2013年5月31日金曜日

挨拶ができないとダメかな?

日本に帰ってきてからもう9ヶ月経った。さすがに最近は話しかけられてとっさに「Si」と応得てしまうこともなくなってきた。けど、帰国直後はそりゃありとあらゆるものに違和感を感じて辛い思いをしたものだった。

例えば照明。日本はどこにいっても白色蛍光灯の照明が煌々としていて、帰国直後は家電店やコンビニにいると目が痛くて辛かった。今住んでる家も入居直後に全ての照明を白色系から暖色系に置き換えた。目が痛くて辛かったからだ。今でも白色蛍光灯が煌々としている僕の職場はちょっと苦手だ。ていうか、原発があれだけの事故を起こしたにもかかわらず、こんなに電気を使ってまで夜を明るくしたがるのが僕には未だに理解できない。

みんな日本語で話しているし、自分が日本語で話していることが理解されてしまうのも帰国当初は気持ち悪かった。スペインにいる当時は奥さんと僕の会話は誰にも理解されないし、道行く人の会話も聞こうと思って聞かなければ分からなかったのに、日本では日本人の会話は嫌でも耳に入ってくる。帰国当初はご飯食べに行った先で隣のテーブルの日本人の会話がどんどん飛び込んでくるのがすごく辛かった。

未だにどうしていいのか分からないことの一つに挨拶というのがある。スペインという国では、例えば買う意思が明確でなくてもお店に入るときには「Hola!」と必ず挨拶するのが当たり前だったり、エレベーターに見知らぬ人が乗っていてもとりあえず「Hola!」と挨拶して入っていく。つまるところ、全ての挨拶が「クラッチが噛み合ってる」ことが普通なのだ。これにたいして日本人の挨拶は「クラッチが噛み合ってなくて一方通行も普通」という雰囲気を感じることが多い。例えばコンビニに入ったら店員は「いらっしゃいませ」と言うけどこれに対して何か応えることは普通誰もしない。店員だって何か言い返して欲しいとはたぶん思ってなくて、つまるところ終始クラッチが噛み合って無いことを望んでるように僕には思える。これが悪いと言うつもりは毛頭無いし、コンビニはこれでもまぁ別にいいと思うんだけど。困るのは職場での挨拶だ。

朝、いつもと同じように会社に来て、普段毎日顔を合わせてる人が隣の席にいて、彼は画面に見入っている。彼は挨拶されることで集中を乱されたくないのかもしれない。ていうか、挨拶したところでクラッチが噛み合った挨拶を返してくるとは到底思えない。どうしようかなと思った挙句に黙って席につくと、隣の席から小さな声で「おはようございます」みたいなのが聞こえてくる。当然こっちを見る気配なんて無い。だったら挨拶なんてしてくれるなと思う一方でやっぱりなんだかちょっと自分が悪い事をしたような気分になる。こういうとき、彼をさらに下回る小さな声で「おはようございます」と独り言のようにつぶやくことになる。

一方で、会社のオフィスを掃除する清掃業者のおばちゃん達はまるで黒子のようにあたかもそこにいないかのように振舞ってくるんだけど、僕はこの人達に朝会うとなぜか積極的に挨拶してしまう。なぜだかは自分でも良く分からない。強いて言えば、彼女達の態度が発する「私はここの成員ではありません」というメッセージに対して「いや違う、君も毎日ここで働いてるメンバーだよ」と言いたい気分になるからだろうか。そういえばスペインの職場の掃除のおばちゃんはいつもニコニコしててやたらと僕に話しかけてきたなぁ。

