2024年4月21日日曜日

安易な1on1はどうなんだろう?

 4月になりました。桜は咲いて、桜餅も食べれて、菜の花、筍、ホタルイカ、新玉ねぎ、新じゃが…と春の味覚が楽しい季節です。なのですが。今年の春は会社の組織が4月から大きく変わって、それに伴って課長や部長がそれぞれ旗を振って社員との1on1が雨後の筍のような勢いで乱立しています。元から経営層のエラい人が社員と対話する機会を作るために定期的に1on1を実施していたのですが、それに加えて4月から部長との1on1や課長との1on1などが加わって、1on1だらけのわんわん王国のような職場になってしまいました。

 1on1という手段自体を悪いとは言わないのですが、安易に濫用するのはどうかなー?と思うのです。そもそも1on1というのは「実施する側」と「受ける側」という権力の非対称性が不可避的に発生して、受ける側がそれを受け入れないことには成立しません。場合によっては単なるマウンティングになってしまう可能性も十分あると思います。なので、実施する側は気分いいわけですよ。でも、受ける側は沈黙が発生したら気まずいから間が持たないときのために資料作ってきたり、話題を考えたりとか色々準備することになるのですよ。

1on1が効果的であるかどうかは目的次第だと思います。例えば、ぼんやりと「コミュニケーションの促進」などを掲げるのであれば、1on1はあんまり役に立たないのではないかと思います。というのも、ほっといても上司に会話してくる人には1on1なんて必要ないし、上司とコミュニケーションがうまく取れてない人は密室に二人で閉じ込められたからといって本当に思っていることを話してくれるとは考えにくいからです。ぼんやりとした「コミュニケーションの促進」のためには、普段からちょっとずつ立ち話レベルで声をかけるとか、そんなことをやった方がはるかに有効だと思います。

大事なことは普段から部下とコミュニケーションする努力を積み重ねるかどうかであって、そういう努力をしないで定期的に1on1だけやっても部下の本音を引き出すなんていう事は難しいのではないかな?と思うのですが。1on1って、やってる側は満足そうなんですよね。。これも1on1の欠点の一つなのですが、実施する側は満足そうな反面、その手ごたえが周りの人には何も伝わらないのです。

2024年3月10日日曜日

MASHLEに見るジャンプの方向性

 鳥山明、TARAKOの訃報が相次いで流れて来たところです。鳥山明については、以前申し上げた通りで、バトル漫画としてのドラゴンボールを日本人は今もって反復生産し続けることを続けています。きっとこれは作者が亡くなった後もずっと続くのでしょうね。TARAKOについては、もしも「ちびまるこちゃん」がなければ、もっと普通に長生きしたのではないか?という気がどうしてもしてしまいますね。

平成のレジェンドから一転しますが、今日はアニメのMASHLEの話です。最近この作品をアマプラで見れる範囲で全部見たのですが、この作品は鬼滅の刃よりさらに次の段階に進んだジャンプ漫画なのではないかと思いました。しかし、「次の段階」というのが、過去への回帰のようで、現代的なようで、結局は王道を行っているところもあって。。段階は次になったけど、その方向性が一口に「こっち」とは言えないのです。

 まず最大の特徴は、「魔法が使えるのが当たり前の世界において、主人公は例外的に魔法が使えない」ということです。これはJOJO3部と鬼滅の刃の下りで言及したように、JOJO3部以降の「異能力バトル漫画」路線に対して、それ以前のジャンプ漫画にあった「身体性」へ回帰しようとする流れに乗っているように見えました。この点においては、「鬼=異能力」と「人間=身体性」の対立を通して鬼滅が志向していた方向性の延長上にこの作品はあるように見えます。

次にこの漫画でユニークな点は「努力・友情・勝利」というジャンプが掲げて来たテーマに対して「努力」が無いことです。主人公は幼少期からの筋トレによって、魔法が全く使えないにも関わらず魔法使いに勝てる程の肉体を有しています。物語の開始時点から最強で、特訓したり新しい技を身に付けたりして強くなるという描写が全くありません。これはジャンプ漫画としてかなり画期的なのではないかと思います。もちろん、友情と勝利はちゃんとあるんですけどね。。

「現代的」という意味では、 主人公の少年が戦う理由は「じいちゃんと平和に暮らしたい」という極々個人的な動機でしかありません。世界を救いたいとか、自分が強くなりたいとか、そういう欲が主人公にはないのです。ここについてはフリーレンにも通じるものがあると思います。

