメソングの世界は老人に老いることを許さない

風邪をひいたうえに結局どこにも行かなかったGWが終わろうとしているのですが。いまだに風邪が治りきりません。GWが終わるのは仕方ないとして、せめて風邪とともに去ってほしいです。そんなこんなでぱっとしないGWなので、せめて普段このblogに書こうと思って手が付けられずにいた話を一つ書いてみようと思います。「日本のアニメ」についてはたびたびこのblogで取り上げる定番アイテムになっていますが、今日は「アニメソング」についての話です。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。

これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?

これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。

この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)ささきいさお(75)堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。

2018年5月5日土曜日

イチローの「事実上の引退」は即身仏と同じに見える

風邪が治りきらないままぼんやりGWを過ごしていると、イチローの事実上の引退のニュースが入ってきました。しかし、言ってることがなんとも不可解なのです。

「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。

例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。

「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」

「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。


この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。


話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。

2018年5月4日金曜日

英語を「勉強」しようとするのは問題の反復生産でしかないんじゃないだろうか

GWに入りました。今年は子供を連れて車で実家に帰ろうかとも思っていたのですが、渋滞情報を調べたらエゲツないことになっていて迷いが生じたところに、さらに子供がやや風邪気味になりまして。結局、「どうせ1泊くらいなんだったら、無理してGWに帰らなくてもいいじゃん」という結論に落ち着きつつあります。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。

さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。

「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。

これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。

2018年3月21日水曜日

「HUGっと!プリキュア」は女の子に過大な要求を突き付けてるんじゃないだろうか?

早いもので我が家の娘も春から幼稚園に入ることになりました。ここ最近は女子向けのアニメだけでなく仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラマンなどの男の子向けの特撮まで見るようになって、ますますテレビっ子ぶりに拍車がかかってる感があるのですが。幼稚園に入ったら男の子とも一緒に遊べるようになるはずだと前向きに考えることにしたいと思います。
1月が娘の誕生日だったのでその時期に誕生日プレゼントに何が欲しいのか聞いたところ、「プリキュアのマスコットのぬいぐるみ」と言われました。しかし、その時点でプリキュアは2月から新しいシリーズに入ることが分かっていたので親としては「いや、先回りして次のプリキュアのマスコット買おうよ?」と言いたかったのですが。まぁ、子供にそんなこと言って理解してもらえるわけもなく、結局その時やっていたプリキュアアラモードのマスコットをAmazonでポチっとお買い上げしました。
この時点ではまだ放映が続いていたにも拘わらずAmazonではすでに半額くらいに値引きされていたので、「あー、もう在庫を売り切るモードに入ってるんだな」と思ったのですが。今おもちゃ売り場では2月までで放映が終了した旧プリキュア(プリキュアアラモード)と旧スーパー戦隊(キュウレンジャー)のおもちゃは残酷なほどに値引きされて叩き売られています。おもちゃ業界のこのあたりのフットワークの軽さと冷酷さには驚かされますが、なんでこうなるかもよくわかりました。というのも、子供達の関心も放映終了と同時に急降下して次の作品に移ってしまうみたいなのです。

さて本題の「HUGっと!プリキュア」なのですが。「子供達にとって一番身近なお母さんこそ女の子にとっての強く、優しく、カッコいいヒロイン像を体現している」というコンセプトを掲げているそうです。その点では過去のプリキュアとは少し一線を画すことを意図しているんだろうということは見ているこちらにも伝わってきます。プリキュア達は悪の組織に狙われている謎の赤ちゃんをお世話しつつも、悪の組織と戦っているという話になっています。まぁ、ここまではいいんですよ。プリキュアとしては新機軸なんでしょうけど、セーラームーンまで遡れば未来の子供(ちびうさ)が出てくること自体は前例がありますしね。
ところがこの一方で、この作品の掲げているコピーは「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」なのです。ここからうかがえるように、「キッザニア東京」のように子供に将来の職業について啓蒙することもこの作品のもう一つのテーマのようなのです。だから、プリキュア達に色々な職業体験をさせるようなシーンが多く盛り込まれていますし、エンディングの歌なんて「将来アレにもコレにもなれる」みたいなことをひたすら羅列して歌ってたりします。
以上より。「HUGっと!プリキュア」は「母性」と「労働者としてのキャリアデザイン」という二つの要素を同時に子供に啓蒙しようとしているように見えるのです。この二つは決して対立する概念ではないので両立は不可能ではないし、両立することを求められる方向に日本の社会も向かってはいるのでしょう。でも、現状ではまだまだ両立なんて難しいわけで、その二つを同時に突き付けるのはなんだか子供が気の毒なように思えてしまうのです。

