2016年3月27日日曜日

日本人は世界で最も「脳化」しているんじゃないだろうか

またもや欧州でテロが発生してしまいました。今回の事件発生の直後にテルマエ・ロマエの作者ヤマザキマリ氏(イタリア在住)が「こちらでは昨日からネットもテレビもラジオもブリュッセルのテロのニュース尽くしですが、日本ではどの程度までの惨事の写真が報道されているのだろう」とtwitterでつぶやいてたのですが、このコメントは大半の日本人にはご本人の意図通りに理解されないだろうなと思ったので、今回はその話をしようと思います。
というのも、海外のニュースだとこの手の悲惨な事件の際には死体や怪我人を写した生々しい映像が当たり前のように出てきます。フランスのテロ事件のときも、海外のメディアではコンサート会場が死体で埋め尽くされている写真が当たり前のように使われていました。ところが、日本のメディアは静止画・動画を問わず基本的にこういった生々しい死体や怪我人の映像を使いません。各国のニュース映像をそのまま使っているNHKの「ワールドニュース」でも、死体が映るときにはモザイクがかかってますが、これはおそらく日本のAVにモザイクがかかっていることに通低する理由からだと思います。

ここまで徹底して日本人が怪我人や死体を忌避することを説明する上で、僕の知る限りでは養老孟司氏の「脳化」という概念が一番適切なんじゃないかと思います。「脳化」についての僕の理解を手短に書くとこういうことです。
・ 人間が作り出すものはすべて脳の産物であり、「都市」はその最たるものである
・ 日本は江戸時代から「都市化=脳化」した
・ 脳は予測と統御を行う器官なのでコントロールができない自然を忌避する
・ 人間の身体も脳にとっては忌避すべき自然の一部である
・ 江戸時代に死体=自然は市街地から徹底的に排除され人の目の着かないところへ追いやられた
スペインに2年住んで日本に帰ってきたときに、この「自然=身体性」についての感覚がスペイン人と日本人では大きく異なっているように感じたのを覚えています。当時の印象を率直に言うと、日本人のあらゆる行動は身体性を忌避した脳的な欲求の追及だけに向けられているように見えたのです。別の言い方をすると、「首から上とスマホだけで生きてるように見える人」が結構な数いるように感じたのでした。こう感じた理由は、スペインでは自己責任で危険を回避する、身を守るということに常に気を配っているのが当たり前だったために、常に身体を意識する必要があったからだと思います。つまるところ、危険が排除されていて安全な社会でなければ「脳化」できないのでしょう。

江戸時代によってもたらされた「脳化」を軸に考えると、その後の日本の歩みも江戸時代に築かれた土台の上に成り立っているように見えます。例えば、日本が開国後に急速に近代化できたのは、江戸時代にすでに日本人は十分に脳化していたおかげで西洋文明をすんなり受け入れることができたからだと言えるのではないでしょうか。また、漫画やアニメがあれだけ発展したのも、「脳化」の恩恵によってもたらされたバーチャルと現実の垣根をあまり意識しない国民性があればこそなのではないかと思います。
ここまで日本人が国民規模で「脳化」されるには上記の通り平和で安全な時間が長く続くことがおそらく不可欠だったんだろうと思います。逆に言うと日本以外の国の人が日本人ほど「脳化」していない理由は、彼らの歴史には日本の江戸時代のように200年以上にも渡る平和な時間がなかったからではないでしょうか。戦争がある程度の頻度で発生するような世界では人間の意識は身体に向かってしまうので「脳化」の方向には向かわないだろうと思います。こう考えると、学生運動やベトナム戦争が終わった70年代後半から漫画やアニメに熱中する所謂「オタク文化」が発展したことも偶然の産物ではないと思います。

こう言ってると何でも「脳化」と説明したくなってくるのですが、勿論日本人の数々の民族的奇習を「脳化」だけで説明するのは無理です。しかしながら、日本人の作り上げた社会を見る視点として「脳化」は非常に的を射ていると思います。

