2015年7月25日土曜日

夏の高校野球は太平洋戦争の戦没者を慰霊するために奉納される能である

更新を2ヶ月もサボってたら、すっかり夏になってしまいました。いや、書こうと思うネタはいくつかあって実際に何個かは書き始めたのですよ。でも、途中で収拾がつかなくなって止まってしまったのです。で、そうこうしている間に2ヶ月も経ってしまったので、とりあえず以前から暖めていた「夏の高校野球は戦没者を供養するための能である」という話をまず書いてみようと思います。

7月の終盤ともなると、夏の甲子園の出場校がちらほら決まり始めました。毎年のことながら真夏に汗だくになりながら妙に笑顔を絶やさない高校球児を見てると「この暑い中にご苦労様です」と頭が下がる思いになります。そして、毎年のように必ず「高校生の健康に配慮して延長戦の時間をもっと制限するべきだ」とか「そもそもあんな真夏にやる必要があるのか?」といった議論が起こります。確かにごもっともです。春の選抜くらいの気候ならまだしも、一年中で一番つらい時期にわざわざ毎日のように試合をしなくてもいいんじゃないかなと僕だって思っちゃいます。
「夏休みでもないと遠い甲子園で毎日野球するのは無理」とか「お盆の時期なら親御さんも応援に来やすい」とか色々理由はあるんでしょうが。そういう現実的な制約条件とは全く別に「高校野球は太平洋戦争の戦没者を慰霊するために奉納される能」であり、お盆と終戦記念日をまたぐように日程が組まれていることにはそれなりの必然性があるのではないか?というのが本稿の趣旨です。

そもそも夏の甲子園というのは優勝する1校以外は最終的には敗者になるようにできています。つまり、普通に考えたら最後は負けるのです。ところが甲子園に出てくる高校球児達は徹底的に「負け方」というのを教育されていないように見えるのです。
甲子園に出るくらいの強豪校ともなると普段から「負け慣れていない」上に、指導者もたぶん「最後の瞬間まであきらめるな」とかいつも指導してるんじゃないかと思います。だけど「最後の瞬間まで諦めずに頑張った後」のことは誰も教育してないんじゃないでしょうか。だから高校野球は「試合終了の最後の瞬間まで全力で頑張る→試合終了と同時に泣き崩れる→泣きながら土を持って帰る」という光景を毎年のように再生産しています。

彼らの姿は70年前に終戦の玉音放送に泣き崩れるモンペ姿の日本人と重なります。高校球児達と同様に、「負け方」や「負ける可能性」について考えることそのものが当時の日本では徹底的に忌避されていました。そして、太平洋戦争当時の旧日本軍の兵士は「負ける可能性」を一切考慮しない無謀な計画の下に海外に送り込まれ、そのうちの60%の兵士は戦病死(直接戦闘ではなく病死や餓死によって従軍中に亡くなる)だったそうです。
例によって内田樹先生の話ですが、内田先生によると「強さ」というのは「連戦連勝する能力」のことではなく、「負けしろ」の大きさによって計量されるべきなんだそうです。こういう観点で見ると戦時中の日本軍の「連戦連勝して現地で次々と都合よく物資を調達できること」という牧歌的な前提の上に立案された計画には負けしろなんて一つも無かったわけです。そして、実際に負けしろの大きかったアメリカ相手に最終的にはボロ負けしました。これが太平洋戦争です。

今年も甲子園に負けしろを持たない高校生が集まります。彼らが負けて泣き崩れている様は、負けしろを全く持たなかった旧日本軍の兵士を慰霊/呪鎮するために上演される「能」として機能しているのではないでしょうか。そう考えると終戦記念日とお盆の時期をまたぐように夏の甲子園の日程が組まれていることにはそれなりの意味があるように思えるのです。
終戦記念日の正午には甲子園にサイレンが鳴り響き、しばらくの間試合を中断して黙祷が捧げられます。なぜ高校野球の試合を中断してまでサイレンを鳴らして黙祷するのか?と昔は思いましたが、高校野球と旧日本軍の戦没者は「負けしろ」の無さで繋がっていたのです。