ちなみに、日曜日の朝のテレビ朝日はプリキュア→仮面ライダー→スーパー戦隊という流れになっています。つまり、プリキュアの後には仮面ライダーとスーパー戦隊が控えているわけですが、これらの男の子向けの特撮番組は、プリキュアとは対照的にこれといって子供に何かを過大な要求を突き付けているようには見えないのです。
これらの特撮番組が「強くてカッコいい正義のヒーローが戦ってる姿を楽しむ」という娯楽性によって成り立っているということは僕が子供の頃とさして変わっていないように思えます。スーパー戦隊に限って言えば、「5人という縛りをやめる:キュウレンジャー」→「スーパー戦隊が怪盗側と警察側に分かれて戦う:ルパンレンジャーvsパトレンジャー」という風に、むしろ既存のフォーマットを崩して柔軟に新機軸を導入しているようにさえ見えます。
そんなわけで、「HUGっと!プリキュア」とその後の男の子向けの特撮を比較すると、なんだか女の子は色々要求されていることが多すぎて気の毒なようにどうしても思えてしまうのです。

2018年2月4日日曜日

ドライブレコーダーは「対策」ではなく原因の反復生産なのではないだろうか

ドライブレコーダーがちょっとしたヒット商品になっているそうです。背景にあるのは、昨年話題になった「あおり運転」の事件なのでしょう。「頭のおかしい輩の危険なあおり運転の被害者になる可能性は誰にでもある。だからせめてドライブレコーダーで自衛しよう。」という気持ちは分からんでもないのですが。でも僕はどうしてもあれを買って自分の車につけたいとは思えないのです。
しかし別に僕がそう思えないからといって、それで誰かが不利益を被るわけでも全然無いのです。たとえばこれが「安倍政権の在り方について」であれば、そうもいきません。実際にはそんな機会はほとんど無いものの、国の行く末を左右する案件については他人と議論する市民的義務をある程度は感じるのですが。ドライブレコーダーの是非というのは個々人の選択というレベルに還元されているので、特に議論の必要がありません。しかし、そのおかげで逆に「思ってることを誰かに言う機会が全くない」のです。だからこそ、「余計な心の機敏の掃き溜め」であるこのblogに思うところをしたためてみようと思います。

まず。「車の中の空間」は「インターネット」と並んで、「母胎内で守られた状態で外部空間と関わっている」というメタファーがこれ以上ないくらい適切に当てはまるのです。車の中にいると、実際は周りの人間からは「ある程度は見えている」にも拘わらず、あたかも誰にも見られていないかのような気分になります。だから我々は車の中では大声で歌ったりお鼻の掃除をしたり…と、他人の目がある場所ではできないことをいくらでもやってしまうわけです。
その空間にドライブレコーダーという「他人の目」が入ってくるのがどうも僕は嫌なのです。ドライブレコーダー積極導入派に言わせれば、「だからこそ『他人の目』が入ることによって運転が丁寧になるんだ」となるのでしょう。そこには一理あるのは認めるのですが、だからといって他人に監視されているような状況に常に晒されるのはやっぱりなんか嫌なんです。時々は人に聞かれたくないような青臭くて恥ずかしい歌を絶唱したいときだってあるじゃないですか。