その一方で、MASHLEには少年漫画の伝統に則っている要素も見えたりします。例えば、主人公が「イノセントでどこか抜けている」というところは、悟空、ルフィ、ゴンなどの系譜につながっていると言えるでしょう。また、物語のどこかで「父」が登場することも、少年漫画の王道だと思います。

 

まとめると、MASHLEを見ているとこんなことを思うわけです。

  • 「身体性」という観点では昭和のジャンプへ回帰しようとしているようにも見える
  • 「努力」というジャンプの3大テーマのうち一つを放棄しているところは新しいのでは?
  •  「主人公が自分の価値観に忠実で世俗的な欲がない」という現代的な要素もある
  • 一方で、少年漫画の王道の要素も見て取れる

さて、ジャンプはこれからどこへ向かうのでしょうかね。。

2024年3月3日日曜日

アメリカ村のショップ店員と意識高いコンサル

いつか降ってくるかもしれないと内心覚悟していたのですが、例年開催されている社内イベントの実行委員を仰せつかりました。残念ながら、実行委員になったところで手当てが出るわけではありません。定額働かせ放題のザコ管理職に、更に仕事が増える…ということになります。はぁ。。

さて。このイベントの実行委員の仕事は「コンセプトを考える」ということから始まります。で、その作業を楽にするために今年は外部のコンサルを入れる…ということになったのですが。。このコンサルが絵に書いたような「意識高い」人達なのです。やたらカタカナがいっぱい入ったパワポを作って来て、自己啓発本みたいな薄っぺらい前向きさで自信に満々に語り始めるのです。沢山喋るんですが、要は言ってることは「私たちと同じ意識の高さについてきてください、そして一緒にワクワクしましょう!」ということのようです。

残念ながら実行委員になったところで手当てが出るわけでもないので、集められた人達は僕と同じように後ろ向きな人の方が多いでしょう。少なくとも、いきなりワクワクなんてしてるわけないです。そういう人達をまとめるのが大変だからコンサルを入れることにしたはずなのに、結果的に意識高いコンサルに振り回されるだけで「自分達でやった方がはるかにマシだった」という結果になりそうな予感しかしないわけです。

たぶん、件のコンサルはどこに行っても同じようなことをやっているんだろうと思います。彼らがどれだけ自覚的にそれをやっているのかはわからないですが、これが彼らにとっては一番合理的なんだろうと思います。だって、クライアントの抱えている個別の事情を理解したり汲んだりして個別対応するよりも、どこへ行っても同じように一方的に自分たちの流儀を押し付けた方がコストがかからなくて楽ですからね。

自信満々で語り続けるコンサルの姿にどこか既視感があるなと思ってずっと考えていたのですが、昨日思い出しました。アメリカ村のショップ店員です。今はどうか知りませんが、90年代のアメリカ村の服屋に行くと、いきなり客に向かって「彼、このシャツで決まりちゃうん?」と言ってくる失礼なショップ店員がどこの店にもいたのです。こちらが何を探しているか、どんな服の好みか…なんていうことをいちいち会話せずに、一方的に上から目線でオシャレを啓蒙するのが一番コストがかからなくて楽なんでしょうね。

人の話を聞かないで一方的に自分の都合だけ押し付けにかかるのが一番コスパがいいんでしょうが。こういう人達と関わることに関して、たぶん人並み以上に僕は苦手です。他の実行委員は「こちらの事情を話したら分かってくれるんじゃないの?」という牧歌的な人もいるんですが。僕は基本的に「人は分かり合えない」と思っています。分かり合えない同士が一緒に何かやるとなると、お互いにコミュニケーションが必要なのですが、件のコンサルにはその姿勢がそもそも無いんですよね。少なくとも、この状況でワクワクするなんて僕には無理ですよ。。

2024年2月28日水曜日

必要悪とは?