お互いに違和感なく挨拶が成立するには、挨拶の仕方やタイミングに対する常識が共有されていることが不可欠だということはスペインから日本に帰ってきてから良く分かった。そして、僕のそれはスペインで2年過ごして帰ってきたら普通の日本人とはどこか違ったものになってしまったようだということもなんとなく分かった。よく「挨拶の出来ない奴はダメだ」と言う人がいるけど、こういう人は自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいとされていると信じて疑っていないだろうという点においてすごく幸せな人なんじゃないかと思う一方で、”挨拶ファシズム”によって世界を敵と味方に簡単に分けすぎのような気がする。当のご本人は「挨拶の出来る自分」を社交性の高い人間と位置づけている気配を感じるんだけど、実際には「挨拶の仕方」という一面だけで人を簡単に判断して切り捨ててしまう閉鎖的な人のように僕には思える。

2013年5月30日木曜日

語学とお仕事(5)

以前のエントリに書いたように、僕は(少なくとも僕より語学が出来ないと思っていた)後輩が会社から海外に送り出されるのを見たときにとても悔しい思いをして、その後紆余曲折ありながらも同じように自分が会社から海外に送り出された後に、日本に戻ってきて一年が経とうとしている。やれグローバル時代だとか言ってみたところで、田舎の製造業の我が社で理系のエンジニアが海外に行くのはまだまだ特殊事例だ。行く前と帰って来た後で僕に注がれたのは、かつて僕が後輩に向けてたのと同じで、簡単に言うと「ズル~い」というちょっと嫉妬の混ざった視線だった。確かに結果として運が良かったとは思うよ。だけど、君よりは語学をがんばったつもりなんだけどな。とか、行ったら行ったでいいことばっかりじゃなくて色々辛いことだってあるんだよ。特に最初の方はね。とか思ったりもする。まぁ、勿論そんなこと彼らには言わないけど。

ちょっと前にルース・ベネディクトというアメリカ人の書いた「菊と刀」という本を読んだらなるほどと思うことが書いてあった。この本は日本文化論の古典的名著であり、いかによくできているかはたとえば内田樹などさまざまな人がすでに言及しているのでそこはさておき。ルース・ベネディクトが言うには、アメリカという国では一代で巨万の富を得るのはアメリカンドリームの実現であり賞賛されるべきことであるが、日本では明治維新後に急に巨万の富を得た者は「成金」と呼ばれて庶民から蔑まれた。つまり、アメリカと日本では完全に反応が真逆になるんだそうな。曰く、日本は天皇から始まって武士、農民、果ては賎民まで明確な「カースト」が存在する階級社会で、それぞれの階級に与えられた特権を逸脱しようとする者は必ず罰せられ。だから成金は庶民から蔑まれたというわけだ。

僕の話に戻ると。興味深かったのは、会社の人達が僕を「階級を逸脱した特権を得た」としてやんわりではあるが攻撃的な目を向けてくる一方で、そのような処遇を与えたお上(=会社)を非難しようとはまるで思ってないことだ。もし僕が階級を逸脱した特権を得たと思うなら、僕にそれを与えたお上(=会社)も多少は非難するのが筋なんじゃないかと思うんだけど、彼らはそのようには考えない。

2013年5月29日水曜日

語学とお仕事(4)



今回は、日本に帰ってきてから気付いた日本人の外国語の問題点について。これは別に上から目線での話ではなくて、自分も苦手という話なので。自戒を込めて。


日本人は「大きいところから各論へ向かう」という風に話を構成(オーガナイズ)することにあまり意識が無くて、この逆の方向(各論から結論)へ向かってたり、話があちこち飛んでたりする人が割と多いように思う。これはおそらく日本語の曖昧さとか、みんな日本語が流暢なのが当たり前な(ほぼ)単一民族文化で異文化との交流が無かったこととか、いろいろな背景があるんじゃないかとは思う。これに対して、「まず結論から話す」という欧米(この日本語大嫌いなんだけどとりあえず便宜上使うことにする)的な会話スタイルは、互いに運用能力が不十分な言語でコミュニケーションを取る必要がある場合に、少しでも自分の言いたいことを相手に伝えたり、少しでも結果を自分の望む方向にもっていくための技術として発達したのではないかと思う。


