2019年10月26日土曜日

海民という視点

久しぶりに内田先生の書いたテキストを読んでてグッときました。本稿はたったそれだけの話なので、あんまり構成やカミシモも考えずにその感想を書いておこうと思います。

我々日本人は判で押したように自分達のことを「農耕民族」と位置付けていると思います。例えば漠然と「昔の日本」と言われたときに、たいていの人は「日本昔ばなし」にでてくるような山村集落をイメージすると思います。しかし、よくよく考えてみたら日本は四方を海に囲まれた島国です。これだけ日常的に海産物を食べるということは、漁村だって結構な規模で存在してきたはずです。もっと遡れば、農耕の概念が入ってくる以前の石器時代の遺跡は必ず海の近くに見つかります。
このように日本人には「海民」的な素地があるにもかかわらず、現代の日本人にはこの「海民」としてのアイデンティティが徹底的に抑圧されている。これは考えてみたらすごく不思議な話です。内田先生の海民についてのテキストは、網野善彦の「海民と日本社会」の引用を通して、「海民」としての日本人の歴史の紐解いています。

「海民」とは?について、内田先生のテキストから引用してみますが、
海洋であれ、河川であれ、湖沼であれ、もともとは無主の場である。水は分割することも所有することもできないし、境界線を引くこともできない。海民たちはこの無主の空間を棲家とした。だから、海民を服属させた時に権力者が手に入れたのは、海民たちの「どこへでも立ち去ることができる能力」そのものだったということになる。
 ヘーゲルによれば、権力を持つ者が何より願うのは、他者が自発的に自分に服属することである。その他者が自由であればあるほど、その者が自分に服属しているという事実がもたらす全能感は深まる。
 天皇は多くの部民たちを抱え込んでいたけれど、その中にあって、「ここから自由に立ち去る能力を以て天皇に仕える」部民は海民だけであった。それゆえ海民は両義的な存在たらざるを得ない。というのは、海民は自由であり、かつ権力に服さないがゆえに権力者の支配欲望を喚起するわけだが、完全に支配された海民は自由でも独立的でもなくなり、それを彼らを支配していることは権力者にもう全能感や愉悦をもたらさないからである。だから、海民は自由でありかつ服属しているという両義的なありようを求められる。その両義性こそ日本社会における海民性の際立った特徴ではないかと私は考えている。

この「海民」という視点によって僕が以前から感じている違和感がいくつか説明できるような気がするのです。永らく僕は日本社会で感じる違和感を「日本人」の問題だと思っていたのですが、問題の本質は「日本vs海外」という対立構造ではなく、自分が日本社会の「陸vs海」という対立構造の中で「海民」の系譜に連なっていることのような気がするのです。
例えば、最近家を買うことについて考え始めました。子供がこの先小中学校に通うなら途中で引っ越しにくくなるし、自分がもし死んでも家だけは家族に残せる、老後も住む場所はとりあえず心配しなくていい…と、安全保障としてのメリットを考えると家は買った方がよいのですが。でも、家を買ってそこに定住するということに対してどこか違和感があるのです。もしお金さえ問題にならなければ、本音としては一生賃貸でいいからその代わりに海外も含めていろんなところに住みたいと僕は思っています。これは「海民」の気質なのだと思います。

また、サラリーマンという職業に対する違和感も、「海民」という視点で考えると納得できるような気がするのです。干支一回り以上日本のサラリーマンをやってきてつくづく思うのですが、僕はあんまりサラリーマンには向いていません。日本のサラリーマン社会は基本的に中央集権的(=陸的)な権力を志向するタイプの人が出世しやすい傾向にあると思うのですが、これまでのサラリーマン人生を振り返って、こういうタイプの上司とうまく付き合えた思い出がありません。こういうタイプの人は「所有」や「管理」にこだわるので、自分が所有・管理できない物を怖れて嫌がります。よって、自分の知らないことやできないことの価値を0査定して、「自分の分かる範囲の事」に閉じこもりたがる傾向があるのです。
逆に僕がサラリーマン生活で仲良くできたタイプの人は、「立場の上下を問わず、知らないことに興味を持ったり敬意を払ったりすることができる人」でした。別の言い方をすると、「知的に外に向かって開けている人」と言ってもよいかもしれません。こういう人とは「海民」としての僕とも程々にいい距離感で楽しく付き合えたと思います。こういう人の下で仕事ができた期間はサラリーマン人生でも2割にも満たないですが、こういう時間があったからこそ僕はまだ一縷の希望をもってサラリーマンを続けていられるのかもしれません。内田先生によると、「海民」は日本の歴史の中で平氏や坂本龍馬などのように断片的に顔をのぞかせてはすぐに消えてしまうようです。思い返しても、「海民」としての僕がサラリーマン社会で気分よく過ごせた時間もだいたいそれくらいの短いものだったと思います。。