4月に管理職になってから、とりあえず1年が経過しようとしています。しかし、管理職とは言っても僕の場合は、実態としては「定額働かせ放題」に近いです。実務としてやることは変わらないどころかむしろ増えて、そこにマネジメント的な仕事も乗っかってきました。だけど、残業代は出ないのでどんなに働いたところで給料は定額です。

そんな一方で、管理職になったのと同じくらいの時期から医療機関と一緒に協業をする仕事に関わることになりました。いやー、やっぱり医療ってすごいですよね。一歩間違えば人の命が簡単に吹き飛ぶような世界を生きているので、彼らの負ってる責任というのは僕たちサラリーマンとは違うな―、と思うわけです。

人の生死にかかわる責任を伴うんだから、そこで責任を負っている医療従事者は相応の見返りがあっていいと僕は思います。一般企業の管理職も一応責任は負ってることにはなっているけど、失敗したところで誰も責任を取らない。というより、取れない。サラリーマンの世界の責任というのは「事後に責任を取ることができない」という暗黙の了解があって、責任という概念は「責任を問われるような状況に追い込まれないように立ち振る舞う=予防」という文脈においてしか意味を成さないのです。

でもそれって、結果責任という観点では何も責任を取ってるようには見えないんですよね。。若い頃は、そうやって(結果)責任を取らないおじさん達がいい給料(と言うほど実は良くもないんだけど)をもらってるのを苦々しい思い出見てきました。それに比べたら、医療従事者の世界はまだマトモそうだなと思ったりもするわけです。

医療従事者に対して色々と引け目を感じる一方で、医療と管理職に共通していることも発見しました。医療も管理職も「必要悪」なのです。みんな健康なら医療なんていらないし、ほっといても組織が回るならば管理職もいりません。どちらも、本来必要ないことが理想のはずの職業なのです。でも必要だから存在する職業なのです。

いつも思うのですが、例えばセロテープの台とかクリップなどの文房具は不要になった物がちゃんと循環して必要な人の所にに届けられるならば、新規に生産しなくてもそれなりに社会は維持できると思うのです。だけど、実際はそんなに社会がうまく回っていないからこそセロテープの台やクリップは新たに生産され続ける必要があるわけです。そして、そうやって社会がうまく循環していないことから利益を引き出している人達が世の中にはいるわけです。

文房具の話に脱線してしまいましたが、こうやって考えると「本来必要ないことが社会として理想であるもの=必要悪」というのは世の中に結構ありますよね。例えば、軍事力なんてその最たるものだと思います。必要悪という立場を生きていくには、その疚しさを引き受けることと、なるだけ人に何かしら奉仕したり還元したりする意識が大事なんじゃないかと最近は思うようになってきました。

ここまで書いてみて気づいたのですが、一年前の自分だったらこんな凡庸でつまんない結論の話をblogにわざわざ書こうとは思わなかっただろうと思います。「立場が人を育てる」という言い方はありますが、自分に関して言うと「立場が人をつまらなくしていく」という方向に向かっているような気もするんですよね…。

2024年1月8日月曜日

ラカンの視点から再考する「君たちはどう生きるか」

 冬休みも気が付いたら今日で最終日です。いきなり元日から能登地方で大地震が発生、その後も羽田の事故や北九州の市場の火災など、2024年は波乱の幕開けとなりました。被災地の状況を伝えるニュースを見ていると、自分は家でゴロゴロしているだけでいいんだろうか?という疚しい気持ちにどうしてもなってしまいます。その一方で、自分ができる事ってせいぜい募金することくらいなのですよね。。

 そんなわけでお正月は結局家でゴロゴロしていただけなのですが、唯一やったことと言えば「ゼロから始めるジャック・ラカン」という本を読んだことでした。この本はラカンの入門書としては大変評判になった「疾風怒濤精神分析入門」という本に増補改訂を加えた文庫本です。単行本で読みたかったけど金額と保管スペースを考えて、文庫になるまでひたすら待つ…というのは、進撃の巨人や鬼滅の刃の原作漫画を読むのを我慢してアニメでだけ見る…というのと同じスタンスですね。  

さておき、この本は入門書と言いながらも一般人の僕には十分難解でした。もちろん、ラカンの原著の訳分からなさに比べたら一般人に読めるレベルには十分噛み砕いて書いてあるのは分かるのですが。それでも一般人にはなかなか読み進めるのが難しかったです。二周読んでみたけど、いまだに細部までは理解しきれていないと思います。しかしながら、やっぱり読んでると「なるほど」と思える箇所が多々あるのです。フロイドの本は「なんでも性欲」と自信満々に言い切ろうとしているオラオラ感があるのですが、ラカンの本はもう少し離れた場所から「僕はこう思うんだけどね。まぁ、君が理解できるかは君次第だし、理解できたとしても同意するかも君次第だよ。」と言ってるように思えるのです。