そして、ドライブレコーダーに対するもう一つの懸念は「自分の過失も克明に記録されてしまう」ということです。僕は自分の運転技能は人並み以下だという自覚があって、いつか自分が重大な事故を起こすかもしれないと常に思いながら車に乗っています。ドライブレコーダーを買う人は「自分が過失を犯す可能性=ドライブレコーダーが自分に不利益をもたらす可能性」についてどう思って思ってるんでしょうかね?自分の運転技能の無謬を信じているんでしょうか。
やや脱線しますが、ドライブレコーダーのメリットだけを見つめて導入に踏み切れる人は、「9条を廃止して、軍備もどんどん増強すれば北朝鮮や中国に対する抑止力になるはずだ」というネトウヨの思考に近いんじゃないかと思うのです。もし日本が軍備を増強したら近隣諸国だって相応に軍備を強化してくるので軍事バランスに緊張がもたらされるのはちょっと考えれば自明なことなのですが。ネトウヨの皆さんの頭の中では外国は都合よく自分の思い通りに振る舞ってくれることにたぶんなっているのでしょう。ドライブレコーダーに都合のいいことだけ期待できるセンスはこれに極めて近いと思います。

ここ数年、特に2010年代以降、我々日本人の「他人を許す能力」は急激に低下の一途を辿ってどんどん0に漸近しています。例えば、他人の不倫にいちいち介入して断罪しようとする文春砲のようなものが市民権を得てしまっているのはその一つの表象だと思います。些細なトラブルが煽り運転に発展してしてしまうのは、相手を追い詰めたいという攻撃欲求を自制できない人が増えているということであり、これは個人の資質もさることながら「他人を許す能力が低下してしまった」時代と不可分の関係にあります。一方で、こういう人への対策としてドライブレコーダーを導入するのも、また別の形で「他人を許さない」という態度表明にしかなっていないと思います。
僕がドライブレコーダーを「なんとなく」だけど、でも「どうしても」嫌な理由は、突き詰めるとこの「他人を許す能力」の欠如が日本という国にもたらしているネガティブスパイラルの中に自分が巻き込まれたり加担したくないということなのでしょう。ドライブレコーダーを導入することは対策のように見えて、実は原因の反復生産なのではないでしょうか。

一応最後に対案らしきものを一つだけ提案しておきますが、「他人を許す能力」の涵養にはラテン国家での生活体験がベストだと思います。危険運転行為の刑罰には日本の刑務所で何年も服役させるよりもスペインへの数年の「島流し」の方がはるかに効果的だと思います。ドライブレコーダーを買う人にも同じ事が言えて、ドライブレコーダーの購入希望者はまずスペインで「研修」を受ける制度にしてみてはどうでしょうか。我ながら「面白い極論」レベルのことしか言ってない自覚はありますが、しかしそれでも僕が考えうる限りでは一番マトモな解決策なのです。

2018年1月3日水曜日

MeTooは反知性主義=幼稚な男性原理へのカウンターに見える

2018年になりました。今年の正月は10連休なのですが、本日は早くもその折り返し点にあたります。これだけ長く休むとだんだん休みそのものにも飽きてくるのですが、かといって会社に行きたいかと言うとそういうわけでもない。。という正月休みを過ごしています。そんなこんなで、とりあえず長期休暇恒例の「いつか書こうと思ってたけど面倒くさそうだから二の足を踏んでいた話」を一つ書いてみようと思います。
本稿で言いたいことは、タイトルにもあるように、ここ最近盛り上がりを見せているMeTooのムーブメントは、反知性主義および幼稚な男性原理へのカウンターなのではないか?ということです。一応説明しておくと、MeTooというのはハリウッド業界人のセクハラ疑惑告発に端を発して、政治などあらゆる分野でのセクハラを告発するムーブメントです。