2019年10月22日火曜日

「お客様は神様です」についての論考

Twitterでこういうtweetが流れてきたので思わず何も考えずにリツイートしました。
『お客様は神様だろ?』という変な客がいたんだが隣の席に座ってたガチムチな黒人のお兄さんが立ち上がり『神はアラーだけだ!お前はふざけてんのか!?』とバリバリの日本語でキレだしその客をビビらせて帰らせた。お礼を言うと『実は僕仏教なんだけどね』と笑って帰ってった。
どうやらこれ、所謂”パクツイ”で誰がオリジナルなのかよくわからない話のようです。本当の話かどうかもよくわかりません。でもよくできていて面白いですよね。

まず、この「お客様」と「店員」の関係の非対称性については、その昔スペインから帰ってきたときに僕も不思議に思ったものでした。ちょっとお金を払ったくらいのことで優越した立場に立てるという考え方の根拠がよく分からない上に、そこに「神」という言葉を持ち出すこと自体が一神教の世界観では考えられないですよね。
一昔前にネットで「神」とか「ネ申」とかいう言葉が流行りましたが、当時日常生活であの言葉遣いをする人が僕はたいてい大嫌いでした。「日本人は八百万の神が住まうアミニズムの国で一神教とは異なる宗教観を有しており…」みたいな話を差し引いても、「神」という母国語の既存言の意味を一過性のブームに乗って上書きできてしまうセンスが許容できなかったのです。

ところが、「お客様は神様です」のオリジナルである三波春夫の見解を引いてみたら、とてもまともな話でした。「神前での祈りのように雑念を払い、聴衆(お客様)を神と見ることで、自分の最高のパフォーマンスが出来る、という想いから出て来た、人前で何かを披露する際の芸の本質を表す言葉」なのだそうです。これは、「すべての芸事は神様に奉納する神事にその起源がある」ということからすると妥当な見解だと思います。少なくとも三波春夫の「お客様は神様です」は「芸事を行う者の心構えや矜持」としての話であって、客の側が優位に立った非対称な関係を肯定する話ではないようです。

さて、ここで僕からの提案なのですが。ここまでの議論で一切出てこない別の可能性も考えてみました。「お客様は神様です」という言葉は、「お客様は神様のように聖人君子として振る舞うことを求められている」と解釈することもできるのではないでしょうか?これは別の言い方をすると、「お客様は神様のような立ち振る舞いを理想として自己陶冶する責任があります」ということになります。とりあえずこれはクレーマーに対する有効な対策には成り得るような気がします。クレーマーに対しては「お客様は神様のはずですよね?であれば、お客様=神様は貴方のように攻撃的に無理難題を突き付けてきたりしません。つまり、あなたは神様でもないし、お客様でもありません。よって、我々はあなたの話に付き合う必要はありません。」これで済ませられそうな気がします。

ただし、上記の対応がロジックとして成立しそうなのも世界的に見ると日本くらいなんだろうと思います。というのも、一神教の世界では神というのは聖人君子でもなんでもなくて「人間の論理や理解を超越した存在である故に、人間から見ると不条理で怖い存在」であり、だからこそ「神が災いをもたらさないように、神と契約とする。その契約に従って戒律を守る。」というのが基本的なスタンスなんだそうです。このあたりの話は昔読んだ「ふしぎなキリスト教」という本の受け売りですが、ウェブで探しても同様の言及が見られるのでたぶん正しいんだと思います。ついでに言うと、だからこそ一神教に対して「神の愛」という大発明をイエスが持ち込んだことで、キリスト教は大ブレイクしたんだそうです。

2019年10月14日月曜日

区民しか入れないような避難所を作る国でオリンピックができるのか?

「今回の台風は本当にヤバい」というのが一週間くらい前から言われていた台風19号ですが、当初の想定ルートだとまぁまぁ我が家は直撃コースでした。そんなこともあってか、今回の台風ではブルーシートや水などが台風が来る数日前に全く売り切れてしまうという事態を初めて経験しました。結果としては予想よりはやや台風が逸れて進んだ結果、我が家は浸水はおろか停電さえもなく無事で済みました。しかし、もしも直撃していたらテレビに映っている街のように堤防が決壊して水没していたかもしれません。

さて、こんな台風のさなかに台東区の避難所がホームレスを門前払いしたということが結構な話題になっております。なんでも、台東区では12日、自宅での避難が不安な区民のための避難所を4カ所、外国人旅行者などを念頭に置いた帰宅困難者向けの緊急滞在施設を2カ所に開設した。ということだそうです。この避難所の件は
・人権や人道という概念が理解できない
非常時と向き合うことができない
といった、日本人の抱えている病のようなものが端的に現れていると思うのですが。こんな国でオリンピックやるのは無理なんじゃないでしょうかね?オリンピックやってる時期に台風が来る可能性は十分にあるし、その時に区民向けの避難所に外国人やホームレスが命からがら避難して来ても「ここは区民用だからダメ」と言って門前払いになっちゃうわけですよね?