ここからようやく本題なのですが。ここから先はラカンの入門書である「ゼロから始めるジャック・ラカン」を読んだ程度の知識で書いていきます。僕自身ハンパな知識しかないので、ラカンの用語について説明できるほどの技量はないのでそこは一切省略します。そして、もしラカンについて専門的な知識を持った人からこの内容についてコメントをいただけるとうれしいです。

改めてラカンの本を読んだ後に2023年に公開された「君たちはどう生きるか」について考えてみたところ、この映画は全体としてラカンの言うところのエディプス・コンプレックスの過程を描いているように思えました。主人公の少年は亡くなった実母(=「万能の母」)への執着をいつまでも捨てられないままでいます。この作品は他にも何人か女性が登場しますが、(実母と姿形は似ているけど何かが決定的に違う)継母、ヒミ、キリコなどの女性はすべて「欠如を持った母」として主人公の前に現れます。

一方の大叔父ですが、彼は突然降ってきた隕石によってもたらされた力によって、あちら側の世界(象徴界と言ってよいと思います)の王として君臨しています。なのですが、その力はあちら側の世界の中だけに閉じていて、大叔父はそこでの「隕石の力=万能の母」との閉じた関係の中をずっと生きてきました。しかし、その世界もインコなどの「父の名」の浸食によって脅かされています。

物語の終盤で、主人公は「元の世界に戻って、アオサギやヒミやキリコのような友達を作る」と宣言します。これは大叔父の後継者となって「万能の母」と繋がり続けるのを諦める、つまりエディプス期の終焉を意味しているのではないでしょうか?一方で、その直後に大叔父の力の源であった積木はインコの大ボスという「父の名」によって破壊されてしまいます。以上の下りでの主人公と大叔父をまとめて見ると、「父の名」を受け入れることでエディプス期を終了する…というラカンの理論を描いた物語であると言えるのではないでしょうか?

だいたい書きたかったことは以上なのですが、最後にNHKが放送していた「君たちはどう生きるか」のメイキングのドキュメンタリーについて一言触れさせてください。宮崎駿は亡くなった高畑勲をずっと追いかけてきて、映画の制作中も話に出てくるのはずっと高畑のことばかりでした。これはラカン風に言うならば、宮崎にとって高畑は「対象a」だったということなのではないかと思います。

 

2023年12月31日日曜日

過去の栄光を振り返ることの方が日本人にとってリアリティがあるのではないか?

気が付けば2023年も最後の日となりました。先日冬休みになったと思ったのに、もう31日になってしまったので、せめて今年最後の悪あがきにこのblogに一筆したためようと思います。2023年を振り返ってみると…あんまり後ろ向きな事ばかり言いたくないのですが、今年は日本の劣化と没落がいよいよ目に見える形になって表れた年だったのではないかと思います。ダイハツ、宝塚、ジャニーズ、ビッグモーター、自民党…数々の不祥事が明らかになっただけでなく、急な円安が進んだ影響で物価の高騰が庶民の生活を直撃しました。

そんなご時世に丁度合わせたかのように「葬送のフリーレン」の放映が今年の秋から始まりました。この作品は長寿のエルフである魔法使いフリーレンが、亡くなった勇者ヒンメル達との過去の冒険の足跡をたどりながら「人の心を知る」ための新たな冒険を始める…という話です。これまでの少年漫画だったら、魔王を倒すための現在進行形の冒険物語なのですが、フリーレンは魔王を倒したかつての旅の思い出を振り返る旅をしています。

この「過去の栄光の日々を振り返る」という作業こそが、今の日本人にとって最もリアリティがあることなのではないかなと思うのです。少し脱線しますが、何年か前からアニメやラノベでは異世界転生モノの作品が人気を集めていて、今も毎シーズン必ず一つは転生モノのアニメが作られています。これが結構長い間続いているのは、今の日本人にとって「転生する」ということにリアリティがあるからだとずっと思っていたのですが。。フリーレンは日本人にとってのリアリティが「(斜陽化する現実から脱出するための)転生」から「(斜陽を真正面から認めて)過去の栄光を振り返ること」に移行しつつあることを示唆しているように見えるのです。