日本人が英語で喋ろうとしているときによく感じるのは、「この人は今、日本語で話したいであろうことをそのまま英語に置き換えて話そうとしているんだろうな」ということで。僕は日本人だから彼らがそうなるのはすごくよくわかるんだけど、それでも「もういいからまず結論を言ってくれ」と思ってしまう。で、こういうとき、外国人は僕よりももっと更に焦れている。やがて日本人は、焦れてる外国人の空気を感じながらもしどろもどろで頑張った挙句に、結論にたどり着く前にどこかで語学力の限界を迎えてあきらめてしまい、話が空中分解してしまう。結論だけでもまず先に言えば、最終的にどうしたいかだけでも伝わる上に、どんな結論に向けて話したいのか受け手が分かるのでそこまで焦れずにしどろもどろを見守ってもらえると思うんだけどな。


スペインで語学学校に通ってた時に、欧米(うーん。。)人はみんな話をオーガナイズする能力が当たり前のように備わっているのを強く感じた。当時グループレッスンのクラスは僕以外全員欧米人だった。彼らの語彙力や文法知識は(文法と単語ばかり偏重してしまう日本人の)僕よりも明らかに下だったけど、彼らは話の途中で空中分解することはまず無い。彼らが言い淀むのは単語が分からないとか、言い回しが分からないとか、動詞の活用が分からないとか、そういった純粋な言語の運用能力の問題であって、話そのものはちゃんとオーガナイズされているので空中分解しないし、たどたどしくても聞いてる側は焦れてきたりはしない。


「英語で話すときは日本語で考えずに英語で考える」というのはよく言われることだけど、この効用は単純に「日本語→英語」の変換によって生じる効率の問題だけではなく、自分の英語力で説明できる範囲のことだけで思考できるので空中分解しないという事や、「結論から各論へ」という話し方のスタイルにスイッチが切り替わるという側面もあるのではないかと思う。まぁ、本当に「英語で考える」ということができるのかは僕はかなり懐疑的ではあるけど。


「なるだけ結論から話す」とか「自分の語学力でできる範囲で説明する」とか、こういうことを心がけるだけで不十分な語学力でもだいぶコミュニケーションが取りやすくなると思うんだけど。でも、それができるようになる頃にはだいぶ流暢になってるんだろうなという気もする。。そして、できれば日本語で話すときからそうしてくれると有り難いんだけどなと思う局面に日本に帰ってからしょっちゅう直面する。この、日本人とのコミュニケーションにおける焦れ方や違和感を皮膚感覚として理解してもらうには、生意気な言い方になるけど外国に一度行ってもらうしかないんだろうなと思う。というわけで、職場全体をスペインに移転させよう。そうしよう。

2013年5月28日火曜日

語学とお仕事(3)

今回は語学とお仕事という話で書きたかった本題。社員の語学力向上を願うなら会社がどうすべきかについて。

なぜ上の人が僕に社員への英語教育について相談してきたかと言うと。たぶん僕が「取り立てて英語が出来るわけでもなかった日本育ちの普通の理系社員が日本にいながらTOEIC900点(これも半分たまたまなんだけど)を取るに至ったモデルケース」だからなんだろう。確かに帰国子女や留学経験者でもない普通の理系社員がそこまでたどり着いた事例はあんまりないので、二匹目や三匹目のどじょうを狙いたがるのは分かる。で、なぜそうなったかと聞かれたら、僕の場合、努力が報われなかったら会社を辞めるくらいのつもりでやっていたからだということになる。しかしそんなことをどこまで上の人に向かって言って良いのかよく分からないので困る。ついでに言うと、そんな僕の英語力もたかが知れてて、ネイティブ同士の会話は何言ってるか全然分からない事の方が多いということも分かって欲しいんだけどな。。

