2016年1月31日日曜日

日本という国ではネットはテレビに勝てなかった

1月中旬頃はSMAPの解散騒動→謝罪コメントに日本中が大騒ぎしていたのですが、最近ようやくひと段落してきました。これを書いている現在はベッキーに再びフォーカスが戻りつつあるのですが、これもSMAPの騒動を鎮静化させるためにマスコミが意図的にジャニーズに気を使ってベッキーを叩いているんじゃないかとちょっと勘ぐりたくなるくらいです。
沈痛な面持ちのSMAPによる謝罪コメントは、「テレビというサル山のボスがSMAPにマウンティングして見せることを通して、日本国民に対して『オマエらの主人はテレビだ。わかったか?』と言っている」ように僕には見えました。つまり、日本人を隷属させてきたテレビというメディアが、その子分であるSMAPをテレビの中で公開処刑して見せることによってその地位を改めて国民に知らしめたように見えたのです。別にこういうことは今に始まったことでもなく、古くは豊臣秀吉が腹心だった千利休を処刑したり、現代でも北朝鮮でNo.2やNo.3が時々粛清されるのと同じような話だと思います。
ベッキーの場合は「体裁上は記者会見だけど、記者との受け答えは無し」でしたが、SMAPの場合は「記者会見でさえなく、テレビ番組の構成を変更して謝罪放送に充てた」という形になりました。つまり、両者とも一方通行なコミュニケーションによってすべてが発信され、特にSMAPの件ではテレビの中だけですべてが進むことで「マウンティング」がより強調されたように見えたわけです。
あんまり上手いたとえではないのですが、SMAPの謝罪会見を見た日本人は「いつも一緒に遊んでいる友達のリーダー格の子(SMAP)が親(テレビ)に怒られている」とか、「部活のキャプテン(SMAP)が顧問の先生(テレビ)に部活全員を代表して怒られている」といった光景を一方的に見せ付けられているような気分になったのではないでしょうか。

インターネットが世の中に普及し始めた頃には、「『最大多数の最大幸福』のためのメディアであるテレビはもはや過去のものとなった。これからはインターネットによってマジョリティとマイノリティの情報資源格差がなくなり、あらゆる個性が平等に情報発信を行える時代になる。」みたいなこと言って鼻息荒くしていた人がたくさんいました。
あれから20年近く経ったわけですが、本当にそうなったんでしょうかね?マイノリティによる情報発信やコミュニティの形成についてはインターネットは確かに一定の貢献をしたのでしょうが、「『多数派でいたい』という人が多数派」であるのこの国では、結局テレビというメディアが相変わらず高い影響力を維持しているのではないでしょうか。おそらく、先進国の中でも日本という国は特にテレビの影響力が高いと思います。


インターネットの存在を抜きにして考えても、日本のテレビはパーソナライズという概念と真逆の道を進んできたと思います。NHK以外の民放はお互いに似たような番組をひたすら作って凌ぎを削り、BSデジタルが登場してチャンネル数が増えても結局どのチャンネルでも似たような旅番組や通販番組が流れています。僕はリーガ・エスパニョーラの試合を見るためだけにWOWOWと契約していますが、WOWOWやスカパーのような有料放送にお金を払ってまでテレビを見るのは未だに日本では少数派です(そのくせNHKにはみんな文句言わずにお金払うんですけどね)。昔からCATVなどによって多様性(diversity)の方向に拡張したアメリカのテレビと比べると、日本のテレビはこの真逆の方向に進んできたのだと思います。
AppleTVという製品があります。おそらくApple製品の中でも、Apple Watchと並んで(ガジェット好き文脈での)Apple信者以外には全く見向きもされない製品なのですが。このApple TVが日本で全くと言っていいくらい受け入れられない原因は、日本人がテレビに求めているのは「多数派のためにつくられた番組を他人と同じように視聴する」ことだからなんだと思います。よって、これと真逆のアメリカ式の「テレビのパーソナル化」の延長上にあるApple TVが受け入られる風土がそもそも日本には無いわけです。


かつて「ネットとテレビの融合」を掲げてホリエモンはフジテレビを買収しようとしましたが、そんな彼も今では”東大卒タレント”枠ですっかり芸能人としてテレビの世界に安住しています。彼がテレビに出てくる度に受ける印象はSMAPの謝罪放送と同様に「テレビによる公開マウンティング」であり、そんな彼をテレビで見ていると「日本では結局ネットはテレビに勝てなかった」としみじみ思うのです。

2016年1月16日土曜日

辞書を捨てよ 正解の外側へ出よう

年末にNHKでスペインの新興政党PODEMOSの特集を見ました。PODEMOSは"私達はできる"という意味で、リーマンショック以降深刻な経済危機が続くスペインの低所得層や若者の支持を背景に急成長した左派政党です。この政党が昨年末の選挙で大躍進を遂げた理由の一つに、パブロ・イグレシアスという(これを書いてる現在で)37歳の党首のカリスマ的な人気があります。
この人は前職は大学の政治学の先生だったのですが、見た目も立ち振る舞いもとにかく政治家らしくないのです。細身の身体に安そうなシャツを着ていて、髪の毛はかなり長くて後ろで束ねています。そして何より、自分の意見をただひたすら主張するのではなく、人の話を聞いたり相手に喋らせた上で少ない言葉数で的確に切り返すのがすごく上手なのです(在西日本人の方がこの辺は詳しく書いてます)。
PODEMOSについては賛否両論あったりするようなので、よく知りもしないで手放しで彼等を絶賛する気にはなれないのですが。少なくともパブロ・イグレシアスは「人と話し合うことができる」という点では政治家としてマトモだと僕は思います。もちろん日本の政治家だけが特別ダメというわけでもないのですが、日本の政治家で彼のように人と話し合える人を見た記憶が無いのです。日本の国会では、それぞれの議員が自身のイデオロギーや政策を一方通行に唱えたり、対立する相手の足を引っ張ろうとしたりしているだけで、生産的な対話や話し合いの場として機能しているようには見えないのです。