東京オリンピックが総括されずにウヤムヤに終わったまま、今も大阪万博や札幌オリンピック(こっちはやめる方向らしいですが)などの「過去の栄光」の再生産に日本の政治家は躍起になっています。ここには建設業界や広告業界等との利権の問題もあるのでしょうが、単にそれだけというわけでもないのではないかと僕は思います。「クールジャパン」がウヤムヤでどこかに行ってしまった今となっては、日本人には世界(=外向き)に向けて誇れる(と思える)自国の存在意義が見えないのではないでしょうか?だから、日本人は内向きに「過去の栄光」を反復再生産しようとする事くらいしかやる事がないのだと思います。

なんだか救いの無い話になってしまいましたが、フリーレンに救いがあると思えるのは、エルフであるフリーレンには「名誉」とか「お金」といった人間らしい欲がほとんど無い事です。魔法を使えばお金を稼ぐ方法はいくらでもあるはずなのに、フリーレンはそういう事には関心がありません。そして、フリーレンの旅の目的は「魔法の収集」と「死んだ仲間にもう一度会う事」だけです。フリーレンは斜陽国日本の若者に対して「世間の価値基準にとらわれずに、自分の好きな事と、自分の大切な人との繋がりを大事にする」というロールモデルを提供しているように見えるのです。そこには何か希望があると思いたいです。

2023年12月2日土曜日

進撃の巨人の完結に寄せて

このblogに進撃の巨人について書いたのは、もう10年も前になります。あれから10年間、何度となく続きが気になって仕方がなかったのですが、それでも漫画を読まずにアニメでだけ見るという事を続けてきました。漫画を買うお金や買った後のスペースの問題もさることながら、どうせアニメで見るんだったらそれまで漫画は読まないという大人のスタンスを10年間続けたのです。この10年間、エレンも僕も頑張りました。終わってみての感想がどうこうというよりも、長く続いたものが終わったという喪失感のようなものの方が大きかったです。

まず、最初に言うべきこととしては、当初の予定通り伏線をしっかり回収して「終わり切った」ということです。どれだけ最初にストーリーを考えているのかよくわからないですが、かなり最初からストーリーをちゃんと設計されていた作品だったのでしょう。原作の漫画はちゃんと読んだことないのですが、時系列が頻繁に入れ替わったりしていて、地ならしのシーンも割と早い段階で断片的に描かれたらしいです。行き当たりばったりで話を作っていたらさすがにこんなことはできないと思います。

そして、アニメの最終話は狙いすましたようにパレスチナ情勢とリンクする時期に公開されたと思います。現在のパレスチナ情勢は、(1)かつてナチスを含めて世界中で迫害されてきたユダヤ人がイスラエルを建国し、(2)今度はユダヤ人がパレスチナ人を迫害する…という歴史によってもらされました。かつてユダヤ人がかつてやられた迫害をそのままパレスチナ人にやり返しているようにも見えますね。

話は戻って進撃の巨人ですが。この作品におけるマーレ人とエルディア人の関係はナチスのユダヤ人迫害をモデルにしているらしいです。その結果として、エレンは地ならしで人類の8割を踏みつぶしてでも、エルディア人が国際社会から攻撃されずに存続できる世界を作ろうとします。これは(1)のイスラエルの建国になぞらえることができるのではないでしょうか?しかし、実際にはその計画は成就せずに、パラディ島も最終的には対外強硬派が勢力を伸ばして、(2)のような排外主義に向かうのをアルミン達が説得しようとする…というところで話は終わりました。

その先のエンディングでは、エレンの眠るパラディ島にも最終的には文明が発達し、最後はその文明も戦火によって壊滅する…という非常にペシミスティックなエピローグが展開されます。これには、未来少年コナンや風の谷のナウシカにおける宮崎駿の文明観に近い物を感じました。そもそも、巨人が炎の中を歩き回る「地ならし」は、絵面だけ見ると「火の七日間」そのものですよね。

物語の終盤でマーレ軍の司令官が地ならしに立ち向かう兵士に向けてこのように語りかけます。この言葉を発した司令官とアルミン達エルディア人が最終的に和解するところには少しだけ救いがあるようにも思いました。

この責任は我々すべての大人たちにある。
我々が至らぬ問題のすべてを悪魔の島へ吐き捨ててきたその結果あの怪物が生まれ憎悪を返しに来た。 
もしも再び未来を見ることが叶うなら二度と同じ過ちは犯さないと誓う。再び明日が来るのなら・・・。
 皆もどうか誓ってほしい。憎しみ合う時代との決別を互いを思いやる世界の幕開けを。
ここで私達の怪物との別れを・・・と。