そもそも。我が社では語学なんて全員が出来る必要は無いので、得意な人が自分の芸風としていけばそれで十分なんじゃないかと思う。楽天みたいに商社としての色合いが強かったり、ユニクロみたいなグローバル企業なら、社員全員に英語を強制するのも意味があるかもしれない。しかし我が社はドメスティックな製造業の会社であり、そこには設計したり生産したり…いろんな役割を果たす人が必要になる。会社の仕事というのは色々な技能を持った人が集まったプロジェクトやチームが組織として機能していれば成り立つので、プロジェクトやチームの誰かが語学ができる必要はあるんだろうけど全員がそれをできることは必然では無い。語学というのはプログラムを書くとか、回路設計をするとか、生産管理をするとか、そんなのと同じで技能の中の一つにカウントされていれば十分だと思う。

僕なりに会社がどうすればいいと思うか一言で言うと。社員に対して語学を「教育」しようとするのはもうやめて、努力しようとしている人を支援することと、努力した人を公正に評価してあげることの二つだけを会社がやればいいと思う。
まずは、中途半端な語学研修プログラムを社員に提供するのはやめた方がいい。会社の語学プログラムにもいいところだってあるのかもしれなけど、「会社の研修を受けてるから自分は語学のために努力している。これでいいんだ。」という満足と免罪符を社員に与えているという負の側面が強いように思える。しかし、特に必要に迫られてもいない状況である程度のレベルまで語学ができるようになろうと思ったら、レッスンを受けてるだけでなく、ネチネチ単語を覚えるとかコツコツとシャドウイングを繰り返しすとか、そういう努力を自発的にやらないと身につくわけが無い。しかも、人によって向き不向きがあるので、どのアプローチが効果的かは人によって異なる。だから、「自分にあった方法を考えて、自分で努力してください」とはっきり宣言した方がいいだろう。
そして。改めて言うと、会社がやるべきことは語学に対する努力を支援したり、その成果を公正に評価した上でキャリア設計などに反映させていくことだけなんじゃないだろうか。「支援」という意味では、ワーホリや自主的な語学留学で外国に行ってきたいという人を一年くらい休職扱いにしてあげるというのはアリだと思う。我が社の現行の制度では青年海外協力隊に行くための休職は認められるようだけど、ワーホリや語学留学も認めれば自発的に語学を習得したい人への支援になるので、ヘタな語学研修プログラムを社員に提供するよりよっぽど効果があると思う。
「公正な評価」という意味では、海外研修や海外駐在などの機会を得るための語学力の線引きをある程度明確にするべきなんじゃないかと思う。もちろん海外研修や海外駐在の対象者を選ぶにあたって語学は一要素でしかないんだろうし、「語学ができるんだったら海外研修に出す必要なんて無い」というのは出す側の言い分としてあるのかもしれないが。かといって、ある程度ちゃんとした線引き(あんまり気は進まないけど、例えばTOEIC何点以上とか)を持たないと、昔の僕みたいに「あの程度の語学力で外国に行った奴が、帰って来たころにはペラペラになってるかと思うとバカらしくて日本で自分の時間を削ってまでチマチマ努力する気になれない」と思う人は必ず出てくると思う。上述の通り、語学力を日本に居ながら伸ばそうと思ったら本人が自発的に努力するしか方法は無い。語学への努力が給与などの形で即物的に還元されるわけでも無い以上、せめて海外研修や海外赴任の機会を得るための最低限の語学力の線引きくらいは持つべきだと思う。でないと社員も「語学をやれと言うけど、どのレベルまで達することを会社は求めているのか良く分からない」と、目標感が定まらなくなってしまうと思う。