物の考え方が違う相手と生産的な対話ができないのは国会議員に限った話ではなく、日本人の作る社会全体の問題で、これについては平田オリザが「ニッポンには対話がない」という、そのまんまのタイトルの本を書いています。この本については以前このblogでも紹介しているので詳しくはそちらをご参照いただくとして、この本を読んだ上でこういった日本人のコミュニケーション力の問題について僕が一つ付け加えるとすると、日本人は「(唯一の)正解」に対する執着が強すぎるので相手と対話したり、柔軟に折り合うのが下手なんじゃないかなと思います。
日本人の正解に対する執着が端的に現れていると思った例を一つご紹介します。国際学会で英語の苦手な日本人が事前に用意した原稿をひたすら機械的に棒読みして発表するのを何度か見たことがあります。原稿を用意しないといけないレベルの語学力ということは、当然発音も滅茶苦茶なわけで、そのレベルの人が聴衆やスクリーンを一切見ずに一心不乱に原稿を機械的に棒読みすると、結局ほとんど何も伝わりません。同じ日本人として気持ちはすごく分かるのですが、おそらく彼等は語学力の壁に対する恐怖心のために、事前に用意した原稿という「正解」との閉じた関係の中に安住したがっているんだと思います。しかし、そもそも学会というのは発表した後に聴衆からコメントをもらったり議論したりするために存在するので、最初から聴衆とのコミュニケーションを拒絶している態度というのは学会発表を行う意義からして本末転倒なんじゃないかと思います。

そして、わが国の首相も「正解」にかなり依存/執着しているようです。普段は国会審議中だろうがどこだろうが、あらゆる場所で事前に用意された原稿を手に演説の練習をしているそうです(ここにもありました)。その結果として、2015年の安倍晋三の発言の中でもダントツでひどかった「国連での『難民と移民の区別が全くできてない記者会見』」という大失態を国際舞台でやらかしました。というのも、どうやら普段日本では記者会見での質問が事前に提出されているんだそうで、つまり、我々国民がテレビを通して見る彼の発言はほとんど事前に原稿が用意されているようなのです。しかし国連ではそれができなかったために、予定外の質問を受けた結果としてあの滅茶苦茶な受け答えになってしまったようなのです。日本のメディアではそう大きく取り上げられませんでしたが、官僚の作文した「正解」が与えられていない素の状態だと難民と移民の区別もつかないような人が首相を務めていることが露呈してしまったという点では大事件だと僕は思います。
やや脱線しますが、これだけ安倍晋三が事前に作られた「正解」に依存しようとする背景には、マスコミの取材や質問に対してほとんどアドリブで全部切り返した小泉純一郎という特殊な才能を持った政治家の存在があるのではないかと思います。ただし、今考えると小泉の受け答えがパブロ・イグレシアスのように理知的で洗練されていたかというと決してそんなことはなく、「言ってることが滅茶苦茶だったり全然話が噛み合ってなくても、なんとなく納得させてしまう能力」=簡単に言うと「愛させる能力」が高かっただけなんじゃないかなと思いますけどね。

話は戻って、本稿のタイトルにもある「辞書」なのですが。日本人って語学力に不安があると海外で電子辞書を持ち歩きたがりますよね?なんて偉そうに言ってますが、僕も初めて海外出張するときにポケットサイズの電子辞書を買いました。でも、その電子辞書は出張中ずっと「お守り」として胸ポケットに入れてただけで、一度も使いませんでした。辞書をお守り代わりに持ち歩くのも、学会発表や記者会見の話と同様に「正解」への執着がもたらす日本人の民族的奇習なのではないでしょうか。
スペイン在住時に語学学校に通っていた時期があったのですが、ここでも語学教室に辞書を持ち込んでいたのは日本人の僕だけ(ほかの生徒は全員欧米人でした)でした。このときは語学学校なので、「お守り」ではなくそれなりに真剣に語学を勉強する上で必要なツールとして僕は持って行ったわけですが、他の欧米人の生徒はそれさえも必要ないと思ってるみたいでした。ある生徒曰く、「辞書があれば便利そうだけど、語学学校なんだからわからない単語はその場で先生に聞けばいいんじゃない?」なんだそうです。なるほど。結果として「電子辞書を持ち歩くハイテク日本人」という、欧米人の思い描く日本人のキャラをまんまと語学学校で演じて差し上げてしまいました。

経済だけとってみればそりゃスペインは日本に比べてガタガタですが、一方では一般市民が気軽に政治について話し合ったりデモに当たり前のように参加したりと、市民社会としては日本よりもはるかに成熟していると思います。だからこそ、国難においてパブロ・イグレシアスみたいなマトモな人も出てきたんじゃないでしょうか。
残念ながら日本だと、対話どころか「口げんかの勝ち負け」にだけこだわる橋下徹みたいな人しか出てこないのですよ。でもこれは彼一人の個人的資質の問題ではなく、「正解」に執着するあまりに生産的な対話ができない我々日本人全体の問題なんじゃないでしょうか。