2013年6月1日土曜日

ラテン系は本当にいい加減か?

(今回は文末を全て敬体で書きます。なんでかわからないけど、今日は敬体にしないと書きづらいのです。このブログはここまで全部常体で書いてきたんですけどね。)

一般的に「ラテン系はいい加減」と言われてまして。まぁ、これは実際にその通りだとは思います。特に日本人から見たらそりゃいい加減に見えると思います。だけど彼らだってお互いのいい加減さが許せないんだったら、もうちょっとお互いにキッチリしあう社会を作るでしょう。彼らがいい加減な国民性でいられるのは、他人を許す能力が高いからなんじゃないかと思うのです。具体的に例を挙げると、「ラテン国家の国民はいい加減だ、待ち合わせの時間に平気で二時間も遅れてきたりする。」というのは見方を変えれば「ラテン国家の国民は寛容だ、待ち合わせに二時間遅れても許してあげられる。」と言えるのではないかという事です。
「他人を許す能力」というのをもう一段踏み込んで考えると、「他人を愛する能力」であり、それはやっぱりカトリックという宗教と深く結びついているんだろうと思います。同じキリスト教でもプロテスタントの国はもう少しキッチリしてる印象がありますから。

「お互いに許し合う社会」では、自分がいい加減でも許されることがある反面、他人のいい加減さによって自分が不利益を被ることを許容することが求められます。最初は僕もスペイン人のいい加減さにイライラすることが多かったのですが、慣れてしまえばラテン式の方が生き易いと思いましたし、今も僕はそう思ってます。
スペインでの生活を終えて日本に帰ってくる頃には、「お互いに許し合う社会」の対極にある、日本の「他人を許さない社会」が怖かったし、今も正直なところ苦手です。「他人を許さない社会」である日本は、「他人」同士の関係が著しく非対称で、その事が社会全体をお互いに不機嫌にしあってるように僕には見えます。例えば会社の仕事では上司が部下に対して「完璧な仕事」を要求し、何か手落ちがあると当然の権利のように叱責するというのは珍しくありません。お店では”お客様”の立場が店員よりも絶対的に優位であり、少しでも店員の対応に落ち度があった場合は”お客様”は正当な権利としてクレームをつけてくることが普通にあります。結果として店員の態度は表面的には無駄にうやうやしい一方で、マニュアルに沿った機械的な態度になります。
こういう非対称な関係が連鎖すると…例えば、上司に叱責された部下が飲み屋で店員の対応にクレームをつけて…ということは社会をお互いにどんどん不機嫌にしあっていきます。そんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖は現実にはそう起こらないでしょうが、それが起こらないということは、上司やお客様の無理難題に振り回されるストレスに常にさらされることになってしまい、やっぱり社会全体が不機嫌になっていくんじゃないかなと思います。そりゃうつ病や自殺が増えるのも無理ないでしょう。

先日、スペイン時代の元同僚が書いてよこしてきたレポートを読む必要に迫られたのですが。一応締め切りまでに送ってきたものの、まぁこれが明らかに書きなぐりで、ところどころ説明不足だったりするので読むのにすごい苦労した。これは毎度のことなんですが、これに対して日本人は毎度のごとくぶつくさ不満を漏らしていました(そのくせスペイン人に面と向かっては言わないんだけど)。実際のところ僕も、「もうちょっとちゃんと書いてよ」とは思いました。が、一方では彼らの考え方から言うと「できたところまでで良いことにし合う」というのはわりと当たり前なのです。日本人の考え方のままで彼らと付き合うと、ただ相手のいい加減さに振り回されて損しているような気分にしかならないと思うのですが。そこを日本人に皮膚感覚として理解してもらうのはやっぱりなかなか難しいと思います。やっぱり結論としてはスペインに職場全体を移転させてしまうしかないのかな。。

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