-------------------------------------------------------------

以上ここまで書いてみて、「日本に居ながら語学という技能を習得するために、会社員は自分の時間を削って苦痛を伴う努力を強いられる」という書き方になってしまったけど、これはなんだか左翼的な感じがしてちょっと不本意だ。会社と社員という労使間の関係にフォーカスしてしまうと、語学そのものの楽しさとか、そういう話が出てこなくなってしまう。
しかしながら、家父長制度を会社組織に援用したような「年功序列、終身雇用」の風潮が未だに根強い我が社は、「社員の語学力向上を会社側は望んでいる。しかし、終身雇用を前提とした会社のルールによって社員を縛っていることによって、ワーホリや語学留学で社員が自主的に語学力を向上させる機会を社員から奪っている。一方で会社は中途半端な語学研修プログラムを日本にいる社員に提供しているが、これで会社が思い描いているような語学力を社員が得るような結果にはなっていない。」という倒錯した状況にあると僕は思う。外資や楽天みたいになるべきだとは思わないし、僕はどっちかというと我が社はまだ日本企業のいいところを残している方なのでそれは大事にしてほしいと思う。だけど、もう一段社員に自由を与えて放ったらかしてあげれば、少しでも悪循環から抜け出せるのではないかと思うんだけどな。

2013年5月25日土曜日

語学とお仕事(2)

前回のエントリで僕が語学とどう関わってきたのかについてざっくり記述してみたので、今回は僕が思う「語学への向き・不向き」について思うところを述べてみよう。

■耳がいい人
やっぱり耳が良い人は言葉を覚えるのが速いと思う。特に音楽家とか。この才能は僕にはなかった。残念。

■後先考えない迂闊さ
語学が上達しやすい状況の一つに「必要に迫られる」というのがある。この状況に追い込まれるのはなかなか辛いけど、短期間で飛躍的に語学力が向上するのにこれ以上の方法を僕は知らない。自分がフランス語を勉強したいためにフランス語を教える仕事に就いた枡添要一みたいな特殊な人は別にして、普通の人が「必要に迫られる」状況に追い込まれるには、後先考えない迂闊さが必要なんじゃないかと思う。例えば全然スペイン語できないのにスペイン人と結婚してスペインに来ちゃうような人って、その後の生活環境(毎日ずっとスペイン語漬け)もさることながら、その後先あんまり考えてない気質がそもそも語学に向いてるんじゃないかと思う。どうなるか分からないのにとりあえず外国に踏み出してみるとか、小さいところで言うと「ちゃんと説明できるか良く分からないのにとりあえず喋り始めてみる」とか、そういう後先考えない迂闊さって語学に向いてる人の素養の一つなんじゃないだろうか。逆に、慎重に考えて行動する人って必要に迫られるような状況にそもそも追い込まれにくいんじゃないかと思う。

■いらんことしい
英語で話せなくもない相手に向かってわざわざ下手なスペイン語で話してみるとか、覚えたてのフレーズを使ってみるとか、そういいうのは「いらんことしい」の素養が無いとできないと思う。自分自身を振り返っても、極度の心配性にもかかわらずそれでも外国に行きたいと思えたのは、「いらんことしい」だったからだと思う。「いつも結果として半殺しの目に遭うくせに、強い奴を見つけると戦ってみたくなるサイヤ人」みたいないらんことしい気質は語学に向いていると思う。

■よく喋る人
そりゃまぁ、沢山喋った方が身につきますから。

■論理的に言語を理解しようとする人
このタイプは「**語会話」というよりは「言語学」という学問に向いていると思う。「ここのwhen以下は副詞節だから動詞は原型で…」みたいなことを、ちゃんと論理立てて考える理知的な人。僕は明らかにこの才能には恵まれていない。僕は自分が過去に見聞きしたフレーズのストックから考えて、なんとなくの雰囲気で「たぶん正しいorなんかヘン」を判断するようなやり方でしか言語をとらえていない。

■どこか心がギャルな人
語学のための努力というのは、チマチマ単語を覚えたりするような大変地味な作業の繰り返しになる。こういった作業にエネルギーを注ぐには、大なり小なり「自分磨きOL」のようなマインドが必要とされると思う。別の言い方をすると、「心がギャル」ということになるのではないだろうか。例えば、blogやtwitterなどを頻繁に更新する人はある程度心がギャルだと僕は思う。よくある、語学を毛嫌いする超理系タイプの男性に欠けてるのはこの「ギャル気質」なんじゃないかと思う。