2016年3月15日火曜日

コンプライアンスというのは「罪の文化」の概念だと思う

コンプライアンス(日本語にすると「法令順守」)という言葉を最初に聞いたのは、10年以上前にまだ会社に入りたての頃だったように思います。日本の会社組織ではどこにでもあるんだろうと思うのですが、ある日突然トップダウンで「猫も杓子も」状態で一つのキーワードだけが一人歩きする「祭」状態が始まることがあるのです。当時、エラい人がうわ言のように「コンプライアンス」って言ってたのを僕は今でも覚えています。
今にして思えば、2000年頃に猫も杓子も「とにかくコンプライアンス」とか「とにかくISOを取らなきゃ」って言ってたあたりから日本の会社はダメになりはじめたんじゃないだろうかと思うのですが、日本にたくさん会社があるのにどこも自分の会社と同じなわけないと思いたいし、そもそもこういうことを手放しで他人のせいにするには僕も歳をとりすぎました。おじさんになってくると、自分もこういうシステムの一部として生きながらえていることに、やんわりと共犯意識のようなものがあるのです。

先日、会社全体に対する「コンプライアンスについての意識調査アンケート」なるものが実施されました。このアンケートの中の設問に「あなたはコンプライアンス違反が疑われる場合に、コンプライアンスマニュアルに記載の手続きに則って会社のコンプライアンス委員会に通報すると報復的な扱いを受けると思いますか?」という項目があったのを見て、なんともいたたまれない気分になったので、本日はその話をします。このいたたまれなさの原因は、「一神教原理=絶対的な善悪の審級」に所属するコンプライアンスという概念を結局日本人には全く咀嚼できないことにあるのですが。順を追って話すために、話を2000年頃に戻します。
「コンプライアンス」という言葉が突然現れて、エラいおじさん達がうわ言のように毎日「コンプライアンス、コンプライアンス」と言い出した頃に、コンプライアンスについて社員に教育するためのビデオを社員全員で集まって見たことがありました。このとき見たビデオがまず最初に言ったことは「コンプライアンスに対して取り組まないと会社の株価が下がる」という話でした。このときに、「法令を守るという倫理観の話を金儲けの話に矮小化してしまうのはなんかおかしくないか?」という疑問を感じたのですが、当時の僕はそれに本気で憤るには若すぎたのでした。別の言い方をすると、「こんなみっともないことを言っている会社と自分のあり方とは何の関係も無い」と思えたのでした。若いって素敵ですね。
さておき、そのときに感じた「金の話に矮小化して倫理感の問題を論じるマインド」に対する違和感というのは、後年に内田先生の「原発問題を日本人は金の話にすり替えて安心しようとした」という話を読んだときに、「ああなるほど、これと同じ話だ」と思ったのでした。ちょっと長いけど引用します。

日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく
(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、
それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映
し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、
結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせ
るのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。
ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。

「コンプライアンス」についてのビデオも結局同じようにコンプライアンスという物を「金儲けの話」に矮小化して納得させようとしてたんだと思います。しかしこれは一方で、「コンプライアンス」の存在意義に鑑みると致命的に本末転倒だったんだと思います。
以前言及した「罪の文化」「恥の文化」の観点から言うと、コンプライアンスという概念は「罪の文化」、もっと言うと「一神教 = 絶対的な善悪の審級」の概念が大前提にあるわけです。コンプライアンスを簡単な一言に置き換えると「悪いことしてはいけませんよ」だけなんですが、その前提として”絶対的な善悪の規範を前提として”という暗黙の但し書きがついているわけです。これを理解しないまま金儲けの話に矮小化させてコンプライアンスを社員に説明することで、「金儲けのためには単に金を稼ぐだけじゃなくてそれなりに社会の目も気にする必要があるからさー。あんまりハデに目立つような悪いことはやっちゃダメだよ。」という「恥の文化=日本人」に理解できる話にすり替えてしまったんだと思います。

こういう文化背景を理解しないままうわべだけコンプライアンスを日本社会に導入した結果、
 ・ コンプライアンスに過剰に配慮した結果としての「事無かれ主義」の横行
 ・ 「悪いことしてもバレなきゃいい」という偽造・隠蔽
という両極端な悪影響が出ただけなのではないでしょうか?たとえば企業不祥事の元祖である雪印事件は、日本にコンプライアンスという言葉が上陸しはじめた2000年の話です。