僕のtwitterのTLはいわゆるリベラル派の人のツイートで埋め尽くされているのですが、その中で唯一ネトウヨ気味のツイートを流してくる某氏(なぜか僕のツイートに対しては政治以外のトピックであれば頻繁にコメントしてくるので一応僕もフォローしている。)が本件についてこのようなコメントをしていました。村八分でも葬儀と災害(火事)の二分は対応すると言うのに。こういうのを迎え入れるのが日本人のはずなのに。すごく残念。

いや、残念ながらこれはたぶん事実誤認です。wikipediaによると、村八分というのは葬儀と火事だけは一般の村人に迷惑がかかる可能性があるので支援するけどそれ以外は関わらない、という徹底的な非人情な制度なのです。そして、wikipediaによると「なお、残り八分は成人式結婚式出産病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。」だそうです。つまり水害時の世話は村八分に対してはしないんだそうです。

「ホームレス=村八分」と考えると、現代の台東区という大都会の災害対応でさえ、そのコンセプトは「村」の災害対応と何も変わっていないことがわかります。しかし、件のtwitterに登場したネトウヨ氏のように考えている日本人は多いんだろうなと思います。こういう人は「優しさ」とか「思いやり」とか、そういうものが日本人特有の美点だと思っている節があるのですが。日本ではそれらは村落共同体の中だけに対して限定的に適用されるものでしかなかったのではないでしょうか。それが基本にあるからこそ、そのカウンターとして「ヨソ者にわざわざ親切にしてあげる」ことが美徳として賞賛されるようなお国柄になったのではないかと思います。これは、「お・も・て・な・し」ワールドカップ会場でのごみ拾いのような、ブリっ子的な打算の匂いが鼻につく日本人特有の立ち振る舞いにつながっているように思えてならないのです。

なぜ僕は安心してラグビーを応援できるのかというと

ラグビーや
ああラグビーや
ラグビーや

これを書いている現在、スコットランドとの激戦を制して日本がワールドカップの決勝トーナメントに進出した。という状況です。なんで僕がラグビーにここまで入れ込んでいるかと言うと、ラグビーはサッカーや野球の日本代表と違って、何も躊躇することなく応援できるからなのです。他の日本人はどう思ってるのか分からないですが、サッカーや野球の試合に国民全員が「日本ガンバレ!」と言ってるのを見てると、僕はどうしても「これ、いいのかな?なんか戦前の日本ってこんな感じだったんじゃないのかな?」と、どうしても思ってしまうのです。でもラグビーに関しては、この「躊躇」をしなくて済むので安心して熱中できるのです。

なぜ僕はラグビーについてだけは躊躇せずに済むのか。一つの理由は大昔にこのblogで紹介した国際化、多様性にあるような気がします。元々ラグビーはフォワードとバックス(プロレス的な語法を当てはめると、ヘビー級とジュニアヘビー級)が混在していて、それぞれに役割があります。さらに日本代表ではこの多様性が国籍や人種といった方向にも拡張されているので、サッカーや野球と違ってethnocentric (自民族中心主義)な傾向を緩和していると思います。

そしてもう一つの理由は、例によって内的自己/外的自己の話になるのですが。ラグビーは「試合が終わればノーサイド」や「紳士のスポーツ」という日本人には非常に咀嚼が難しい概念をセントラルドグマに据えています。これは言わば「外的自己」として日本人の「内的自己」的な側面を抑制して程よくバランスを取っているように思うのです。ちょっと脱線しますが、この「外的自己」は統治システムの文脈で言うと「民主主義」や「憲法」や「人権」など日本の外側から持ち込まれた物に相当しており、いずれも「内的自己」のネトウヨや自民党からは目の敵にされています。

だいたい以上で僕が言いたかったことは終わりなのですが、最後にこの文脈でどうしても思い出してしまう中学時代の同級生のF君の話をします。硬式のリトルリーグで本格的に野球をやっていたF君は、体も大きくてスポーツ万能で女の子からも人気がありました。3年生の時に彼と同じクラスだったのですが、みんな受験勉強をやっている中で彼だけは早々と野球の強豪校(甲子園常連校)のスポーツ推薦入学が内定していたように思います。誰しもが甲子園で大活躍すると思っていたF君ですが、高校1年生の途中で野球をやめてしまいました。どうも、能力が高すぎて先輩の嫉妬やイジメに遭ってトラブルになり、結果的に野球部を追われてしまったんだそうです。とはいえ彼はスポーツ推薦で学校に入ったわけで…その後、彼は同じ高校でラグビーを始めました。そして持ち前の体格と運動神経を発揮して最終的には大学を経て社会人ラグビーの選手になりました。

もし彼があのまま野球を続けていたら、たぶんプロ野球選手になっていただろうと思います。でも、高校野球=純度の高い内的自己によってスポイルされかけた彼が、内的自己と外的自己が調和したラグビーによって人生を救われた…なんていう話だったらちょっとうれしいですね。まぁ、当のご本人がどう思っているかまでは僕にはわかりませんが。
なんかこうやって書いていると、ラグビーを相撲と並ぶ国技にしてはどうか?と、思い始めました。こうすれば日本人は外的自己と内的自己のバランスを取ることができるのではないだろうか?