他にもいろいろあると思うけど、とりあえず僕が思うのはこんなところかな。もし僕に語学の才能と言うべきものがあったとしたら、それは単純に「迂闊でいらんことしいなギャル」だっただけだと思う。

語学とお仕事(1) 

先日。
会社の上の人から「社員への語学教育のあり方」について相談された。とりあえず、「skype英会話とかあんなのを活用して、とにかくなるだけ毎日でも喋る習慣をつけてはどうでしょうか?」と、薄っぺらい上に自分自身でも15点としか思ってない返答をしてみたものの、なんとなく言い足りない感じだけが残ってしまった。で、よくよく考えてみたら、僕はその昔「語学に関する努力を会社がちゃんと回収してくれなかったら転職しよう」と思っていたということを自分自身ですっかり忘れていたようで、たぶんこれは無意識的に抑圧されていたとか、そんいうことなんだろうな。だからこそロクな受け答えができなかったんじゃないかと思う。そこから色々考えることはあったんだけど、とりあえず今回は第一回として「語学」という観点から自分が会社に入ってから今までを振り返ってみることにする。

今をさかのぼること10年以上前。
入社当時、僕の語学力は理系の新入社員の平均よりはちょっとマシなくらいでしかなかった。新入社員研修のときに人生初めて受けたTOEICは確か525点とか、そのくらいだった気がする。この後5年くらいの間は仕事で英語を使う機会もほとんど無く、語学のための努力は会社の語学研修で週一回グループレッスンを受ける程度で、まぁつまり努力と言えるような努力はほとんど何もしてなかったに等しい。

状況が一変したのは、英語がペラペラの日本人上司と外国人二人のチームに配属されたときだった。この日を境に会社での会話やメールは基本的に英語になった。さらに、このチームの仕事は海外との共同作業を含んでいたおかげで、上司から「じゃぁ君は、明日から毎日夕方5時になったら海の向こうにいるxxx(オランダ人。当然日本語なんてできるわけない。)とチャットで進捗報告しあって」とあっさり言われてしまった。これはなかなかの無茶振りだった。チャットのための文面を半泣きで事前に作文したり、そのために英語の文法について高校の教科書から見直したりすることもあった。当時は英語で寝言を言ってたこともあるくらいなので実際辛かったんだと思う。しかし3-4ヶ月経った頃にはそれなりにゆとりを持ってチャットや職場での会話がこなせるようになっていた。この頃に試しにTOEICを受けてみたら780点取れた。一切準備せずに受けたにしてはまぁこんなもんだけど、ちゃんと準備して受けたら800点は越えそうだなと思った。ここから得られる教訓は「必要に迫られるという事は語学力の向上に寄与する」という至極当たり前の話であろう。

これ以後、上の人からは「チャンスがあれば将来は海外に行けるように考えてあげるから、そのときのために英語は頑張っておくように」なんて言われるようになったので、その気になって英語のニュース番組をpodcastで聞いたり、単語を覚えたりするのを毎日やっていたところに事件が起きた。とりたてて英語ができるわけでもない(と少なくとも僕は思ってた)職場の後輩が会社の海外留学制度で海外に行くことになったのだ。正直なところこれはすごく悔しかった。言っちゃなんだが、あの程度の語学力で外国に行かせてもらえて、帰って来たころにはそりゃペラペラになってるんだろう。って思うと、給料が上がるわけでも無い上に、本当に自分が外国に行かせてくれる確約も無いのに自分の時間を削ってまで語学のために努力してきたのがバカらしく思えてしまったのだ。
ここから得られる教訓として、会社側には「意欲を失わせないためにも会社側の公平な扱いは大事」ということ、社員側には「人の言うことを信じるというのは多大なリスクを伴う」ということになる。