このMeTooというムーブメントを考えるには、発端となったアメリカという国について考える必要があると思います。我々日本人から見るとアメリカという国は「自由、平等、人権」といったことに非常に意識が高い国のように見えます。確かに表面(タテマエ)上はアメリカはそういう国だということになっているのですが、一方で実態としてのアメリカにはいまだに人種差別は根深く残っています。これは奴隷と移民によってできたアメリカという国の成り立ちと不可分で、「忘れたいけどいつまでも忘れられない」「無くしたいけど無くならない」という病のようなものなんだと思います。
人種差別と並ぶアメリカの病としてアメリカン・ミソジニー(女嫌い)というのがあって、これもアメリカという国の成り立ちと深く関係しています。曰く、西部開拓時代のアメリカはあまりに危険すぎるので男女比が極端に非対称で女性があまりに少なかったらしいのです。この時代には、女性の伴侶を得ることが無いまま死んでいった男性がたくさんいたんだそうです。このような経緯で発展した結果、アメリカは「ミソジニー(女嫌い)」文化の国となった、というわけです。

このアメリカン・ミソジニーはまさかのヒラリークリントンの落選→トランプ当選という結果を招いた一因ではないかと言われています。上記の引用記事がどこまで本当かわかりませんが、アメリカ人男性の1/4は女性が大統領になることに対して「怒りを感じる」と答えたそうです。トランプの大逆転をもたらしたのはミソジニーだけでなく不法移民への差別感情など、アメリカ人の反知性主義的な本音を肯定して見せたことなんだと思います。そして、その後のトランプの暴走ぶりは、彼に投票したアメリカ人の本音をそのまま反映したものだとも言えるのでしょう。
さてここでMeTooの話なのですが。MeTooというムーブメントはトランプに象徴される反知性主義/幼稚な男性原理に対するカウンターなのではないでしょうか?極端に言うと、もしも大統領になったのがトランプではなくヒラリーだったら、MeTooというムーブメントは起きなかったかもしれません。河合隼雄が切断する父性、包含する母性と言っていたように、世界中の争いの大半はアホな男のつまんない意地の張り合いで出来ています。北朝鮮とアメリカの対立なんてその最たる物で、アホそうな男二人のせいで人類は再び核戦争の危機に瀕しているのです。MeTooはこういった男性原理による世界の分断に対するカウンターとして世界中に飛び火したのではないでしょうか。

最後に伊藤詩織さんの件について。
MeTooのムーブメントに少し先駆けて告発を行った伊藤詩織さんの事件は、MeTooの勢いもあってかNYタイムズの1面で取り上げられるなど、再び光が当たりはじめました。日本のマスコミはこの件をお得意の忖度によって本件についてはこれまでほぼ黙殺したままですが、海外メディアがこれだけ取り上げたことによって日本のマスコミや安倍政権も無視はできなくなると願います。
伊藤詩織さんの告発も安倍政権という反知性主義的な政治姿勢に対する女性からのカウンターであり、大局的にはMeTooと同じ文脈にあると思います。このような動きが世界中で同時多発的に発生していることは偶然ではなく、こういうところからトランプ政権や安倍政権のような反知性主義=幼稚な男性原理が沈静化していくことを願います。


2018年1月1日月曜日

ネトウヨの歴史捏造は「歴史の二次創作」なんじゃないだろうか

僕は中学生の頃はそこそこの熱量のこもったアニオタでした。なので未だにBSやWOWOWなどでやってるアニメをたまに録画しては夜な夜な家族が寝静まった後にこっそり見ています。子供が生まれて以来、時間的余裕が減ってしまいましたが、それでもクールの変わり目には新番組をチェックして面白そうな気配のする作品があればとりあえず1話だけは録画してみます。その後2話以降も継続して見る作品はほとんど無いですが、それでも薄ぼんやりとはアニメの世界との繋がりは未だに残っています。
ここ数年の日本のアニメを見ていて目につくのが「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」が市民権を得て、一つのジャンルとして定着していることです。具体的に自分が思いつく範囲でもこれだけあります。
・艦これ:太平洋戦争当時の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化
・クラシカロイド:登場人物のモチーフがクラシックの作曲家
・文豪ストレイドッグス:登場人物のモチーフが過去の文豪
クラシカロイドやストレイドッグスは歴史上の作曲家や文豪のキャラが出てきて、たいてい必殺技は代表作の名前だったりします。例えば、ストレイドッグスに出てくる「芥川」の必殺技は「蜘蛛の糸」です。

こういう作品が出てきた背景は、アニメ界の重鎮の発言からも読み解けると思います。
庵野秀明:「自分たちはコピー世代」
宮崎駿:「庵野より若いのはコピーのコピーだ」
押井守:「アニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
この文脈に沿って言うと、「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」は「コピーのコピーのコピー」のさらに先の段階のように見えるのです。既存の作品と同じような要素(萌えだったり、格闘だったり、ロボットだったり)で構成されたコピーを作るにも、そうそう斬新な設定を考えつくわけでもないので、史実そっちのけで歴史をモチーフとしてだけ利用しているように思えるのです。
更に言うと、消費財としての「コピーのコピーのコピー」のアニメが次々に乱造される背景には「無理矢理にでも新しいものを作らないといけない」という強迫観念のようなものがあるように思います。これはアニメに限った話ではなく日本全体を覆っている病のようなものです。例えばパクチーが流行ったら「パクチーチョコレート」や「パクチーハンバーグ」等々の謎の商品がスーパーの店頭に並んでたりしますよね。僕が最近のアニメをとりあえず1話だけ録画してみても、その後見続けようと思えない原因もこれと同じなんじゃないかと思います。つまり、「これわざわざ新しく作る必要あったの?」と思えてしまうので、その後わざわざ録画してまで見ようという意欲を喚起しないのです。

さてここからようやく本稿の本題なのですが。「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作アニメ」と、ネトウヨによる「南京大虐殺は中国人が作った嘘」とか「慰安婦はただの売春婦だった」といったよくある歴史捏造はほとんどやってることが同じに見えるのです。両者に共通しているのは「史実を自分の都合の良いように改造することに躊躇が無い」ということなのだろうと思います。別の言い方をすると「事実や史実がどうであったかはあんまりどうでもよくて、自分に都合のいいように断片的な情報を再構成することに特に違和感を感じていない」のではないかと想像されます。
最近のNHKの大河ドラマも割とこの傾向が強くなってきていると思います。史実を無視して荒唐無稽な展開(例えば、信長の妻が本能寺で刀を振り回して信長と一緒に戦う)を平気で導入するようになりました。アニメや大河ドラマなどの”創作”であれば特に誰かが不利益を受けないのでしょうが、これと同じことを外交の場に持ち込むとさすがに問題になってしまいます。昨今の少女像や慰安婦問題に対する安倍政権の対応が国際社会から非難を浴びているのは、「都合の悪いことはうやむやにしたい」という歴史捏造/修正の意図があからさまに透けて見えているからなのではないでしょうか。

高校生の頃、僕の友達に同人誌をせっせと描いてるような女の子が何人かいました。彼女らのうち何人かはアニメのキャラクターやミュージシャンをモチーフにして、同性愛的な架空の漫画(所謂「やおい」と称されるものです)を描いてコミケに出しているような人でした。そのうちの一人が「『こんなことあるわけないよなー』って思いながら描くのが、楽しいんだよね」と少し自嘲的に笑いながら言っていたのを今でも覚えています。まだ、CGMなんていう言葉もなければインターネットも一般的ではなかった時代の話です。
現役でこの手の同人活動をやっている人と具体的な接点が無いので何とも言えないですが、少なくとも僕の高校時代の同級生は自分のやっていることが「社会に受け入れられない非現実的なファンタジー」であることにはちゃんと自覚があったと思います。別の言い方をすれば、現実社会と自分の脳内ファンタジーとの間でいくらかの葛藤があった末に「自分の願望は非現実的なファンタジーである」ということを認めて受け入れること、そしてその痛みを共有することが、少なくとも当時の同人ネットワークという社会の成員として認められる上での必須条件だったんだと思います。この点において、僕の高校時代の同級生の女の子は現代のネトウヨよりも大人だったと僕は思います。