さて。ここでどうしたか。結局はこう決めた。
・英語についての努力は継続することにする
・とりあえずの目標として、一度本気で勉強してTOEICを受けてみることにする
・そのTOEICでそこそこの点数取れても、会社が外国に行かせてくれなかったら転職する
ということにした。つまるところ、努力に会社が応えないならそれを評価してくれるところに自分を売り込めばいいと考えたわけだ。
この頃の僕を励ましてたのはH2のはるかちゃんのこの言葉だった:「いいじゃない。だれのためにがんばっても、がんばった自分は木根君のものよ。」
ここからは人生で最初(で、もう二度とやりたくない)の"TOEICで点数を取るための勉強"をやった。TOEIC用の問題集をやってみたり、自宅でできるTOEIC模試みたいなのを片っ端からやってみたりもした。先日久しぶりにこの当時の単語カードを見てみたけど、大半の単語を今は全く覚えてもいない。その後使う機会が全然無いような経済用語ばっかりだからまぁしょうがないのだが。この努力と、たまたま受けたときの問題が簡単だった(実際、平均点が通常よりも50点くらい高かった)ことも相まって、915点という予想をはるかに上回るスコアを取れてしまった。ちなみに今TOEICを受けたらたぶんやっと800を超えるくらいで、900はまず超えないと思う。ともあれ、いきなり900点とれちゃったので、もう今後一生TOEICのために努力なんかしないと決めた。「点数を取るための勉強」というのは本当につまらない上に、単語をほとんど忘れてることからも分かるように結局は身につかない。

これ以後、英語のために努力らしい努力をした記憶はほとんど無い。まぐれで取れてしまったとはいえ900点超えという点数はそれなりに会社に対してアピールする材料にはなったようで、結果として僕は会社から外国に行かせてもらえる事になった。めでたしめでたし。がしかし、行き先はEUでも最低の英語通用度を誇るスペインという国だった。これは全く予想してなかったことで、当初は「え~英語通じないじゃん。。」と凹んでいたものの、そんな贅沢を言ってられる余裕はなかった。まぁ、結果としてはすっかりスペインとスペイン人とスペイン語が好きになって帰って来たので良かったのだけど。

スペインとスペイン語の話は書き始めると長くなるので置いといて英語の話をすると。スペイン在住当時は語学への全ての努力をスペイン語だけに向けていたので、英語の語学力そのものはちっとも向上しなかった。むしろスペイン語という異物が入ってくる前の方が「外国語=英語」だったので迷いがなくて英語が上手だったんじゃないかと自分でも思っている。ただし、スペイン語にしても英語にしても、乏しい語学力を運用して自分の考えを伝えたりするのはスペインで生活したおかげで少し上達したので、これは英語で話すときにも活用されているのであろう。しかしながら、スペイン語ばっかりやってたおかげで英語という言語は僕にとって「他に共通言語がないときに仕方なしに話す言葉」「生きた生活の言葉と思えない」「中学生くらいからやってる割には結局ネイティブの会話は何言ってるか全然分からない言葉」というような位置づけになってしまった。今でも語彙力などの総合力では圧倒的に英語の方が上なんだけど、それでもスペイン語が通じる相手には極力スペイン語で話したいと思ってしまう。


開設の辞:今更blogを始めることにしました

最近SNSの利用はほとんどtwitterだけになっていて、facebookは旅行の写真を貼ったりする程度にしか使ってない。長文で何かを書こうと思ったときに、その昔はmixiの日記という形でかいたりもしてたんだけど、今となってはmixiを使いたいとも思わない。そもそも長文をがっつり書いたからといって、そんなに積極的に読んで欲しいわけでもない。かといって、人様に読ませる想定じゃなかったら単なる自分用のメモにしかならない。というわけで、今更blogを始めることにした。割と思いつきで長々と書き散らかしたいときにここを使うことにする。blogのタイトルはスペイン語でステーキの焼き具合などを指示するときに使うpoco hecho(ポコエチョ=レア、生焼け)という言葉に由来している。